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1089ブログ

中国山水画の20世紀ブログ 第11回-90年前の美術交流 -第二回日華聯合絵画展覧会の画家たち-

いまからちょうど90年前、1922(大正11)年4月28日、3人の中国人画家が東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)を訪れます。
その名も金城、陳師曾、呉熙曾。
同年5月2日から東京府庁内の商工奨励館で開催された第二回日華聯合絵画展覧会で訪日のさなかのことでした。


金城(左)と陳師曾(右)

日華聯合絵画展覧会は前年の1921年、北京と天津で開かれ、当代日中気鋭の画家たちの作品を集めたことで大変な好評を博しました。
その続編として、日本を開催地として企画されたのが第二回日華聯合絵画展覧会です。
2月に企画が具体化し、政界、財界の支援も得て5月には開幕という、大変タイトなスケジュールであったため、会場探しにも苦慮したようです。担当者はさぞかし大変な苦労があったことでしょう。

日本側は川合玉堂、小堀鞆音、小室翠雲など79人の画家が出品。
中国側は金城、陳師曾はもちろんのこと、呉昌碩、斉白石など70人以上の画家、総数445点にのぼる作品を展示。
斉白石がその名を知られるようになったのもこの展覧会でした(「竹内栖鳳と高剣父」参照)。

この日華聯合絵画展覧会は1929年、第五回を上海、大連、奉天で開催したのを最後に開催されることはありませんでしたが、この第二回は、中国の同時代の画家たちの作品が日本で初めて、まとまった形で展観された画期的な展覧会でした。

さて、東京帝室博物館を訪問した日の午前中、中国画家一行は東京美術学校(現・東京芸術大学)を訪問しています。案内役は「美校」教授の大村西崖。
西崖は彼らの来日の前年、1921年に念願だった中国訪問を果たし、北京の地で金城、陳師曾らと会っています。
特に陳師曾にはとてもお世話になったようです。北京での案内役をかってでた陳師曾は日本に8年も留学していたので日本語はペラペラ。北京の有名書画コレクターや現代作家の訪問ができたのも、日中両語を解する陳師曾の手助けなしには実現不可能だったことでしょう。
西崖が瑠璃廠という、東京でいえば神保町のような「北京の古書店街」で大量の古典籍類を「大人買い」することができたのも、陳師曾の尽力あってのことでした。


現在の瑠璃廠

今回の特別展では、この二人の交流を示す、二冊の書物を展示しています。



1921年、大村西崖が訪中前に書き上げた『文人画の復興』(右)と、陳師曾の編になる『中国文人画之研究』(左)です。
『中国文人画之研究』には、西崖の『文人画の復興』を陳師曾が中国語訳した「文人画之復興」と、西崖に強い影響を受けて書かれた陳師曾の画論「文人画之価値」が収められています。
当時、「文人画」は、岡倉天心やフェノロサによって形成された「日本美術史」の枠組みから見捨てられた絵画主題でしたが、
その価値を再発見しようとしたのがこの二人の著述でした。
「近代化」、すなわち「西洋化」という流れの中で見捨てられていった、伝統主題としての「文人画」というキーワードが、
「東アジア」を包摂する美術用語として甦るきっかけをこの二人は担ったと言えるでしょう。
一見、ただの古い本。
ですが、この2冊の書物は、90年前の日中の美術交流を示す貴重な資料と言うことができます。

さて、記録によれば、来日画家3人はほぼ毎日宴会攻めにあっていたようです。連日の酒宴で疲労した身体を引きずりつつ、彼らは90年前の当館をどのように見ていたのでしょう?


東京国立博物館・旧本館

加えて、90年後、自らの作品が東京国立博物館に陳列されていることに、どのような想いもっていることでしょうか?


画面奥、中央が陳師曾「山水図」(No.23)。右が金城「秋山雨後図」(No.24)

1922年の第二回日華聯合絵画展覧会から90年を経た2012年の夏。
特別展「中国山水画の20世紀」は、20世紀中国絵画を見渡す、日本では空前の試みといっていいかもしれません。
近百年来の中国近現代絵画を振り返る、まさに「教科書」のような展覧会となっています。

今回作品をお借りした中国美術館でも、これだけの質と量の作品を一堂に展示する機会はなかったということです。
会期も残すところあとわずか。今週日曜、8月26日(日)でついに閉幕です。
どうぞ会場に足をお運びください。

カテゴリ:研究員のイチオシ2012年度の特別展

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posted by 土屋貴裕(絵画・彫刻室) at 2012年08月24日 (金)

 

美術解剖学のことば 第8回「レオナルド・ダ・ヴィンチと美術解剖学」

特集陳列「美術解剖学―人のかたちの学び」は、2012年7月3日(火)-29日(日)の会期をもって、無事終了いたしました。

西洋・日本近代美術、美術解剖学・解剖学、美術教育、森鷗外関係など、多くの美術・美術解剖学ファン、研究者の方々から反響をいただきました。

トーハクにはまだまだ、江戸時代の「重訂解体新書」(キュルムス(杉田玄白訳)・大槻玄沢著)や、
モチーフとしての骸骨、しゃれこうべ、木製の骨(木骨)・・・黒田清輝のヌードデッサン、そして重要文化財「智・感・情」 など、
美術解剖学の視点で語ることのできる作品・資料がいっぱいです!
1089ブログ【美術解剖学のことば】では、より現代的な美術解剖学的視点で、所蔵品を中心に、タイムリーな情報を発信していくつもりです。
 
今回は、150万人以上が来場した「モナ・リザ」展(1974年)や、「受胎告知」が話題となった「レオナルド・ダ・ヴィンチ -天才の実像」展(2007年)など、トーハクとも深い関わりがあるレオナルド・ダ・ヴィンチに敬意を表し、彼の手稿について触れたいと思います。

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 レオナルド・ダ・ヴィンチの解剖学手稿は、たいへん幸せな事に、日本でも開催された展覧会で目にする機会に恵まれ、
現在では文庫本で気軽に読むことができます。(やや古い本ではありますが、とても味わい深い内容です。)

 レオナルド・ダ・ヴィンチの手記表紙
「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(下) 〔全2冊〕」(筆者私物)
杉浦民平 訳 岩波書店 1958年・第1刷発行 1989年・第32刷版


彼の解剖学スケッチは、いま描かれたばかりではないか、と思えるほどなのですが、
その記述は、ヨーロッパの「中世的な科学思想、ならびに、用語をもって語っている」ので、
現代人が読む場合のコツとして、西欧・中世的な頭にスイッチする必要がありそうです。
※同書中、訳者による「解説」より

おお、このわれわれ人間機械の探求者よ、
君は他人の死によって知識を得るからといって悲しむな。
われわれの創造者がかかる優秀な道具(ストルメント)に
智慧(インテレット)を据付けて下さったことを悦びたまえ。 〔Qu. An. Ⅱ.5 v.〕


レオナルドが機械論的に身体を捉えている事がわかりますね。
彼の解剖スケッチは、身体のうち単体のパーツではなく、
必ず2つ以上のパーツの構造とそれらの関連を示すように描かれています。
たとえば骨と骨、それをつなぐ腱や筋肉、そしてそれらの構造によって
どんな動き/はたらき=機能が生み出されるのか、を描いているのです。

レオナルドはそれを機械的なしくみとして図示し、
その構造が生む「はたらき」の根源である“魂”の存在にまで言及しようとしますが・・・
どうやら「脳」の機能にまで至る記述は見当たらないようです。

魂は判断の中に座をしめているようだし、
判断はすべての感覚が集る場所にあるようだ。
それでこれは共通感覚と称せられる。
そして〔それは〕数多の人々が信じて来たように、
体じゅう到る処に偏在するのではなく、
いなむしろ一部分にその全体が存在している。(後略)  〔De. An. B 2 r.〕


学生の頃、第2外国語ではイタリア語を選択しましたが、
辞書を片手にしてもレオナルドの鏡文字による記述を解読するのは困難です。
(イタリア語を学べばダンテ「神曲」が読める!とおだてられた記憶が)

話を戻しましょう。

今回の特集陳列では、明治期の美術雑誌『美術評論』を展示しました。
この雑誌に、森鷗外・久米敬一郎が无名氏(森林太郎・久米桂一郎)の名で、
「藝用解剖學」を連載したのですが、その挿図にレオナルドの解剖図を使用しています。

  藝用解剖學
藝用解剖學 (雑誌「美術評論」連載)  无名氏(森林太郎・久米桂一郎)著 明治31~33年(1898~1900) 個人蔵

おそらく当時の日本人にとって、レオナルドの解剖スケッチは、たいへん貴重な情報源であり、
人のかたちの新しい認識方法としては大きな衝撃だったのではないでしょうか。


藝用解剖學 (雑誌「美術評論」連載) 挿図のページより
レオナルドの解剖手稿から、いくつかの挿図をコラージュして誌面を構成しています。



もともとレオナルドは「中世的な科学思想」の考えで、自らの経験そのままを書きとめたと思われますが、
鷗外・久米による「藝用解剖學」では、既に近代の科学(医学的)思想からレオナルドのスケッチを紹介しているのがわかります。

特集陳列では、レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿から転載された、
有名な図である「ヴィトルヴィウス的人体図」のページも展示しました。

当ブログ「美術解剖学のことば 第7回<コントラポスト> “人が立つかたち” と “美の基準”」を参照ください。

 
芸術解剖 ― ヒトの外形、静止、運動の記載   ポール・リッシェ著  1890年  個人蔵
Anatomie antistique.  Description des formes exterieures du corps humain au repos et dans les principaux mouvements
Paul Richer(1849-1933)

美術解剖学という「学び」において、レオナルドの解剖手稿は、
現在も最高・最良の図譜と記述を参照することができる、
原点であり、ひとつの到達点である、ということなのだと思います。

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 木下史青(デザイン室長) at 2012年08月22日 (水)

 

中国山水画の20世紀ブログ 第10回-李可染の画室

特別展「中国山水画の20世紀 中国美術館名品選」に出品されているのは、
20世紀に活躍した中国人画家28人の渾身の力作、50件の絵画作品です。
いずれも中国では知らぬ人はいないほど、大変著名な画家たちですが、
日本では今まであまり展示や紹介をされることがなかったため、
初めて中国の近現代の作品を見た!この画家は誰? という方がほとんどだと思います。

名前を知っている画家というのは、不思議なことに非常に親しみが湧くもので、
もっとほかの作品を見たい、この作品はどのようにして制作されたのか知りたいと思われる方も多いのではないでしょうか?

本展では、「画室の再現」として展示室の一角にコーナーを設け、
画家の愛用した文房具類、筆や文鎮、硯や溶皿などの参考展示を行っています。



北京での作品調査の折、参考展示のため画家の文房具などをお借りしたい、と中国美術館に相談したところ、
すぐに連絡をとって紹介してくださったのが李可染(りかせん 1907-1989)のご家族でした。

李可染(No.31,32)は、幼いころから画をよくし、国立西湖芸術研究院に在籍した頃は、林風眠(No.28~30)から油画を学びました。
その後、斉白石(No.4~7)や黄賓虹(No.8~10)に長らく師事、北京に移ってからは現在の中央美術学院の国画系の教授を務め、多くの作品を残します。


No.31 蜀山春雨 李可染筆 中国美術館蔵
伝統的な墨色を基調としながらも、光の差し込みが表現される独自の山水画で知られます。

その李可染の住居兼画室には現在も奥様がお住まいとのこと。
さっそくお宅に伺いますと、李可染の奥様、鄒佩珠(すうはいじゅ)さんみずから
日本から来た私達を出迎え、大変歓迎してくださいました。

奥様の鄒佩珠さんは1920年生まれの御年92歳。13歳年上の李可染と23歳のときにご結婚されました。
ご自身も彫刻家であり、中国の女性彫刻家としては草分け的存在、なんと中央美術学院で教鞭をとったこともあるそうです。

1946年、北京に招かれた李可染は、市内の集合住宅に移り住み、
その一室を、牛を師とするという意味の「師牛堂(しぎゅうどう)」と名付け、作画活動を行いました。
山水、人物のほか牛の絵も得意とした李可染。中国では昔から、牛の画題が好まれました。
7月7日生まれの奥様を七夕の「織女」に、李可染は自らを「牽牛」に見立てていたのでしょうか。
多くの弟子を輩出し、名を成した李可染の画室「師牛堂」には、その教えを受けようと、
たくさんの人が訪れました。

1983年、日中平和友好条約締結5周年を記念し、
李可染の個展が東京と大阪でひらかれました。
その際には夫妻で日本を訪れ、平山郁夫、東山魁夷、加山又造ら当時の日本画壇重鎮と
親交を結び、のちもお互いを行き来し家族ぐるみの交流を重ねたようです。


1980年代、李可染画室「師牛堂」にて。中央が平山郁夫。

数々の作品を世に送り出した「師牛堂」は、李可染が活動していたころそのまま。
1畳ほどの大きさのどっしりとした木製の机に毛氈を敷き、傍らの筆架には何本も筆がかかります。
自ら揮毫した「師牛堂」の扁額を背に、毎日創作に明け暮れたのでしょう。

その「師牛堂」で、在りし日の李可染の様子を生き生きと楽しそうに語る鄒佩珠さんのお顔は、
こちらまでうれしくなるような優しい笑顔がとても印象的でした。

作品を生み出した作者像については、時代を遡るにつれどんどん見えなくなり、
その時代背景や周辺の環境などから類推するしかありませんが、
幸い本展出品作品の画家たちは、20世紀を駆け抜けた私たちの祖父母、曾祖父母世代!
その人となりを知る手掛かりは大変豊富です。

会期もあとわずかとなりました。これだけの名品が一堂に会すことはなかなかありません。
是非会場に足をお運びいただき、存分にその魅力をお楽しみください。

日中国交正常化40周年 東京国立博物館140周年 特別展「中国山水画の20世紀 中国美術館名品選
本館 特別5室   2012年7月31日(火) ~ 2012年8月26日(日)

 

カテゴリ:研究員のイチオシ2012年度の特別展

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posted by 高木結美(特別展室) at 2012年08月21日 (火)

 

特集陳列「動物埴輪の世界」の見方2─鳥形埴輪・鶏編

夏休みを挟んで開催される今回の特集陳列「動物埴輪の世界」(平成館考古展示室、2012年7月3日(火)~10月28日(日))は、大人から子供まで多くの皆さんに是非、ご覧頂きたいと思っています。
前回のブログで説明しましたように、展示は主に鳥形埴輪 →猪・犬形埴輪 → 馬形埴輪の順に構成されていますが、今回はこのうち、最初に“群れ”をなすように展示されている鳥形埴輪についてご紹介します。

猪・犬や馬はいわゆる4つ足の哺乳動物ですが、爬虫類から進化したと考えられる鳥類は四肢のうち、前肢を大きく変化させて、地上から空に活動の場を拡げた動物の代表です。
その活動は空中はもちろん水中や地上にと、(マサに・・・)“飛躍的”に拡がったため、多様な環境に適応した実にさまざまな姿を獲得した動物でもあります。

埴輪の鳥は、このうちいくつかの種類が表現され、明確に造り分けられています。
その訳(理由)はおいおい触れるとして、まずは鳥形埴輪の種類を見ておきましょう。

「動物埴輪の世界」展示風景
鳥形埴輪展示部分(左から:鶏形・水鳥形埴輪)

埴輪の鳥には、主に地上で暮らす鶏と、水上を主な生活の舞台にする水鳥を象ったものがあります。
このうち、鶏形埴輪は古墳時代前期(3世紀後半~4世紀後半)には出現し、実はすべての形象埴輪のうち、家形埴輪と並んでもっとも早く出現します。水鳥形埴輪は古墳時代中期(4世紀末~5世紀末頃)からしか認められません。他に、6世紀以降には猛禽類の鷹形の埴輪も造られました。

一方、鶏形埴輪は埋葬施設が設けられた古墳の墳頂部から出土するのに対し、水鳥形埴輪はしばしば古墳の周濠に築かれた中島などから出土します。
一口に鳥形埴輪といっても、埴輪としての意味と役割は複雑で、その性格は大きく異なっていたことが窺えます。また、いずれも人物埴輪や他の動物埴輪よりいち早く出現することも注目されます。

それでは、最初は鶏形埴輪から見てゆきましょう。
展示ケースの一番はじめに、スッと伸びる円筒部上に美しい姿を見せているのは、栃木県鶏塚古墳の鶏形埴輪です。この埴輪が出土したことで、古墳の名前が付けられたほどの優品です。

頭部には目立つ鶏冠(とさか)と嘴(くちばし)下の肉髥(にくぜん)が付けられ、大ぶりの尾部などからも、一見して立派な雄鶏(おんどり)を象っていることが判ります。
この古墳には別の鶏形埴輪もたてられていたようで、頭部の特徴からさらに雄鶏と雌鶏が認められ、併せて4羽の鶏形埴輪が出土しています。

鶏形埴輪
埴輪 鶏(写真左・雄鶏)、(写真・左:雄鶏、右:雌鶏) 栃木県真岡市京泉塚原 鶏塚古墳出土 古墳時代・6世紀(橋本庄三郎氏他3名寄贈)

一方、鶏形埴輪のもう一つの大きな特徴は、多くが止まり木を掴んだ脚の表現を伴うことです。前3本、後ろに1本の脚指で止まり木をしっかりと掴み、なかに蹴爪(けづめ)まで表現されたリアルな例もあります。
昼間は地上で活動し、夜間は危険を避けるために高い木に止まる鶏の習性を見事に捕らえた造形と考えられます。
このように見れば、鶏形埴輪は餌を探しついばむ「昼間」の姿ではなく、「夜間」の生態を写した造形といえそうです。

鶏形埴輪実測図(奈良県纏向坂田遺跡出土・4世紀)
鶏形埴輪実測図(奈良県纏向坂田遺跡出土・4世紀)
[清水真一論文1996『奈良県立橿原考古学研究所論集』11より]


これらの特徴から、鶏形埴輪は奈良時代の『記紀』に登場する「常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)」の性格と大変よく似ているという説が有力です。

『日本書紀』神代上第七段本文
「[前略] (天照(アマテラス)大神が)発愠(イカリ)まして、乃(スナハ)ち天石洞(アマイハヤ)に入り
まして、磐戸(イハト)を閉(サ)して幽(コモ)り居(マ)しぬ。故、六合(クニ)の内常闇(トコヤミ)に
して、昼夜の相代(アヒカハルワキ)も知らず。[中略] 時に、八十万神(ヤオロズノカミタチ)、天
安河邊に会ひて、[中略] 遂に常世の長鳴鳥を聚(アツ)めて、互いに長鳴きせしむ。[後略] 」

天照大神が弟神の須佐之男(スサノヲ)命の暴虐ぶりに機嫌を損ね、天岩屋戸に隠れてしまってこの世が闇夜となった有名な一節で、困り切った八百万神が集まり知恵を絞って常世長鳴鳥を集めたり、さまざまな祭祀を行った結果、高天原(タカマガハラ=天)と葦原中国(アシハラナカツクニ=地上)に光と秩序が戻った、という日本神話のハイライトシーンの一つです。

ここに太陽を出現させる存在として、常世長鳴鳥(鶏)が登場しています。もちろん神話的な表現ですが、当時の人々にとって太陽の復活と信じられた朝日は、鶏が鳴いて初めて登ると考えられていたことが窺えます。

おそらく、人々は夜明け前に鳴く雄鶏の不思議な能力に畏敬の念を抱き、鶏は太陽神(日神)信仰を支えた時告(ときつげ)鳥として重要視されたことでしょう。
一方、「時の管理」はいつの世でも人々を支配する者の特権です。飛鳥時代の朝廷でも、660(斉明6)年に都城の建設に先駆けて漏刻(ろうこく=時計)が製作され、平安時代に至るまで朝廷が人々に時を知らせたと記録されています。
鶏形埴輪は首長の祭祀権と支配権の象徴として、いち早く形象埴輪群の中心として製作されたようです。

鶏形埴輪
埴輪 鶏(左・雄鶏) 群馬県伊勢崎市赤堀今井町毒島995 赤堀茶臼山古墳出土 古墳時代・5世紀
鶏形埴輪展示全景(右

キジ科の鶏は、紀元前5000頃にはすでに中近東やエジプトで飼われ、紀元前2000年以降にはインド、中国でも前漢代(BC.3~AD.1)には家禽として相当普及していたことが知られています。
日本列島では、鳥形土製品・木製品や骨格資料などによって弥生時代から確認できますが、食肉・採卵用の実用種は江戸時代以降の輸入種で、名古屋コーチンなどのいわゆる地鶏は、明治~大正年間に輸入された中国原産種と日本古来の在来種の品種改良によってつくられた品種です。

動物学の分類では、在来種はすべて鑑賞用などの非実用種に限られるといいますので、日本列島では永らく人間社会に深く関わる動物として位置づけられてきたようです。
今年も猛暑が続き夏も真っ盛りですが・・・、ビールのお供に焼き鳥(♪~)という「定番」はごく最近に成立した風景で、現代人の“常識”だけでは古代の鶏の姿はなかなか見えてこないようです。
是非“先入観”を振り払って、これらの鶏たちを虚心に見つめて頂ければ、我々の祖先の視線に一歩でも近づいて頂くことができるのではないかと思います。

次回は、水鳥形埴輪についてご紹介します。


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カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年08月20日 (月)

 

書を楽しむ 第20回「良寛」

書を見るのは楽しいです。

より多くのみなさんに書を見る楽しさを知ってもらいたい、という願いを込めて、この「書を楽しむ」シリーズ、第20回です。

まずは、本館8室・書画の展開で展示中の作品の画像をご覧ください。


自画賛 良寛筆 江戸時代・19世紀 竹内静子氏寄贈
自画賛 良寛筆 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵(竹内静子氏寄贈) (本館8室にて9月2日(日)まで展示)

これを書いたのは、良寛(りょうかん、1758~1831)です。
ゆるやかに見える線で書かれた文字。
右は、「貴賎老少 / 惟自知」。
左は、「良寛書」とあります。

真ん中は、朝顔に見えましたが、
ドクロ(髑髏)の絵です。
良寛はほかにも髑髏を描いていて、
禅の世界では、髑髏は情識分別をはなれたさまをあらわしています。


良寛の書をエンピツで写してみました。

エンピツで写した良寛
エンピツで写した良寛

写してみると、絶妙のバランスがあることに気付きました。
「老」の縦線は、横線と交差する上と下の長さが違います。
適宜、空間を持たせていて、
自分自身の呼吸というか、間のとり方が上手い!
線のスピードにも変化をつけて、
字形を引き締めています。

良寛の独特の書は、
夏目漱石(1867~1916)や、安田靫彦(1884~1978)も好んだそうです。


一行書「積徳厚自受薄」(左) 和歌(あきのひに)(右) 
一行書「積徳厚自受薄」(左) 良寛筆 江戸時代・19世紀
和歌(あきのひに)(右) 良寛筆 江戸時代・19世紀
  東京国立博物館蔵(竹内静子氏寄贈)
(ともに今年度の展示予定はありません。ごめんなさい。)


良寛は、江戸時代後期の越後(新潟県)の人です。
若いころに出家して、22歳から岡山県の円通寺で修行しました。
諸国をまわったあと越後に戻り、
托鉢をしながら人と触れ合い、書や詩をよく書いていました。

良寛は、「秋萩帖」(国宝、当館所蔵)の拓本を持っていたことが
知られています。

国宝 秋萩帖
国宝 秋萩帖  伝小野道風筆  平安時代・11~12世紀  東京国立博物館蔵
(2013年夏の特別展「和様の書」で展示予定!)



「秋萩帖」は、古様の草仮名の遺品として有名ですが、
良寛の書のくずし方は、草仮名の雰囲気があります。
良寛が「秋萩帖」をよく学んだことがわかります。


私は、良寛の書から、
静けさと同時に、ゆらぎのない強い意志を感じます。
それは、
良寛の暮らしぶりと、その暮らしをつらぬいた姿勢を、
私が、良寛の書に重ねているのかもしれません。


書を見る。
その人の生涯を調べて、
あらためて書を見る。
印象は変わったり、変わらなかったり。
それも書を見る楽しさのひとつです。

カテゴリ:研究員のイチオシ書跡

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posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2012年08月19日 (日)