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「青山杉雨の眼と書」の楽しみ方1─造形を楽しむ

青山杉雨(あおやまさんう)の眼と書」(平成館 2012年7月18日(水) ~9月9日(日))…トーハクで書の展覧会? しかも名前を知らない人だ…という方が多いと思います。
確かに当館で一人の書家をテーマにした特別展は2002年の「書の巨人 西川寧」以来10年ぶりです。
なぜトーハクは20世紀の書を展覧会でとりあげるのでしょうか。

日本独自の文字であるかなを素材とした書は別として、日本の書は常に中国の書の動向に影響を受けながら発達してきました。
たとえば江戸時代、ちょうど明から清の王朝交替の時期に当時の中国の文人が来日する機会が多く、「唐様(からよう)」と呼ばれる中国風の書が武家や文化人の間で普及しました。明治維新後、楊守敬(ようしゅけい、1839-1915)という学者が清国公使館の随員として来日し、碑文や古銅器などの銘文の拓本を大量にもたらしました。それまで見たことのない篆書・隷書などで書かれた古代文字を目の当たりにした日本の書家たちは衝撃を受け、書の流れは大きく変化します。
明治時代、この流れの中で多くの門人を育てたのが一人は日下部鳴鶴(くさかべめいかく、1838-1922)、もう一人が西川春洞(にしかわしゅんどう、(1847-1915)と言われます。西川春洞の子で中国古代の書を学問的に究めた西川寧(にしかわやすし、1902-1989)がその跡を継ぎ、その西川寧の作風を継承しながらも、作品に現代的な感覚を盛り込んで伝統的な書の再生を果たし、発展させたのが、青山杉雨ということになります。杉雨は明治以降の日本の伝統的な書道の正統に位置する書家です。

殷文鳥獣戯画
殷文鳥獣戯画 青山杉雨筆 昭和44年(1969) 東京国立博物館蔵

というと堅苦しく聞こえますが、会場を歩いてみると「これが書?」という不思議な作品がいくつもあります。もちろんそれぞれ意味のある文字として読むことはできるのですが、今回の展覧会の場合「読める、読めない」ということにこだわると、あまり楽しくないようです。
まずは、白い四角い空間の上に、墨の線が次第に形を構成してゆく…という造形の面白さを感じていただければ、会場に足を運んでいただいた意味は十分にあるというものです。
杉雨の代表作でポスターにも使われている「黒白相変」という言葉は、そのへんを言い表しているのでは、と思います。

黒白相変
黒白相変 青山杉雨筆 昭和63年(1988) 東京国立博物館蔵



特別展「青山杉雨の眼と書」(平成館 2012年7月18日(水) ~9月9日(日))

 ユリノキひろばではエッセイを募集しています。 「青山杉雨の眼と書」の感想をお寄せください。

カテゴリ:研究員のイチオシ2012年度の特別展

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posted by 田良島哲(調査研究課長) at 2012年07月27日 (金)

 

美術解剖学のことば 第6回「黒田清輝の『美術解剖学ノート』」

トーハクには、美術解剖学関係の資料がいくつか保管されています。
そのうち、通称「黒田資料」には、黒田清輝の資料だけでなく、
森林太郎(鷗外)や久米桂一郎に関する資料も含まれています。
今回の展示ではそれらの一部が展示されています。
 
特に、黒田清輝による 『美術解剖学講義受講ノート』は、
黒田がフランス滞在中に、彼がエコール・デ・ボザール(美術大学校)で行われた美術解剖学のノートで、
これまで全ページが公開されたことはありませんでした。
几帳面なフランス語混じりの日本語で書かれ、第1日目から第8日目という見出しのある、8日間の記録のようです。
会場(本館特別1室「美術解剖学―人のかたちの学び」 )では、モニタ画面を指でスクロールして、
画像データとして全ページをご覧いただけるようになっていますので、是非ご覧ください。

  黒田清輝の美術解剖学講義受講ノート表紙 黒田清輝の美術解剖学講義受講ノート裏表紙
 滞仏中の“美術解剖学”受講ノート  黒田清輝筆  明治時代・19世紀
(左が表紙、右が裏表紙)


内容はびっくりするほどきちんととられたノートで、黒田がそれまで法学をしっかり勉強していたことも影響しているかしらと思います。
第一日目は、美術解剖学小史から始まり、今後講義の内容を総論的に述べています。
 
今日の私が担当する芸大、美大の美術解剖学の授業でも、初回はこの美術解剖学小史をお話ししています!ので、
おお、120年前のフランスの美術解剖学講義と同じなのだな、今日まで連綿と繋がっているのだなぁ!
と、言いしれぬ感慨がありました。
 
中でもおもしろいのは、第4日目の講義の最初の辺りです。
オランダの解剖学者カンペルの顔面角について詳しい記述をしています。
これは口元の突出の度合いを示す角度で、値が小さい方が前突し、値が大きい方が後退しています。
黒田は、「カンペル式ニ縁レバ顔面角ガ白色人種中ノ尤モ立派ナ骨ハ殆ンド直角ヲ為ス 
九十度ニ近キモノヲ古代ヨリ美トシタモノデ遂ニハ九十度」と書き、
さらに強調するように赤字で「美ノ種族ハ九十度也」とも見出しをつけています。
さらに、次のほぼ一頁を使って、
「黄色種、黒人、アポロン、猿」の4つの頭蓋を側面から描き、
これに顔面角を示す二本の線を描き入れています。
(アポロンの頭蓋??!!!ギリシア神の頭蓋をいったいどこで手に入れたのでしょう。)

カンペルの顔面角
カンペルの顔面角について記されたページ(黒田清輝の美術解剖学講義受講ノートより)

コーカサス人種を顔面角が大きい美しい人種としたこの部分は、
16世紀以降のヨーロッパの植民地主義以降の、西欧優位主義が透けて見え、時代を感じさせます。
 
今日、人類の起源について、人類学者の多くはアフリカ単一起源説をとっています。
人類すべてのルーツであるマザーランドであるアフリカ。
実は、アフリカの人々こそ遺伝的にも形質的にもほんとうに多様なので、
ここに描かれた口元が突出したステレオタイプ的イメージだけが、
固定化するのは困ったものです。
 
黒田はどんな気持ちで受講していたのでしょうか...。
しかし、黒田の日記を読むと、現地人の友人宅に泊まったり、一緒に旅に出かけたり、
のびのびとフランスでの留学生活を楽しんでいるようで、
むしろ、「進んだ西欧絵画」に日本がどうしたら追いつけるだろう、
そう考えている様子が、ノートの端々からも覗え、
今回の展示でこのノートを紹介する意義は大きいと考えています。
 
美術解剖学は、現在、写実の用としての
「人のかたちの学び」であることから今はさらに深まり、
制作者自らがヒトであるのだから、
自身をかたちのうえから知る、
そういう分野となっていると思います。

美術解剖学は古い歴史をもち、
そして、人がヒトである限り、同時にとても新しいものなのです。


▼おまけ
見方によっては衝撃的な内容の「カンペルの顔面角」の講義の1日後、
第5日目の講義で、このゴリラのイラストが登場します。
黒田清輝の美術解剖学ノートより
黒田が描いたゴリラのプロフィール(横顔)のスケッチに、
なんとも哀愁というか擬人化?を感じるのは僕だけでしょうか。
ぜひ会場のiPadで拡大してみてください。(木下)
 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 宮永美知代(東京国立博物館 客員研究員・東京藝術大学 美術教育(美術解剖学II)助教) at 2012年07月26日 (木)

 

見方がわかる、見方がかわる!「日本美術のつくり方」

夏休み恒例の「親と子のギャラリー」。これまでにも、「日本美術のつくり方」シリーズとして、伝統的な日本美術の制作技法をご紹介する、教育普及的な特集陳列を行ってきました。今年はその第3弾で、4つの技法をとりあげます。段階をおって順番に進んでいく工程見本を展示し、また解説パネルもふんだんに使っており、わかりやすい内容になっていると思います。
キャッチフレーズは、「つくり方を知れば、見方がわかる、見方がかわる!」

親と子のギャラリー「日本美術のつくり方III」
2012年7月24日(火)~9月2日(日) 本館2階 特別2室

今回取り上げるのは、「螺鈿」「甲冑」「象嵌」「押出仏」の4つですが、その中から、螺鈿(らでん)についてお話申し上げましょう。
螺鈿は貝がらの内側の、つるつるピカピカした部分を文様の形に切り取り、漆(うるし)のうつわや調度品の表面に貼り付ける、漆工芸の技法です。螺は「巻貝」、鈿は「飾る」という意味で、つまり螺鈿とは「貝を用いた装飾」ということ。
螺鈿はアジア各地で、古くから行われてきた技法ですが、小文字の“japan”は「漆」「漆器」と訳されるほど、漆工芸がさかんであった日本でも、たいへんポピュラーな装飾のかたちであったのです。正倉院宝物に、奈良時代8世紀の螺鈿の作品がたくさんあるのをご存じの方も多いと思います。


日本の螺鈿では、伝統的に夜光貝という貝が使われてきました。南方に産する、とっても大きな貝。煮沸したり、あるいは切り削りして、内側の部分を板状にしたものを作り、それを文様の形に切って、貼り付けます。漆黒に、貝のはなつ七色の光が照り映える。その妖しく魅惑的な効果をねらったのです。

螺鈿
夜光貝を切り削って板状にしたものに下絵を描き、糸のこなどで文様の形に切る

ところでこの夜光貝、今でも採れます。沖縄の公設市場で売っています。下でさばいてくれて、上で食べることができるんです。
記憶があいまいですが、たしか身も七色をしていたような…。

夜光貝
夜光貝の原貝(中身はありません)


 子どもから大人まで楽しんでいただける展示を心がけました。
「甲冑(かっちゅう)」「象嵌(ぞうがん)」「押出仏(おしだしぶつ)」については、ぜひ会場でご覧ください。
どうぞ皆様、お誘い合わせの上、お越しいただきたいと思っております。

 

関連事業

ギャラリートーク (会場はいずれも本館特別2室)
「日本美術のつくり方III・4つの技法」 
2012年8月2日(木) 14:00 ~ 14:30
2012年8月10日(金)   19:00 ~ 19:30
2012年8月21日(火)   14:00 ~ 14:30
「日本美術のつくり方III・押出仏のつくり方」
2012年8月31日(金)   19:00 ~ 19:30

 

カテゴリ:研究員のイチオシ教育普及

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posted by 伊藤信二(教育普及室長) at 2012年07月25日 (水)

 

中国山水画の20世紀ブログ 第1回-珠玉の中国近現代絵画がトーハクにやってきます

いよいよ今月31日から、「中国山水画の20世紀 中国美術館名品選」がはじまります。
「古い中国は興味があっても近現代はちょっと…」という皆さん!激動の20世紀を生きた中国画家の活躍は面白く、彼らの残した作品もとても魅力的です。

今回ご紹介するのは、中国近現代美術に関しては質と量ともに世界一の誇る、中国美術館の所蔵品から、選びに選んだ50件。
北京に行かれたら故宮の北・神武門から歩いて15分ほどのところにある中国美術館へもぜひ足をのばしてみてください。
ニューヨークへ行けばMOMA、パリではポンピドゥー・センター、東京では東京国立近代美術館など、各国には近現代専門の美術館が設けられていますが、
中国でそれにあたるのが中国美術館なのです。
その、中国美術館の名品展ですから、これさえ見れば中国の近現代美術はわかる、「中国近現代美術の教科書」とでも言うべき展覧会になっています。


護林 黎雄才筆 1959年
護林 黎雄才筆 1959年
雄大な構図の中に失火を発見した人々の働きを描きます。
東京芸術大学に留学し、日本画と中国画のはざまで、社会のなかで絵画とはどうあるべきかを考えた作家です。


登場する画家は28人。
高剣父 、陳樹人 、傅抱石、黎雄才。・・・誰だそりゃ? そうですよね。しかし、彼らは私たちのことをよく知っています。
戦前に日本に留学したからです。彼らがどんな日本語をしゃべっていたのか、とても興味がありますね。
彼らが青春時代に訪れたトーハクで、今度は自分の作品が展示されるこの展覧会、画家たちもきっと喜んでいるに違いありません。

張大千、潘天寿、李可染も日本と縁の深い人で、ご年配の方のなかには「会ったことがある」という方もいるかもしれません。
そうです、中国の近現代絵画は日本と切っても切れない関係にあるのです。
このような、日本との関係から、中国近現代美術に親しんでいただこうというのが、展示の一つ目の柱です。

二つ目は、今まで日本ではほとんど展示されなかった作品の展示です。
従来まで日本と非常に深い関係があった海上派の呉昌碩や、斉白石の展示は行われてきました。
彼らの名品は日本に数多く所蔵されているからです。
しかし、新中国成立後、画家たちがどのような作品を制作していったのか、日本にはその時期の大作がほとんどないために、あまり知られてきませんでした。

 
 
錦繡河山図 賀天健筆 1952年(左)と、緑色長城 関山月筆 1974年(右)
中国美術館での調査にて。巨大な作品で、いずれも画家の代表作です。


その空白を埋めるのが、中国美術館の作品です。
新中国成立後、画家たちは中国美術館で自分の展示をすることを名誉と考え、そのために、国家的背景を持って描かれた多くの名品が中国美術館に所蔵されました。
そのなかから「画家一世一代の出世作」、というべき作品を多数集めたのが今回の展覧会です。
ご期待ください!

カテゴリ:研究員のイチオシ2012年度の特別展

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posted by 塚本麿充(東洋室) at 2012年07月24日 (火)

 

博物館総長 森鷗外の特集陳列が始まりました

特集陳列 歴史資料 生誕150年 帝室博物館総長 森鷗外 (本館16室、2012年7月18日(水)~9月9日(日) )が始まりました。

「え? なんで森鷗外?!」と思った方も、「ああ! あの新聞記事の!」と思った方もいらっしゃると思います。

実は、森鷗外は大正6年(1917)~11年(1922)、その晩年の4年半、帝室博物館(トーハクの前身)の総長の職にありました。
今回の特集陳列では、鷗外の総長時代の足跡を丁寧にたどっています。
展示されているものの大半は地味な資料ですが、鷗外が博物館でどんな時間を過ごしたのか、それらを通してさまざまなことがわかってきました。

そして、この特集で展示されている資料について、7月3日の読売新聞(夕刊)の一面トップで報じられました。
鷗外の未完の論文の自筆原稿が発見されたという記事です。
翌日には、NHKニュースで、また毎日、日経、東京、産経など他紙でも紹介されましたので、それらの記事を読んだ方もおられるのではないでしょうか。

新発見!  鷗外の未完の自筆論文
論文のタイトルは「上野公園ノ法律上ノ性質」。
博物館用箋10枚にペンで書かれたもので、和とじの製本がされています。
冊子には表題もなく、他の資料とともに綴じられていました。
この論文は冊子の冒頭に綴じられており、上記のタイトルと大正9年という年紀があります。
当時、博物館を含む上野公園は、帝室(皇室)の管理下にありました。
これを、政府に移管しようという動きがあり、博物館としてどう対応するかが大きな問題になっていたようです。
鷗外は、この論文で公共の公園の法的な位置づけやその歴史に触れながら、帝室の所管、つまりは皇室の私有財産のままでも公共の公園たりうることを説いています。
実はこの論文に鷗外の署名はありません。なのに、なぜ、鷗外の自筆論文と判断したのか?

今回の特集陳列を実施するにあたって、展示を担当する田良島哲調査研究課長は、鷗外在任期間中の館史資料を片端から読んでいったそうです。
そのなかで見つけたこの冊子、最初はまさか鷗外その人の手になるものとは思っていなかったようです。
しかし、内容を読んでみると、整然とした論理構成や「吾人ハ多クノ学者ニ反対シテ」といった断定的かつ論争的な文章から、鷗外の手稿ではないかと思ったそうです。
さらに、当時の鷗外の日記、書簡を調べると、公園の問題に関する記述があること、また筆跡に照らしても鷗外に違いないという結論に至りました。


上野公園ノ法律上ノ性質 大正9年(1920)
上野公園ノ法律上ノ性質 大正9年(1920)
上野公園ノ法律上ノ性質 大正9年(1920)
使われている用箋には博物館の名前が印刷されています。
書いたのは館内の人物に限定されます。
この用箋も鷗外自筆とするひとつの手がかりとなりました。

総長・森鷗外
今回は、ほかにも、鷗外が真摯に館の運営に関わっていたことを示す資料を展示しています。
たとえば、鷗外は各担当者に任されていた展示替の内容を必ず総長の伺いを経るように新たな規定を定めました。
鷗外の花押の残るその決裁書や、鷗外自らがこつこつとまとめた博物館所蔵の書物の解題も展示されます。

例規録 大正八~十一年 大正8~11年
例規録 大正八~十一年 大正8~11年
総長の文字の下に、鷗外の花押があります。

今年は、鷗外生誕150年にあたる年です。

鷗外は博物館総長在任のまま、この世を去りました。
最晩年の鷗外の博物館に対する思いをぜひ、感じていただければと思います。

 

お知らせ
台東区立書道博物館「 この人、どんな字?-近代日本の文豪たち- 」(2012年6月28日(木)~9月19日(水))でも、
森鷗外自筆の書簡などが展示されています。あわせてお楽しみください。

 

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posted by 小林牧(広報室長) at 2012年07月23日 (月)