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ようこそ日本へ!「清明上河図」!後編

このブログは、「ようこそ日本へ!「清明上河図」!前編」(1月2日掲載)に続く後編です。
作品のあまりの細密なその内容に、ブログ1回では語るに足りず、前後編2回でお届けしております。
(以下、作品の掲載画像はすべて、[一級文物] 清明上河図巻(せいめいじょうかずかん)(部分)
張択端(ちょうたくたん)筆 北宋時代・12世紀 中国・故宮博物院蔵
[展示期間:2012年1月2日(月・休)~24日(火)])

おそらく「清明上河図」の細密な描写は、多くの日本のお客様にとっては、初めてのびっくり体験になるかもしれません。なにしろ、「清明上河図」が国外で展示されるのは初めてなのです。
多くの庶民の当たり前の日常が、生き生きと描かれたこの画巻は、自然と私たちの共感を生みます。おそらく作者の張択端も、皆がこうやって、画巻を眺める様子を予想して描いたに違いありません。とにもかくにも、見ていると楽しい絵なのです。


(実寸は約3センチ)
「はいはい、ごくろうさん。そこにおいてね。」よく見るとおじさん、笑顔です。


(実寸は約3センチ)
徴税の役人。「お役人さん、ちょとまけてぇな~。」「あかん、あかん。決まりは決まりや。」


(実寸は約3センチ)
占い師。人の運勢が気になる野次馬は、昔も今も一緒ですね…。


「清明上河図」は、ただの「うまい」絵というだけではなく、その画面から作者の人間への愛や、人間社会への信頼のようなものまで感じることができます。中国の伝統文化は人間の人間性を何よりも重視してきました。中国で「清明上河図」が今も圧倒的な人気を誇っているのは、このようなヒューマニズムの伝統と関係しているように思えてなりません。


(実寸は約3.5センチ)
話上手な物売り。書画のようなものを売っていいますね。実は張択端の自画像かもしれませんね。


(実寸は約3センチ)
銅銭を数える人。ちゃんと勘定あってるかな?
宋代は銅銭の時代でした。宋代史研究にも一級の史料です。


(実寸は約3センチ)
何やら楽しそうなおしゃべり・・・。


(実寸は約2,5センチ)
父母に肩車される子ども二人。「お父ちゃん、あれ買って~!」「しゃあないなぁ。」
ほのぼのとした一場面。


この画が描かれたのは約900年ほど前、12世紀の初めです。このような豊かな市民社会が成立していたことこそが、西洋に先駆けて宋代に近世が成立していたと京都学派が考える根拠ともなりました。

さて今回の特別展にあたり、故宮博物院の、そして中国の至宝である「清明上河図」を迎えるために、作品を安全に展示し、かつ見やすい特別のケースを作りました。そして図録や展示場には、細やかな表現を楽しんでいただくために、故宮博物院から写真の提供を得て、拡大写真も入れました。展示では見にくいかもしれませんが、図録では「橋の下の魚」の表現も、ばっちり楽しんでいただけます。



「清明上河図」特別展示ケースの照明実験
安全に快適に鑑賞できる展示を目指して、毎晩努力が続けられました。

 
故宮博物院での、慎重な上にも慎重な点検作業


図録の色校正。「清明上河図」のクライマックスシーンは、見開き拡大で楽しんでいただけます。


「清明上河図」には778人ぐらいの人が描かれています。「ぐらい」というのは、あまりにも表現が細かすぎて、人か人でないかがわからないところがたくさんあるからです。ちなみに私が一番好きなのは、どんぶりをかきこむ男(下)、です。


(実寸は約1,5センチ)
顔いっぱいにどんぶり!腹へってたんでしょうな~。
人間って900年前から同じですね!

しかし、この絵画が制作された背後には、徽宗朝の歴史社会的な興味深い背景がありました。おそらく徽宗の治世を喜び、皇帝と臣下たちが共に見るために描かれたのが本図なのでしょう。宋代の宮廷にはこのような絵画が必要とされていたからです。
面白いだけではなく、とっても深い「清明上河図」。今回の「清明上河図」来日のためには、本当に多くの方の努力がありました。もし故宮に行かれることがあったとしても、「清明上河図」は常には展示されておらず、中国でも次にこの作品が見られるのは何年後になるかわかりません。(ましてや、次に来日するのはいつになることか...。)
まさに、千載一遇、一期一会の機会。ぜひトーハクに足をお運びいただき、「清明上河図」の世界を楽しんでいただければ幸いです。


おすすめ!
公式ホームページでは、「清明上河図」の拡大図画をご覧いただける、「清明上河図で遊ぼう!」が公開されています。

また、TOPページ「会場ライブ」では、会場の混雑状況、入場規制等についてご案内しております。
併せてご利用ください。  

カテゴリ:研究員のイチオシ2011年度の特別展

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posted by 塚本麿充(東洋室) at 2012年01月04日 (水)

 

ようこそ日本へ!「清明上河図」!前編

清明上河図」が、はじめて中国を離れ、ここ日本で特別展「北京故宮博物院200選」(~2012年2月19日)にて公開されています。2012年1月24日(火)までの限定公開です。今回はこの魅力あふれる中国絵画史上の傑作について前後編2回に渡ってお話したいと思います。
(以下、作品の掲載画像はすべて、[一級文物] 清明上河図巻(せいめいじょうかずかん)(部分)
張択端(ちょうたくたん)筆 北宋時代・12世紀 中国・故宮博物院蔵
[展示期間:2012年1月2日(月・休)~24日(火)])

私がはじめて「清明上河図」を見たのは、1999年、建国50周年を記念して開かれた故宮博物院の大展覧会でした。当時は太和殿の西回廊が絵画展示室となっており、まだ大学院に入りたての私は、先生につれられて初めて北京に赴きました。初めての中国、初めての北京で、紫禁城の巨大な空間に驚き、行けども行けども尽きない金色の瓦に圧倒されました。
私たちの見学旅行は12日の行程で10日間毎日故宮に通い、ギャラリーで作品を見るというものでした。先生方は作品を見始めると、一つの作品の前からまったく動きません。2日も3日も同じ場所で同じ作品を見ています。何をそんなに見ているんだろう、当時の僕はそう思っていました。ところが、やはりしっかりと見ないと中国の絵画作品はよくわからないのです。


たとえば、「清明上河図」には、橋の上から下をのぞきこんでいる人々が描かれています。

赤い円で囲った辺りを見つめているようです。何があるのでしょうか?

一見すると何気なく水面をながめているようにみえますが、実はよくみると、水の中には魚が泳ぐ姿が淡墨で描かれており、人々はこの魚を見ていたのです。この時私は初めてこのことを教えてもらいましたが、ガラスケースの向こうに魚の姿が見えたとき、背筋に寒いものさえ感じました。日本の絵画とはまったく違う世界がここにあるんだ、ということがわかったからです。


淡墨で描かれた魚群


宋代は中国絵画の写実表現が最高峰に達した時代でした。宋画に“いいかげんな”描写はありません。何を見ているのか、何をしているのか、画家はすべてを計算して描いているのが、宋代絵画の特質です。「清明上河図」は、私に中国絵画の画技のすごさを教えてくれた作品でもありました。


(実寸は約5センチ)
この船の細密描写!ロープや板の一枚一枚まで描かれます。


(実寸は約2センチ)
「おいおい何してるんだぃ、ぶつかっちまうよ!」声まで聞こえてきそうな描写です。


(実寸は約2,5センチ)
船に渡された板を渡る人。いかにも、「おっとっと(汗)」って感じです。うまい!


(実寸は約3センチ)
「あれ、ちょっと上司にあっちゃったかな。まずいな…」って場面でしょうか。



私が二度目に「清明上河図」を見たのは、南京師範大学美術学院に留学中の2002年のことです。「晋唐宋元書画国宝展」と題されたこの大展覧会は、故宮、遼寧省博物館、上海博物館の名品が一堂に会した、まさに画期的大展覧会でした。この千載一遇のチャンスを逃すまいと、南京師範大学からも特別バスが出て、私を含む学生たちは大挙上海へと赴きました。この時は「清明上河図」を見るための4時間待ち、5時間待ちの行列が深夜に至るまで延々と続き、「清明上河図」が中国の人々の心に占める比重の大きさに圧倒されました。私も「清明上河図」を見たい一心で、毎朝4時から列に並んだ一人です。同じことは、2004年の遼寧省博物館でも繰り返されました。まさに、中国人の「心の絵」といってもよい作品が「清明上河図」なのです。


北京・首都空港では巨大な清明上河図が飾られています。

(後編も近日公開予定です。お楽しみに!)

カテゴリ:研究員のイチオシ2011年度の特別展

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posted by 塚本麿充(東洋室) at 2012年01月02日 (月)

 

考古展示「飛鳥時代の古墳」コーナー新設

平成館1階の考古展示室に、新たに「飛鳥時代の古墳:古墳時代Ⅴ」コーナーが新設されました(2011年12月13日(火)~)。



当館の考古資料は、先史分野(旧石器~弥生時代)や有史分野(奈良~江戸時代)に比べ、明治時代以来の収集活動によって原史分野(古墳時代)が比較的充実していました。
ところが、終末期古墳が築かれた飛鳥時代は前方後円墳が消えて副葬品が著しく減少し、考古資料が大変少ない時期です。

奈良県東大寺の正倉院でも、聖武法皇七七忌の献納品目録『国家珍宝帳』にみえる武器類は藤原仲麻呂の乱(764年)の戦闘で持ち出されてしまって(!)、とくに甲冑はまったく残っていないことは有名です。
(文献史料でも同じですが・・・)歴史の復元は、時代・時期によっては容易ではありません。

このような中で、このたび2009年(平成21年)に御寄贈頂いた大阪府河内地域の終末期古墳・塚廻(つかまり)古墳出土資料を軸に、飛鳥時代の展示を新設することができました。
歴史時代(有史分野)の展示部分との橋渡しとして、古代律令国家形成期の展示は、長年の“悲願”であったともいえます。

塚廻古墳出土品 大阪府南河内郡河南町平石 塚廻古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀 大阪・平石塚廻古墳調査会寄贈


当館の日本考古資料による展示は、以前、表慶館の8つの部屋で行われていましたが、1999年の平成館開館に合わせて、現在の本格的な日本考古の通史展示としてオープンしました。
本展示室は1150㎡の規模で、四方の長大な壁ケースに特色があります。最大の北壁ケースは約40m(日本一!)です。

1996年(平成8年)の計画段階から、この特色を活かすべく検討が重ねられた結果、旧石器時代から江戸時代までを12のテーマに分けて、日本列島の歴史的展開を描き出すことが構想されました。
如何にして、この長大なケースで飽きさせることなく歴史像の展開を見て頂けるか・・・。それには展示の構成や方法とともに、展示デザインが重要と考えられました。
そこで、文化庁が1992年にアメリカ合衆国ワシントンで開催した日本考古展を担当された米スミソニアン博物館機構の展示デザイナー:J・ゼルニックさんに、展示デザイン全般を担当して頂くことになりました。

基本的に、観覧者の正面には作品だけで、テーマパネル以外は壁面上部の中解説とケース手前のキャプション・小解説だけとし、見学・鑑賞に集中して頂けるように工夫されています。
各時代は壁色と共に、最上部のタイムラインと呼ばれる色分けで区別され、色彩でも全体の調和が保たれています。
ちなみに、今回の新コーナーも全体の中に自然な形で組み込まれていますね。当館デザイン室の矢野賀一さんの力作で、これも見所の一つです。

新コーナーは緑のタイムラインです。


さて、本コーナーのテーマである終末期古墳は、墳丘の版築工法、横口式石槨の漆喰、前室床面に敷詰めた塼(せん=煉瓦)状榛原石や緑釉の棺台、乾漆技法の夾紵棺・漆塗籠棺が特色です
随所に、当時の先端技術であった寺院建築・仏像製作などの影響が強く見られます。

緑釉棺台残片 大阪府南河内郡河南町平石 塚廻古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀 大阪・平石塚廻古墳調査会寄贈

また副葬品でも、刺繍用の金糸・銀糸、金象嵌大刀や緑秞の原料である鉛ガラス製の玉類など、終末期古墳の主な特徴が揃った姿をみることができます。
 
金糸・銀糸(左)、螺旋状金線・銀製七宝飾金具(中)、金象嵌大刀(右)
大阪府南河内郡河南町平石 塚廻古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀 大阪・平石塚廻古墳調査会寄贈



これらの急激な変化は、飛鳥時代が古代東アジアにおける激動の時代であったことと密接な関係があります。
6~7世紀の古代東アジアは、中国の隋(581年)・唐(630年)が律令を軸とした統一国家を完成し、倭(日本)は600年以降、遣隋使・遣唐使を派遣して先進文化の摂取に努めました。 
その一端は、奈良県飛鳥寺(法興寺:590年頃)・法隆寺(607年)や、各地の初期寺院の建立に表れています。

しかし、7世紀中頃には朝鮮半島の百済(660年)・高句麗(668年)が相次いで滅亡し、百済復興を目指した倭も663年に唐・新羅連合軍に破れるなど、国家存亡の危機に立たされます。以後、国際的緊張関係の中で、日本は急速に律令国家の建設を進めてゆくのです。
当時の政権の中枢に近い人々は、伝統的な古墳文化と大陸の新しい文化の融合・衝突という狭間で揺れ動いていたようです。その有様は、まさに終末期古墳という従来とはまったく異なる古墳への劇的な変化によく表れています。


展示の主役である大阪府塚廻古墳は、7世紀代の一辺約40mの大型方墳で構成される平石古墳群の最後の古墳です。
北方2㎞にある南河内郡磯長谷は「王陵の谷」(近つ飛鳥)とも呼ばれ、6~7世紀の天皇陵古墳をはじめとして、大型終末期古墳が集中する磯長谷古墳群が分布しています。
平石古墳群の被葬者も、激動の時代を勝ち抜いた古代有力豪族であったに違いありません。 

このコーナーを通じて、日本列島の古代国家成立期の中でもっとも波乱に満ちた飛鳥時代に到来した古代東アジア文化の新しい息吹を感じ取って頂ければ幸いです。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2011年12月22日 (木)

 

長船長光の太刀

こんにちは。平常展調整室の酒井です。
ブログは初めてです。どうぞよろしくお願いします。

さて、今日は刀剣の魅力を少し書かせていただきたいと思います。
刀剣は刃物であるため焼刃がついています。その焼刃の模様のことを刃文(はもん)といいます。
今回は、この刃文について、本館13室で展示している長船長光(おさふねながみつ)の太刀から説明したいと思います。


以下画像全て 国宝 太刀 銘 長光 鎌倉時代・13世紀
(~2012年2月19日(日)展示)

この太刀は今から約750年前に長船長光という刀工によって作られたものです。
長船派は鎌倉時代中期に備前国(岡山県)で興った日本刀の流派で、以降中世末期に至るまで大きく栄えました。


さて、この太刀の刃文をみてみましょう。



中ほどをみると、チョウジの実をならべたような刃文がみえます。
この刃文を丁子乱(ちょうじみだれ)と呼びます。


丁子乱

刃の幅に高低差があって、何とも賑やかで華やかな印象を受けます。
さらに、先端の方を見てみると、今度は半円形の凹凸が連なっている刃文となっています。



こうした刃文を互の目(ぐのめ)といいます。


互の目

丁子乱に比べ高低差が少なく穏やかな印象を受けませんか。

下から上へと辿っていきますと、その刃文は複雑な変化をみせながらも、全体としてはよどみなくまとまっています。
こうしたリズミカルな刃文の統一感こそ、この太刀が名刀である理由のひとつといえます。

なお、刃文はこうした抑揚のあるものもありますが、直線的なもの(直刃(すぐは))、わずかにウエーブがついたもの(のたれ)もあります。
常時12口の様々な刃文をみせる刀剣を展示していますので、お好みの刃文をお探しになってみてはいかがでしょうか。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ

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posted by 酒井元樹(平常展調整室) at 2011年12月21日 (水)

 

「古墳時代の神マツリ」のミカタ(見方・味方…) 1

2011年11月1日(火)から、特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))が始まりました。

特集陳列「古墳時代の神マツリ」

平成23年度文化庁考古資料相互活用促進事業として、今年度は長野県立歴史博物館館山市立博物館と相互に考古資料の交換展示を行っています。平成10年度に始まった本事業も、今年で14年目を迎えました。

この事業は国立博物館所蔵の各地出土考古資料を地元の地方博物館で公開すると共に、地方博物館所蔵の考古資料をいつもとは違った環境で公開する機会ともなっています。そこで、お借りする資料に相応しい当館収蔵資料を併せて、毎年さまざまなテーマで特集陳列を行っています。
普段なかなか展示でお目に掛けられない当館収蔵資料を地方博物館所蔵の逸品と一緒にご覧頂く、絶好の機会です。



今年度は両博物館から、古墳時代の祭祀遺跡から出土した資料をお借り出来ましたので、普段あまり馴染みがない(ややマイナーな?)祭祀遺跡をテーマにした特集陳列を企画しました。

日本古代史や東洋史では、一般に古事記・日本書紀や風土記以外は主に中国の史料(漢籍)を用いた海外交渉史・政治史や社会構成史の研究が盛んで、考古学で も文化史的な研究や古墳・官衙の政治史的な研究が中心です。飛鳥・奈良時代以降とは違って史料上の制約もあり、歴史学の大きな柱である社会思想史の視点で はあまり研究が進んでいませんでした。

しかし、祭祀遺跡の研究は、当時の信仰の対象やさまざまな神マツリに使用された道具(祭祀遺物)を分析するもので、当時の人々の思想や世界観を解明する上で重要な分野といえます。

長野県立歴史博物館 借用品展示風景
長野県立歴史博物館 借用品展示風景(古墳時代・4世紀 長野市石川条里遺跡出土品)

日本列島の古代国家成立期にあたる古墳時代は、3世紀後半に出現した古墳の分布拡大とともに、弥生時代の土器などにみられた地方色が急速に消滅し、7世紀の飛鳥時代を経て、8世紀に律令国家が完成するまでの激動の時代です。

他の時代と比べて長いとは言えませんが、カマドのような基本的な生活技術から当時のハイテクともいうべき製鉄やガラス・貴金属製品の生産技術など が、続々と渡来・定着した時代です。人物埴輪でおなじみのズボンとスカートに上着といった、よく知られた2ピースのスタイルも、4~5世紀頃におそらく騎馬文化の到来に伴って招来された服装と考えられています。

ちょうど、日本が明治維新や第2次世界大戦後に経験したような、食事や髪形・服装などの生活文化から電話などの通信技術や鉄道・自動車に至る社会的なインフラまで、何もかもすっかり変わってしまった急速な近代化によく似ています。
大陸のさまざまな分野の人と技術が次々に渡来し、縄文・弥生時代の生活技術を中心とした「先史文化」が急速に “近代化”していった時代なのです。


千葉・館山市立博物館 借用品展示風景(古墳時代・6世紀 千葉県館山市沼つとるば遺跡出土品)

我々の祖先はこのようなめまぐるしい変化の中で、自然の中に見出していた神威に何を感じ祈ってきたのでしょうか。
奈良時代の記紀・風土記には、交通の難所である峠や岬、離島などにすむ荒ぶる神が人々の往来を妨げ、恐れられていたことがみえています。神々を鎮(しずめ)るために、さまざまな奉献品を手向(たむ)けた場所が祭祀遺跡と考えられています。

ところが、手捏(てづくね)土器を基本とする祭祀遺跡の出土遺物は、時期ごとに大きく様変わりしてゆきます。古墳時代前期の4世紀には、実物の銅鏡・玉類や精巧な滑石製模造品が用いられますが、5世紀前半には滑石製模造品が小型・多量化するとともに須恵器や土製模造品が現れます。後期の6世紀には人形・馬 形土製模造品が加わり、実に多様化してゆくのです。

これらは時代の変化に伴って、当時の人々が神々に対する観念を変えていった過程を垣間見せています。その向こう側に見え隠れする神マツリの在り方は、平安時代の延喜式などの記録にみえる律令的な国家祭祀の神統譜に編制された神々の体系とは、ずいぶん異なった姿のようです。


当館所蔵品展示風景(古墳時代・6世紀 群馬県太田市世良田町米岡所在遺跡・群馬県前橋市三夜沢櫃石遺跡出土品 他)

祭祀遺跡から出土する祭祀遺物は、手捏土器と石や土などで造られた簡略な造形の模造品が多く、一見して粗雑で非常に地味なものばかりです。しかし、これらは古代国家成立期の原初的な神々の移り変わりを示すものとして重要です。

今回の展示ではその過程を、多様な祭祀遺跡の出土品で辿(たど)ります。
前置きが長くなってしまいましたので、今回の特集陳列の見どころは機会を改めてご紹介致します。

実は、本展示を理解する上で、是非、比較して頂きたい資料が同じ考古展示室にはたくさん展示されています。これらの展示品は、いわば本特集陳列の“第2部” ともいうべきものですので、これらも併せてご紹介してゆきたいと思います。

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2011年12月13日 (火)