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特集「明治150年記念 書と絵が語る明治」 第2部 描かれた明治

「ホンモノそっくりな絵」というのは、今でも絵画をほめるときの決まり文句の一つです。
今回の展示(特集「明治150年記念 書と絵が語る明治」、2018年7月10日(火)~9月2日(日))にも作品を紹介している平木政次は、師匠であった五姓田芳柳・義松親子が浅草寺境内で開いた西洋画の見世物の様子について、このように回想しています。西洋画を初めて目にした明治の人々にとっては、私たち以上にホンモノそっくりと受け取ったことでしょう。

箱根 平木政次筆 明治27年(1894)
箱根 平木政次筆 明治27年(1894)

朝顔 横山松三郎筆 明治12年(1879)
朝顔 横山松三郎筆 
明治12年(1879)


見物人は成程と感心して、「画がものを云いそうだ」とか「今にも動き出しそうだ」とか「着物は、ほんものの切れ地だろう」とか「実に油画と云うものは、不思議な画だ」と口々に驚きの声を発して居りました。(平木政次『明治初期洋画壇回顧』)




「画がものを云いそう」な西洋画の中には、有名な高橋由一の「鮭」もありました。明治絵画の傑作とされる「鮭」も最初はいわば「だまし絵」だったわけです。横山松三郎「朝顔」も同じような趣向の作品で、細長い板にあたかも実際に蔓が巻き付いているように朝顔が描かれています。写真師として知られる横山は写真でも朝顔のさまざまな表情を写しており、彼にとっては、対象を表現するための技術として絵画と写真が等しい価値を持っていたことがわかります。


明治の庶民を驚かせた五姓田一族や高橋由一の絵は、実際の油画を見る機会もほとんどなく、道具や材料にも不自由なまま、乏しい情報をもとに自ら工夫を重ねたものでした。洋画の理論や技法自体、西欧の科学や技術を基礎としているので、体得しようとすれば系統的な教育が不可欠です。産業振興を担当していた工部卿伊藤博文は留学経験があるだけに、よくわかっていました。伊藤がイタリア外交官の進言を受けて明治9年(1876)に設けたのが工部美術学校です。教師もイタリア人が3名招かれました。フォンタネージ(絵画)、ラグーザ(彫刻)、カペレッティ(建築)で、いずれも当時のヨーロッパでも第一線の専門家です。

風景(不忍池) アントニオ・フォンタネージ筆 明治9~11年(1876~78)
風景(不忍池) アントニオ・フォンタネージ筆 明治9~11年(1876~78)

 

美術学校は、きちんとしたカリキュラムとカンバス、用紙、絵具など豊富な材料を取りそろえたので、特に絵画ではそれまで独学していた画家たちも含め、続々とここで学ぶようになりました。フォンタネージは浅井忠、小山正太郎、松岡寿、山本芳翠といった後に明治を代表する画家となる弟子たちとともに、画題を求めて東京のあちこちを歩きました。東京帝国大学工学部を経て、現在当館が所蔵する「風景(不忍池)」もそのような折のスケッチがもとになっているのでしょう。

 

特集「明治150年記念 書と絵が語る明治」チラシ

特集「明治150年記念 書と絵が語る明治」
2018年7月10日(火)~9月2日(日)
本館 特別1室・特別2室

第1部 明治の人と書(ブログ
第2部 描かれた明治

特集「明治150年記念 書と絵が語る明治」ビジュアル

特集「明治150年記念 書と絵が語る明治」
2018年7月10日(火)~9月2日(日)
本館 特別1室・特別2室

第1部 明治の人と書(ブログ
第2部 描かれた明治
 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 田良島哲(博物館情報課長) at 2018年08月08日 (水)

 

特集「江戸の仏像から近代の彫刻へ」

彫刻担当の西木です。
今年、2018年は明治維新から150年を記念する年として各地で関連行事が行われていますが、トーハクでもさまざまな関連展示を開催しております。日本彫刻といえば、みなさまは仏像を想起されると思いますが、仏像の歴史のなかでも明治維新はとても大きな転換点となりました。
そこで、収蔵品と寄託品のなかより江戸時代から明治以降の彫刻作品を選び出し、その転換点についてご覧いただこうと企画したのが本特集「江戸の仏像から近代の彫刻へ」(2018年7月10日(火)~9月30日(日)、本館14室)です。

本館14室の特集展示の様子
本館14室 特集展示の様子

そもそも、江戸時代の彫刻といっても、あまりみなさまにはなじみがないかもしれません。歴史の教科書や仏像の入門書では、鎌倉時代で記述が終わってしまうことが多いので…
しかし、鎌倉時代以降も仏像を造る需要は途切れることなく、むしろ制作された総量としては飛躍的に増大したと考えられます。鎌倉時代までは時代ごとに個性的な仏像のスタイルが考案されてきましたが、江戸時代はむしろ鎌倉時代風を洗練させていくことで、人々の信仰を集める仏像が造られたようです。

薬師如来坐像 釈迦如来坐像
写真左:薬師如来坐像 旧寛永寺五重塔安置 江戸時代・寛永16年(1639) 東京都蔵
写真右:釈迦如来坐像 康乗作 江戸時代・寛文4年(1664) 東京・寛永寺蔵


なかでも、江戸幕府や皇室関係の造仏を担った御用仏師である七条仏師の仏像は、鎌倉風を基調とした瀟洒(しょうしゃ)な姿が特色です。


一方で、円空や木喰といった、仏像制作も行う僧侶も注目を集めています。

如来立像 木喰自身像
写真左:如来立像 円空作 群馬・光性寺旧蔵 江戸時代・17世紀 鴇田力氏寄贈
写真左:木喰自身像 木喰作 江戸時代・享和4年(1804) 吉沢政一郎氏寄贈



目黒区にある五百羅漢寺には、松雲元慶(しょううんげんけい)という黄檗宗の僧侶がひとりで造りあげたとされる羅漢の群像が安置されており、今でも300体以上の羅漢が伝わっています。

羅漢坐像 羅漢坐像
羅漢坐像 松雲元慶作 江戸時代・元禄8年(1695) 東京・五百羅漢寺蔵

顔立ちや体つきは異国風で、七条仏師の仏像と比べるとさまざまな違いがあるので、ぜひ展示室で見比べてください。


こうして盛んに仏像が造られていた江戸時代ですが、明治になって大きな変化を迎えることになりました。それは明治元年の神仏判然令(神仏分離令)を皮切りに、数年続くことになる廃仏毀釈と呼ばれる仏教排斥運動です。江戸時代までは、神仏習合の言葉に象徴されるように、神道と仏教は融合しながら共存してきました。ところが、明治天皇を中心とした神道国家の樹立をもくろんだ明治政府の出した法令により、神道と仏教の分離が強制されたばかりか、これまで幕府によって庇護されてきた仏教が批判の対象となったのです。

唐招提寺の破損仏
唐招提寺の破損仏

興福寺の破損仏

これにより、寺院領地の没収、僧侶の僧籍はく奪はもちろん、寺院の廃絶や仏像、経典類の破却が相次ぎました。こうした日本文化の破壊ともいえる状況を心配した政府は、すぐに古器旧物保存方と呼ばれる、文化財保護の法令を出すとともに、博物館や美術学校を設置し、美術行政に舵を切っていったのです。しかし、当時すでに仏像を造る仕事が激減していた仏師たちは、転職か廃業を余儀なくされていました。

そのひとりが高村光雲です。今日では彫刻家として名高い光雲ですが、もともと仏師として生計を立てていました。光雲の師匠の、そのまた師匠は、幕末の四巨匠と呼ばれた高橋鳳雲です。ちなみに、鳳雲の弟宝山の作品も当館で所蔵しています。

蝦蟇仙人像 老猿
写真左:蝦蟇仙人像 高橋宝山作 江戸時代・19世紀  ガマガエルを手なづける、蝦蟇仙人を生き生きと表しています。
写真右:重要文化財 老猿 高村光雲作 明治26年(1893) シカゴ・コロンブス世界博覧会事務局 ※2018年9月9日(日)まで本館18室にて展示


当時、金属製品の原型制作や象牙彫刻に転身していく同業者が多いなか、かたくなに木彫にこだわって仕事を続けていた光雲は、東京美術学校の幹事をしていた岡倉天心に見出され、木彫科の教授として招かれます。その代表作、米国・シカゴ万博に出品された「老猿」を見ると、その巨大さと写実的に表された屈強な猿の力強さに圧倒されますが、台座ごと彫り出され、大胆に身をよじったところなど、意外と共通点もあります。

そんな光雲は多くの弟子や学生に恵まれましたが、天心は彼らに彫刻作品の模造を命じます。それはなぜでしょうか。

執金剛神立像 月光菩薩立像
写真左:執金剛神立像(模造) 竹内久一作、原品=東大寺法華堂蔵 明治24年(1891)、原品=奈良時代・8世紀 ※ 現在展示しておりません
写真右:月光菩薩立像(模造) 竹内久一作、原品=東大寺法華堂蔵 明治24年(1891)、原品=奈良時代・8世紀 ※ 現在展示しておりません


理由のひとつに、開設されたばかりの博物館(当時のトーハク)には、まだまだ展示作品が少なく、おまけに当時はまだ奈良や京都などに集中する名品を自由に見られる環境が整っていなかったため、その代替であったことが挙げられます。

旧本館の彫刻展示室
旧本館の彫刻展示室
旧本館の彫刻展示室
旧本館の彫刻展示室

もうひとつの理由として、過去の名品を模造することで、その古典学習や技術習得が期待されたのです。彫刻を学んだ学生たちにとって、仏像は生計をたてるために造るものというだけでなく、新たな創造のインスピレーションの源ともなったのでした。

龍頭観音像 龍頭観音像
龍頭観音像 佐藤朝山作 昭和時代・20世紀 山田徳蔵氏寄贈

法隆寺の国宝 救世観音菩薩立像(飛鳥時代・7世紀)に魅せられ、終生その形を反復して再現した佐藤朝山(ちょうざん)の龍頭観音像を見ると、華麗な彩色と優雅な雲龍の表現に、近代彫刻としても命脈を保った仏像のもうひとつの姿を見ることができるでしょう。

もちろん、当時も、そして今日に至るまで職業としての仏師はなくなっていませんし、いうまでもなく仏像は信仰の対象であり続けています。しかし、明治維新という大きな変化を経験したことで、仏像は近代的な美意識のもと美術鑑賞の対象ともなり、文化財としての意義も認められるようになりました。

ぜひ本特集展示をとおして、こうした彫刻史の1ページをご体感いただければ幸いです。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ仏像特集・特別公開

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posted by 西木政統(貸与特別観覧室研究員) at 2018年07月20日 (金)

 

特集「明治150年記念 書と絵が語る明治」 第1部 明治の人と書

小学校の社会科でとりあげられる明治時代の人物をごぞんじでしょうか。
勝海舟西郷隆盛大久保利通木戸孝允、明治天皇、福沢諭吉、大隈重信、板垣退助、伊藤博文、陸奥宗光、東郷平八郎、小村寿太郎、野口英世に、明治時代ではありませんが、近代へのきっかけを作った人物としてアメリカの海軍軍人ペリーをあわせて14人について、多くの小学校6年生が学習しています。
今回の特集「書と絵が語る明治」(2018年7月10日(火)~9月2日(日))では、このうち下線を引いた5人の筆跡を本館 特別1室で展示しています。

戊辰作詩 勝海舟筆
戊辰作詩 勝海舟筆 
明治時代・19世紀


勝海舟は、江戸幕府の旗本の家に生まれ、青年時代にオランダ語(蘭学)を学んだことから幕府の中で頭角を現し、西洋式の海軍を創設しました。戊辰戦争では敗色濃厚な幕府の代表者として、江戸に迫る新政府軍との交渉にのぞみました。展示している詩は、その折の心のうちを詠んだもので、危機に対応できない幕府の役人に対する怒りと時代の流れにはさからえないというあきらめの気持ちがあらわれています。


この時、新政府軍を代表して勝と話し合い、江戸の開城を導いたのが西郷隆盛であることは、よく知られています。西郷は薩摩藩の下級藩士の家に生まれました。開明的な藩主島津斉彬に仕えて、当時の世界情勢に目を開かれますが、斉彬が死去した後に藩の実権を握った島津久光に憎まれて、二度にわたり流刑の目にあいます。この時期の苦労も影響したのでしょう、体面を飾らず、私心のない西郷の人柄に心服する者は多く、後に西南戦争で敵味方となった政府軍の軍歌「抜刀隊」でさえ「我は官軍、我が敵は天地容れざる朝敵ぞ 敵の大将たる者は古今無双の英雄で」と歌うほどでした。

「敬天愛人」は西郷の思想を表わす言葉として有名で、西郷自身の筆跡もいくつか残されています。今回の展示品は昭和14年(1939)に西郷の甥(隆盛の弟従道の次男)である侯爵西郷従徳氏から東京帝室博物館に寄贈されたものです。

額字「敬天愛人」 西郷隆盛筆
額字「敬天愛人」 西郷隆盛筆 明治時代・19世紀 西郷従徳氏寄贈

 


大久保利通は西郷より2歳年下ですが、鹿児島城下のとても近い場所で生まれました。幕末には西郷とは逆に、島津久光の下で京都や江戸の政治に関わり、新政府を立ち上げるのに大きな役割を果たしました。維新後は常に政権の中心にあって、出発したばかりの近代国家日本が当時の世界の中で生き延びてゆくための外交と、国を豊かにするための産業の振興に力を注ぎました。

展示している漢詩は、明治7年(1874)に起こった台湾での琉球人殺害事件とその後の日本から台湾への出兵をめぐる外交交渉で清国に派遣された大久保が、交渉が妥結した後に詠んだもので、中国製の紙に書かれています。新国家を興そうとして十年、隣国との友好と内政の安定を願う気持ちが述べられています。

七言絶句 大久保利通筆
七言絶句 大久保利通筆 江戸~明治時代・19世紀 馬嶌瑞園氏寄贈

七言絶句 木戸孝允・杉孫七郎筆
七言絶句 木戸孝允・杉孫七郎筆 
明治時代・19世紀 長浜鉄弥氏寄贈


明治4年冬、右大臣岩倉具視を正使(団長)とする外交使節団が横浜を出発してアメリカに向かいました。この時の副使として大久保、木戸孝允、伊藤博文が同行していました。全部で100名以上が参加したこの使節団は米国とヨーロッパ各国を巡り、最新の近代文明に大きな衝撃を受けて明治6年に帰国しました。
この時のメンバーたちの経験は、その後の日本の政治や経済、文化などに大きな影響を与え、後に「岩倉使節団」と呼ばれました。

蒸気船のスケッチが珍しい2枚の書。上は木戸孝允(桂小五郎)が、下は木戸と同郷の官僚で書家としても知られた杉孫七郎(聴雨)が書いたものです。木戸の漢詩は岩倉使節団の帰国の際、郷里の「馬関山」(関門海峡)を望んだ際に詠んだ作で、「火輪は矢の如く波を截りて還る」(蒸気船は矢のように波を切り裂いて国に帰ってきた)という一句が新しい時代を示しています。


伊藤博文は西郷、大久保、木戸といった第一世代の政治家たちが世を去った後、長い期間にわたって政府を支えました。伊藤は「春畝」という優雅な号を持ち、漢詩や和歌も上手でした。書は少し無骨なふんいきがありますが、個性的です。
展示作品は明治30年に金沢(横浜市)にあった別邸で詠んだ詩を書いたものです。現在、横浜市野島公園の中に建物が復元されています。

七言律詩 伊藤博文筆
七言律詩 伊藤博文筆 明治時代・19世紀


ここに紹介した作品の画像は「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)」から利用いただくことができます。特に手続きをとることなく使うことができますので、気に入った作品をSNSで拡散したり、印刷して夏休みの課題に使ったりと、ご自由に活用してください。


ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム
 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 田良島哲(博物館情報課長) at 2018年07月19日 (木)

 

なりきると、びじゅつはどんどん楽しくなる、らしい!

トーハク×びじゅチューン! なりきり日本美術館 ロゴ


夏休み恒例の親と子のギャラリー、今年はNHK Eテレ「びじゅチューン!」とのコラボレーション企画です。びじゅつが大好きなみんなのために、「トーハク×びじゅチューン! なりきり日本美術館」(2018年7月24日(火)~9月9日(日))が、この夏、トーハクに期間限定でオープンします。

「びじゅチューン!」は、アーティストの井上涼さんが世界の「びじゅつ」を歌とアニメーションで紹介する番組。自由な想像力で美術の楽しみを広げてくれます。
今回の親と子のギャラリーは、「びじゅチューン!」に取り上げられているトーハク所蔵の作品をテーマに、複製や映像を使った体験型の展示です。キーワードは「なりきり」。絵に登場する人や、絵を描いた人になりきって、びじゅつの中で遊んでみましょう。

展示の始まる7月24日まで待てない人のために、今日はその中身をひとつだけご紹介します。
みなさんご存じの葛飾北斎による「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」。大きな波と富士山の、あの絵です。

冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏 葛飾北斎筆
冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏 葛飾北斎筆

舟に乗った人のサイズと比べて見ると、「この波、どれだけ大きいんだ?!」と思いませんか? 「びじゅチューン!」では、「ザパーンドプーンLOVE」という曲で、富士山に恋した波が、大きく伸びあがってアピールしています。この作品のポイントである大迫力の波を、船乗りになりきって、リアルなサイズの映像で体感してみましょう!富士山への思いをさけぶと、声のボリュームに合わせて大きな波が起こります。

「体感!ザパーンドプーン北斎」 会場イメージ
「体感!ザパーンドプーン北斎」 会場イメージ

このほか、「見返りすぎてほぼドリル」の見返り美人になってみたり、「夢パフューマー麗子」の麗子になりきってみたり、楽しい企画が勢ぞろい。
本館18室の「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」(8月19日まで展示)、「麗子微笑」を始め、「びじゅチューン!」に関連したほんものの文化財も展示されます。
 

トーハク×びじゅチューン! なりきり日本美術館チラシ


親と子のギャラリー「トーハク×びじゅチューン! なりきり日本美術館」

2018年7月24日(火)~9月9日(日)
本館 特別4室・特別5室

詳しくはこちら

トーハク×びじゅチューン! なりきり日本美術館チラシ


親と子のギャラリー「トーハク×びじゅチューン! なりきり日本美術館」

2018年7月24日(火)~9月9日(日)
本館 特別4室・特別5室

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カテゴリ:教育普及特集・特別公開

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posted by 藤田千織(教育普及室長) at 2018年06月26日 (火)

 

特集「就任100年 帝室博物館総長森鷗外の筆跡」

平成24年(2012)の森鷗外生誕150周年に、特集として「帝室博物館総長森鷗外」(2012年7月18日(水)~9月9日(日) )を開催しました(リーフレット)。この展示の事前調査の副産物が鷗外の自筆手稿「上野公園ノ法律上ノ性質」(図1)です。罫紙で20ページに及ぶ長文の無署名手稿が鷗外自筆であることを、筆跡と当時の博物館をめぐる状況から突き止めたものです。鷗外の筆跡はどこにでもあるものではありませんから、新聞紙上でも大きく取り上げていただきました。

上野公園ノ法律上ノ性質
図1:上野公園ノ法律上ノ性質(部分) 森鷗外筆 大正9年(1920)

眼が慣れた、というのでしょうか、以来、館内のさまざまな資料を見ていると、鷗外の筆跡が見えてくるようになりました。『大蔵省商務局製品画図掛員考案図式』の表紙に書き込まれた「家具食器図案」の文字と鷗外の花押(図2)を見つけたのは、この資料を他館に貸し出すために状態のチェックをしていた時でした。博物館時代の鷗外の業績として知られる正倉院拝観資格の拡大について調べていて、拝観者の感想文を収録した『日本美術協会報告』の表紙(図3)に大きな鷗外の花押があるのを見た際には思わず「やっぱり読んでいたんですね、森総長!」と心の中でつぶやきました。

鷗外の文字「家具食器図案」
図2:書き込まれた鷗外の文字「家具食器図案」と花押

『日本美術協会報告』の表紙にある大きな鷗外の花押
図3:『日本美術協会報告』の表紙にある大きな鷗外の花押

しかし、何といってもいちばん印象深いのは『大正十一年京都奈良両館録』に残された、亡くなる三週間ほど前の短い一言です。同年6月14日、美術書『蕪村画集』が京都帝室博物館に寄贈された旨を報じる文書が東京に届きました。東京帝室博物館の事務官はただちにこれを館内で回覧したのですが、総長鷗外はいつもの決裁済みの花押の他に「一見シタシ」と書き入れたのです(図4)。実はこの画集は前の週に東京にも届いていて、書類上は総長による寄贈受け入れの決裁もされていたのですが、14日の時点でそれは鷗外の記憶になかったようです。

総長鷗外の決裁済み花押の他に書き入れられた「一見シタシ」の一言
図4:総長鷗外の決裁済み花押の他に書き入れられた「一見シタシ」の一言

健康が悪化していた鷗外は自分の死期が近いことをよく知っていたはずで、そんな中で「一見シタシ」と書いた心境は、どんなものだったのでしょう。実際、鷗外は翌日から病床につき、館に戻ることのないまま、7月9日にその生涯を閉じました。

この5年ほどの間に新たに見つけた鷗外の筆跡は、いずれも断片的なものですが、本人の日記や書簡、さらに同時代の資料をていねいに見比べてゆくと当時の鷗外、そして博物館の仕事の様子を少しずつ明らかにすることができます。今回の特集「帝室博物館総長森鷗外の筆跡」(2018年5月15日(火)~7月8日(日))を通じて、歴史的な資料を突き合わせて隠れた事実を解き明かしてゆく面白さを感じていただければ幸いです。

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 田良島哲(博物館情報課長) at 2018年05月29日 (火)

 

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