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1089ブログ

おひなさまと日本の人形

東京国立博物館では、毎年、この季節になりますと3月3日の桃の節句(上巳の節句)にちなんで、当館のコレクションの中から雛飾りを展示しています。


特集「おひなさまと日本の人形」(3月31日(日)まで)の展示風景

本館14室に入り向かって右側にある大きなケースには、毎年、恒例の三段飾りをしています。
この雛壇には、古来より宮廷貴族の間でもちいられてきた「天児(あまがつ、男の子)」、「這子(ほうこ、女の子)」といった原初的なスタイルの人形から、紙で胴体を形作った「立雛(たちびな)」、室町時代の宮廷風俗を模したとされる「室町雛(むろまちびな)」、上方で流行したまあるいお顔の「次郎左衛門雛(じろざえもんびな)」など、ひな人形の歴史をたどることができる展示をしています。

 

天児
江戸時代・19世紀
這子
江戸時代・18世紀

 

立雛(次郎左衛門頭)(たちびな じろざえもんがしら)
江戸時代・18~19世紀
古式次郎左衛門雛(こしきじろざえもんびな)
柴田是真旧蔵 江戸時代・17~18世紀

 

また、ミニチュアだからこそ日本の卓越した工芸の技を存分に発揮できる、雛道具の数々も見どころです。
この雛壇の展示作業を一日で行うのがとっても大変なのですが、この度、その様子を動画で紹介しています。ぜひ、ご覧ください。

 


特集「おひなさまと日本の人形」ができるまでのタイムラプス

特集「おひなさまと日本の人形」ができるまでのタイムラプス

 

雛飾りばかりではなく、特に江戸時代に飛躍的に発展、成熟を遂げた、日本の伝統的な人形も、毎年テーマを変えて展示しております。
今年のテーマの1つは「嵯峨人形(さがにんぎょう)」。江戸時代前期に嵯峨在住の仏師(仏像を彫刻する職人)が、余技で始めたのがその始まりだと言われています。
木彫りした人形に胡粉(ごふん)といわれる白い塗料を塗り、黒紅(くろべに)と呼ばれた赤黒い色で着物の地色を塗り、その上に仏像に施されるような細密な金彩色を着物の模様として施す点が特徴です。
猿廻し、人形使(にんぎょうつか)い、遊女など、江戸時代のさまざまな職業の風俗を表しました。


嵯峨人形 人形使い(さがにんぎょう にんぎょうつかい)
江戸時代・17世紀~18世紀 野村重治氏寄贈


また、今回の注目は頭を後ろからつつくと首が前後に動き、舌がぺろっと出てくる子どもの姿を表した「嵯峨人形 首振り(さがにんぎょう くびふり)」です。江戸時代には人気の仕掛け人形だったようで、いくつもの例が遺されており、子だくさんを願う子犬を小脇に抱えています。展示されている人形は動きませんが、動いている様子を本館14室のモニターで見ることができます。


嵯峨人形 首ふり
江戸時代・17世紀


嵯峨人形は、着せ替えのできる「裸嵯峨(はだかさが)」と呼ばれる子どもの人形へと変化し、それが御所人形へと発展していったと言われています。
今となっては伝世品の少ない「裸嵯峨」や、愛らしい赤子姿の「御所人形(ごしょにんぎょう)」も本館14室でご覧いただけます。


御所人形笛吹き童子(ごしょにんぎょう ふえふきどうじ)
江戸時代・19世紀 尾竹越堂氏寄贈


特集「おひなさまと日本の人形」は本館14室にて3月31日(日)まで開催しています。
現代の生活では大きな雛壇の雛飾りが難しくなってきたこの頃、ぜひ、当館で華やかな伝統の雛祭りの様子をご体感ください。

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 小山 弓弦葉(工芸室室長) at 2024年03月13日 (水)

 

たくさんの塔を造る


本館14室 特集「塔と厨子(ずし)」の展示風景

先日の1089ブログ「舎利を祀(まつ)る塔」でも書いたように、釈迦(しゃか)は死後に荼毘(だび)に付され、遺骨は釈迦を慕う人々に分け与えられ、「舎利」と呼ばれて八つの塔に祀られました。2,400年(一説には2,500年)ほど昔のことです。

今から2,200年ほど前、古代インドのマウリヤ朝の第3代の王となり、インドに統一国家を建設したアショーカ王(前268~232)は、仏教による国造りを進め、舎利を祀る八つの塔のうち七つの塔を開いて新たに塔を建立(こんりゅう)したと伝わります。その数何と八万四千。釈迦の涅槃(ねはん)の地であるクシナガラをはじめサーンチーやバールフットに遺(のこ)るストゥーパは、このアショーカ王の建立、増改築によるものとされています。
「八万四千」というのは、インドで大きな数を表す際の数字ですので、本当にこの数が作られたかは定かではありませんが、この圧倒的な数の作善行(さぜんぎょう)は、後世にも大きなインパクトと影響を与えました。中国・五代の呉越国(ごえつこく)王・銭弘俶(せんこうしゅく、929~988)は、このアショーカ王(中国では阿育王(あいくおう))の故事に倣って八万四千基の塔を造り、各地に配布したと伝えられています。日本へも海を越えて500基がもたらされたとされており、福岡・誓願寺(せいがんじ)に伝わるものや和歌山・那智山経塚(なちさんきょうづか)から出土したもの(図1)が知られています。


(図1)銭弘俶八万四千塔(せんこうしゅくはちまんよんせんとう )
中国・五代時代・10世紀 
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山出土 
北又留四郎氏他2名寄贈


また、現存作例はありませんが、日本でも阿育王の故事は重要視され、白河院(1053~1129)や後鳥羽院(1180~1239)が、五寸(約15センチメートル)の大きさの八万四千塔を造立(ぞうりゅう)したことが記録に残されています。
こうしたたくさんの塔を造る作善は江戸時代まで続いており、京都・仁和寺(にんなじ)でも八万四千塔の造立が行われたようです。当館蔵の焼き物の「八万四千塔(はちまんよんせんとう)」(図2)は、基台裏の銘文(図3~図6)から、その3,333番目として焼かれたことがわかります。また、奈良国立博物館には、仙洞御所(せんとうごしょ、光格天皇、1771~1840か)の御願によって作られた、天保十年(1839)の紀年銘を有する焼き物の八万四千塔が所蔵されています。


(図2)八万四千塔 道八 江戸時代・19世紀

 

八万四千塔の基台裏(図3)
八万四千塔の基台裏(図4)

 

八万四千塔の基台裏(図5)
八万四千塔の基台裏(図6)

 

ところで、たくさんの塔が造られた事例としては、称徳天皇(718~770)による「百万塔(ひゃくまんとう)」(図7)の造立が挙げられます。
藤原仲麻呂の乱(764年)によって多くの血が流れたことを受けて、その鎮魂と滅罪のため、『無垢浄光大陀羅尼経(むくじょうこうだいだらにきょう)』の教えに基づき、世界最古級の印刷物とされる陀羅尼を納めた塔が百万基造立され、奈良及びその周辺の10の寺院に10万基ずつ納められました。
現在はそのうち、奈良・法隆寺に納められたものが、法隆寺に遺る4万基余りをはじめ各地に所蔵されています。法隆寺にだけ遺った理由は定かではありませんが、法隆寺には奈良時代の「鋸(のこぎり)」(図8)や「鎌」(図9)のような道具類も近代まで伝わっており、ものを大切に保管する習わしがあったのかもしれません。


(図7)百万塔 奈良時代・宝亀元年(770)
画像左端(H-1183)は川住三郎氏寄贈

(図8)重要文化財 鋸 奈良時代・8世紀
法隆寺宝物館第4室「木・漆工-武器・武具」にて展示
(図9)重要文化財 鎌 奈良時代・8世紀
法隆寺宝物館第4室「木・漆工-武器・武具」にて展示

 

王侯貴族のような権力者は、経済力や権力で多くの作善を行うことができましたが、いつの時代も何かをなすにはお金の問題がつきまといます。
「お金はないけどたくさんの塔を造って善行を積みたい」ということで作られたのが、土で造られた塔「泥塔経(でいとうきょう)」(図10)です。型抜きで作った塔形に『法華経(ほけきょう)』の経文(きょうもん)の一文字と地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の種子(しゅじ)、カを表したもので、鳥取県の智積寺(ちしゃくじ)経塚から出土したものが各地に多数伝わっています。『法華経』はおよそ7万字ですので、それだけの数が作られたのかもしれません。

(図10)泥塔経 鳥取県東伯郡琴浦町智積寺 智積寺経塚出土 室町時代・15世紀 道祖尾萬次氏寄贈

この他、1089ブログ「舎利を祀る塔」でも紹介した「穀塔(もみとう)」(図11)も、多くの人が仏縁を結びやすいように、木と籾(もみ)とで作られたもので、奈良・室生寺(むろうじ)や奈良・元興寺にも多くの籾塔が伝わっています。


(図11)穀塔 鎌倉時代・13~14世紀 植原銃郎氏寄贈


『法華経』の「方便品(ほうべんぼん)」には「どんな塔を造ることも悟りに繋がる」と説かれています。そしてそれらは多い方がより功徳(くどく)も大きいと考えられました。そうした教えやアショーカ王の「八万四千」の故事などによって、想像を絶するような多くの塔が造られ、供養(くよう)されたのです。

ところで、それらの塔はどこに行ってしまったのでしょうか。法隆寺に遺る百万塔(それでも半分以上は消滅?)を除くと、これほどたくさん造られた塔もほとんどが失われてしまったことに気付きます。
改めて、現在我々が、こうした先人の善行を目の当たりにできる奇跡を、思わずにはいられません。

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 清水健(工芸室) at 2024年02月21日 (水)

 

見て触って学べる! 特集「親と子のギャラリ― 中尊寺のかざり」

建立900年 特別展「中尊寺金色堂」(2024年1月23日(火)~4月14日(日))と足並みをそろえて、特集「親と子のギャラリ― 中尊寺のかざり」(2024年1月23日(火) ~ 3月3日(日))が本館特別2室ではじまりました。
この特集は、子どもから大人までを対象に美術作品やそのつくり方に興味や関心を深めることを目的にしています。
今回は特別展にあわせ「中尊寺のかざり」をテーマにしました。
 
金色に光り輝く美しさで著名な中尊寺金色堂は「光堂」、「皆金色」とも形容されますが、その輝きに彩りを与えているのが、螺鈿(らでん)や金工の技法(つくり方)です。
今回の展示では、中尊寺に伝来する荘厳具(しょうごんぐ)や仏具を対象に螺鈿と金工のつくり方に注目して展示を構成しています。
 
展示品は復元模造品と制作工程見本が占めています。その意図は復元模造品や、制作工程見本だからこそわかることがたくさんあるからです。
復元模造品は制作にあたって制作対象と同じ材料や同じ技法で復元することによって、制作対象そのものを深く知ることができます。
また多くの調査分析、検討を踏まえて作られた復元模造品は制作当初の様子をよく表しています。
さらに制作工程見本は、制作にあたって使用される材料や道具、技法を時系列にそってより詳しく知ることができる利点があります。
 

螺鈿八角須弥壇(模造)
小西美術工藝社制作 平成4年(1992)
原品:平安時代・12世紀 木製漆塗 岩手・中尊寺大長寿院所蔵
*須弥壇の側面には、蓮の花にのる迦陵頻伽、その周りを飾る雀や孔雀などが、金工や螺鈿の技術(つくり方)で表現されています。

螺鈿工程見本
小西美術工藝社制作 平成4年(1992)
原品:平安時代・12世紀 木製漆塗 岩手・中尊寺大長寿院所蔵
*丹精込めて作られた様子は工程数にも表れています。
今回の展示に合わせて新たに中尊寺金色堂の須弥壇を飾る孔雀の制作工程見本とハンズオンを作成しました。
実寸大の孔雀の制作工程見本は、制作道具と一緒に展示しています。
また孔雀を留める敷板の大きさは須弥壇の区画と同じ大きさに揃えたので、須弥壇の大きさを想像しながらご覧いただければと思います。
 

中尊寺金色堂内観

今回の制作対象となった中央壇の格狭間に飾られた孔雀(赤枠拡大図)
展示風景
*材料の銅から完成まで8工程で孔雀の制作工程を展示しています
 
また中尊寺と同時代の獅子螺鈿鞍を例にあげ、「漆の飾り 螺鈿」というタイトルで螺鈿のつくり方(制作工程)を示す動画と触察ツールを作成しました。
動画は手話入り日本語版と英語版を上映し、触察ツールは日本語と英語に加えて点字でも解説を用意しています。
制作が進むにつれて現れる獅子の姿とともに輝きをましていく螺鈿、見て触れてお楽しみいただければと思います。 
 
重要文化財 獅子螺鈿鞍 平安~鎌倉時代・12~13世紀 嘉納治五郎氏寄贈 東京国立博物館蔵


動画「漆の飾り 螺鈿」
 
触察ツール「漆のかざり 螺鈿」
 
この展示を楽しむために、仏さまを飾るもよう探しのリーフレットを用意しました。
もようの役割や意味を学びながら、この特集展示や特別展「中尊寺金色堂」はもちろんのこと、本館1階11室の彫刻や2階1室・3室の仏教の美術の展示をご覧になる際にもご活用いただければと思います。
 
 

リーフレット「仏さまをかざるものたち」

この特集の意図は多くの方が中尊寺のかざりに興味や関心をもつきっかけをつくること。
オンラインでも一部楽しめますが、ぜひ会場で体感いただければと思います。
本特集の会期は特別展より1か月短い3月3日(日)までです。みなさん、お見逃しのないように。
 

カテゴリ:教育普及特集・特別公開工芸「中尊寺金色堂」

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posted by 品川 欣也(教育普及室) at 2024年02月16日 (金)

 

舎利を祀る塔

2月15日は何の日でしょう。バレンタイン・デーの次の日?
かつて多くの男子が落涙した日かもしれませんが、大昔違う涙の流れた日です。
それは仏教を開いた釈迦の命日。

今からおよそ2,400年前(一説に2,500年前)に、インドのクシナガラというところのガンジス川の支流の畔、沙羅双樹(さらそうじゅ)の間で、北を枕にして人間・ゴータマ・シッダールタは80年の生涯を閉じました。その様子は「仏涅槃図(ぶつねはんず)」(図1)に描き継がれており、釈迦の死を悼んで泣き咽(むせ)ぶ弟子や信徒、動物の姿が描かれています。旧暦の15日のことなので、空には満月が輝き、皓々(こうこう)と釈迦の亡骸を照らしています。その後釈迦は荼毘(だび)に付されました。


(図1)重要文化財 仏涅槃図(ぶつねはんず) 
平安時代・12世紀
本館3室「仏教の美術―平安~室町」にて2月18日(日)まで展示


因みに、釈迦の死は多くの物語を伴っており、金色の棺に納められ、天から死を悼んで降りてきた母・摩耶夫人(まやぶにん)に対し、甦って説法をした話(金棺出現)や、火葬後に残った遺骨を、釈迦を慕う八つの部族が分け合って塔に祀(まつ)ったという話(分舎利)などが知られています。金色の棺に北枕というと、現在本館1階特別5室で開催中の特別展「中尊寺金色堂」にて展示されている藤原清衡(ふじわらのきよひら、1056~1128)の「金箔押木棺(きんぱくおしもっかん)」(重要文化財)の事例を思い出します。金色に輝く棺(図2)。何か関係があるのでしょうか。



(図2)重要文化財 金箔押木棺 
平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
建立900年 特別展「中尊寺金色堂」(~4月14日(日))にて展示

それはさておき、先に述べたように、釈迦の遺骨は舎利と呼ばれて大切にされ、信徒によって分けられ、塔に祀られたとされています。舎利というと、お寿司のお米の部分が思い浮かぶかもしれませんが、形が似ていることに加え、お米が一粒一粒に至るまで大切にされたことから、そう呼ばれるようになったのではないでしょうか。

舎利を祀る塔は、インドに端を発し、中央アジア、中国、朝鮮半島を経て、飛鳥時代には日本に伝わりました。
『日本書紀』には、敏達天皇十三年(584)に渡来人の司馬達等(しばたっと)が食器の中に舎利を発見し、これを献上された蘇我馬子(そがのうまこ、?~626)が塔を建立(こんりゅう)して祀ったことが記されています。
私も子供の頃にご飯を食べていて、石のようなものに出くわしたことがありますが、捨ててしまいました。今思えばあれは舎利だったのかもしれません。残念。
その後蘇我馬子によって建立された法興寺(飛鳥寺)にも百済(くだら)からもたらされた舎利が塔の心礎に納められました。この辺りが我が国の舎利信仰の始まりです。

舎利は司馬達等のように急に出現することもありましたが、インドが本場なので、より本場に近いところで入手されたものが由緒あるものとしてありがたがられました。
高名なのは、戒律の作法を伝えた中国の僧・鑑真(がんじん)和上(687~763)がもたらした奈良・唐招提寺の舎利3,000粒と、弘法大師空海(774~835)が、大同元年(806)に唐から帰国した際にもたらした京都・東寺の舎利80粒です。
いずれも中国直伝の品で、インド(天竺)がどうしたら行けるのかわからないような遙かな憧れでしかなかった時代に、由緒正しい舎利として革命的に尊崇されたことと思われます。唐招提寺の舎利は金亀舎利塔(きんきしゃりとう)に、東寺の舎利は金銅舎利塔(こんどうしゃりとう)に、今も大切に祀られています。

鎌倉時代に入ると、平安時代の末に源平合戦の煽(あお)りで焦土と化した奈良で寺院の復興が本格化し、それとともに仏教の原点である釈迦に回帰しようという考えが盛んになりました。そのため舎利が尊崇され、これを安置する多くの舎利容器が作られ、礼拝(らいはい)されるようになりました。現在多くの作例が残るのは、鎌倉時代以降になります。そして舎利への信仰はその後も続き、江戸時代に至るまで多くの舎利容器が作られています。

そうした中で、舎利を塔に納める作法は、その後小さな塔を作ってそこに納めたり、塔自体を舎利に見立てて礼拝するようになっていったようです。
本館14室で開催中の特集「塔と厨子(ずし)」(1月16日(火)~2月25日(日))にはそうした舎利を祀る塔を展示しています。

薬師寺に伝わる「金銅舎利塔(こんどうしゃりとう)」(図3)は江戸時代の作で、宝塔の中に舎利を納めた火焔宝珠形(かえんほうじゅがた)の容器を納めています。塔と舎利との関係性を伝える一例です。なお、この舎利塔には扉に四天王を描いた厨子が伴っていて、舎利=釈迦を仏教の守護神がしっかりと護るように作られています。


(図3)金銅舎利塔 
江戸時代・17世紀 奈良・薬師寺蔵


塔の中でも、平安時代の後半に密教の教えによって創造された五輪塔(世界を構成する五大要素である地・水・火・風・空を形にしたもの)は多くの遺例があります。五輪塔形舎利容器では、下から2段目の円い水輪に舎利を納めるものが多く作られました。「金銅装水晶五輪塔形舎利容器(こんどうそうすいしょうごりんとうがたしゃりようき)」(図4)では、水晶製の容器の中に舎利が納められているのが見えます。


(図4)金銅装水晶五輪塔形舎利容器 
室町時代・15世紀


また「水晶五輪塔(すいしょうごりんとう)」(図5)は高さ4センチメートルほどの小さな塔ですが、水輪に舎利が納められるようになっています。八角形のこうした小塔は、真言宗の一派である真言律宗を開いた奈良・西大寺の僧・叡尊(えいそん、1201~90)の教えが反映した可能性が指摘されています。


(図5)水晶五輪塔 
静岡県沼津市本出土 鎌倉時代・13世紀


密教の祈祷に用いられる五種鈴(独鈷鈴、三鈷鈴、五鈷鈴、宝珠鈴、宝塔鈴の5点)という組の法具があります。その中でも中心的な役割をなす宝塔鈴には舎利が納められることがありました。「金銅塔鈴(こんどうとうれい)」(図6・7)はそうした一例で、先端の塔の部分が外れるようになっています。ここに舎利を納めて祈祷を行ったと考えられます。

 

(図6)金銅塔鈴 
鎌倉時代・13世紀(E-19885)
(図7)金銅塔鈴(E-19885) 
塔を外した姿

 

少し変わったところでは、密教で用いられた能作生塔(のうさしょうとう)があります。中世日本の密教では、願いを叶える不思議な力を持つ玉である宝珠(ほうじゅ)と舎利とが同じものであると考えられたため、宝珠を通じて舎利が信仰されました。能作生珠という香木などを漆で練って作った魔法の玉を納めた能作生塔の代表的な遺例である奈良・長福寺の国宝「金銅能作生塔(こんどうのうさしょうとう)」(図8)は、インドで舎利容器として用いられたという水瓶(すいびょう)の形をしています。
真ん中の円い部分が上下に開閉できるようになっていて、ここに魔法の玉(これは絶対に見てはならない!)を入れて礼拝したと考えられます。上端には宝珠があしらわれ、一層神秘な趣を掻き立てています。


(図8)国宝 金銅能作生塔 
鎌倉時代・13世紀 奈良・長福寺蔵


能作生塔のような特殊なものがある一方、籾塔(もみとう)といって、木製の小塔に籾を入れて祀った塔もあります。作るのに手間や費用がかからないので、庶民も含めて大量に作られ、お寺の堂内などに安置されました。「穀塔(もみとう)」(図9)はその一例で、底の裏に籾が入れられるようになっています。籾は脱穀する前の殻の付いたお米のこと。お米を舎利ということと、こんなところで結びついているのかもしれません。


(図9)穀塔 
鎌倉時代・13~14世紀 植原銃郎氏寄贈


さて、舎利塔は日本だけでもかなりたくさん作られていますが、舎利はそんなにたくさんあったのでしょうか。
これは難しい問題ですが、例えば東寺の舎利は、数えてみると知らないうちに増えている(減っている)ことが『東宝記』という南北朝時代の東寺の歴史を記した書物に書いてあります。世の中が平和だと舎利は増えるのだとか。
舎利がどんどん増えるような世の中が続けばいいのにと改めて思いました。


本館14室 特集「塔と厨子(ずし)」の展示風景

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 清水健(工芸室) at 2024年02月14日 (水)

 

大聖寺藩伝来の能面をみる

現在本館14室では、特集「大聖寺藩(石川県)前田家伝来の能面」(2024年1月14日(日) まで)を開催しています。


本館14室 展示風景

その中から見どころをいくつかご紹介します。

加賀100万石で知られる加賀藩の支藩が大聖寺藩(だいしょうじはん)です。
加賀藩主前田利常(としつね)の三男を初代藩主とした大聖寺藩は小さな藩でしたが、
加賀藩と足並みを揃え能楽が盛んで、特に能楽の流派のひとつである宝生流(ほうしょうりゅう)と深いつながりがありました。
そのため大聖寺藩伝来の面には、宝生家の能面の写しが多数含まれています。

能面 節木増(ふしきぞう) 「宝生大夫/良重(花押)」金字銘 江戸時代・18世紀 文化庁

 

これは大聖寺藩に伝わった、増女(ぞうおんな)という種類の面です。
鼻の付け根左側、左目眼頭との間に茶色のしみが見えます。
ちょっと近づいてじっくりしみを見てください。


能面 節木増(部分)

このしみは自然な汚れではなく、作為的に描いたものであることがわかるはずです。
なぜそんなことをしたのでしょうか。

実はこの増女は、宝生家の名物面「節木増」の写しで、このしみはその節木増にあるものなのです。
宝生家の節木増のこのしみの部分には、面の材である木の節(ふし)があります。
木の節からにじみでた樹脂がこのようなしみとなり、そのため「節木増」と呼ばれています。

この名物面の名の由来ともなったこのしみは重要な要素だったので、写す際にはあえて描いたわけです。
大聖寺藩の節木増の面裏、ちょうどこのしみの裏側には節を示すように穴がありますが、
これも本当の節の穴ではなく、あえて作られたものです。


能面 節木増(面裏・部分)

穴のまわりには「御命により家の増うつし上ル者也」と加賀藩の能の指南役を勤めていた宝生良重が署名しています。
宝生良重とは、宝生流9世友春(ともはる・1654~1728)のことです。
この節木増の写しは大聖寺藩主からの命令で作られたということでしょう。
樹種まで宝生家の節木増に合わせているところからも、非常に熱心に名物面の写しを請う大聖寺藩主の姿がうかがえます。


能面 節木増(面裏・「御命により家の増うつし上ル者也」と書かれた部分)

 

こちらの面をみて驚く方も多いのではないでしょうか。
灰色と茶色のしみがたくさんあり、何とも不思議な面です。

能面 怪士(あやかし)(木汁怪士・きじるあやかし)  江戸時代・18~19世紀 文化庁

これも節木増同様、木の脂によるしみなので「木汁怪士」と呼ばれる宝生家の名物面の写しです。
ただし、灰色のしみは宝生家の面に見られるものですが、茶色のしみはありません。
茶色のしみは大聖寺藩に伝わった面の材から樹脂が出たもので、本物のしみなのです。
特徴のある毛描きなど、丁寧に宝生家の名物面を写していますが茶色の樹脂は想定外のことでしょう。
宝生家の木汁怪士とは雰囲気が変わってしまったかもしれませんが、そのことを大聖寺藩の人々はどうとらえていたのか、興味がわいてきます。

 

今度は反対に、大聖寺藩の面の写しを宝生家が持っているという例をご紹介しましょう。

能面 老女(ろうじょ) 室町時代・15~16世紀 文化庁

 

この面は老女といいます。大聖寺藩に伝わったもので室町時代の作でしょう。
この老女とそっくりな面が宝生家にもあり、前田備後守(びんごのかみ)家のものを写したことが記録されています。

備後守には大聖寺藩第4代藩主利章(としあきら)、6代利精(としあき)、9代利之(としこれ)が任じられていますが、前田氏が治めていた加賀藩や富山藩には備後守に任じられた人物はいません。
そのため、宝生家の老女は大聖寺藩の老女を写したものだとわかるのです。
宝生家が写しを求めるほどの面が、なぜ大聖寺藩にあったのかなど謎もまだまだ多く残されています。

大聖寺藩にはほかにも宝生家の能面の写しはたくさんあり、また、能楽の他の流派である金春家(こんぱるけ)や観世家(かんぜけ)の面の写しもあります。
多くの能面を収集する中で、名物面の写しは流派を越えて求めたのかもしれません。

あえて写した傷は、肉眼でもわかるものがあります。
能面を見るときに、作為的につけられた傷があれば、その面は写しかもしれません。
傷も含めた面の魅力が、その写しを求め、また手間をかけ細やかに写す動機になったのでしょう。
じっくりと見ながら面の魅力を感じてください。
 

カテゴリ:特集・特別公開

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posted by 川岸 瀬里(ボランティア室長) at 2023年12月07日 (木)

 

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