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1089ブログ

書を楽しむ 第8回「九条家本『延喜式』の紙背文書の料紙について」

紙のリサイクルはいつごろからはじまったのでしょうか。実は、日本で紙が本格的に使われるようになった奈良時代には、すでに一度使われた紙の余白や裏を利用して文字を書くことが行われていました。当時、紙はとても貴重だったので、文字を書く余白がなくなるまで、大切に使われていたのです。

日本では、江戸時代に活字本が普及するまでは、読みたい本がある場合、人から本を借りて、自分で書き写したものを読むのがごく普通のことでした。

本館3室の宮廷の美術で2012年3月18日(日)まで展示されている、九条家本『延喜式』は、平安時代の後期に、政治・文化の中心にいた摂関家が、関係する機関に命じて、使用済みの紙を集め、摂関家の周辺にいる文字の上手な人々に書き写させた本であると考えられています。

『延喜式』が書かれた紙の裏側には、10世紀から11世紀のころの役所の文書や、手紙などさまざまな内容のものがたくさん残っています。このように、紙の裏側に書かれている文書などを紙背文書とよんでいます。
以降掲載の画像は左右組で下記のとおり
(左)国宝 延喜式 紙背文書(部分) 平安時代・10~11世紀 28巻のうち(透過光による撮影)
(右)左画像の作品の×100の顕微鏡写真(1目盛りが0.01mm)
(~2012年3月18日(日)展示。画像の部分は展示されていません。)



 

左の画像は紙の裏からライトの光をあてた様子です。虫喰いのあとの様子もよくわかります。墨が混じっているので、漉き返した紙のようです。
紙背文書のなかには、書くのを途中でやめてしまった手紙なども含まれているため、内容がわかりにくいのです。
ほとんどの文書は、紙が虫に食べられてしまい、全体に裏打ちがされています。これも紙背文書の解読を困難にしています。
そのようなときは、裏からライトの光を当てると透けて読めることもあります。でも、後に書かれた文字も一緒にみえるため、今度は裏と表と交互にみながら、どの部分が解読しようとする文字であるかを判断しなければなりません。


 

犯罪者を捕まえたりする検非違使(けびいし)庁の役人の文書です。薄手ですが、上質の紙が支給されていたようです。
同じ時期のいろいろな内容の文書などがまとまっていることは、奇跡といってもよいでしょう。
しかも、紙を調べてみると、当時の人々が、書く手紙の内容によって、紙の種類を使い分けていたことなどもわかります。


 

こちらの文書は、法律に関する質問状のようです。紙は、楮(こうぞ)を原料とした紙です。
繊維の間に白いつぶつぶがみえるのは、紙を白くするためにお米の粉を混ぜています。
白米を一晩水に浸けておき、柔らかくなったものを、石臼(いしうす)で細かく摺りつぶしたものを混ぜて漉いた紙と思われます。

昔も、目上の人や役所に出す手紙には気をつかったことがわかります。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ書跡

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posted by 高橋裕次(博物館情報課長) at 2012年02月09日 (木)

 

北京故宮博物院200選 研究員おすすめのみどころ(龍袍)

特別展「北京故宮博物院200選」(~2012年2月19日(日))をより深くお楽しみいただくための「研究員のおすすめ」シリーズのブログをお届けします。

 
孔雀翎地真珠珊瑚雲龍文刺繍袍 清時代・乾隆年間(1736-1795)頃 中国・故宮博物院蔵
(本ブログの画像は全て本作品です。)
(右)作品正面の拡大部分。正面を向いた五爪の龍が刺繍で表わされている。


「孔雀翎地真珠珊瑚雲龍文刺繍袍(くじゃくはねじしんじゅさんごうんりゅうもんししゅうほう)」・・・染織の名称は長くなりがちですが、名称を見れば、大体、その技法や形態がわかるようになっています。つまり、孔雀の羽を下地にし、真珠や珊瑚で飾り、雲龍や吉祥文を主体とした模様を刺繍で表した袍(上着)ということになります。この袍は、清朝の皇帝がお祝い事の行事の際に着用した吉服で、正面を向いた五爪の龍(正龍)が胸の部分に大きくついていることから「龍袍(ろんぱお)」とも呼ばれています。異国の珍しく美しい孔雀の羽や、真珠や珊瑚などで彩られたインペリアル・ローブとは、ラグジュアリーの極みといえるものです。
 
珊瑚で赤い花を彩っている部分。 (右)左画像の拡大部分。

 
真珠をあしらって作られた龍の顔の部分。 (右)左画像の拡大部分。

皇帝と皇后のみが着用を許された龍袍は緙絲(綴織)、雲錦(緯錦)、刺繍など、さまざまな技法を用いたものが残されていますが、この龍袍をみれば「孔雀の羽!って一体どうやって作ったのだろう?」と思われるのではないでしょうか。清時代でも二例しか遺されていない珍しい袍で、ちょっと見ただけでは、その疑問は解けません。
じつはこの袍には、とてつもない繍技が使われているのです。

袍の地の部分を写した拡大写真をご覧ください。


遠目に見ると緑色に輝いて見える地が、実際には紺色(中国では「石青色」と言います)の繻子(サテン。中国では「七絲緞」と言います)を土台とし、その上を別の糸が隙間なく敷き詰められ、糸で留められています(この糸を留めていく刺繍技法を中国では「釘線針」といい、日本では「駒繍」といいます)。

さらに敷き詰められた糸を拡大してみると、なんと、撚りのかかった淡い緑色の絹糸に、孔雀の細い虹色の羽毛が一本一本コイル状に巻き付けられているのです。


この孔雀の羽が遠目に見ると、地色が緑色に輝いているように見えるのです。まさに、刺繡の技術が最高に達した乾隆帝時代における名品の1つといえるでしょう。

でもなぜ、清朝の皇帝はこのように手間をかけた珍奇ともいえる孔雀羽の衣を身に纏いたかったのでしょう?
中国には古くから美しい鳥の羽を身に纏いたいという願望があったようです。中国の『南斉書』という書物には、南北朝時代、斉武帝の子息が職工に孔雀の羽で織った衣を作らせ、その姿はとても華麗で貴高かったと記されています。また『異物彙苑』という本にも唐の安楽公がさまざまな鳥の羽を集めて裙(裳。通常、襞のある巻スカート状の下衣)を作らせたが、一目ですべての鳥の羽の色がみられるように彩り豊かであった、と記されています。また、明の第14代皇帝万暦帝の定陵からも孔雀羽を織り込んだ龍袍が発掘されたとか。美しい孔雀の羽を身に纏うことは、皇帝たちの至高の望みでもあり、権力の象徴だったに違いありません。

カテゴリ:研究員のイチオシ2011年度の特別展

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posted by 小山弓弦葉(工芸室) at 2012年02月06日 (月)

 

考古展示「飛鳥時代の古墳」コーナー新設・記念講演会

以前の1089ブログでもご紹介した考古展示室(平成館1階)の「飛鳥時代の古墳:古墳時代Ⅴ」コーナー(2011年12月13日(火)~)の新設にちなみ、記念講演会が開催されることになりました。

日時・場所は2月18日(土)の13時30分~15時(平成館1階大講堂)で、講師は奈良県明日香村教育委員会の主任技師 西光慎治さんです。
発掘調査を担当された奈良県牽牛子塚(けんごしづか)古墳・越塚御門(こしつかごもん)古墳の最新の成果をご紹介頂きます。また、大阪府塚廻(つかまり)古墳の意義についてもお話し頂く予定です。

「飛鳥時代の古墳」コーナーの主役・塚廻古墳は、大阪府南河内地方の平石谷にあり、7世紀代の横口式石槨をもつ大型方墳3~4基が集中する平石古墳群で、最後に築かれたと考えられている古墳です。
一方、巨大な横口式石槨をもつ牽牛子塚古墳は、2010年の発掘調査で7世紀後半の天皇陵にだけ許されたと考えられる八角形墳であることが確認され、被葬者は斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)との合葬説が有力です。
さらに、隣接する横口式石槨をもつ越塚御門古墳の存在が明らかにされ、被葬者は『日本書紀』の記述から斉明天皇の孫大田皇女説が有力視されています。


越塚御門古墳発掘現場(後方は牽牛子塚古墳)
明日香村教育委員会文化財課許可済


この越塚御門古墳の“発見”には、ひとつのエピソードがあります(産経新聞2010年12月9日付)。
牽牛子塚古墳周辺の発掘終了後、現場を埋め戻していた時のことです。西光さんと補助調査員の学生さんが東南方向約20メートルに埋まっていた約1mの大石に、人為的な痕跡があることに気づきました。
そこで周辺を拡張して発掘したところ、(ナント)新たにまったく知られていなかった古墳が発見されたのです。

地下に眠る過去の痕跡を探り当てる、まさに考古学者の“動物的カン”です。
日頃から担当範囲に隈なく注意を向ける、そのような姿勢が『日本書紀』の記述を裏付けるような重要遺跡を発見した訳です。
昨年、西光さんは若手考古学者の代表格として朝日新聞の第3回朝日21関西スクエア賞を授賞されました。
当日は臨場感のある興味深いお話を聴くことが出来ると思いますので、大変楽しみです。


さて、講演会の前に、「飛鳥時代の古墳:古墳時代Ⅴ」コーナーの説明を若干補足しておきたいと思います。
これらの古墳がある奈良県飛鳥地方と大阪府南河内地方は、飛鳥(遠つ飛鳥)・近つ飛鳥と呼ばれ、「二つの飛鳥」として7世紀のヤマト王権にとって最重要地域として知られています。


畿内地方主要終末期古墳分布図(大阪府付近つ飛鳥・奈良県飛鳥)

奈良県飛鳥地方は、宮都伝承地・古代寺院跡とともに、野口王墓(天武・持統合葬陵)古墳をはじめ、多くの天皇陵古墳が営まれた飛鳥時代の中枢地域です。
一方、大阪府南河内地方は、河内飛鳥(近つ飛鳥)とも呼ばれ、やはり6~7世紀の推古天皇陵・用明天皇陵などを含む有力古墳が築造されたことで有名です。
この「二つの飛鳥」には、考古学的にさまざまな共通点があり、展示品の中では前回のブログでご紹介した副葬品の他に、横口式石槨に使われた石材にその特徴がよく表れています。


大阪府塚廻古墳復元図(奈良文化財研究所 原図)

前室床面に敷き詰められた敷石は、奈良県三輪山東方の宇陀郡榛原地方に分布する火成岩で、板状に剥離する特徴があり、榛原(はいばら)石または室生(むろお)石などとも呼ばれます。将棋の駒に似た用途不明の“謎”の台石も榛原石製です。

 
(左)敷石 (右)扉石残片(手前)・台石(奥)
(左右ともに)大阪府南河内郡河南町平石 塚廻古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀 大阪・平石塚廻古墳調査会寄贈


この榛原石は両地域の終末期古墳でしばしば使用されますが、奈良県飛鳥寺の西金堂基壇をはじめ、6世紀末以降の飛鳥地方の宮殿や寺院建築に多用されていることが重要です。
墳丘の版築工法や石槨の漆喰の使用に加えて、当時の最先端であった寺院建築の技術をいち早く古墳の築造に応用したものと考えられます。
なお、扉石は前室と奥室の間を仕切る壁ですが、二上山西方産の通称寺山の青石と呼ばれる石英安山製で、平石古墳群で多用される石材でできています。

一方、多量に出土した漆塗籠棺・夾紵棺片は、横口式石槨墳に特有の可搬性のある漆塗棺が使用されたことを物語ります。

夾紵棺残片(奥)・漆塗籠棺残片(手前)
大阪府南河内郡河南町平石 塚廻古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀 大阪・平石塚廻古墳調査会寄贈


弥生時代以来、日本列島の有力者の墓には、長大で大型の木棺・石棺・陶棺などが納められました。
いずれも、とても簡単に“運ぶにはゆかない”代物です。
しかし、7世紀の畿内地方ではこのような軽量の漆塗棺を使用し、持ち運ぶために各種の豪華な把手なども取り付けられます。


金銅製環・座金具(上段)、銀装鉄鋲(下段)
奈良県高取町大字松山字呑谷 松山古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀


このような変化は、それまでの墳墓を舞台にした葬送儀礼の伝統が途切れ、終末期古墳は各種の儀礼の後に被葬者が運ばれて永い眠りにつく、最期の安住の場に変わったことを意味します。
その背景には、弥生時代以来の倭人社会の世界観が大きく転換しつつあったことが垣間見え、古代国家成立前夜に相応しい「改革」であった可能性が高いのです。

ところが展示パネルにもあるように、そのほかの地方では、畿内地方のような横口式石槨をもつ終末期古墳はきわめて稀です。本コーナーのテーマのもう一つの柱は、リアルタイムの地方の状況です。
実はここに、いわゆる飛鳥時代を古墳時代の一部と区分している考古学の立場があります。

同じ頃、地方の終末期古墳には、陶棺に付属させた小型鴟尾や寺院の瓦当文様や屋根形を採り入れた陶棺など、伝統的な棺形式に寺院建築のデザインを採り入れた例がしばしばみられます。

 
(左)陶棺鴟尾
岡山県勝田郡勝央町平 五反逧所在古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀 国政小市氏寄贈
(右)展示パネルより「終末期古墳(横口式石槨墳)分布図」


今回、久し振りに展示にお目見えした岡山県平福出土の陶棺は、屋根形の蓋とともに棺身の妻側側面に人物と馬・蓮華の蕾(つぼみ)とみられる表現があり、明治時代から注目されてきました。
あの和辻哲郎も絶賛した、愛らしい稀有な造形です。

『日本古代文化』岩波書店、和辻哲郎1920年
「(前略)上代造形美術を顧みないでいた自分の心に、かつて強い驚嘆の情を呼び起こした。(中略) 女も馬も植物も一つの柔らかさに融け入り、そこに平和な、静かな、調和に充ちた気分を造り出しているのである。」
 

 
上段:陶棺(上段右は側面部分) 岡山県美作市平福出土 古墳(飛鳥)時代・6~7世紀
下段:上段の陶棺の簡略図(左:黒川・若林1897、右:若林1898『考古学会雑誌』)


しかし、仏教文化の影響は窺えても、既存の伝統的な葬送儀礼が転換した様子はほとんど見られないですね。
いわば小規模な“改造”にすぎず、本質的な転換ではありません。
このように各地方では、独自に伝統的な葬送儀礼に仏教的要素を融合させるさまざまな「工夫」が行われますが、飛鳥時代の畿内と地方には急速に“格差”が拡大していた様子が窺えます。

このような事実は、日本列島の古代国家成立前夜の実態を示しているといえます。
なぜ、奈良盆地を中心に都宮・古代寺院の建設が続き、694年に藤原京、710年には平城京という壮大な都が築かれたのか。
それを考える上で、これらの遺跡は双方を比較するために欠くことが出来ない重要な存在です。

今回の講演と展示を通して、激動の日本古代国家の成立前夜に想いを馳せて頂くと、より一層この国のはじまりのかたちが見えてくるのではないでしょうか。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年02月05日 (日)

 

「赤」に込められた人びとの想い

考古資料相互活用促進事業の一環として行われている特集陳列「信濃の赤い土器」。
2012年2月12日(日)までと会期終了間近です。

「赤」は太古の昔より、洋の東西を問わず、血の色、火の色、太陽の色、そして復活の色として、いわば人びとの力のシンボルとして生活の中に溶け込んできました。
一方、歴史的にみると「赤」は邪悪なものを追い払い、人びとに安寧の生活をもたらす役割も果たしてきました。
実は教科書でおなじみの弥生土器にも、鮮やかな赤い色を塗ったものがあることをご存知でしょうか。
赤い土器は日本各地で発掘されていますが、その赤には重要な意味があったはずです。
そこには夭逝した子どもたちの復活、愛するものたちの復活、万物に宿る精霊たちの復活、そして子孫の繁栄、ムラの繁栄を祈るといった、さまざまな人びとの純粋な想いが込められていたに違いありません。



ベンガラ塗土器棺 長野市 篠ノ井遺跡群出土 弥生時代(後期)・1~3世紀 長野県立歴史館蔵

この写真にある3つの土器は、実は1セットで、ひとつの棺(土器棺)を構成していたものです。
発見された時には、胴部がぽっかりと開いた右の大型の土器に左の小型の土器が入れ子状に納まり、いまは修復され完全な形になっていますが、この中央の大型土器の破片がその全体を覆っていました。
そして小型の土器の中からは幼児骨や管玉・炭化物などが発見されました。
赤い土器に包まれ埋葬されていたのは、どうやら子どもだったようです。
おそらくは、大切なわが子を失った親がその子の復活を祈り、丁寧に埋葬したのでしょう。
こうした事例は、人間の営みがおよそ2千年の時を経ても変わらないことを私たちに静かに教えてくれています。

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 井上洋一(学芸企画課長) at 2012年02月02日 (木)

 

北京故宮博物院200選 研究員おすすめのみどころ(三希堂の日々)

特別展「北京故宮博物院200選」(~2012年2月19日(日))をより深くお楽しみいただくための「研究員のおすすめ」シリーズのブログをお届けします。

本特別展では、中国の清(しん)という王朝の皇帝の書斎を、展示室の一角に再現しています。書斎の名は三希堂(さんきどう)。三希堂の再現は、故宮博物院が用意してくださった実物大の書斎の模型のなかに、実物の工芸品をならべています。いわば工芸品の展示を、展示ケースに入れるのでなく、実際に使われていたように置いてみたわけです。


紫禁城の養心殿です。向かって左の赤い壁のうしろに三希堂があります。


三希堂の室内です。「三希堂」の額の下に、皇帝の座椅子があります。
壁には小瓶が飾られ、その下に書跡をしまっておく木箱が積まれています。



三希堂と前室の設計です。
三希堂に入るには、前室とよばれる通路をぬけていきます。


三希堂というのは故宮、すなわち紫禁城(しきんじょう)のなかの養心殿(ようしんでん)という宮殿の片隅にある小部屋で、その広さは畳でいうと3畳ほどにすぎず、部屋の入口には前室(ぜんしつ)とよばれる4畳半くらいの通路がつながります。皇帝は、日常の政務に疲れると、この前室を通りぬけて三希堂に入ってくつろいだのでした。この書斎をつくった乾隆帝(けんりゅうてい)は、文武の才能にめぐまれた、中国史上でも抜群の権勢をほこった皇帝です。そのような大人物がこのような小部屋を好んだというのは、ちょっと意外でもあります。


一級文物 乾隆帝大閲像軸(部分) 清時代・18世紀 中国・故宮博物院蔵
乾隆帝の武装すがたです。
イタリア人画家のカスティリオーネが描いたとされる肖像画です。
乾隆帝は「十全武功」とよばれる10度の遠征を行ない、清の領土を最大限に広げました。



乾隆帝古装像屏(部分) 清時代・18世紀 中国・故宮博物院蔵
乾隆帝の文化人すがたです。
カスティリオーネと中国人画家の金廷標が合作した肖像画です。
乾隆帝は「四庫全書」という膨大な図書全集の編纂を企画し、みずからも多数の詩文をつくりました。



三希堂の室内は、段差をつけて上段と下段に分かれ、上段には固めのクッションを組み合わせた座椅子があり、その頭上には乾隆帝直筆の「三希堂」の額がかかります。その名は、この書斎に乾隆帝が愛玩した王羲之(おうぎし)の「快雪時晴帖」(かいせつじせいじょう)、王献之(おうけんし)の「中秋帖」(ちゅうしゅうじょう)、王珣(おうじゅん)の「伯遠帖」(はくえんじょう)という三つの希(まれ)な書跡の名宝を秘蔵したことにちなみます。ここの床は、床下に火気をおくる床暖房になっており、紫禁城の堀に分厚い氷が張るような寒い日には、座椅子にすわって足を組んだり伸ばしたりして温まったことでしょう。座椅子の前には紫檀でできた座卓があり、卓上には美しい色合いの玉(ぎょく)でできた文房具がそろえてあり、窓辺にも玉器や漆器がならんでいます。下段の片方の壁にはカラフルな磁器の小瓶がたくさん飾られ、反対側の壁には大きな鏡がはめこまれています。この鏡のおかげで、小さな部屋に奥行がでて、狭苦しさを感じさせません。前室の壁にトリックアートのポスターを貼っているのも、やはり奥行を出す工夫でしょう。床には三希堂の名の由来となった名筆をはじめとする書跡をおさめた木箱が積まれています。


紫禁城の堀の氷結のようすです。
北京の冬はとても寒く、冷えこむと、紫禁城の堀は氷結します。
紫禁城のとなりの湖ではスケートが行なわれていました。



前室のトリックアートです。
三希堂の前室の入口をのぞいたようすです。
床に敷いたタイルが、壁に貼られた遠近法の絵のなかへと続いてゆきます。


三希堂を再現する展示には4日間かかったのですが、その間ずっと、私はこのほとんど身動きできない空間で過ごしました。故宮博物院のスタッフからは「乾隆帝の気分でしょう?」という冗談も言われましたが、はたして自分が皇帝になったというよりも、皇帝のなかに自分と同じものを見出した気がしました。この生活空間は、卑近なたとえですが、私が関西で暮らしていた学生下宿を思い出させます。六甲おろしの吹く寒い日に、小さな部屋でコタツに入って趣味の読書をして、ささやかな幸福を楽しんでいたころを思い返しますと、なにも持たない者であれ、すべてを手に入れた者であれ、人間が独りきりで心安らぐには、せいぜいこのぐらいの広さで足りるのかもしれません。仕事の合間の息抜きに、自室にこもって、木箱からゴソゴソ取り出した古人の筆跡をぬくぬくと鑑賞するすがた……もしもこの木箱が音楽のCDや映画のDVDのケースなどであれば、きっと共感される方々がおられるでしょう。広大な紫禁城にあって、わざわざこのような狭いところを好んだ乾隆帝の心境に想像をめぐらすと、まったく別世界の存在であった皇帝に親しみがでてきました。


三希堂の再現の展示です。
故宮博物院のスタッフと話し合いながら展示をします。



三希堂の再現の完成です。
窓辺には朱漆製の冠掛けや玉製の置物がならび、卓上には玉製の文房具がそろえてあります。

 

カテゴリ:研究員のイチオシ2011年度の特別展

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posted by 猪熊兼樹(貸与特別観覧室) at 2012年01月27日 (金)