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特別展「中尊寺金色堂」20万人達成!

開催中の建立900年 特別展「中尊寺金色堂」(4月14日(日)まで)は、4月2日(火)午後、来場者20万人を突破しました。

これを記念し、千葉市からお越しの宮内さん親子に、当館館長の藤原誠より記念品を贈呈いたしました。
 
記念品贈呈の様子。宮内さん親子(中央、右)と藤原館長(左)
 
お嬢様の中学校の先生からのお勧めもあって、春休みにお二人でご来館されたとのことです。
 
本展の会期も残り2週間となりました。
東京で中尊寺金色堂の輝かしい国宝仏像をご覧いただけるのもあとわずかです。
どうぞお見逃しなく!
 

カテゴリ:「中尊寺金色堂」

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posted by 天野史郎(広報室) at 2024年04月02日 (火)

 

平泉の日々

今から20数年前の夏のこと、私は1ヶ月ほど、岩手県の平泉に滞在していました。

当時、私は工芸史を専攻する大学院生で、特に蒔絵や螺鈿といった日本の漆工史についての研究に取り組んでいました。
そして夏季休暇の過ごし方として、それまで図版などでしか見たことがなかった中尊寺の金色堂や工芸品を、何日間か滞在して見学してみたい気持ちがあり、そのことを実家で話したところ、ちょうど父の長年の友人である故・荒木伸介(あらきしんすけ)先生(水中考古学の第一人者)が平泉郷土館長をされていたので相談させていただきました。
のちに荒木先生から伺ったところでは、先生が居酒屋でその話をされていたところ、そこに居合わせられた平泉町役場の関宮治良(せきみやはるよし)様が「うちに下宿させてあげよう」とご提案くださり、そのご厚意により関宮様のお宅で1カ月ほど居候させていただくことになりました。
 
金色堂の中央須弥壇
金色堂の堂内には3つの須弥壇があり、各壇に11体の仏像が安置されます。堂内は、螺鈿や蒔絵という漆工のほか、金工や木工などを駆使して、まばゆい極楽浄土が表現されています。
 
平泉での滞在中は、研究の合間に、下宿代として町の仕事をお手伝いすることとなりました。町内の発掘現場で発掘をし、中尊寺の境内にある白山神社での薪能の会場整備や案内をし、中尊寺のふもとにある駐車場で誘導をし、送り盆には奥州藤原氏や源義経を供養する束稲山(たばしねやま)での大文字送り火や北上川での燈籠流しの準備などをして、平泉の方々と一緒に汗を流しました。もちろん私に気を遣わせないご配慮でした。
 
私は東北地方に縁戚がなく、その言葉にもなじみがうすく、高齢の方の言葉などはきちんと聞き取れなかったので、町のなかで顔なじみになったおばあさんから「どさ(どこに行くのさ)」と話しかけられても、それが挨拶の言葉なのだろうと思い、笑顔で「どさ」と返していました。ある晩、関宮様の奥様が近所を訪問されるのにおともしたとき、訪問先で「おばんでがんす」とおっしゃるのを聞いて、その上品な言葉のひびきに感動しました。平泉の方々は大変に親切で、泉橋庵(せんきょうあん)という鰻屋さんがおいしいウナギをご馳走してくださったこともありました。いずれも楽しい思い出です。
 
白山神社の中尊寺能
中尊寺の境内にある白山神社の能舞台は、江戸後期に建てられました。茅葺きで、鏡板には堂々とした松が描かれた格調高い能舞台です。中尊寺では、僧侶の方々が能楽を伝承されています。
画像提供:中尊寺
 
肝心の研究については、当然ながらガラス越しではありましたが、じっくりと金色堂や讃衡蔵(さんこうぞう。中尊寺の宝物館)を見学させていただいたばかりでなく、長い滞在のうちには讃衡蔵の破石澄元(はせきちょうげん)様から金色堂や寺宝のお話を伺い、毛越寺の藤里明久(ふじさとみょうきゅう)様から庭園遺跡のお話を伺う機会もありました。空いた時間には自転車で達谷窟(たっこくのいわや)まででかけたり、当時はまだ整備されていなかった柳之御所や無量光院などの遺跡を散策したりしました。恵まれた学問の時間でした。
 
その後、幸運にも博物館で工芸史の研究員として働くことができ、20年以上が過ぎたのですが、このたび金色堂の建立900年を記念して開催される建立900年 特別展「中尊寺金色堂」の仕事に携わることとなりました。あの頃はガラス越しに眺めた金色堂の仏像や讃衡蔵の寺宝を、博物館の研究員として直(じか)に調査し、展示に携わらせていただけたことは、私にとって感慨深いものがありました。平泉からいただいた恩恵に比べるとわずかではありますが、ようやく学恩に報いることができたように思います。
 
特別展の会場風景
金色堂は奥州藤原氏の初代・清衡によって建立されました。本展では、清衡が葬られた中央の須弥壇の仏像、御遺体を納めていた金棺、美しく装飾された工芸品や経典が展示されています。
 

カテゴリ:仏像工芸「中尊寺金色堂」

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posted by 猪熊兼樹(保存修復室長) at 2024年02月22日 (木)

 

見て触って学べる! 特集「親と子のギャラリ― 中尊寺のかざり」

建立900年 特別展「中尊寺金色堂」(2024年1月23日(火)~4月14日(日))と足並みをそろえて、特集「親と子のギャラリ― 中尊寺のかざり」(2024年1月23日(火) ~ 3月3日(日))が本館特別2室ではじまりました。
この特集は、子どもから大人までを対象に美術作品やそのつくり方に興味や関心を深めることを目的にしています。
今回は特別展にあわせ「中尊寺のかざり」をテーマにしました。
 
金色に光り輝く美しさで著名な中尊寺金色堂は「光堂」、「皆金色」とも形容されますが、その輝きに彩りを与えているのが、螺鈿(らでん)や金工の技法(つくり方)です。
今回の展示では、中尊寺に伝来する荘厳具(しょうごんぐ)や仏具を対象に螺鈿と金工のつくり方に注目して展示を構成しています。
 
展示品は復元模造品と制作工程見本が占めています。その意図は復元模造品や、制作工程見本だからこそわかることがたくさんあるからです。
復元模造品は制作にあたって制作対象と同じ材料や同じ技法で復元することによって、制作対象そのものを深く知ることができます。
また多くの調査分析、検討を踏まえて作られた復元模造品は制作当初の様子をよく表しています。
さらに制作工程見本は、制作にあたって使用される材料や道具、技法を時系列にそってより詳しく知ることができる利点があります。
 

螺鈿八角須弥壇(模造)
小西美術工藝社制作 平成4年(1992)
原品:平安時代・12世紀 木製漆塗 岩手・中尊寺大長寿院所蔵
*須弥壇の側面には、蓮の花にのる迦陵頻伽、その周りを飾る雀や孔雀などが、金工や螺鈿の技術(つくり方)で表現されています。

螺鈿工程見本
小西美術工藝社制作 平成4年(1992)
原品:平安時代・12世紀 木製漆塗 岩手・中尊寺大長寿院所蔵
*丹精込めて作られた様子は工程数にも表れています。
今回の展示に合わせて新たに中尊寺金色堂の須弥壇を飾る孔雀の制作工程見本とハンズオンを作成しました。
実寸大の孔雀の制作工程見本は、制作道具と一緒に展示しています。
また孔雀を留める敷板の大きさは須弥壇の区画と同じ大きさに揃えたので、須弥壇の大きさを想像しながらご覧いただければと思います。
 

中尊寺金色堂内観

今回の制作対象となった中央壇の格狭間に飾られた孔雀(赤枠拡大図)
展示風景
*材料の銅から完成まで8工程で孔雀の制作工程を展示しています
 
また中尊寺と同時代の獅子螺鈿鞍を例にあげ、「漆の飾り 螺鈿」というタイトルで螺鈿のつくり方(制作工程)を示す動画と触察ツールを作成しました。
動画は手話入り日本語版と英語版を上映し、触察ツールは日本語と英語に加えて点字でも解説を用意しています。
制作が進むにつれて現れる獅子の姿とともに輝きをましていく螺鈿、見て触れてお楽しみいただければと思います。 
 
重要文化財 獅子螺鈿鞍 平安~鎌倉時代・12~13世紀 嘉納治五郎氏寄贈 東京国立博物館蔵


動画「漆の飾り 螺鈿」
 
触察ツール「漆のかざり 螺鈿」
 
この展示を楽しむために、仏さまを飾るもよう探しのリーフレットを用意しました。
もようの役割や意味を学びながら、この特集展示や特別展「中尊寺金色堂」はもちろんのこと、本館1階11室の彫刻や2階1室・3室の仏教の美術の展示をご覧になる際にもご活用いただければと思います。
 
 

リーフレット「仏さまをかざるものたち」

この特集の意図は多くの方が中尊寺のかざりに興味や関心をもつきっかけをつくること。
オンラインでも一部楽しめますが、ぜひ会場で体感いただければと思います。
本特集の会期は特別展より1か月短い3月3日(日)までです。みなさん、お見逃しのないように。
 

カテゴリ:教育普及特集・特別公開工芸「中尊寺金色堂」

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posted by 品川 欣也(教育普及室) at 2024年02月16日 (金)

 

迦陵頻伽と孔雀と宝相華

コロナ禍の真っ最中、身内に不幸があり、やむなく中部地方の郡部にある実家に帰省しました。セレモニーが終わると親類もそそくさと帰途につき、どこか出掛けるような状況でもなく(ちょっと当時を思い出してみて下さい)、ずっと庭を眺めていました。初春のことで梅が咲いており、鳥が飛んでいます。いい年齢になったせいか、花鳥画というのはこういう世界を描こうとしたのだなと思いました。

その花鳥画は、花が咲き鳥が歌う浄土を描こうとしたのではないかと思います。四季の明確な東アジアには、四季折々の花に鳥を合わせた四季花鳥図というものがありますが、浄土は四季が揃っているともいわれており、浄土を表したとする解釈も頷けます。あるいは、仏教的な浄土は、仏教の興ったのはインドですから、熱帯の色鮮やかな花々と極彩色の鳥のイメージが思い浮かびます。いずれにしろ、花と鳥は、風物でもありますが、楽園のイメージを強く喚起するものといえます。
 
その浄土のうち、最も高名な阿弥陀如来の住する西方・極楽浄土を顕したとされるのが、中尊寺金色堂です。金色堂の荘厳(しょうごん)には迦陵頻伽(かりょうびんが)と孔雀(くじゃく)と宝相華(ほうそうげ)が溢れています。それはなぜでしょうか。
 
図1 国宝 金銅迦陵頻伽文華鬘 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
建立900年 特別展「中尊寺金色堂」通期展示(2024年4月14日(日)まで) 
 
図2 国宝 迦陵頻伽文露盤羽目板 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺大長寿院蔵
建立900年 特別展「中尊寺金色堂」通期展示(2024年4月14日(日)まで)
 
迦陵頻伽は上半身が人、下半身が鳥という空想上の生き物で、極楽浄土に住み、妙音を発して鳴くといわれています。現存遺っているものでは、金色堂で使われたと伝わる金銅華鬘(こんどうけまん)【図1】に羽を広げて佇(たたず)む優美な姿を見ることができます。また、金色堂の屋根の上にある方形の露盤(ろばん)に使われていたともいわれる羽目板(はめいた)【図2】にも、その姿があります。迦陵頻伽はインドで創出されたと考えられ、中央アジア、中国、朝鮮半島を通じて日本へも奈良時代には伝えられていました。その姿は正倉院宝物や極楽浄土を描いた当麻曼荼羅(たいままんだら)【図3・4・7は江戸時代の模写】にも描かれています。
 
 
図3 当麻曼荼羅図 神田宗庭隆信筆 江戸時代・天保7年(1836)
下野三悦坊伝来 喜多川儀久氏寄贈 東京国立博物館蔵
※本作品は展示しておりません 
 
図4 図3当麻曼荼羅図に描かれた迦陵頻伽
 
迦陵頻伽はさすがに実在しませんが、孔雀は実際にインドや東南アジアに生息する鳥で、尾羽を覆う上尾筒(じょうびとう)を扇形に開いた様が特に美しく印象的です。孔雀も迦陵頻伽と同じく、極楽浄土について述べた『阿弥陀経』という経典に、極楽に住む鳥として記されています。孔雀も妙音を発するとされ、まさに「鳥は歌う」が極楽の要素として重要であったと考えられます。孔雀は金色堂の須弥壇(しゅみだん)の格狭間(こうざま)【図5】にそれぞれ配置されており、また法要の最中に打って鳴らす道具である磬(けい)【図6】や僧侶(そうりょ)の座る礼盤(らいばん)にも表されています。先に述べた露盤の羽目板も、4面のうち正面と思われる1面は迦陵頻伽ですが、残りの3面は孔雀が表されています。孔雀も奈良時代には日本に伝えられており、正倉院宝物の刺繡の幡(ばん)や当麻曼荼羅【図3・7】にも登場します。孔雀は藤原道長(966~1027)が飼っていたという記事が、日記である『御堂関白記(みどうかんぱくき)』にあり、日本美術では象などに比べると遥かにリアルに表されています。
 
図5 金色堂中央壇格狭間の孔雀
 
図6 国宝 磬架・金銅孔雀文磬のうち金銅孔雀文磬 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
建立900年 特別展「中尊寺金色堂」後期展示(展示期間:2024年3月5日(火)~4月14日(日))
 
図7 図3当麻曼荼羅図に描かれた孔雀
 
宝相華は、牡丹などをベースにして想像された空想上の花です。中国で唐代に成立した豪華な花文様である唐花文様(からはなもんよう)を仏教化したもので、主に唐草(からくさ)と組み合わせられて用いられました。金銅華鬘【図1】の地に透かし彫りで表されているのが宝相華唐草です。礼盤の金具や螺鈿平塵案(らでんへいじんあん)の金具【図8、螺鈿の宝相華は残念ながら剥落】、そして須弥壇の格狭間の孔雀の傍(かたわ)らにも珍しい株立ちの宝相華【図5】が表されています。さらに全体を見渡すと、須弥壇の上から下まで、それから四方に立つ柱は、螺鈿や蒔絵(まきえ)の宝相華で隙間もないほどに荘厳されており【図9】、果ては仏像の光背(こうはい)、台座、天蓋(てんがい)に至るまでもが宝相華に覆われており、花が咲き乱れる様子が表現されています。極楽を観想(心に思い浮かべること)する方法を説く『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には、七つの宝石(瑠璃・玻璃・瑪瑙・硨磲(しゃこ)・真珠・珊瑚・琥珀の七宝)から成る花や実をつけた光り輝く巨大な宝樹について述べられており、『阿弥陀経』にもこのような宝樹や、青・赤・黄・白、そしてこれらが混じった色の巨大な蓮華が池に咲く様子が説かれています。「花は咲き」も極楽の構成要素として大変重要であったといえるでしょう。
 
図8 国宝 螺鈿平塵案 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
建立900年 特別展「中尊寺金色堂」後期展示(展示期間:2024年3月5日(火)~4月14日(日)) 
 
図9 中尊寺金色堂中央壇
 
このように、極楽浄土の教主である阿弥陀如来を主尊とする金色堂は、間違いなく花が咲き鳥が歌う極楽浄土を再現したものといえるでしょう。光堂(ひかりどう)とも呼ばれる金色堂の荘厳は、無量光仏(むりょうこうぶつ)(限りない光の仏)とも呼ばれる阿弥陀の光を象徴しているといえるのです。
 
ところで、当麻曼荼羅では、上空に迦陵頻伽が飛び、地上の蓮池の畔(ほとり)に孔雀が描かれていました。金色堂でも迦陵頻伽は長押(なげし)などに懸ける華鬘に、孔雀は須弥壇や礼盤などの下の方に配置されています。孔雀は高くは飛べない鳥です。そうした属性が意匠として使われる際にも考慮されているのかもしれません。 
 
ぜひ、建立900年 特別展「中尊寺金色堂」に足をお運びいただき、金色堂の荘厳にあしらわれた迦陵頻伽や孔雀、宝相華を探してみてください。
 

カテゴリ:工芸「中尊寺金色堂」

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posted by 清水健(工芸室) at 2024年02月09日 (金)

 

金色堂の仏像(2)

いよいよ開幕いたしました、建立900年 特別展「中尊寺金色堂」
そのみどころから、前回に引き続き国宝仏像11体について、今回は阿弥陀三尊像をご紹介いたしましょう。
 
国宝 阿弥陀三尊像(左から:勢至菩薩立像、阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像) 展示風景
平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
 
金色堂中央壇の中心に安置される阿弥陀三尊像は、いわば金色堂のご本尊です。嫌味や誇張のない円満な姿で、ふっくらとしたやわらかい表情が特徴です。
制作者の名は残念ながら知られませんが、当時の一流仏師の作と見てよいでしょう。平安時代後期より仏像の世界を席巻した大仏師定朝の系譜を正統に受け継いだ仏師の作と見られます。
 
とは言え、その魅力は単に京都の仏像に引けを取らないというだけにとどまりません。
阿弥陀如来像に注目してみましょう。
円満なお顔のはち切れんばかりのプリッとした頬の表現は、鎌倉時代の仏像様式を先取りしたかのようです。
 
阿弥陀如来坐像(部分)
 
背面にまわってみましょう。後頭部の螺髪(らほつ)の刻み方は、左右に振り分けるようにあらわします。
パンチパーマのセンター分けとでも呼ぶべき(?)、この螺髪のあらわし方は、実は鎌倉時代以降に流行するのです。
 
 
阿弥陀如来坐像背面(部分)
 
もうひとつ、右肩にかかる袈裟の表現をご覧ください。隙間が見えます。
つまり、衣を別材で造って貼り付けているのです。こうした表現手法が平安時代に全く見られないわけではありませんが、例えば仏像を裸に造って実際に衣を着せるような表現は鎌倉時代以降に流行します。この衣の一部を別材製とするのもこうした表現の先取りと言ってよいでしょう。
 
阿弥陀如来坐像(部分)
 
このように、阿弥陀如来像には当時の最先端を行く表現が用いられている可能性があります。
なぜでしょうか。
 
おそらく、当時の京(みやこ)の貴族文化が前例主義にとらわれていたのに対し、奥州藤原氏は京の文化を巧みに取り入れながらも前例に縛られることなく良いものを積極的に受け入れる先進性と柔軟性を持ち合わせていたのではないかと考えられます。そして、これこそが平泉の仏教文化の真骨頂だと思うのです。
 
ところで、このようにちょっとムチムチとした阿弥陀三尊像の姿は、前回ご紹介した地蔵像の頭部を小さくつくるプロポーションや胸を平板にあらわすスリムな体形と、二天像のやはり頭部を小さくつくり激しい動きを示す姿とは一線を画します。これは制作年代の違いと考えられます。
 
金色堂中央壇諸仏展示風景
 
また、地蔵像と二天像がカツラ材製であるのに対して、阿弥陀三尊像はヒバないしはヒノキと見られる針葉樹材製です。素材の点からも今の中央壇諸仏はもともとセットではなかった、寄せ集めなのではないかと考えられます。
 
金色堂内には3基の須弥壇が設置され、それぞれに11体ずつ計33体の仏像が安置されています。各壇の11体の構成は共通していて、阿弥陀三尊像(3体)・六地蔵像(6体)・二天像(2体)です。実は、これらの仏像は長い歴史の中でその安置される壇を移動している可能性が高いことがわかっています。
 
その移動が意図的なものか、あるいは混乱による偶然のものなのか定かではありませんが、残された仏像の造形表現や素材・構造を検討・分類することで、それぞれの仏像の原位置を推定できるようになっています。
その詳細は本展会場に掲示しているパネルもしくは図録をご覧いただくことにして結論を申し上げると、阿弥陀三尊像は元々中央壇に安置されていた仏像と考えられます。つまり、藤原清衡(きよひら)が夢見た極楽浄土の阿弥陀三尊像として造像されたとみられるのです。
 
(手前)国宝 阿弥陀三尊像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
(奥)重要文化財 金箔押木棺 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
 
そして、制作年代が異なる可能性を指摘した六地蔵像と二天像は、阿弥陀三尊像より後の時代、おそらく二代基衡(もとひら)の壇に安置されていた像と考えられます。その壇の中心には、現在西北壇に安置されている阿弥陀如来像が坐していたと推定できます。
 
阿弥陀三尊像は金色堂上棟の天治元年(1124)から清衡の没した大治三年(1128)頃の制作と考えられます。
これに対して六地蔵像と二天像が基衡壇に安置されていたとするならば、その制作年は基衡の没した保元二年(1157)頃と推定されます。その差は約30年です。
是非その年代観を会場で体感してください。
 
これまでに中尊寺金色堂を訪れた経験のある方もたくさんいらっしゃることでしょう。その際、ガラス越しで少し遠くにご覧いただいた仏像たちのお顔はわかりましたか?
金色堂の輝きに目を奪われ、おそらくはっきりとはわからなかったのではないでしょうか。
本展で間近に国宝仏像をご覧いただくことで、きっと身近に感じ、今回それぞれの個体識別ができるようになるのではないかと考えています。
 
阿弥陀如来坐像と金箔押木棺
 
スポーツ観戦や観劇をされる方にはご理解いただけるのではないかと思いますが、選手や俳優の顔やしぐさを知っていれば、球場や劇場で豆粒ほどにしか見えない選手や俳優でも、ちゃんと識別して見えていますよね。あ、砂かぶりのいい席でご覧いただいている方々でなくともという話です。
仏像もそれと同じことです。やはり展覧会だけで満足せずに、本来あるべき姿、つまり金色堂に安置されている仏像をご覧いただきたいのです。
今回、本展で仏像を間近にご覧いただき親しむことで、次に金色堂を訪れた際にも「東博で会ったあのアゴの上がったお地蔵さんだ!」と認識できるようになる、そんな展覧会になればいいなと願っております。
 

カテゴリ:仏像「中尊寺金色堂」

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posted by 児島大輔(東洋室主任研究員) at 2024年02月08日 (木)