この夏、法隆寺宝物館 第6室にて特集陳列「初公開の法隆寺裂-平成22・23年度修理完了作品-」(2012年7月10日(火)~2012年8月5日(日))が展示されます。
その見所について、少しですがご紹介しましょう。
法隆寺献納宝物は明治11年(1878)に奈良・法隆寺から皇室へ献納され、戦後国有になりました。
献納時の目録の末尾には「塵埃小切(じんあいこぎれ)拾三櫃(じゅうさんひつ)」との記載があり、
その後、これらの裂(きれ)類はガラス挟みや鳥の子紙の台紙へ貼るなどの整理が行なわれました。
とりわけ、見栄えのする作品はガラス挟みにされ、染織の作品として登録されましたが、
その他の大部分は未決品(未登録の作品)のままになっています。
ガラス挟みの作品も、経年によりガラス内面にくもりが生じ、
このくもりが裂近くまで及ぶようになり、劣悪な状況になってきました。
そこで平成22年度から修理が行なわれています。
ガラス内面のくもりが著しい作品。このくもりが裂に接近しています
ガラスを外したところ(ガラスのくもり)
修理方法はまず、ガラスを取り外して裂を取り出します。
ガラスを取り外す際に、裂がガラス面にくっついていることが時々あります。
損傷が多い裂では、傷んだ部分が一部は上のガラスの内面に、別な部分が下のガラスの内面にくっついて、
裂が泣き別れの状態になってしまいます。
そこで、裂を崩さないように竹べら等で慎重に剥がしていきます。
剥がした裂は、糸目を揃えながら文様を合わせて形を整えます。
糸目を揃えているところ
その後、裏打ちして窓を開けた中性紙のマットに挟みます。
錦等の表と裏の組織が異なる裂については、裏打ち紙の一部を開けて裏の組織がみえるようにします。
孔をあけた部分
修理後(マットに挟んだところ)
「やっと劣悪な状態から解放された」と裂がつぶやいているように思われます。
皆様もそのように思いませんか。
今回は、このようにして修理をした作品を半数ですが展示します。
大形の作品はありませんが、法隆寺を代表する裂が多く含まれています。
これまで、ほとんど紹介されていない裂もあります。
染物では、絞り染めの纐纈(こうけち)に金・銀泥で愛らしい草花文を描絵(かきえ)した珍しい作品があります。
纐纈は敷物の褥(じょく)の裏側や天蓋の垂飾といった目立たない部分に使われることが大部分です。
しかし、纐纈に金銀泥で草花文を描絵するということは、表面から見えるところに用いられたということが伺われます。
さて、どのようなところに使われたのでしょうか、興味をそそられますね。
(今回は、裂を摘んで括った目結文(めゆいもん)の天蓋垂飾(てんがいすいしょく)も展示します)
織物では、経錦(たてにしき)のなかでも古様な複様平組織(ふくようひらそしき)の双鳳文錦(そうほうもんにしき)をはじめ、
纐纈の目結による襷文(たすきもん)をほうふつさせる小花目結襷文錦(しょうかめゆいたすきもんにしき)、小さな甃文(いしだたみもん)の風通(ふうつう)などがあります。
綾では葡萄唐草文(ぶどうからくさもん )の天蓋垂飾や幡(ばん)の坪裂(つぼぎれ)に多用される双竜二重連珠円文(そうりゅうにじゅうれんじゅえんもん)などがあります。
茶地草花文描絵纐纈平絹(部分) 奈良時代・8世紀(2012年7月10日(火)~2012年8月5日(日)展示)
茶地双鳳連珠円文錦(部分) 飛鳥~奈良時代・7~8世紀(2012年7月10日(火)~2012年8月5日(日)展示)
小さな断片ではありますが、その内容はバラエティーに富んでいます。
展示初日の7月10日には、列品解説 特集陳列「初公開の法隆寺裂」も行われます。
この機会に豊かな上代裂(じょうだいぎれ)の世界をお楽しみ下さい。
カテゴリ:研究員のイチオシ
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posted by 澤田むつ代(特任研究員) at 2012年07月07日 (土)
まず初回は、黒田清輝(1866-1924)の言葉から紹介したいと思います。
黒田が留学先のパリから日本の義母に宛てた手紙には、
美術解剖学やヌードデッサンについての記述が残っています。
義父宛には「一筆啓上仕候・・・」の文語調の手紙で、
義母宛には平易な文章をひらがなで綴っていますが、
かえってその表現が美術解剖学の「本質」を突く、
率直な思いが表われていて味わい深ものがあります。
死んでいる人間を、いやどんな動物でも解剖して、その仕組みを見るということは、
皮を剥ぎ、ナイフやメスを使って「切ら」なければなりません。
それは一見怖いような、気持ちが悪いような気もしますが、
黒田が母への手紙に書いているように、「二度も見ましたら、もう何とも無いようになりました。」
僕は黒田のその言葉に、アーティストとしての生まれ持った素養、光るものを感じます。
正しく対象を「見ること」、そして木炭や絵筆をとって「画面を切る=描くこと」、
その「痕跡」として残された画面が、
美術作品としていま私たちの目に訴えかけるものを残しています。
解剖学実習 1987年2月
東京藝術大学の美術解剖学で、4名のグループで3日間の実習を行いました。
ウサギを解剖して、足の骨・筋肉・腱の構造を観察しているところです。
黒田清輝が、1877年のパリで残した「裸んぼ=裸婦・裸体」のデッサンは、
いまトーハクの特集陳列「美術解剖学 -人のかたちの学び」で展示されています。
盟友 久米桂一郎の同モデル・同ポーズの「裸んぼ」と合わせてご覧ください。
(左) 裸婦習作 黒田清輝筆 明治20年(1887)
(右) 裸婦習作 久米桂一郎筆 明治20年(1887) 東京・久米美術館蔵
(いずれも2012年7月3日(火)~2012年7月29日(日)展示)
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posted by 木下史青(デザイン室長) at 2012年07月04日 (水)
「美術解剖学 ―人のかたちの学び」(2012年7月3日(火)~2012年7月29日(日))が、
トーハクの特集陳列として開催されることは、
東京国立博物館が所蔵する美術解剖学資料を公開するチャンスであるとともに、
関連資料をお持ちの所蔵者・美術館の作品と、系統的にまたは対置してみることで、
相互の価値を際立たせて見ることができる、たいへん貴重な機会といえるでしょう。
僕が芸大1年生だった19歳の時に、
初めて「美術解剖学」の講義を聴いてからすでに27年の時間が過ぎましたが、
いまだその学びの奥行きに驚かされ、その興味は広がるばかりなのです。
さてこの1089ブログでは、「美術解剖学のことば」と題して、
「びじゅつかいぼうがく」とは何だ? そんな学問があるのか?
そんな疑問に、少しでもお答えしたいと思って、連載を試みることにしました。
美術を解剖するのか、美術のための解剖学なのか・・・そんな疑問もあるでしょう。
あるいは「解剖学」なんてキモチ悪いじゃない!という、あなたやあなたのために、
美術解剖学の先人たち、そして今回の展示に関係するような、
「ことば」の数々を紹介してみたいと思います。
登場するのは、
明治の文豪、医者であり、帝室博物館(東京国立博物館の前身)の総長でもあった森林太郎(鷗外)と、
東京美術学校で「美術解剖学」を長年にわたって教えた久米桂一郎、
そしてトーハクの黒田記念館でも知られ、近代絵画の巨匠とうたわれる、
黒田清輝の「ことば」を紹介してみたいと思います。
人体の美術解剖学 芸術家及び芸術愛好家の手引書 ユリウス・コールマン著 1886年出版(初版) 個人蔵
Plastische Anatomie des menschlichen Korpers, By Julius Kollmann, 1886 (Private collection )
(2012年7月3日(火)~2012年7月29日(日)展示 )
「美術解剖学の門」をくぐることで、少し違う美術の見方に気付くかもしれません。
まず初回は、黒田清輝の言葉から...(つづく)
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posted by 木下史青(デザイン室長) at 2012年06月28日 (木)
書を見るのは楽しいです。
より多くのみなさんに書を見る楽しさを知ってもらいたい、という願いを込めて、この「書を楽しむ」シリーズ、第16回です。
今回も、特集陳列「写された書-伝統から創造へ」(~2012年6月24日(日))から、
市河米庵(1779~1858)のふたつの「天馬賦」(てんばふ)をご紹介します。
「天馬賦」は、中国・北宋の米芾(べいふつ、米元章、1051~1107)の著作・筆跡として有名なものです。
まずは、米庵が17歳のときに写した「天馬賦」です。
天馬賦(模本) 市河米庵筆 江戸時代・寛政7年(1795) 市河三次氏寄贈
(~2012年6月24日(日)展示)
双鉤塡墨(そうこうてんぼく、字の輪郭を線でとり中を墨で埋める)で
「天馬賦」を模写しています。
上の画像ではよく見えないかもしれませんが
右側のページは、「高君」という字の輪郭線のみです(双鉤といいます)。
わかりにくいかもしれませんので、
私が、米庵の「高君」を途中まで双鉤塡墨してみました。
(もちろんコンピュータのデータ上でのことです。ご心配なく)
恵美が書き込んだ天馬賦「高君」
双鉤塡墨、ということは、
米芾の「天馬賦」を忠実に写そうとしているということです。
輪郭をとることで、筆遣いを細部まで知ることができます。
もうひとつは、
米庵80歳のときに書いた「天馬賦」です。
臨天馬賦(部分) 市河米庵筆 江戸時代・安政5年(1858) 林督氏寄贈
(~2012年6月24日(日)展示)
これは、臨書といいます。
米芾の「天馬賦」を横に置いて書いたものです。
17歳と80歳の「天馬賦」をもう一度並べてみます。
比較 17歳(左)と80歳(右)の「天馬賦」
17歳のときは忠実に写していますが、比較すると80歳では違う字になっています。
臨書には、
形を真似る臨書(形臨)と、筆意を汲みとっての臨書(意臨)とがあります。
80歳の「天馬賦」は、意臨なのです。
それにしても、
市河米庵が、17歳のときも写した「天馬賦」を80歳でも臨書する、
一生涯写し続ける、その姿勢が大切です。
意臨に続いて、
その雰囲気で別の文章を書く、倣書があります。
それが、さらに創作へとつながります。
いろいろと学んだことから、新たな書を創作する、
まさに、“古典から創造へ”、なのです。
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posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2012年06月14日 (木)
安土桃山時代の画家・長谷川等伯(1539~1610)は、国宝「松林図屏風」などの水墨画作品で広くその名を知られています。
等伯は40代半ばころまで「信春(のぶはる)」と名乗って、はじめ、生まれ故郷の能登地方を中心に活動していました。
そこでは、とくに日蓮宗に関連した寺院のために仏画を制作していました。
6月12日(火)より「書画の展開―安土桃山~江戸」(本館 8室)で展示中の「伝名和長年像」も「信春」時代を代表する肖像画です。
国宝 松林図屏風 長谷川等伯筆 安土桃山時代・16世紀 (2013年1月2日(水)~2013年1月14日(月)展示)
重要文化財 伝名和長年像 長谷川等伯筆 安土桃山時代・16世紀
(2012年6月12日(火)~2012年7月22日(日)展示)
この絵を収めた箱に、かつての所有者であった明治の政治家・福岡孝悌(ふくおか たかちか・1835~1919)が「伯耆守名和長年像」(ほうきのかみなわながとしぞう)と記しています。
名和長年(?~1336)は、南北朝時代の武将で、後醍醐天皇に仕え建武の新政において重用されました。現在では、この肖像の人物は200年前の名和長年ではなく、等伯の生きた時代の武将を描いたと考えられています。
素襖(すおう)をつけて威厳に満ちた武将は、上畳に座り、その前に好物であったのでしょうか、枇杷が供えられています。そばにたまらなく愛くるしい小姓が、にこにことお茶を差し出しています。癒されますね。
馬丁が手綱をとるのは武将の愛馬であったのでしょうか。あるいは名馬を産出する地域を治める武将であることを示しているのでしょうか。
等伯は「信春」時代に重要文化財「牧馬図屏風」を描いています。あるいは、この肖像画の主人公が関わって「牧馬図屏風」を描かせたのかもしれません。
重要文化財 牧馬図屏風 長谷川等伯筆 安土桃山時代・16世紀 (展示予定は未定)
このように、この絵には像主にちなんだ事物が描かれていて、この人物がいったい誰であるのかを考える上で、いくつかのヒントが表されているといってもよいでしょう。
描かれた人物の詮索は別の機会に譲り、今回はこの絵の表現上の特色を2つあげてみます。
ひとつめは画面にあらわされたモチーフの構図です。
まず、左へ顔をむけた武将を大きく描いています。右手には扇を持っています。茶を差し出す小姓が向かって右に侍り、暴れる馬をおさえる馬丁が左に控えます。
3人の人物が描かれていますが、この構図はまるで仏画でいう本尊と両脇侍を描く三尊形式を彷彿させます。
通例、肖像画は像主その人のみを描くことが多く、この画面形式は加賀藩祖の前田利家(まえだとしいえ)(1538~1599)が天正9年(1581)に七尾市にある長齢寺(ちょうれいじ)創建の際、父利春の菩提のために寄進した「前田利春像(まえだとしはるぞう)」と同様の形式です。
この絵は等伯が描いたものという説もあった作品で、北陸で活動した等伯に関わる長谷川家一門の絵師が得意とした画面形式だったのかもしれません。
さて、この絵はいったいどこを描いたものなのでしょうか?
馬がいるので野外でしょうか。背景をあらわす事物が描かれていないので不明瞭です。また画面の右に描いた刀をみてください。脇に置かれているものなのでしょうが、まるで画面の枠にもたれさせているようです。
また、像主の武将を大きく、侍者たちを小さく描いて、武将の存在感を強めていますが、位置関係をみると画面上で上下関係はあっても、人物の位置関係をみると、奥行が感じられません。いずれも現実的な空間が絵に反映されているように見えないのです。
このような表現もやはり仏画の多くに見られることです。
仏神の多くは、空や平面、空間など何もない状態をいう「虚空」に描かれます。その仏神の尊さを示すために、前後関係や背景を描いて、室内であることや特定の現実的な場所を描く必要がないのです。そこでは仏神のみを丹念に描くことが重要なのです。
それぞれモチーフが画面のなかで並列に置かれ、あるのは上下関係だけです。はじめにふれたように等伯の「信春」時代に描かれた仏画が、まさにこうした表現方法をとっています。
像主を単独で描く通常の肖像画の画面形式でなく、仏画でみられる画面構成で描くのも、等伯が信春時代に仏画の制作を主たる活動としていたことを強く示しているのでしょう。
ふたつめの特色は緻密な描写です。
武将の髭(ひげ)や顎鬚(あごひげ)の細かさ、馬の鬣(たてがみ)、刀の拵(こしらえ)にみられる凝った装飾など、拡大鏡がなければそれぞれの描写が判断できないくらいです。
小姓が差し出す天目台にのせた茶碗をみると、金泥によって天目台には鳳凰が、茶碗には梅が描かれているようです。さらに右手に握る扇は、金泥地に水墨で梅が描かれています。さらにはその絵には朱色の判子まで描きこんでいます。
この極めて細かな描写は、やはり等伯が信春時代に描いた多くの仏画にあらわれる特徴で、それらは鮮やかな色彩で、緻密に仏神が装飾されています。まるで仏教にかかわる言葉でいう最小の単位「極微(ごくみ)」の世界をあらわしているかのようです。
このように肖像画という画題において、信春時代の等伯は、仏画を描くことを専らとしていた画業の経験を活かして像主の威厳を高めているのです。
カテゴリ:研究員のイチオシ
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posted by 松嶋雅人(特別展室長) at 2012年06月12日 (火)