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『至宝とボストンと私』 #9 法華堂根本曼荼羅図

一番最初の展示室には、美しい仏画が並んでいますが、中でも一番奥の壁に展示されている一枚は抜きんでて貴重な作品とのこと。
『至宝とボストンと私』第9回目は、東洋室研究員の塚本麿充(つかもとまろみつ)さんと、もと東大寺の法華堂に伝わったという奈良時代の仏画、法華堂根本曼荼羅図(ほっけどうこんぽんまんだらず)を見てゆきます。

法華堂根本曼荼羅図
法華堂根本曼荼羅図 
奈良時代・8世紀



『仏画の根本。だから根本曼荼羅。』

広報(以下K):いきなりですが、この作品はどうして貴重なのか教えてください。

塚本(以下T):8世紀の仏画作品が、日本にどれくらいあるかご存知ですか?実はほとんど残っていないのです。さらに、8世紀の山水画がどんな風だったのかが分かる、世界でただ1つの作例ですので、本当に奇跡の一品と言っても過言ではありません。

この作品には大きく2つの魅力があります。
1つ目は仏様の端正なお顔立ち。

法華堂根本曼荼羅図 アップ

気品があり、若々しくハンサムで、胸がキュンとしてしまいます!

K:キュンですか…(-_-;)

T:これより後の時代になると、いわゆる「仏頂面」という、仏様のようなお顔になっていってしまうのですが。

K:仏様ですものね。

T:この作品が制作された当時、8世紀の日本は、東大寺などが創建され、「新しい国をつくるぞ!」という理想に燃えた時代でした。挫折を知らない、いわばロマンチックな時代です。
まさに国が盛り上がらんとするエネルギーに溢れていました。

K:行け行けどんどん!という勢いがあったのですね。

T:そうです。この作品からは、そういう力が感じられます。
体つきもピチピチして若い感じがするでしょう?

K: 確かに、はつらつとした印象をもちます。
2つ目の魅力はなんですか?

T:背景の山水画がすごいんです。

法華堂根本曼荼羅図 右上部分

法華堂根本曼荼羅図 右上部分
山々の稜線には緑青が使われており、色鮮やかであったことを彷彿とさせます。

この絵には、インドの霊鷲山(りょうじゅせん)という山で説法をするお釈迦様が描かれています。
当時の中国では、山それ自体を神聖なものとする憧れがありますので、お釈迦様が説法していらっしゃるこの山は、中国人にとってはただの山ではありません。
この作品が、その後発展する中国山水画のスタートだったといえます。

K:なるほど。第3章「静寂と輝き~中世水墨画と初期狩野派」の内容とリンクしますね。
でもどこにどのように山水画が描いてあるのかよく見えません…。

T:8世紀に描かれている作品ですから損傷も激しくて、はっきりと見ることは難しいのです。どうぞ心の目で見てみてください。

K:はっ!説法を聞いている気分になってきました!
(作品の左隣に、赤外線調査をした時の画像がありますので、山水画はそちらをご覧ください。)
ところで、「根本曼荼羅」の「根本」とはどういう意味なのですか?

T:作品の背面に、この作品が「法華堂根本曼荼羅図」と称される、という内容が書かれた銘文があります。
当時のお坊さんは、出来れば皆インドに行きたいですよね。しかし実際には行くことは出来ません。
でもこの作品をかければ、お釈迦様に出会えるわけです。鎌倉時代にはこの作品を写した作品もつくられます。
南都(奈良)の仏画の規範、「根本」となった作品だから「根本曼荼羅」というのです。

K:仏画の根本、というわけですね!貴重とおっしゃる意味がようやく分かりました。

T:奈良・大和文華館の初代館長、矢代幸雄氏はこの作品を見て、「磁石が鉄を引き付けるように、この作品に吸い寄せられてしまう」という言葉をのこしました。
その気持ち分かるなあ!あぁ、この作品をこんなに間近で見られるなんて、なんて素晴らしいんだろう!私は今回初めて本物を見たのですが、わしづかみにされましたね、キュンとしてしまってほんとに…(以下省略)。

仏画の展示室の様子


『奇跡の一品』

K:しかし、それほどまでに貴重な作品なのに、手放さざるを得なかった当時の日本の状況がしのばれます。
お客様のご意見でも、「こんなに素晴らしい作品が、今はアメリカにあるなんて」というご感想をよく目にします。

T:ここで重要なことがあります。
ビゲローがこの作品を購入したのは、たまたま安かったから買ったのではありません。この作品が、ビゲローやボストンにとって必要だったからです。
その地域の人がどういうものを守り、どういう文物を持っているのか、作品の収集は地域の人のアイデンティティーを形作ることにもつながります。
今もボストン美術館に行くと、たくさんの人が東洋美術の展示室で熱心に作品に見入っている姿に出会います。東洋の美術や、それによって表されている何かが、アメリカの社会にとって必要なものだったんだなあ、と思います。

奈良時代から明治の世までこの作品を守り続けた東大寺の精神もすごい。
そして近代、この作品をボストン市民として受け入れ、日本美術に敬意をはらい、後世に残そうとしているボストンの人たちの精神もまた素晴らしいと私は考えます。

K:改めて、ボストンの皆様に感謝するとともに、この作品が数奇な運命をくぐりぬけて現代に残っている奇跡の一品なのだということを、強く感じました。
塚本さん、どうも有難うございました。


塚本研究員
専門:東洋仏画 所属部署:東洋室

『至宝とボストンと私』はこれで終了です。どうも有難うございました!
特別展「ボストン美術館 日本美術の至宝」は6月10日(日)まで開催しています。奇跡の一品、ぜひお見逃しなく!

All photographs © 2012 Museum of Fine Arts, Boston.

 

カテゴリ:研究員のイチオシnews2012年度の特別展

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posted by 小島佳(広報室) at 2012年06月08日 (金)

 

『至宝とボストンと私』 #8 弥勒菩薩立像

仏像の前では皆真剣な表情で、時間を忘れて仏像と対峙します。慌しい日々を過ごす私達にとって、大切な時間といえるかも知れません。
『至宝とボストンと私』第8回目は、教育普及室長の丸山士郎(まるやましろう)さんと、快慶作 弥勒菩薩立像(みろくぼさつりゅうぞう)を見てゆきます。

展示室
特別展「ボストン美術館 日本美術の至宝」弥勒菩薩立像のコーナー


『ヒントは銘文のなかに』

広報(以下K):最近、若い女性の間でも「仏像好き」が増えてきているようですね。
「仏像が見たくて、展覧会に来ました」というお客様も多くいらっしゃいます。
この展覧会で、メインの仏像作品といえばやはり…

丸山(以下M):快慶作 弥勒菩薩立像です。

弥勒菩薩立像
弥勒菩薩立像
快慶作 鎌倉時代・文治5年(1189)


K:展覧会のチラシにもご登場いただいた、麗しい仏像ですね。
どういう作品なのか教えてください。

M:海外にある日本美術の名品は多くありますが、仏像となるとあまり多くはありません。その中ではとても優れた作品といえます。
12世紀は、内乱が続き世が乱れたことで、多くの人々が絶望の淵にたたされていました。そういう時代に、正しい教えを説き衆生を救うとされた弥勒菩薩に信仰が集まったのです。

この像は、鎌倉時代を代表する仏師、快慶がつくりました。現存する快慶作品の中で最も年代が古い像、つまり快慶が最も若い時につくった像です。
そのためか、快慶独特の表現よりも顔つきがふっくらしていて、表現にういういしさが残っているように見えます。

K:快慶独特の表現というのは、どんな特徴があるのでしょうか?

M:知的な表情、細身の体型、絵画的に処理された衣文、すこしめくれ上がったような上唇です。

K:ところで、最も若い時につくったと、どうして分かるのですか?

M:明治39年にこの像を修復した際、像内から納入品が出てきました。

弥勒菩薩立像 像内納入品
弥勒菩薩立像 像内納入品(弥勒上生経、宝篋印陀羅尼)   
快慶奥書     鎌倉時代・文治6年(1190)

像内納入品 部分

この経典の奥書には、快慶が作ったということが記されていますのでご注目ください。
快慶は、ある時からすべての作品に快慶の名前を残しています。そのため、史料に恵まれた仏師といえます。

K:きらきら輝いていて、保存状態も良さそうですね。

M:表面の金色は近年に修復されたものですが、全体的に状態は悪くないです。
快慶は若い頃から腕が良く、高い技術をもっていたためか、お像は今も壊れずに丈夫に残っています。史料としての意味でも大変重要な作品で、作風も優れているので、後世に残したい逸品です。


『端正、知的、流麗』

K:この作品の見どころはどこですか?

M:やはり、整った端正なお顔だちでしょう。切れ上がった目、小さめの口。ちょっとクールで、知的な印象を与えます。

弥勒菩薩立像 部分

K:目の中がうるんでいるように見えます!

M:玉眼です。仏像の目の部分をくり抜いて、内側から凸レンズ状の水晶を当てています。仏像が生きているかのように見せる工夫です。この像がつくられる30~40年前から、仏像に玉眼が用いられるようになり、この頃には一般的になっていました。

フォルムが美しい仏像ですね。複雑な形ではないのですが、上手いな!と思います。なかなか出来る仕事ではありません。

K:丸山さんがこの作品を最初にご覧になった時、どんな印象を持ちましたか?

M:資料の写真で見ていたとおり、まとまりの良い作品だと思いました。ぴちっとした肉づきや、はつらつとした感じがとても良いなと。

K:丸山さん、なんだか嬉しそうですね。「快慶の作品大好き!」という感じが伝わってきます。

M:大好きです。お顔の感じが全体的に好きなんです。
運慶の陰に隠れてフィーチャーされない存在ですが、もっと人気が上がっても良いのではと思います。

K:今回の展覧会で、きっとファンがもっと増えたと思います!丸山さん、どうも有難うございました。


丸山研究員
専門:彫刻 所属部署:博物館教育課 教育講座室長

次回のテーマは「法華堂根本曼荼羅図」です。どうぞおたのしみに。

All photographs © 2012 Museum of Fine Arts, Boston.


 

カテゴリ:研究員のイチオシnews彫刻2012年度の特別展

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posted by 小島佳(広報室) at 2012年06月07日 (木)

 

意外と多い?女性画家

こんにちは。
今日は特集陳列「女性画家」(2012年6月5日(火)~7月29日(日))についてご紹介します。
この展示は、トーハクが所蔵する絵画のうち、江戸時代中期から昭和初期に活躍した12人の女性の画家による作品を一堂に集めたものです。
狩野派から浮世絵、文人画まで、充実した内容をお届けします。

ところで、いきなりですがトーハクのウェブサイトコンテンツ「投票」の「あなたが選ぶ女性画家No.1は?」に参加してみませんか?
今回作品を展示する女性画家12人の代表作をご覧いただき、お気に入りを選んでみてください。
そして、もし迷ったら(迷わなくても)、「あなたは誰派?女性画家タイプ診断」をお試しください。
お勧めの作品がわかりますよ!
12人それぞれの人生や画家にまつわるエピソードも盛りだくさんです。

ちなみに、私は晴湖さんタイプでした・・・


奥原晴湖筆 枯木群鳥 明治16年(1883) (2012年7月3日(火)~7月29日(日)展示)

モーダンガールとして仕事がんばるぞ~ 私は私!!


さて、トーハクには11万件を超える膨大な所蔵品があり、日頃からその調査・研究を実施しています。
今回の展示も、先輩と一緒に絵画作品の調査をするなかで「女性の画家って意外と多いなぁ」という印象を持ったところから始まっています。

現在のところ、日本絵画の作家のうち、女性と判別できたのは23人にのぼります。
記録が残されていたり、研究が進んでいて確実に女性と分かる人から、素性はわからないけれどその可能性が高いという段階まで、確信の度合は様々です。

 
読書美人図 素山女筆 (展示予定未定)
 
例えばこの絵は「素山女」という落款があります。
女性画家は名前や画号に「女」(または「女史」)を書き添えることが多いため、この作家も女性と判断できるわけです。
詳しい素性は不明ですが、当館以外でも歌麿風の美人画が数点確認されています。


調査は進行中ですので、今後もさらに女性画家と判明する人物が出てくるかもしれませんし、
素性がわからなかった人物について詳細が明らかになることもあるかもしれません。
どうぞご期待ください。

女性画家たちの様々な人生が、どのような作品へ結実していくのか、ぜひ会場でご覧になってみてくださいね。
 

カテゴリ:研究員のイチオシウェブおすすめコンテンツ

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posted by 安藤香織(登録室) at 2012年06月05日 (火)

 

書を楽しむ 第15回「写された書02」

書を見るのは楽しいです。

より多くのみなさんに書を見る楽しさを知ってもらいたい、という願いを込めて、この「書を楽しむ」シリーズ、第15回です。

今回も、本館特別1室で開催中の、特集陳列「写された書-伝統から創造へ」(~2012年6月24日(日))からご紹介します。

写す、
ということが基本中の基本であることは、
何回も言ってきました。

その、写すことに
人生を捧げた人がいます。
田中親美(たなかしんび、1875~1975)です。

親美は15歳のときに、多田親愛(ただしんあい、1840~1905)の門に入りました。
多田親愛は、当時、帝国博物館(トーハクの前身)で働いていて、
親美に、博物館所蔵の古筆(こひつ、平安から鎌倉時代の能書の筆跡)を写させました。

また、親美の父親は、画家の田中有美(ゆうび、1840~1933)、
父親の従兄弟は、冷泉為恭(れいぜいためたか、1823~1864)です。
冷泉為恭は、幕末の動乱期にあって、自らの絵を探求するために模写を続けていました。
その為恭の影響と、多田親愛の教えがあって、
親美は若い頃から、古筆や絵巻などの模写をするようになります。

紫式部日記絵巻、源氏物語絵巻、元永本古今和歌集…今日に残る名品の数々です。

もちろん、原本があっての模本ですが、
模本にもドラマがあります。

大正9年(1920)、
厳島神社の依頼により、国宝「平家納経」の模本を作ることになります。
親美はすでに、書や絵の模写だけでなく、料紙の再現まで行っていました。
「平家納経」では、さらに、軸首や発装、題箋、紐、経箱などの工芸品の模造まで監督。
関東大震災にも遭遇しましたが、5年かかって完成した「平家納経模本」33巻は、厳島神社に納められました。
その後さらに作ったのが、今回展示の「平家納経模本」です。

平家納経模本 平家納経模本 拡大
平家納経(模本)厳王品 田中親美筆 大正時代・20世紀 松永安左エ門氏寄贈 (右は拡大図)
(~2012年6月24日(日)展示)
原本=国宝 厳島神社所蔵 平安時代・長寛2年(1164)


料紙や題箋などの工芸や絵は、弟子たちと協力して作りましたが、
書は、田中親美自身が全部写したそうです。

ふつう模写は、
字をそっくりに写すことに集中してしまうため、
行間や筆の動きなどが不自然になってしまいます。
でも、
田中親美の模写は、不自然さを感じさせません。

一行ごとの原寸大の写真を、左に、上に、真下において、
何度も何度も見て、目に焼き付けて、書を写していきました。
自分を捨てて、執筆した人になりきって、書を再現することに集中する。
それはとてもたいへんな作業であったと、本人も述べています。

今回の特集陳列「写された書 ―伝統から創造へ―」では、ほかにも、田中親美が模写した
「本願寺本三十六人家集模本」などを展示しています。

本願寺本 本願寺本 拡大
本願寺本三十六人家集(模本) 田中親美筆 明治40年(1907) (右は拡大図)
(~2012年6月24日(日)展示)
原本=国宝 西本願寺所蔵 平安時代・12世紀


平安時代の作品を、明治・大正時代にこれだけ再現する、
その熱意と苦労の継続を想像してみてください。

文化財の保護と伝統文化の継承という
ふたつの大きな仕事を成し遂げています。

カテゴリ:研究員のイチオシ書跡

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posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2012年06月04日 (月)

 

東洋の青磁

現在、本館14室で展示中の、東京国立博物館140周年特集陳列「東洋の青磁」(~2012年7月29日(日))の展示作品についてご紹介します。

青磁輪花鉢は、コレクター横河民輔氏が昭和9年(1934)に紆余曲折の末に入手した際、「この鉢が入って、僕のコレクションは画龍点睛だよ」と語ったというエピソードがあります。その当時このように貫入と呼ばれる釉薬のひび割れが生じた青磁は注目されていませんでした。南宋時代(1127~1279)に都が置かれた臨安(現在の浙江省杭州)に郊壇下官窯(こうだんかかんよう)が発見され、この種の青磁は南宋時代に宮廷向けに焼かれた官窯の製品であることが明らかになりました。
この鉢は昭和12年(1937)に当館に寄贈され、以来館を訪れる多くの人々に親しまれています。


重要文化財 青磁輪花鉢 南宋官窯 南宋時代・12~13世紀 横河民輔氏寄贈

耀州窯(ようしゅうよう)は陝西省銅川市(せんせいしょうどうせんし)に位置し、北宋時代にオリーブグリーンの釉下にきびきびとした文様が刻まれた青磁を焼きました。このような青磁は、昭和初期には文献に名高い汝窯(じょよう)の青磁ではないかと考えられたことがありますが、戦後耀州窯が発見され、この種の青磁の中心的な生産窯であったことが明らかになりました。


青磁唐草文香炉 耀州窯 北宋時代・11~12世紀 広田松繁氏寄贈


耀州窯は中国の窯址の中でも、学術的な発掘が最も進んだ窯の一つです。調査の成果により、その起源は唐時代にまで遡り、五代(907~960)には文様の無い、青緑色の青磁が焼かれていたことが判明しました。


青磁碗 耀州窯 五代~北宋時代・10~11世紀 島田謹一郎・みつ子氏寄贈

この種の青磁は五代の後周の官窯とされる柴窯、あるいは北宋時代に都開封の東南にあったとされる東窯との関係が取りざたされています。陶磁史研究の進展により、幻の名窯は少しずつその実像が明らかになってきています。


国宝 青磁下蕪瓶 南宋時代・13世紀 アルカンシエール美術財団蔵

国宝に指定されている青磁下蕪瓶は、かつて南宋官窯の一つである修内司(しゅうないし)官窯の作ではないかと考えられていましたが、その後杭州に老虎洞窯址が発見され、修内司官窯説は否定される方向にあります。ただし、龍泉窯においてもこの瓶と完全に一致する資料は発見されていません。この瓶のもつ気品と風格をどのように解釈するか、中国の青磁の歴史は、核心に迫る部分にまだまだ大きな謎が残されています。


(関連事業)
列品解説 国宝 青磁下蕪瓶について 2012年6月1日(金) 当日受付

カテゴリ:研究員のイチオシ

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posted by 今井敦(博物館教育課長) at 2012年05月28日 (月)