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1089ブログ

見方がわかる、見方がかわる!「日本美術のつくり方」

夏休み恒例の「親と子のギャラリー」。これまでにも、「日本美術のつくり方」シリーズとして、伝統的な日本美術の制作技法をご紹介する、教育普及的な特集陳列を行ってきました。今年はその第3弾で、4つの技法をとりあげます。段階をおって順番に進んでいく工程見本を展示し、また解説パネルもふんだんに使っており、わかりやすい内容になっていると思います。
キャッチフレーズは、「つくり方を知れば、見方がわかる、見方がかわる!」

親と子のギャラリー「日本美術のつくり方III」
2012年7月24日(火)~9月2日(日) 本館2階 特別2室

今回取り上げるのは、「螺鈿」「甲冑」「象嵌」「押出仏」の4つですが、その中から、螺鈿(らでん)についてお話申し上げましょう。
螺鈿は貝がらの内側の、つるつるピカピカした部分を文様の形に切り取り、漆(うるし)のうつわや調度品の表面に貼り付ける、漆工芸の技法です。螺は「巻貝」、鈿は「飾る」という意味で、つまり螺鈿とは「貝を用いた装飾」ということ。
螺鈿はアジア各地で、古くから行われてきた技法ですが、小文字の“japan”は「漆」「漆器」と訳されるほど、漆工芸がさかんであった日本でも、たいへんポピュラーな装飾のかたちであったのです。正倉院宝物に、奈良時代8世紀の螺鈿の作品がたくさんあるのをご存じの方も多いと思います。


日本の螺鈿では、伝統的に夜光貝という貝が使われてきました。南方に産する、とっても大きな貝。煮沸したり、あるいは切り削りして、内側の部分を板状にしたものを作り、それを文様の形に切って、貼り付けます。漆黒に、貝のはなつ七色の光が照り映える。その妖しく魅惑的な効果をねらったのです。

螺鈿
夜光貝を切り削って板状にしたものに下絵を描き、糸のこなどで文様の形に切る

ところでこの夜光貝、今でも採れます。沖縄の公設市場で売っています。下でさばいてくれて、上で食べることができるんです。
記憶があいまいですが、たしか身も七色をしていたような…。

夜光貝
夜光貝の原貝(中身はありません)


 子どもから大人まで楽しんでいただける展示を心がけました。
「甲冑(かっちゅう)」「象嵌(ぞうがん)」「押出仏(おしだしぶつ)」については、ぜひ会場でご覧ください。
どうぞ皆様、お誘い合わせの上、お越しいただきたいと思っております。

 

関連事業

ギャラリートーク (会場はいずれも本館特別2室)
「日本美術のつくり方III・4つの技法」 
2012年8月2日(木) 14:00 ~ 14:30
2012年8月10日(金)   19:00 ~ 19:30
2012年8月21日(火)   14:00 ~ 14:30
「日本美術のつくり方III・押出仏のつくり方」
2012年8月31日(金)   19:00 ~ 19:30

 

カテゴリ:研究員のイチオシ教育普及

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posted by 伊藤信二(教育普及室長) at 2012年07月25日 (水)

 

中国山水画の20世紀ブログ 第1回-珠玉の中国近現代絵画がトーハクにやってきます

いよいよ今月31日から、「中国山水画の20世紀 中国美術館名品選」がはじまります。
「古い中国は興味があっても近現代はちょっと…」という皆さん!激動の20世紀を生きた中国画家の活躍は面白く、彼らの残した作品もとても魅力的です。

今回ご紹介するのは、中国近現代美術に関しては質と量ともに世界一の誇る、中国美術館の所蔵品から、選びに選んだ50件。
北京に行かれたら故宮の北・神武門から歩いて15分ほどのところにある中国美術館へもぜひ足をのばしてみてください。
ニューヨークへ行けばMOMA、パリではポンピドゥー・センター、東京では東京国立近代美術館など、各国には近現代専門の美術館が設けられていますが、
中国でそれにあたるのが中国美術館なのです。
その、中国美術館の名品展ですから、これさえ見れば中国の近現代美術はわかる、「中国近現代美術の教科書」とでも言うべき展覧会になっています。


護林 黎雄才筆 1959年
護林 黎雄才筆 1959年
雄大な構図の中に失火を発見した人々の働きを描きます。
東京芸術大学に留学し、日本画と中国画のはざまで、社会のなかで絵画とはどうあるべきかを考えた作家です。


登場する画家は28人。
高剣父 、陳樹人 、傅抱石、黎雄才。・・・誰だそりゃ? そうですよね。しかし、彼らは私たちのことをよく知っています。
戦前に日本に留学したからです。彼らがどんな日本語をしゃべっていたのか、とても興味がありますね。
彼らが青春時代に訪れたトーハクで、今度は自分の作品が展示されるこの展覧会、画家たちもきっと喜んでいるに違いありません。

張大千、潘天寿、李可染も日本と縁の深い人で、ご年配の方のなかには「会ったことがある」という方もいるかもしれません。
そうです、中国の近現代絵画は日本と切っても切れない関係にあるのです。
このような、日本との関係から、中国近現代美術に親しんでいただこうというのが、展示の一つ目の柱です。

二つ目は、今まで日本ではほとんど展示されなかった作品の展示です。
従来まで日本と非常に深い関係があった海上派の呉昌碩や、斉白石の展示は行われてきました。
彼らの名品は日本に数多く所蔵されているからです。
しかし、新中国成立後、画家たちがどのような作品を制作していったのか、日本にはその時期の大作がほとんどないために、あまり知られてきませんでした。

 
 
錦繡河山図 賀天健筆 1952年(左)と、緑色長城 関山月筆 1974年(右)
中国美術館での調査にて。巨大な作品で、いずれも画家の代表作です。


その空白を埋めるのが、中国美術館の作品です。
新中国成立後、画家たちは中国美術館で自分の展示をすることを名誉と考え、そのために、国家的背景を持って描かれた多くの名品が中国美術館に所蔵されました。
そのなかから「画家一世一代の出世作」、というべき作品を多数集めたのが今回の展覧会です。
ご期待ください!

カテゴリ:研究員のイチオシ2012年度の特別展

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posted by 塚本麿充(東洋室) at 2012年07月24日 (火)

 

博物館総長 森鷗外の特集陳列が始まりました

特集陳列 歴史資料 生誕150年 帝室博物館総長 森鷗外 (本館16室、2012年7月18日(水)~9月9日(日) )が始まりました。

「え? なんで森鷗外?!」と思った方も、「ああ! あの新聞記事の!」と思った方もいらっしゃると思います。

実は、森鷗外は大正6年(1917)~11年(1922)、その晩年の4年半、帝室博物館(トーハクの前身)の総長の職にありました。
今回の特集陳列では、鷗外の総長時代の足跡を丁寧にたどっています。
展示されているものの大半は地味な資料ですが、鷗外が博物館でどんな時間を過ごしたのか、それらを通してさまざまなことがわかってきました。

そして、この特集で展示されている資料について、7月3日の読売新聞(夕刊)の一面トップで報じられました。
鷗外の未完の論文の自筆原稿が発見されたという記事です。
翌日には、NHKニュースで、また毎日、日経、東京、産経など他紙でも紹介されましたので、それらの記事を読んだ方もおられるのではないでしょうか。

新発見!  鷗外の未完の自筆論文
論文のタイトルは「上野公園ノ法律上ノ性質」。
博物館用箋10枚にペンで書かれたもので、和とじの製本がされています。
冊子には表題もなく、他の資料とともに綴じられていました。
この論文は冊子の冒頭に綴じられており、上記のタイトルと大正9年という年紀があります。
当時、博物館を含む上野公園は、帝室(皇室)の管理下にありました。
これを、政府に移管しようという動きがあり、博物館としてどう対応するかが大きな問題になっていたようです。
鷗外は、この論文で公共の公園の法的な位置づけやその歴史に触れながら、帝室の所管、つまりは皇室の私有財産のままでも公共の公園たりうることを説いています。
実はこの論文に鷗外の署名はありません。なのに、なぜ、鷗外の自筆論文と判断したのか?

今回の特集陳列を実施するにあたって、展示を担当する田良島哲調査研究課長は、鷗外在任期間中の館史資料を片端から読んでいったそうです。
そのなかで見つけたこの冊子、最初はまさか鷗外その人の手になるものとは思っていなかったようです。
しかし、内容を読んでみると、整然とした論理構成や「吾人ハ多クノ学者ニ反対シテ」といった断定的かつ論争的な文章から、鷗外の手稿ではないかと思ったそうです。
さらに、当時の鷗外の日記、書簡を調べると、公園の問題に関する記述があること、また筆跡に照らしても鷗外に違いないという結論に至りました。


上野公園ノ法律上ノ性質 大正9年(1920)
上野公園ノ法律上ノ性質 大正9年(1920)
上野公園ノ法律上ノ性質 大正9年(1920)
使われている用箋には博物館の名前が印刷されています。
書いたのは館内の人物に限定されます。
この用箋も鷗外自筆とするひとつの手がかりとなりました。

総長・森鷗外
今回は、ほかにも、鷗外が真摯に館の運営に関わっていたことを示す資料を展示しています。
たとえば、鷗外は各担当者に任されていた展示替の内容を必ず総長の伺いを経るように新たな規定を定めました。
鷗外の花押の残るその決裁書や、鷗外自らがこつこつとまとめた博物館所蔵の書物の解題も展示されます。

例規録 大正八~十一年 大正8~11年
例規録 大正八~十一年 大正8~11年
総長の文字の下に、鷗外の花押があります。

今年は、鷗外生誕150年にあたる年です。

鷗外は博物館総長在任のまま、この世を去りました。
最晩年の鷗外の博物館に対する思いをぜひ、感じていただければと思います。

 

お知らせ
台東区立書道博物館「 この人、どんな字?-近代日本の文豪たち- 」(2012年6月28日(木)~9月19日(水))でも、
森鷗外自筆の書簡などが展示されています。あわせてお楽しみください。

 

カテゴリ:研究員のイチオシnews

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posted by 小林牧(広報室長) at 2012年07月23日 (月)

 

書を楽しむ 第18回「こうやぎれ」

書を見るのは楽しいです。

より多くのみなさんに書を見る楽しさを知ってもらいたい、という願いを込めて、この「書を楽しむ」シリーズ、第18回です。

高野切(こうやぎれ)。

このことば、覚えてください。

Q:「仮名(かな)といえば?」
A:「こうやぎれ!」
です。



(拡大)
重要文化財 古今和歌集巻第十九断簡(高野切本) 伝紀貫之筆 平安時代・11世紀 森田竹華氏寄贈
(特集陳列「秋の特別公開 贈られた名品」2012年9月15日(土)~ 9月30日(日)にて展示)

拡大画像の右の方に見える「の」や、「ゆ」の字、
真ん中あたりの「は」の字、などなど
平仮名のお手本のように見えませんか?

高野切、とは
現存する最古の『古今和歌集』で、
平安時代の“みやび”の感性のもとで完成した仮名で、
最高水準の、美の極致とされています。

3人が分担して書いた寄合書(よりあいがき)になっていて、
その3人の書風を、第一種から第三種と呼び分けています。
上の画像は、第三種書風です。

第二種書風の筆者が、
宇治の平等院鳳凰堂(天喜元年(1053)建立)の色紙形(しきしがた)を書いた
源兼行(みなもとのかねゆき、生没年不詳)とわかりましたので、
高野切もその頃に書写されたことになります。

その第二種書風の高野切を、エンピツで写しました。



手鑑毫戦より高野切
(本館3室「宮廷の美術」 2012年7月18日(火)~8月26日(日)にて展示 )
エンピツで写した高野切 前の画像の第三種書風と比べて、個性的と思いませんか。 同じ仮名でもいろんな書風があります。 私が写した第二種書風の高野切、どうでしょうか? 特徴を上手くはつかんでいないかもしれませんが、 書いてみると、鑑賞がより深まります。 第二種書風の筆者・源兼行は、ほかに、「桂本万葉集」(御物)など、 第一種書風の筆者は、「大字和漢朗詠集」(本館3室にて展示中)など、 第三種書風の筆者は、「粘葉本和漢朗詠集」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)や 「法輪寺切」(本館3室にて展示中)などの同筆の作品があります。 3人とも、能書(書の上手な人)として活躍していたことがわかります。 総合文化展本館3室「宮廷の美術」では、7月18日(火)から8月26日(日)まで この第一種、第二種、第三種書風の作品をそろって御覧いただけます。 こうやぎれ、 巻九の巻頭が、高野山(こうやさん)に伝来したことから この名前で呼ばれています。 ぜひ覚えて、字も真似してみてください。  

カテゴリ:研究員のイチオシ書跡

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posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2012年07月22日 (日)

 

美術解剖学のことば 第5回「久米桂一郎先生にご挨拶とご報告」

トーハクには、1890年(明治23年)に久米桂一郎が描いた油彩画の習作「裸婦」が所蔵されています。 
久米の油彩画は トーハクではこの1点のみですが、
今回の特集陳列では、残念ながら調整がつかず展示することがかないませんでした。
次回の展示機会には、久米の最高傑作の1点を、どうぞお見逃しなく!

裸婦 久米桂一郎筆  明治23年(1890)
裸婦 久米桂一郎筆  明治23年(1890) (展示は未定)

その代わりというわけではありませんが、「裸婦立像(習作)」(1889(明治22)年)を、
久米美術館(久米桂一郎コーナーもご参照ください)からお借りし、
黒田清輝の裸婦・裸体の油彩画と対置して展示することで、
本展の意図することが達成できましたことを、この場であらためて感謝申し上げます。 

裸婦立像 久米桂一郎筆  明治22年(1889) 東京・久米美術館蔵
裸婦立像 久米桂一郎筆  明治22年(1889) 東京・久米美術館蔵
(特集陳列「美術解剖学―人のかたちの学び」にて展示中)

というわけで、トーハクから徒歩5分の東京藝術大学・美術学部構内に居らっしゃる、
久米桂一郎先生にご挨拶と、ようやく公開スタートできたことの報告をしてきました。
といってもご存命ではない久米先生の《胸像》にご挨拶です。(学食・大浦食堂近くです)

久米桂一郎胸像
久米桂一郎 胸像(東京藝術大学・美術学部構内)


久米先生への僕の感謝のことばを「美術解剖学のことば」としてもいいのですが、
今回は久米桂一郎の美術解剖学分野とのかかわりを、とても豊富な画像・情報と、
深く、読み応えのあるテキストで紹介している、3冊の書籍を紹介します。

◆1冊目は、今回の特集陳列に際し、最も参考とさせていただいた、
『美術解剖学の流れ 森鷗外・久米桂一郎から現代まで 美の内景』 展 図録
(1998(平成10)年7月11日~9月15日 久米美術館発行)

◆2冊目は、今回出品されている「裸婦・裸体素描」を含む、久米の作品を全て掲載している
『久米桂一郎作品目録』 (2000(平成12)年 久米美術館発行) です。

◆3冊は、『方眼美術論』 (久米桂一郎著 1983(昭和59)年 中央公論美術出版)です。
「亡友黒田清輝とフランスに居た頃」の項から抜粋します。

モン・ルウジュの大市場に近い淋しい町に、アンスチテユウシヨン・ミルマンを尋ねて行って、
始めて黒田に逢った時は、丸々とした元気の好いおとなしい少年であった。
(中略)
八七年(1887年)の秋頃ポール・ロワヤルの市場の隣家に住むことになり、
小さな台所も附いているから、近所に居る友達が集まって、
牛鍋で日本飯を会食することも度々あった。
それ以来場処は二三変わったけれど、いつも黒田と合同生活をして、
一八九三年に帰朝するまで、巴里に居るときは最後まで一緒に暮らした。


本展に展示している「裸婦・裸体習作」を稽古した1887年の巴里で、
友達と集まって、「牛鍋で日本飯を会食」とは、
久米と黒田の何とハイカラな青春時代の一幕ではないですか!

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 木下史青(デザイン室長) at 2012年07月21日 (土)