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博物館総長 森鷗外の特集陳列が始まりました

特集陳列 歴史資料 生誕150年 帝室博物館総長 森鷗外 (本館16室、2012年7月18日(水)~9月9日(日) )が始まりました。

「え? なんで森鷗外?!」と思った方も、「ああ! あの新聞記事の!」と思った方もいらっしゃると思います。

実は、森鷗外は大正6年(1917)~11年(1922)、その晩年の4年半、帝室博物館(トーハクの前身)の総長の職にありました。
今回の特集陳列では、鷗外の総長時代の足跡を丁寧にたどっています。
展示されているものの大半は地味な資料ですが、鷗外が博物館でどんな時間を過ごしたのか、それらを通してさまざまなことがわかってきました。

そして、この特集で展示されている資料について、7月3日の読売新聞(夕刊)の一面トップで報じられました。
鷗外の未完の論文の自筆原稿が発見されたという記事です。
翌日には、NHKニュースで、また毎日、日経、東京、産経など他紙でも紹介されましたので、それらの記事を読んだ方もおられるのではないでしょうか。

新発見!  鷗外の未完の自筆論文
論文のタイトルは「上野公園ノ法律上ノ性質」。
博物館用箋10枚にペンで書かれたもので、和とじの製本がされています。
冊子には表題もなく、他の資料とともに綴じられていました。
この論文は冊子の冒頭に綴じられており、上記のタイトルと大正9年という年紀があります。
当時、博物館を含む上野公園は、帝室(皇室)の管理下にありました。
これを、政府に移管しようという動きがあり、博物館としてどう対応するかが大きな問題になっていたようです。
鷗外は、この論文で公共の公園の法的な位置づけやその歴史に触れながら、帝室の所管、つまりは皇室の私有財産のままでも公共の公園たりうることを説いています。
実はこの論文に鷗外の署名はありません。なのに、なぜ、鷗外の自筆論文と判断したのか?

今回の特集陳列を実施するにあたって、展示を担当する田良島哲調査研究課長は、鷗外在任期間中の館史資料を片端から読んでいったそうです。
そのなかで見つけたこの冊子、最初はまさか鷗外その人の手になるものとは思っていなかったようです。
しかし、内容を読んでみると、整然とした論理構成や「吾人ハ多クノ学者ニ反対シテ」といった断定的かつ論争的な文章から、鷗外の手稿ではないかと思ったそうです。
さらに、当時の鷗外の日記、書簡を調べると、公園の問題に関する記述があること、また筆跡に照らしても鷗外に違いないという結論に至りました。


上野公園ノ法律上ノ性質 大正9年(1920)
上野公園ノ法律上ノ性質 大正9年(1920)
上野公園ノ法律上ノ性質 大正9年(1920)
使われている用箋には博物館の名前が印刷されています。
書いたのは館内の人物に限定されます。
この用箋も鷗外自筆とするひとつの手がかりとなりました。

総長・森鷗外
今回は、ほかにも、鷗外が真摯に館の運営に関わっていたことを示す資料を展示しています。
たとえば、鷗外は各担当者に任されていた展示替の内容を必ず総長の伺いを経るように新たな規定を定めました。
鷗外の花押の残るその決裁書や、鷗外自らがこつこつとまとめた博物館所蔵の書物の解題も展示されます。

例規録 大正八~十一年 大正8~11年
例規録 大正八~十一年 大正8~11年
総長の文字の下に、鷗外の花押があります。

今年は、鷗外生誕150年にあたる年です。

鷗外は博物館総長在任のまま、この世を去りました。
最晩年の鷗外の博物館に対する思いをぜひ、感じていただければと思います。

 

お知らせ
台東区立書道博物館「 この人、どんな字?-近代日本の文豪たち- 」(2012年6月28日(木)~9月19日(水))でも、
森鷗外自筆の書簡などが展示されています。あわせてお楽しみください。

 

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posted by 小林牧(広報室長) at 2012年07月23日 (月)