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1089ブログ

おひなさまと日本の人形

東京国立博物館では、毎年、この季節になりますと3月3日の桃の節句(上巳の節句)にちなんで、当館のコレクションの中から雛飾りを展示しています。


特集「おひなさまと日本の人形」(3月31日(日)まで)の展示風景

本館14室に入り向かって右側にある大きなケースには、毎年、恒例の三段飾りをしています。
この雛壇には、古来より宮廷貴族の間でもちいられてきた「天児(あまがつ、男の子)」、「這子(ほうこ、女の子)」といった原初的なスタイルの人形から、紙で胴体を形作った「立雛(たちびな)」、室町時代の宮廷風俗を模したとされる「室町雛(むろまちびな)」、上方で流行したまあるいお顔の「次郎左衛門雛(じろざえもんびな)」など、ひな人形の歴史をたどることができる展示をしています。

 

天児
江戸時代・19世紀
這子
江戸時代・18世紀

 

立雛(次郎左衛門頭)(たちびな じろざえもんがしら)
江戸時代・18~19世紀
古式次郎左衛門雛(こしきじろざえもんびな)
柴田是真旧蔵 江戸時代・17~18世紀

 

また、ミニチュアだからこそ日本の卓越した工芸の技を存分に発揮できる、雛道具の数々も見どころです。
この雛壇の展示作業を一日で行うのがとっても大変なのですが、この度、その様子を動画で紹介しています。ぜひ、ご覧ください。

 


特集「おひなさまと日本の人形」ができるまでのタイムラプス

特集「おひなさまと日本の人形」ができるまでのタイムラプス

 

雛飾りばかりではなく、特に江戸時代に飛躍的に発展、成熟を遂げた、日本の伝統的な人形も、毎年テーマを変えて展示しております。
今年のテーマの1つは「嵯峨人形(さがにんぎょう)」。江戸時代前期に嵯峨在住の仏師(仏像を彫刻する職人)が、余技で始めたのがその始まりだと言われています。
木彫りした人形に胡粉(ごふん)といわれる白い塗料を塗り、黒紅(くろべに)と呼ばれた赤黒い色で着物の地色を塗り、その上に仏像に施されるような細密な金彩色を着物の模様として施す点が特徴です。
猿廻し、人形使(にんぎょうつか)い、遊女など、江戸時代のさまざまな職業の風俗を表しました。


嵯峨人形 人形使い(さがにんぎょう にんぎょうつかい)
江戸時代・17世紀~18世紀 野村重治氏寄贈


また、今回の注目は頭を後ろからつつくと首が前後に動き、舌がぺろっと出てくる子どもの姿を表した「嵯峨人形 首振り(さがにんぎょう くびふり)」です。江戸時代には人気の仕掛け人形だったようで、いくつもの例が遺されており、子だくさんを願う子犬を小脇に抱えています。展示されている人形は動きませんが、動いている様子を本館14室のモニターで見ることができます。


嵯峨人形 首ふり
江戸時代・17世紀


嵯峨人形は、着せ替えのできる「裸嵯峨(はだかさが)」と呼ばれる子どもの人形へと変化し、それが御所人形へと発展していったと言われています。
今となっては伝世品の少ない「裸嵯峨」や、愛らしい赤子姿の「御所人形(ごしょにんぎょう)」も本館14室でご覧いただけます。


御所人形笛吹き童子(ごしょにんぎょう ふえふきどうじ)
江戸時代・19世紀 尾竹越堂氏寄贈


特集「おひなさまと日本の人形」は本館14室にて3月31日(日)まで開催しています。
現代の生活では大きな雛壇の雛飾りが難しくなってきたこの頃、ぜひ、当館で華やかな伝統の雛祭りの様子をご体感ください。

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 小山 弓弦葉(工芸室室長) at 2024年03月13日 (水)

 

創建1200年記念 特別展「神護寺―空海と真言密教のはじまり」報道発表会

2024717日(水)~98日(日)、当館平成館で創建1200年記念 特別展「神護寺空海と真言密教のはじまり」を開催します。

神護寺(じんごじ)といえば、「紅葉(もみじ)の名所」としてご存知の方もいらっしゃるでしょう。京都駅からバスと徒歩で1時間30分ほどの場所にある寺院です。


青紅葉も美しい神護寺の金堂

天長元年(824)、高雄山寺(たかおさんじ)と神願寺(じんがんじ)というふたつの寺院がひとつになり神護寺が誕生しました。今年は神護寺創建1200年、そして神護寺とゆかりの深い、空海生誕1250年の年にあたります。本展では、1200年を超える歴史の荒波を乗り越え伝わった、文化財の数々をご覧いただきます。

214日(水)には本展の報道発表会を行いました。

まずは、主催者の高野山真言宗遺跡本山高雄山神護寺 貫主 谷内弘照(たにうちこうしょう)氏と、当館副館長の浅見龍介がご挨拶しました。


高野山真言宗遺跡本山高雄山神護寺 貫主 谷内弘照氏


当館副館長 浅見龍介

続いて、本展の見どころについて、当館の古川攝一研究員が解説しました。


研究員 古川攝一

特別展「神護寺空海と真言密教のはじまり」は5章に分かれています。
ここでは、それぞれの章の概要と作品の一部をご紹介します。
 

【第1章 神護寺と高雄曼荼羅】
唐から帰国した空海が活動の拠点とした場所が高雄山寺です。「両界曼荼羅(高雄曼荼羅)」は、空海が中国から請来(しょうらい)した曼荼羅が破損したため、それを手本に制作されたものです。本章では約230年ぶりに修復された「両界曼荼羅(高雄曼荼羅)」や、院政期の神護寺に関連する作品をご覧いただきます。


現存最古の両界曼荼羅
国宝 両界曼荼羅(高雄曼荼羅)

平安時代・9世紀 京都・神護寺蔵 左の【金剛界】は後期展示
814日~98日)、右の【胎蔵界】は前期展示717日~812日)


等身大の迫力 日本肖像画の傑作
国宝 伝源頼朝像
鎌倉時代・13世紀 京都・神護寺蔵 前期展示(717日~812日)

 
【第2章 神護寺経と釈迦如来像―平安貴族の祈りと美意識】

「神護寺経」は神護寺に伝わった「紺紙金字一切経(こんしきんじいっさいきょう)」の通称です。一方、「赤釈迦(あかしゃか)」の名で知られる「釈迦如来像」は、細く切った金箔による截金(きりかね)文様が美しい平安仏画を代表する作例です。平安貴族の美の世界をお楽しみいただきます。


鳥羽天皇発願 金泥で書かれた一切経
重要文化財 大般若経 巻第一(紺紙金字一切経のうち)(部分)
平安時代・12世紀 京都・神護寺蔵 通期展示


繊細優美な平安仏画の傑作
国宝 釈迦如来像
平安時代・12世紀 京都・神護寺蔵 後期展示(814日~98日)

 
【第3章 神護寺の隆盛】

僧である文覚(もんがく)による復興後、弟子によって伽藍(がらん)整備が進められ、神護寺はさらに発展していきます。本章では中世の神護寺の隆盛が伺える「神護寺絵図」や、密教空間を彩る美術工芸品の数々を展示します。


密教儀礼の場にしつらえられた屛風
国宝
 山水屛風
鎌倉時代・13世紀 京都・神護寺蔵 後期展示(814日~98日)


【第4章 古典としての神護寺宝物】

幕末に活躍した絵師、冷泉為恭(れいぜいためちか)は数々の古画を模写しました。神護寺宝物では「山水屛風」や「伝源頼朝像」を写しています。また、「両界曼荼羅(高雄曼荼羅)」は、空海ゆかりの作例として、平安時代後半から曼荼羅の規範となり、仏の姿が写されました。神護寺の寺宝が古典として、江戸時代後半から明治時代に再び注目された様子をご紹介します。


国宝「山水屛風」を丁寧に写した摸本
山水屛風
冷泉為恭筆 江戸時代・19世紀 京都・神護寺蔵 後期展示(814日~98日)

【第5章 神護寺の彫刻】
「薬師如来立像」は、神護寺が誕生する以前につくられており密教像ではありませんが、空海は本尊として迎えました。深い奥行きや盛り上がった大腿部、左袖の重厚な衣文(えもん)表現は重量感にあふれており、日本彫刻史上の最高傑作といえます。本章では、5体が勢揃いした「五大虚空蔵菩薩坐像(ごだいこくうぞうぼさつざぞう)」や変化にとんだ姿の「十二神将立像」などをご覧いただきます。

寺外初公開 厳しい眼差しのご本尊
国宝 薬師如来立像
平安時代・89世紀 京都・神護寺蔵 通期展示

本展は、約半世紀ぶりに開催される神護寺展となります。
空海も見つめたであろう彫刻・絵画・工芸の傑作をはじめ、密教美術の名品を展示する貴重な機会です。

今後も展覧会公式サイト当館サイトなどで最新情報をお伝えしていきます。ぜひご注目ください!

 

カテゴリ:news仏像絵画工芸「神護寺」

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posted by 宮尾美奈子(広報室) at 2024年02月29日 (木)

 

平泉の日々

今から20数年前の夏のこと、私は1ヶ月ほど、岩手県の平泉に滞在していました。

当時、私は工芸史を専攻する大学院生で、特に蒔絵や螺鈿といった日本の漆工史についての研究に取り組んでいました。
そして夏季休暇の過ごし方として、それまで図版などでしか見たことがなかった中尊寺の金色堂や工芸品を、何日間か滞在して見学してみたい気持ちがあり、そのことを実家で話したところ、ちょうど父の長年の友人である故・荒木伸介(あらきしんすけ)先生(水中考古学の第一人者)が平泉郷土館長をされていたので相談させていただきました。
のちに荒木先生から伺ったところでは、先生が居酒屋でその話をされていたところ、そこに居合わせられた平泉町役場の関宮治良(せきみやはるよし)様が「うちに下宿させてあげよう」とご提案くださり、そのご厚意により関宮様のお宅で1カ月ほど居候させていただくことになりました。
 
金色堂の中央須弥壇
金色堂の堂内には3つの須弥壇があり、各壇に11体の仏像が安置されます。堂内は、螺鈿や蒔絵という漆工のほか、金工や木工などを駆使して、まばゆい極楽浄土が表現されています。
 
平泉での滞在中は、研究の合間に、下宿代として町の仕事をお手伝いすることとなりました。町内の発掘現場で発掘をし、中尊寺の境内にある白山神社での薪能の会場整備や案内をし、中尊寺のふもとにある駐車場で誘導をし、送り盆には奥州藤原氏や源義経を供養する束稲山(たばしねやま)での大文字送り火や北上川での燈籠流しの準備などをして、平泉の方々と一緒に汗を流しました。もちろん私に気を遣わせないご配慮でした。
 
私は東北地方に縁戚がなく、その言葉にもなじみがうすく、高齢の方の言葉などはきちんと聞き取れなかったので、町のなかで顔なじみになったおばあさんから「どさ(どこに行くのさ)」と話しかけられても、それが挨拶の言葉なのだろうと思い、笑顔で「どさ」と返していました。ある晩、関宮様の奥様が近所を訪問されるのにおともしたとき、訪問先で「おばんでがんす」とおっしゃるのを聞いて、その上品な言葉のひびきに感動しました。平泉の方々は大変に親切で、泉橋庵(せんきょうあん)という鰻屋さんがおいしいウナギをご馳走してくださったこともありました。いずれも楽しい思い出です。
 
白山神社の中尊寺能
中尊寺の境内にある白山神社の能舞台は、江戸後期に建てられました。茅葺きで、鏡板には堂々とした松が描かれた格調高い能舞台です。中尊寺では、僧侶の方々が能楽を伝承されています。
画像提供:中尊寺
 
肝心の研究については、当然ながらガラス越しではありましたが、じっくりと金色堂や讃衡蔵(さんこうぞう。中尊寺の宝物館)を見学させていただいたばかりでなく、長い滞在のうちには讃衡蔵の破石澄元(はせきちょうげん)様から金色堂や寺宝のお話を伺い、毛越寺の藤里明久(ふじさとみょうきゅう)様から庭園遺跡のお話を伺う機会もありました。空いた時間には自転車で達谷窟(たっこくのいわや)まででかけたり、当時はまだ整備されていなかった柳之御所や無量光院などの遺跡を散策したりしました。恵まれた学問の時間でした。
 
その後、幸運にも博物館で工芸史の研究員として働くことができ、20年以上が過ぎたのですが、このたび金色堂の建立900年を記念して開催される建立900年 特別展「中尊寺金色堂」の仕事に携わることとなりました。あの頃はガラス越しに眺めた金色堂の仏像や讃衡蔵の寺宝を、博物館の研究員として直(じか)に調査し、展示に携わらせていただけたことは、私にとって感慨深いものがありました。平泉からいただいた恩恵に比べるとわずかではありますが、ようやく学恩に報いることができたように思います。
 
特別展の会場風景
金色堂は奥州藤原氏の初代・清衡によって建立されました。本展では、清衡が葬られた中央の須弥壇の仏像、御遺体を納めていた金棺、美しく装飾された工芸品や経典が展示されています。
 

カテゴリ:仏像工芸「中尊寺金色堂」

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posted by 猪熊兼樹(保存修復室長) at 2024年02月22日 (木)

 

たくさんの塔を造る


本館14室 特集「塔と厨子(ずし)」の展示風景

先日の1089ブログ「舎利を祀(まつ)る塔」でも書いたように、釈迦(しゃか)は死後に荼毘(だび)に付され、遺骨は釈迦を慕う人々に分け与えられ、「舎利」と呼ばれて八つの塔に祀られました。2,400年(一説には2,500年)ほど昔のことです。

今から2,200年ほど前、古代インドのマウリヤ朝の第3代の王となり、インドに統一国家を建設したアショーカ王(前268~232)は、仏教による国造りを進め、舎利を祀る八つの塔のうち七つの塔を開いて新たに塔を建立(こんりゅう)したと伝わります。その数何と八万四千。釈迦の涅槃(ねはん)の地であるクシナガラをはじめサーンチーやバールフットに遺(のこ)るストゥーパは、このアショーカ王の建立、増改築によるものとされています。
「八万四千」というのは、インドで大きな数を表す際の数字ですので、本当にこの数が作られたかは定かではありませんが、この圧倒的な数の作善行(さぜんぎょう)は、後世にも大きなインパクトと影響を与えました。中国・五代の呉越国(ごえつこく)王・銭弘俶(せんこうしゅく、929~988)は、このアショーカ王(中国では阿育王(あいくおう))の故事に倣って八万四千基の塔を造り、各地に配布したと伝えられています。日本へも海を越えて500基がもたらされたとされており、福岡・誓願寺(せいがんじ)に伝わるものや和歌山・那智山経塚(なちさんきょうづか)から出土したもの(図1)が知られています。


(図1)銭弘俶八万四千塔(せんこうしゅくはちまんよんせんとう )
中国・五代時代・10世紀 
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山出土 
北又留四郎氏他2名寄贈


また、現存作例はありませんが、日本でも阿育王の故事は重要視され、白河院(1053~1129)や後鳥羽院(1180~1239)が、五寸(約15センチメートル)の大きさの八万四千塔を造立(ぞうりゅう)したことが記録に残されています。
こうしたたくさんの塔を造る作善は江戸時代まで続いており、京都・仁和寺(にんなじ)でも八万四千塔の造立が行われたようです。当館蔵の焼き物の「八万四千塔(はちまんよんせんとう)」(図2)は、基台裏の銘文(図3~図6)から、その3,333番目として焼かれたことがわかります。また、奈良国立博物館には、仙洞御所(せんとうごしょ、光格天皇、1771~1840か)の御願によって作られた、天保十年(1839)の紀年銘を有する焼き物の八万四千塔が所蔵されています。


(図2)八万四千塔 道八 江戸時代・19世紀

 

八万四千塔の基台裏(図3)
八万四千塔の基台裏(図4)

 

八万四千塔の基台裏(図5)
八万四千塔の基台裏(図6)

 

ところで、たくさんの塔が造られた事例としては、称徳天皇(718~770)による「百万塔(ひゃくまんとう)」(図7)の造立が挙げられます。
藤原仲麻呂の乱(764年)によって多くの血が流れたことを受けて、その鎮魂と滅罪のため、『無垢浄光大陀羅尼経(むくじょうこうだいだらにきょう)』の教えに基づき、世界最古級の印刷物とされる陀羅尼を納めた塔が百万基造立され、奈良及びその周辺の10の寺院に10万基ずつ納められました。
現在はそのうち、奈良・法隆寺に納められたものが、法隆寺に遺る4万基余りをはじめ各地に所蔵されています。法隆寺にだけ遺った理由は定かではありませんが、法隆寺には奈良時代の「鋸(のこぎり)」(図8)や「鎌」(図9)のような道具類も近代まで伝わっており、ものを大切に保管する習わしがあったのかもしれません。


(図7)百万塔 奈良時代・宝亀元年(770)
画像左端(H-1183)は川住三郎氏寄贈

(図8)重要文化財 鋸 奈良時代・8世紀
法隆寺宝物館第4室「木・漆工-武器・武具」にて展示
(図9)重要文化財 鎌 奈良時代・8世紀
法隆寺宝物館第4室「木・漆工-武器・武具」にて展示

 

王侯貴族のような権力者は、経済力や権力で多くの作善を行うことができましたが、いつの時代も何かをなすにはお金の問題がつきまといます。
「お金はないけどたくさんの塔を造って善行を積みたい」ということで作られたのが、土で造られた塔「泥塔経(でいとうきょう)」(図10)です。型抜きで作った塔形に『法華経(ほけきょう)』の経文(きょうもん)の一文字と地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の種子(しゅじ)、カを表したもので、鳥取県の智積寺(ちしゃくじ)経塚から出土したものが各地に多数伝わっています。『法華経』はおよそ7万字ですので、それだけの数が作られたのかもしれません。

(図10)泥塔経 鳥取県東伯郡琴浦町智積寺 智積寺経塚出土 室町時代・15世紀 道祖尾萬次氏寄贈

この他、1089ブログ「舎利を祀る塔」でも紹介した「穀塔(もみとう)」(図11)も、多くの人が仏縁を結びやすいように、木と籾(もみ)とで作られたもので、奈良・室生寺(むろうじ)や奈良・元興寺にも多くの籾塔が伝わっています。


(図11)穀塔 鎌倉時代・13~14世紀 植原銃郎氏寄贈


『法華経』の「方便品(ほうべんぼん)」には「どんな塔を造ることも悟りに繋がる」と説かれています。そしてそれらは多い方がより功徳(くどく)も大きいと考えられました。そうした教えやアショーカ王の「八万四千」の故事などによって、想像を絶するような多くの塔が造られ、供養(くよう)されたのです。

ところで、それらの塔はどこに行ってしまったのでしょうか。法隆寺に遺る百万塔(それでも半分以上は消滅?)を除くと、これほどたくさん造られた塔もほとんどが失われてしまったことに気付きます。
改めて、現在我々が、こうした先人の善行を目の当たりにできる奇跡を、思わずにはいられません。

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 清水健(工芸室) at 2024年02月21日 (水)

 

見て触って学べる! 特集「親と子のギャラリ― 中尊寺のかざり」

建立900年 特別展「中尊寺金色堂」(2024年1月23日(火)~4月14日(日))と足並みをそろえて、特集「親と子のギャラリ― 中尊寺のかざり」(2024年1月23日(火) ~ 3月3日(日))が本館特別2室ではじまりました。
この特集は、子どもから大人までを対象に美術作品やそのつくり方に興味や関心を深めることを目的にしています。
今回は特別展にあわせ「中尊寺のかざり」をテーマにしました。
 
金色に光り輝く美しさで著名な中尊寺金色堂は「光堂」、「皆金色」とも形容されますが、その輝きに彩りを与えているのが、螺鈿(らでん)や金工の技法(つくり方)です。
今回の展示では、中尊寺に伝来する荘厳具(しょうごんぐ)や仏具を対象に螺鈿と金工のつくり方に注目して展示を構成しています。
 
展示品は復元模造品と制作工程見本が占めています。その意図は復元模造品や、制作工程見本だからこそわかることがたくさんあるからです。
復元模造品は制作にあたって制作対象と同じ材料や同じ技法で復元することによって、制作対象そのものを深く知ることができます。
また多くの調査分析、検討を踏まえて作られた復元模造品は制作当初の様子をよく表しています。
さらに制作工程見本は、制作にあたって使用される材料や道具、技法を時系列にそってより詳しく知ることができる利点があります。
 

螺鈿八角須弥壇(模造)
小西美術工藝社制作 平成4年(1992)
原品:平安時代・12世紀 木製漆塗 岩手・中尊寺大長寿院所蔵
*須弥壇の側面には、蓮の花にのる迦陵頻伽、その周りを飾る雀や孔雀などが、金工や螺鈿の技術(つくり方)で表現されています。

螺鈿工程見本
小西美術工藝社制作 平成4年(1992)
原品:平安時代・12世紀 木製漆塗 岩手・中尊寺大長寿院所蔵
*丹精込めて作られた様子は工程数にも表れています。
今回の展示に合わせて新たに中尊寺金色堂の須弥壇を飾る孔雀の制作工程見本とハンズオンを作成しました。
実寸大の孔雀の制作工程見本は、制作道具と一緒に展示しています。
また孔雀を留める敷板の大きさは須弥壇の区画と同じ大きさに揃えたので、須弥壇の大きさを想像しながらご覧いただければと思います。
 

中尊寺金色堂内観

今回の制作対象となった中央壇の格狭間に飾られた孔雀(赤枠拡大図)
展示風景
*材料の銅から完成まで8工程で孔雀の制作工程を展示しています
 
また中尊寺と同時代の獅子螺鈿鞍を例にあげ、「漆の飾り 螺鈿」というタイトルで螺鈿のつくり方(制作工程)を示す動画と触察ツールを作成しました。
動画は手話入り日本語版と英語版を上映し、触察ツールは日本語と英語に加えて点字でも解説を用意しています。
制作が進むにつれて現れる獅子の姿とともに輝きをましていく螺鈿、見て触れてお楽しみいただければと思います。 
 
重要文化財 獅子螺鈿鞍 平安~鎌倉時代・12~13世紀 嘉納治五郎氏寄贈 東京国立博物館蔵


動画「漆の飾り 螺鈿」
 
触察ツール「漆のかざり 螺鈿」
 
この展示を楽しむために、仏さまを飾るもよう探しのリーフレットを用意しました。
もようの役割や意味を学びながら、この特集展示や特別展「中尊寺金色堂」はもちろんのこと、本館1階11室の彫刻や2階1室・3室の仏教の美術の展示をご覧になる際にもご活用いただければと思います。
 
 

リーフレット「仏さまをかざるものたち」

この特集の意図は多くの方が中尊寺のかざりに興味や関心をもつきっかけをつくること。
オンラインでも一部楽しめますが、ぜひ会場で体感いただければと思います。
本特集の会期は特別展より1か月短い3月3日(日)までです。みなさん、お見逃しのないように。
 

カテゴリ:教育普及特集・特別公開工芸「中尊寺金色堂」

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posted by 品川 欣也(教育普及室) at 2024年02月16日 (金)

 

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