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1089ブログ

「青山杉雨の眼と書」の楽しみ方3─青山杉雨の眼

私事で恐縮ですが、1987年、浙江美術学院に留学していたときの事。絵画の担当教授から、青山先生が杭州にお見えになるので、贈り物を届けてくれないかと打診されました。
青山先生は、かつて教授の絵を求めた縁から、近くに足を延ばした折には、必ず連絡をとりあっていたようです。私は西湖の畔にそって自転車を走らせ、杭州飯店で待機。
ほどなく青山先生ご夫妻が到着されると、私は件のお土産を差し出し、これは最近とくに人気の高い調味料であること、購入しようと思ってもなかなか手に入らないこと、一つまみ料理に入れるだけで格段に味が引き立つこと、等々、教授にいわれたままに長々と説明をすると、青山先生は一言「要するに味の素のことか」。そして奥様に向かって「まぁ、もらっときなさい」。これが後にも先にも、私が青山先生にお会いした唯一の体験です。

その後、奇しくも東博に奉職するようになった私は、亡き青山先生の愛蔵していた中国書跡をご寄贈いただく一連の手続きを担当、作品の選定・図録の編集・特集陳列の開催等に関与させていただきました。作品選定にあたっては、名品を中心としながら、館の収蔵に欠落している作品を選んだのですが、青山先生の書斎からは、無尽蔵とも思えるほど、次から次へと魅力的な作品が出てきたことが印象的でした。

そんなある日、浙江美術学院で書法を専門とする教授が来館する機会がありました。私はこの得難い機会に、館蔵の中国書跡について御教示をいただこうと、青山コレクションを含む数点の作品をお見せしました。いくつかの作品をお出ししたあと、青山コレクションを取り出すべく桐箱を開けると、蓋に書かれた青山先生の題字が教授の眼に入り、何と美しい題字なんだ!と、教授は作品そっちのけで食い入るように見入っておられたのも、忘れがたい一コマです。

伝統的な中国書法をこよなく愛し、中国の専家が目をみはるほど自らの技量を高めた青山杉雨。この展覧会では、青山杉雨の代表作と青山コレクションの数々が、かつてない規模で陳列されています。青山ワールドの奥深さを、この機会にぜひご堪能ください。
 
臨石鼓文軸 呉昌碩筆 清時代・宣統元年(1909) 個人蔵
臨石鼓文軸 呉昌碩筆 清時代・宣統元年(1909) 個人蔵
杭州や上海に活躍した呉昌碩は、青山杉雨が若い時分に多大な影響を受けた作家です。
呉昌碩の臨石鼓文の中でもこの作は完成度が高く、抜群の出来ばえ。



荷花図 呉昌碩筆 民国4年(1915) 東京国立博物館蔵
荷花図 呉昌碩筆 民国4年(1915) 東京国立博物館蔵(展示期間 8/19(日)まで)

多作家であった呉昌碩は、作品の出来ばえにも精粗がありますが、青山杉雨の呉昌碩コレクションは、書画ともに優品ぞろい。呉昌碩72歳の筆になるこの絵も、呉昌碩が自ら自賛しています。青山杉雨の鑑識眼の高さが窺えます。


特別展「青山杉雨の眼と書」(平成館 2012年7月18日(水) ~9月9日(日)) 
8月21日(火)より展示替があります。展示作品リストをご覧ください。

 ユリノキひろばではエッセイを募集しています。 「青山杉雨の眼と書」の感想をお寄せください。

カテゴリ:研究員のイチオシ2012年度の特別展

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posted by 富田淳(列品管理課長) at 2012年08月12日 (日)

 

中国山水画の20世紀ブログ 第5回-「二万三千里」時代の画家たち

日本人の知っている中国美術と言えば二つあるかもしれません。
中国の古美術、すなわち古代から清朝、そして近代の海上派に至る名品は、日本にもたくさんあるため、親しみやすく、よく知られています。これが一つ。
もう一つは、近年、張曉剛、方力鈞、蔡国強、など、1980年代以降、主にアメリカで評価された中国人アーティストたちです。

最近、彼らの華やかな活躍に眼が向かいがちですが、ちょっと待ってください。
その中間、新中国成立以後の美術の展開を知らなければ、現代美術の展開も理解することはできません。



当時中国は限られた国としか交流していなかったので、この時期の名品が海外に知られることが非常に少なかったのはやむを得ませんが、この時期の空白を埋めるのが、今回展示されている中国美術館のコレクションです。



新中国成立以後の最も代表的と言えるのが金陵画派の作品です。
国民党時代の首都であった南京(金陵はその古名)とそこに居住していた知識人たちは、新中国成立後、大きな変革の時代を迎えます。
日本にも留学した傅抱石は、中央大学から南京師範大学へ移り、そして江蘇省国画院院長となりますが、1960年、江蘇省国画院のメンバーを率いて、中国全土をめぐる大写生旅行に出かけます。
俗に言う「二万三千里」の写生旅行です。


傅抱石が教鞭をとった南京師範大学
民国時代に建てられた建築は、「東洋で最も美しい校園」とも言われています。


華山での写生。この場で描かれたのが、亞明のこの作品(「華山」)です。
左から二番目が亞明、中央で髭を蓄えたのが銭松嵒。


中国の伝統山水は、詩書画一致と言われるように、詩や古典を画題とすることがほとんどでした。
山の中に文人が坐っていて、童子がお茶を汲んでくる、そんな絵を皆さんも見たことがあると思います。
しかしこの時期の画家は、新社会の成立にともない、絵画の理念を実際の社会のなかに求め、写生を基礎とした制作を行っていくのです。


待細把江山図画(左) 傅抱石 1961年 中国美術館蔵
西陵峡(右) 傅抱石 1960年 中国美術館蔵
「二万三千里」旅行の成果は北京で行われた「山河新貌」展(1961)で展示され、その後中国美術館に収蔵されました。


会場には金陵画派の代表作がズラリと並んでいます。


この時期の絵画を「プロパガンダ絵画」と一蹴することはたやすいですが、むしろ絵画としての質の高さと、画家の真摯な取り組みに眼を向けていただきたいと思います。
傅抱石は新中国成立後、「思想が変われば筆墨も変わらざるを得ない」と述べますが、その基本的な作風はほとんど変化していません。
銭松嵒の「常熟田」も社会変革による農地整備と労働、人々の新生活を描いた絵画と言う説明はできますが、一見してもそうは見えません。
むしろ伝統の筆墨法の上に、近代絵画としての斬新な構図と美しい色彩に眼が奪われます。
このような、社会的要求と伝統絵画の発展、自らの絵画創作の方向性を、見事にミックスさせたのが、金陵画派の特色なのです。

(拡大)
常熟田 銭松嵒 1963年 中国美術館蔵
従来の文人画にはなかった、新しい視点から、江南の農村の人々の暮らしが描かれている。



緑色長城 関山月 1974年 中国美術館蔵
「従生活中来」印 : 「生活の中より来たる」  新社会、新生活のなかに絵画の理念を求めることが行われた。


およそ1900年代初頭に生まれた彼らこそは、1949年の新中国の成立、66-76年の文革などの激動の20世紀中国を生き抜き、中国の伝統的な筆墨を次代に伝えることになりました。
そこで育ったたくさんの学生たちが、80年代以降、世界中で活躍することになります。
中国では王朝が交代するたびに、個性的な画家たちが活躍してきました。
この「二万三千里」時代を生きた画家たちもまた、明末清初の画家たちと同じく激動の時代を生き、そのことによって今も私たちの心を打つ傑作を残したと言えるでしょう。

日中国交正常化40周年 東京国立博物館140周年 特別展「中国山水画の20世紀 中国美術館名品選
本館 特別5室   2012年7月31日(火) ~ 2012年8月26日(日)

 

カテゴリ:研究員のイチオシ2012年度の特別展

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posted by 塚本麿充(東洋室) at 2012年08月11日 (土)

 

中国山水画の20世紀ブログ 第4回-竹内栖鳳と高剣父

竹内栖鳳(1864 - 1942)は、「東の大観(横山大観)、西の栖鳳」と並び称されたほど日本の近代日本画において、大きな足跡を残した画家のひとりです。
その栖鳳は、日本絵画の革新をめざして日本の諸流派の技法だけでなく、西洋画も学びました。栖鳳の大きなテーマは大気や空気といったものを描くことでした。

大気や空気を描くことは、岡倉天心の指導の下、横山大観や菱田春草らが、19世紀のフランスを中心にした屋外で太陽光に照らされた風景画を描こうとした画家たち―「外光派」を学び、伝統的な技法である線描ではなく、色の濃淡や明暗、ぼかしによって表現しようとしたこととも軌を一にします(実際には栖鳳は、大観の表現を批判していましたが)。

重要文化財 瀟湘八景のうち瀟湘夜雨 横山大観
重要文化財 瀟湘八景のうち瀟湘夜雨
横山大観筆 大正元年(1912) 東京国立博物館蔵
夜の湿った空気があらわされている。
2012年8月7日(火) ~ 9月17日(月・祝)、本館18室にて展示中



明治33年(1900)、明治政府によってヨーロッパへ派遣された栖鳳は、外光派のラファエル・コランに出会い、
憧れのコローやターナーの風景画をみて大気の表現を学びます。
つまり、栖鳳は大観や春草らと同じく線描を主体とせず、
墨の濃淡で大気や空気を描く方法を西洋画から日本の絵画へ応用しようとしたわけです。


羅馬古城図 竹内栖鳳筆 (作品画像はリンク先のページでご覧ください)
1901年 京都国立近代美術館蔵
画面全体で大気をあらわす。



No.25 高剣父の「漁港雨色」(1935年)は、東洋絵画の伝統的な線描ではなく、
色彩の濃淡によって大気をあらわした絵です。
高剣父は日本に留学し、白馬会や太平洋画会といった団体で洋画を学び、
さらに京都で竹内栖鳳や山元春挙といった画家の表現を手本としています。

漁港雨色 高剣父筆 1935年 中国美術館蔵
漁港雨色 高剣父筆 1935年 中国美術館蔵

竹内栖鳳と高剣父は、西洋技術を取り込むことによって、伝統絵画を革新しようとしました。
その表現は、先んじて「近代国家」となった日本の画家と、日本の絵画に学んだ新生中国の画家の双方が、
西洋先進国と肩を並べようと、造形の世界のなかで主張しようとした強い思いを感じるものがあります。

彼らのような画家たちが奮闘した成果のひとつが、日中両国の当代の作品を紹介する1921年から1929年まで
5回にわたって中国と東京で交互に開催された「日華(中日)聨合美術展覧会」で結実します。
この展覧会が契機になって斉白石(No.4~7)は、フランス人の目にとまり、世界的に有名になりました。

この時代の日中両国の画家たちは、視線の先に同じ光明をみつめていたのでしょう。
しかし彼らの思惑を超え、 時代は戦火を止めることはできず、画家たちの輝かしい軌跡が人々の目から一旦遠ざけられることになります。
そして長い長い時間を経ることで、この展覧会が開催されることとなりました。
画家たちの理念や理想を、 いま一度想い起こすことができるまたとない機会といえるでしょう。

日中国交正常化40周年 東京国立博物館140周年 特別展「中国山水画の20世紀 中国美術館名品選
本館 特別5室   2012年7月31日(火) ~ 2012年8月26日(日)

 

カテゴリ:研究員のイチオシ2012年度の特別展

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posted by 松嶋雅人(特別展室長) at 2012年08月08日 (水)

 

書を楽しむ 第19回「青山杉雨の篆書」

書を見るのは楽しいです。

より多くのみなさんに書を見る楽しさを知ってもらいたい、という願いを込めて、この「書を楽しむ」シリーズ、第19回です。

いま、特別展「青山杉雨の眼と書」を開催中です!

青山杉雨(あおやまさんう)、
昭和から平成にかけて書家として活躍、中国書法の普及にも功績のある方です。


「相変」(左)、「黒白」(右)
黒白相変 青山杉雨筆 昭和63年(1988) 東京国立博物館蔵

右上の文字は、ポスターやチラシ、図録の表紙に使われています。
見たことがありませんか?

でも!
読めますか?
私は、読めませんでした…。

右から「黒白相変」(こくびゃくそうへん)と読むそうです。

そして、筆順(書き順)がわかりません…。
勝手に予想してみました。


黒白(杉雨の書)、黒白(恵美の予想)


相変(杉雨の書)、相変(恵美の予想)


これは、篆書(てんしょ)という書体です。
中国で紀元前から使用されてきた古い書体で、
日本でも印鑑の文字などに見られるものです。

篆書も、ちゃんと筆順が決まっているそうです。
正しい筆順を、青山杉雨門下の高木聖雨(たかきせいう)先生に教えていただきました!
(高木先生、ありがとうございました!)


黒白(杉雨の書)、黒白(正しい筆順)


相変(杉雨の書)、相変(正しい筆順)

私の予想は、ずいぶん間違っていました。
大きな間違いは、
まるく書いているように見える部分です。
じつは、一筆のまるではなく、何筆かにわけて書かれているのです。

たしかに、「黒」の字をよ~く見ると、
まるい部分がデコボコしています。

むずかしい。
でも、筆順を考えるのは楽しかったです!

それと、「黒」の字は、人間のようにも見えませんか?

筆順を考えたり、絵のように想像して眺めたり、
篆書もじっくり見てみてください。

カテゴリ:研究員のイチオシ書跡2012年度の特別展

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posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2012年08月06日 (月)

 

「青山杉雨の眼と書」の楽しみ方2─青山杉雨の素顔~書斎にまつわるエトセトラ~

青山杉雨の眼と書』の展覧会では、準備の段階から関わることになり、青山家のみなさんと交流を持つ機会に恵まれました。インタビューなど、あらたまった席でお話をお聞きすると、お互い構えてしまうのですが、一緒にお食事をした時や、打ち合わせのために出張した時など、ご家族の方々がさらりと何気なくお話されるときに青山杉雨のエピソードが出ることが多く、その都度、ノートにメモをしていました。
今回の図録には、インタビューでのお話を掲載していますが、このブログでは、インタビュー以外の「青山杉雨の素顔~書斎にまつわるエトセトラ~」を書いてみたいと思います。

青山杉雨は読書量が非常に多く、亡くなるまで本当によく読んでいたそうです。特に、書斎にある薄くて黄色い本の『唐詩選』などは読みこんだ跡があり、鉛筆でたくさんの書き込みがあるといいます。もちろん、他の本にもあちこちに書き込みがあるそうで、あの書斎には、青山杉雨の鉛筆による肉筆がいたるところに残されているのです。

書斎の本棚
書斎の本棚

お弟子さんの指導には、とても厳しかったそうですが、指導が終わると、素の青山杉雨になるそうです。書道のことを抜きにして、書斎と隣接するお稽古場の広いところでみんな車座になって、自分も腰掛けて、社会学など雑談をしていました。お稽古中、怒られてシュンとしていた人たちも、それをやるとみんなニコニコしながらお茶飲んでお菓子食べて、青山杉雨も、お稽古の後のそれをとても楽しんでいたといいます。甘いものが大好きな青山杉雨、お菓子が出てこないと、「おーい、おかあちゃん。今日はお菓子が少ないな」と、お稽古場から大声で叫んでいたそうです。ご令室のトク様は、「”おかあちゃん”と言われると、近所に聞こえるから恥ずかしかった」とおっしゃっていました。ちなみに、青山杉雨は最初、トク様のことをお名前で呼んでいましたが、そのうち「おーい」となり、子供が生まれてからは「おかあちゃん」と呼ぶことが多かったそうです。
お弟子さんたちには、あの書斎で遅くまで『書道グラフ』のお手伝いをしてもらったりして、仕事やお稽古ではとても厳しかったけれど、お弟子さんたちをとてもかわいがり、よく面倒をみていたといいます。

お稽古場の青山杉雨
お稽古場の青山杉雨

お稽古の時間になると、お孫さんの郁子さんは、小さい頃によくお稽古場の机の下にもぐって、そこから、ぶら下げられたお弟子さんの作品を青山杉雨と一緒に眺めていました。みんな、あんなに上手に字を書いているのに、いつも怒っていて、一人も褒めない。「おじいちゃまって、どうしてあんなに怒りんぼなの?」と、祖母のトク様やご両親によく言っていたそうです。

ご家族が、書斎の思い出で一番印象に残っているのは、青山杉雨が亡くなる前の正月に、入院先から最後に家へ帰ってきた時のことだといいます。車椅子で部屋中を案内してほしいとご子息の慶示さんに頼むと、家の中をゆっくりまわり、最後に、一番奥の小さな書斎でずーっと一点を見つめたまま、しばらくいたのだそうです。「父は、これが見納めだと思って見てるのかな…と」。


青山杉雨がいつも座っていた場所からみた書斎

書くことが本当に好きだった青山杉雨。今回復元した書斎には、青山杉雨のいろんな素顔と思い出が、ぎっしりとつまっています。

ユリノキひろば ユリノキひろばではエッセイを募集しています。「青山杉雨の眼と書」の感想をお寄せください。

カテゴリ:2012年度の特別展

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posted by 鍋島稲子(台東区立書道博物館) at 2012年08月04日 (土)