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1089ブログ

明の名将にも知られた倭寇必須の剣術?!

2011年11月22日(火)から始まりました本館16室の展示「武家の作法―弓馬のたしなみと剣術・砲術・礼法」(~2011年12月25日(日)展示)を担当した研究員の髙梨です。
ブログでこの展示の見どころの一部を紹介したいと思います。

テーマはズバリ、武士が生業としていた“戦い方”。
そして、その日常生活を規定していた礼法つまり“マナー”です。

まず戦い方です。
時代劇の影響もあって、侍というとすぐに刀を振るうチャンバラを連想しがちですが、本来は馬にのって高速な機動力を活かし、遠距離兵器の弓で矢を放つ騎射が基本でした。
本館6室で時々展示される大鎧をご覧になったことはありますか?
あんなに重いものを着て刀で戦うのは、よほど体力があっても無理でしょう。
つまり武士にとって馬と弓は切っても切り離せない関係だったのです。
そうした意味から本展示でも弓馬術に関する資料を陳列しています。

ではみなさんご存知の“チャンバラ”はいつごろ始まるのかというと、すでに平安時代にはありました。
ただし騎馬どうしの戦いで、刀を使うのは敵を打ち取るためにその首を取る際です。
だから古来の剣術とは馬術の補助的な意味合いが強かったのですが、南北朝・室町と時代が下ると戦い方が変化します。
“武者”どうしの馬上の戦いから“雑兵”と呼ばれた下級兵士が入り乱れて戦う集団・白兵戦が主流となってきます。
そうなると相手と対峙して刀や槍などの接近戦用の武器でいかにしてか戦うかが、武士たちの生死を分ける重要な要素となってきます。
現代にまで続く剣術流派の多くが室町時代中ごろから生まれてくる背景には、日本列島が応仁の乱以降、戦闘状態に突入する“戦国の世”の幕開けがあります。

さて、その剣術ですが皆さんはどんな流派を思い出しますか?
こちらも正月のワイド時代劇でよく登場する、柳生但馬守や十兵衛で知られた「柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)」などご存知の方もいらっしゃいましょう。
また最近では「鹿島新当流(かしましんとうりゅう)」を創始した塚原ト伝(つかはら ぼくでん)を主役にしたテレビドラマも放映されていますね。
実はこれら有名な流派の源流に当たる「陰流(かげりゅう)」という剣術がありました。
愛洲久忠(あいすひさただ)が創始した流派で「愛洲陰流」とも呼ばれますが、これを学んだ上泉信綱(かみいずみのぶつな)が後に「新陰流」を創始し、信綱に学んだ柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)が「柳生新陰流」として展開していきます。

この陰流ですが、日本のみならず遠く異国にまで知られた流派でした。
時代は少し下って江戸時代の元禄年間に大阪の儒医松下見林(まつしたけんりん)が『異称日本伝』という日本・中国・朝鮮半島の歴史を研究した書物を著しています。
その中で日本関係の記事として引用した文献に『武備志』という中国・明の兵学者茅元儀(ぼうげんぎ、1594年-1640年?)が著わした兵学書があります。
そこには明の将軍、戚継光(せきけいこう、1528-87)が1561年に倭寇からの戦利品として「影流之目録」を得たとの記載があります。
つまり、この陰流は中国や朝鮮半島沿海部を荒らしまわった倭寇たちの間で学ばれていた剣術であった可能性があります。
本展示では、この陰流の伝書を陳列しています。
倭寇退治の名将をてこずらせた剣術だったのかと思うと、ちょっとびっくりですね!!

愛洲陰流伝書
愛洲陰流伝書 室町時代・16世紀写

ちなみにそこには剣士と様々な天狗たちの立ち合いの図が、各構えごとに描かれています。
しかも剣士の頭は禿げあがり髭ぼうぼうの姿です。
何となく「倭寇図巻」(東京大学史料編纂所蔵)に描かれた姿に似ているように感じられるのは私だけでしょうか?

余談ばかりで恐縮ですが、このほかにも大砲の玉や鉄砲にかかわる資料も展示しています。

大砲玉
大砲玉 下野国川西町糖塚原(栃木県大田原市)出土 江戸~明治時代・19世紀 植竹三右衛門寄贈

荻野流鉄砲組立之図
荻野流鉄砲組立之図 江戸時代・19世紀写 徳川宗敬氏寄贈

矢立鉄砲
矢立鉄砲 江戸~明治時代・19世紀 杉浦正氏寄贈

武士の多様な世界観を楽しんでいただければ幸いです。

カテゴリ:研究員のイチオシ

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posted by 高梨真行(書跡・歴史室、ボランティア室)) at 2011年11月28日 (月)

 

法然と親鸞展 研究員おすすめのみどころ その3(彫刻)

「あ、このお像は素晴らしいな」と心に響く仏像とそうでない像があります。
どちらも歴史的な遺品として大切であることは変わりませんが、彫刻作品として考えると、どうしても優劣ができてしまいます。
その差が生じる理由の一つは作家の技量です。優秀な作家がお金と時間をかければ素敵な作品ができるでしょう。
でもそれだけではないようです。
特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」(~2011年12月4日(日))に出品されている彫像2点を見て、そんなことを考えました。
浄土宗所蔵の阿弥陀如来立像。
この像を拝すると、心のわだかまりが消えて、すーっと澄み切った気分になります(個人差があります)。


重文 阿弥陀如来立像 鎌倉時代・建暦2年(1222) (浄土宗)
 
無量光如来という別名にふさわしい輝きを感じます。
きりっとした顔立ち、体の引き締まった肉付きとリズミカルに刻まれた衣の襞。
像の高さ1mほどの阿弥陀如来立像は繰り返し造られてきたものなのに、この1体はとてもいきいきしていて、新鮮です。
これは仏師の意気込みが違うのだと思います。
“たくさん注文があるなかの一体”、ではなく“特別な一体”だったのではないか。
法然上人の一周忌法要の本尊にするため、弟子の源智が造らせた像、とひとことで言えばそうですが、
源智の並みならぬ思いに仏師が心打たれた、あるいは仏師が法然をとても尊敬していたなど、さまざまな可能性が考えられます。
しかし仏師の名前も知られないのでそれをたどることはできません。


次はこちらのお像です。

 
性信坐像 鎌倉時代(13~14世紀) (群馬・宝福寺)

群馬・宝福寺の性信坐像。この像の体、着ている服はペタンとしていて、写実的ではありません。
衣を見ても布という感じがしませんね。からだについて言えば素朴な味わいの像です。

しかし、顔に力があります。大きく見開いた目、眉間に深く皺を刻み、厳しさが感じられる。
鼻筋が通り、くっきりと広がる小鼻、鼻の両脇から口端にかけての皺も深く二重に彫っています。
下唇が上唇より前に出る受け口。両頬にも縦に2つ皺を刻みます。非常に個性的な顔ですが、強い魂が宿っていると思います。

この像を造った仏師大進は、率直に言って高い技量を持っているとは言えません。
この性信像の体と頭部では冴えが全く違います。ではどうしてこんな顔を造れたか?
大進は性信を知っていた、そしてとても強い印象を持っていた。そう考えることもできるでしょう。
あるいは性信の生前に写したか?ところが、茨城の報恩寺にこの像より洗練された性信像があって、顔は似ていません。
とすると大進の心に残っていた性信の面影を再現したものと考えるべきかもしれません。
以上、お像を前にして勝手に空想したことです。

カテゴリ:研究員のイチオシ2011年度の特別展

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posted by 浅見龍介(東洋室長) at 2011年11月24日 (木)

 

書を楽しむ 第4回「書は人なり?」

「書は人なり」という、出典のよくわからない格言があります。「書は人となりを反映する」と言われると、字が下手だと自認している人は「字の下手な自分は、性格も悪いのか?」と悩むことになり、あまりうれしくありません。

平安時代の中ごろに書かれた『新猿楽記(しんさるごうき)』というおもしろい著作があります。平安京の町中の猿楽見物に出かけた、いろいろな特技・才能の持ち主の一家の説明を、それぞれの分野の言葉尽くしに仕立てた書で、後世の教科書「往来物」の原型になったと言われます。登場人物は、「武者」「田堵(たと、農業経営者)」「巫女」「学者」「力士」「大工」など、当時考えられる「専門家」なのですが、その中に「能書」の「太郎主」という人物が登場します。太郎主は「古文・正文・真行草・真名・仮字・芦手等の上手」で王羲之(おうぎし)・小野道風・空海・藤原佐理などの筆法をすべて習得しているという設定で、「能書」が一種の職人技・名人芸の持ち主と考えられていたことが知られます。気分が優れなくても、体調が悪くても、一旦筆を取って紙に向かえば、さまざまな筆法を駆使して美しい文字を書き上げる、という人は、現代ではスポーツ選手や音楽の演奏家あたりにたとえられるでしょうか。能書をうたわれた王朝貴族たちも、文化を継承するという職分に応えて今に残る多くの作品を生み出したと言えます。そういう意味では、「書は人」と言っても、それはいわばプロとしての修練の賜物であって、もともと本人の人柄や行いとは別の話なわけです。

これは緊張感のただよう奈良時代の写経でも同じことです。無論、経典の書写を担当した写経生たちは仏や経典を敬う心を抱いて筆を取り、料紙に向かったにちがいありませんが、一方で文字の謹直さや正確さは、書きまちがうと自分の給料が減らされるという、きわめて俗っぽい条件に支えられていたこともまた事実です。人格が高潔であったから文字が美しくなったのではなく、求められた日々の仕事に対する誠実な姿勢が、現代の私たちにまでその成果の美しさを伝えているのです。


一点一画に緊張がこもる天平期の写経
文陀竭王経(部分)
文陀竭王経(部分) 奈良時代・天平12年(740)
総合文化展 本館1室 (~12月11日(日)展示)


書の個性に対する受け止め方が、技巧の優劣や様式の差異ではなく、書き手の人格の反映とされるようになるのは、大きく見てゆくと、鎌倉時代からのように思われます。特に現在、私たちがその強い個性を見ることができるのは、この時代に新しい教えを掲げて陸続と輩出した僧侶たちの書です。折りしも当館では12月4日(日)まで特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」を開催中で、この二人の祖師の数少ない筆跡を見ることができますが、本館2階3室「仏教の美術」(~12月11日(日)展示)では、同時代のライバルと言える明恵(高弁、1173~1232)の著述や書状を展示しています。

それぞれ一宗を開くような祖師たちは、悟り澄ましていたわけではありません。現世で救われがたい人々に安穏と救済をもたらすためにはどうしたらよいのか、学び、考え、ある時は悩み苦しみ、ある時は喜びを得て一生を送ったわけで、その著作や書状には、折々の思考や感情が込められています。また、それらを受け取った人々も書き手の思いを想像しながら、読んだにちがいありません。書の向こうに人の心を見る時代が来たといえるでしょう。

残りの会期も少なくなりましたが、特別展・総合文化展両方の会場に足をお運びいただいて、高名な僧侶たちの次のような筆跡を、くらべて鑑賞していただければ幸いです。

「法然と親鸞」展
・第1章 重文 源空(法然)書状 鎌倉時代・13世紀 奈良・興善寺
・第1章 国宝 教行信証(坂東本) 親鸞筆 鎌倉時代・13世紀 京都・東本願寺
ともに2011年12月4日(日)まで、平成館特別第1室で展示中。

総合文化展
・書状 明恵(高弁)筆 鎌倉時代・13世紀 個人蔵
2011年12月11日(日)まで、本館2階3室「仏教の美術」で展示中。


 思いに筆がついてゆかず、何度も書き直す明恵。
書状
(左)書状 明恵筆 鎌倉時代・13世紀、(右)(左)画像の赤い四角で囲んだ部分の拡大
※この作品は展示されていません

 

カテゴリ:研究員のイチオシ書跡

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posted by 田良島哲(調査研究課長) at 2011年11月23日 (水)

 

中国書画精華(後期) コレクションの話 ―集める楽しみ、見る喜び―

トーハクで中国書画の展示を担当している、塚本です。
前回掲載のブログ、「中国書画精華(前期) 宋画のひみつ」に引き続き、中国書画精華(後期)(~2011年12月11日(日))の作品についてご紹介したいと思います。


学芸員として作品に接していると、作品が入った箱を見て「あっ!」と思うことがよくあります。現在、中国書画精華(後期)で展示している「秋林隠居図(しゅうりんいんきょず)」王紱(おうふつ)筆はその一つです。

元時代の文人画家、王紱のこの作品は、清潔な筆致のなかに無人の亭が描かれ、画家の寂寞とした心象風景までもが描き出されています。
「容膝齋図(ようしつさいず)」倪瓚(げいさん)筆 (台北・国立故宮博物院蔵)と構図が共通することからも、王紱が50年ほど前に活躍した同郷の文人である倪瓚に多くのことを学んだことがわかる作品です。

秋林隠居図
(左)重要美術品 秋林隠居図 王紱筆 明時代・建文3年(1401) 東京国立博物館蔵
(右)(左)画像の拡大(部分)

画家の心情を映し出すような美しい「かすれ」の表現が魅力です。


さらに面白いのは、「秋林隠居図」王紱筆には、絵のまわりの文字から、その伝来過程がわかることです。まず本図は王紱から友人の舜民に贈られ(下記画像の(1)、以下同様に画像参照)、その後、清末には広東・孔広陶というコレクターに収まります。左手の字が同治元年(1863)の孔広陶のものです(2)。さらにその50年後の民国7年(1915)、この間までトーハクで特集陳列をしていた呉昌碩が跋をしたため(3)、さらに二年後、羅振玉が題を記しています(4)。時に大正6年(1917)。清朝の官僚であった羅振玉は辛亥革命をうけて日本に亡命していましたから、「海東寓居」すなわち京都東山での題記となります。

秋林隠居図
重要美術品 秋林隠居図 王紱筆 明時代・建文3年(1401) 東京国立博物館蔵
(注)作品上の赤い囲みに関しては本文参照



しかし、この絵を最後に私たちに守り伝えてくれたコレクターに関する記述は、この作品の画面上で見つけることはできません。その最後のコレクターは自分の大切なコレクションに、丁寧な木箱を作らせています。非常にしっかりとした黒檀で作らせた頑丈な箱。そして表には「元王孟端倣倪雲林隠居図軸(王紱が倪瓚にならった隠居図)」「香雪書屋書画印」「二峯宝笈」と彫られています。「二峯」とは山本悌二郎(やまもとていじろう)の号です。

木箱
「秋林隠居図」を収めるための木箱(画像の木箱は展示されていません。)


山本悌二郎(1870-1937)は実業家として台湾製糖の社長を務め、政治家としても犬養毅内閣の農林大臣を務めたほどの実力者です。しかし彼の名を文化史のなかで高めているのは、その中国書画のコレクションの質の高さでした。そのコレクションは二千件あまりにおよび、詳細は『澄懐堂書画目録』として編纂され、「秋林隠居図」もその一つでした。作家の芥川龍之介も志賀直哉も、そのコレクションに憧れた一人です。
政治家としての資金が必要だったのかもしれません、いくつかの作品は手放されました。しかし山本悌二郎は作品がずっと愛され、伝わっていくことを願ったのでしょう。この箱があることで、収集から約80年近くを経た今も、私たちは大切な作品を「伝えたい」というコレクター思いを知ることができるのです。


澄懐堂書画目録 東京国立博物館蔵
(当館の資料館に保存)



現在、山本悌二郎のコレクションの大部分は側近であった猪熊信行に託され、四日市市にある澄懐堂美術館で大切に保管、一般に公開されています。中国の書画を愛する人たちにとってはたまらない作品が多く展示されています。ぜひ足をお運びいただきたい、お薦めの美術館です。

中国書画精華にはたくさんの名品が展示されていますが、このような作品が展示されるまでには、多くの収集家の思いがありました。
今回の書画精華に出品された絵画のうち、「竹裡泉声図(ちくりせんせいず )」李士達(りしたつ)筆は金石家・桑名鉄城の、「諸葛亮図(しょかつりょうず)」張風(ちょうふう)筆は美術商・繭山順吉氏の、「雑画冊(ざつがさつ)」陳鴻寿(ちんこうじゅ)筆と「撫宋元明諸家山水図冊(ぶそうげんみんしょかさんすいずさつ)」銭杜(せんと)筆は書家・青山杉雨氏の旧蔵品で、それぞれ所蔵者の思いの詰まった、個性的な箱に入っています。
作品だけを見ているとなかなか気づきませんが、舞台裏で作品に触れていると、日々このような気づきがあります。1089ブログでは、これからもこのような昔のコレクターが作品に込めた「思い」も、作品の魅力とともにあわせてご紹介していきたいと思います。

このブログでご紹介したようなコレクターが中国絵画に込めた思いを一冊の本にまとめました。
『中国書画探訪』二玄社
私も執筆者の一人です。ご興味のある方はぜひご覧ください。

カテゴリ:研究員のイチオシ

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posted by 塚本麿充(東洋室) at 2011年11月19日 (土)

 

法然と親鸞展 研究員おすすめのみどころ その2(絵画)

こんにちは、特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」(~2011年12月4日)の絵画担当研究員の瀬谷愛です。

毎日、たいへん多くの方々にご来館いただいております。
ありがとうございます。

今回は6週間の会期中に、4回も展示替があります(展示替のない週は最後の月曜日だけです)。
楽しみにされていたものが前期と後期に分かれていたり。
わたしもいつも、展覧会を見に行くと歯がゆい思いをしていますので、よくわかります。
本当はすべてをご覧いただきたいのですが・・・申し訳ございません。

ずっとポスター、看板の「顔」としてスタメン出場していただきました
国宝「早来迎(阿弥陀二十五菩薩来迎図)」(京都・知恩院)は、
11月15日(火)から国宝「山越阿弥陀図(やまごしあみだず)」(京都・禅林寺)に替わりました。



こんなに遠くからではみえませんね。

アップにしましょう。

国宝 山越阿弥陀図 鎌倉時代・13世紀 (京都・禅林寺)

中央に表される阿弥陀仏は、浄光明寺の阿弥陀三尊坐像と同じ、説法印を結んでいます。
説法印は、浄土で説法されているときの阿弥陀仏の手のかたち。
すなわちこの地が浄土である事を表します。
ふたこぶラクダの背中のような山の真ん中から、巨大な上半身を現す阿弥陀仏。
ぜひ想像力を豊かにしてご覧いただきたいところです。

後期には他にも面白いお品が登場します。

例えば、第2章「伝記絵にみる生涯」。
一番奥の壁付きケースに、当館所蔵の「法然聖人伝絵」が展示されています。


重文 法然聖人伝絵(九巻本、琳阿本) 巻第8 鎌倉時代・14世紀 東京国立博物館

流罪後、初めて入京を許された法然が、やがて体調を崩し、いよいよ入滅が近づいてきた場面です。

まわりの門弟たちは法然に、臨終行儀として阿弥陀如来像に結んだ五色の糸を手に取るよう勧めます。
しかし法然は、若いころに比叡山で観想の行を積んだためでしょうか、仏像の助けを借りなくとも、もう目の前に聖衆を感得していました。


重文 山越阿弥陀図屏風 鎌倉時代・13世紀 (京都・金戒光明寺)

前期展示の「山越阿弥陀図屏風」(京都・金戒光明寺)には、実際に五色の糸の破片が残っていました。
前期にみえた方はお気づきになりましたでしょうか。



仏像だけでなく、仏画にもこうして結ぶことがあったんですね。
絵巻に描かれた仏像はその大きさからみて、1メートル弱ほどの、いわゆる「三尺阿弥陀」のようです。

絵伝コーナーの次の部屋には、浄土宗ゆかりの三尺阿弥陀が3体並んでいます。


重文 阿弥陀如来立像 鎌倉時代・建暦2年(1222) (浄土宗)

手にご注目下さい。



その左手をみてみますと、親指と人差し指の結んだところが輪になっています。
仏像では、こうしたところに糸を結んだのかもしれません。

もうひとつ。
これは「絵画」で、というよりも、個人的な関心なのですが・・・



後期から、「恵信尼自筆書状類」(京都・西本願寺)が「恵信尼像」(京都・龍谷大学図書館)とともに登場しました。

恵信尼は、親鸞の妻です。
もともと仏教の戒律では僧侶は妻帯を禁じられています。
さまざまな悩みや苦しみを生み出す元だと考えられていたからでしょう。
たとえそれが「愛」あふれる関係であったとしても、
愛するものと別れる苦しみ「愛別離苦」(八苦のひとつ)はいつか必ずやってきます。
しかし親鸞は、妻をもっても、念仏を絶やさず極楽往生を目指す道を選びました。

この恵信尼の書状は、親鸞入滅後に娘の覚信尼に宛てて書かれたものです。
そのなかの5通目に、親鸞と恵信尼が交わした会話の想い出が記されています。

阿弥陀の本願を信じ、念仏だけを一心に称える行を選んだのに、
親鸞は重い病を得ると、夢うつつに『無量寿経』の一字一句がはっきりと目に浮かんでしまう。
経典を読んで自力で往生を目指そうとする心をどうしてもぬぐえない、心の弱さを妻に告白しているのです。

夫婦がともに往生を目指し、まっすぐに、お互いの弱さも受け止める
親鸞の家庭が垣間見える、素敵な遺品だと思います。


誕生寺

一方、法然は終生、家庭を持ちませんでした。
その家族といえるのは、幼い時に失い別れた父と母のみです。
こちらは岡山県久米郡久米南町にある誕生寺。
法然の旧居跡に、熊谷直実が建立したと伝えられるお寺です。


菩提寺

今回は、本展と同時期に岡山県立博物館で
「法然上人と岡山」(11月13日まで)という展覧会が開催されたため、
誕生寺ゆかりの名宝は上野には出品されていません。
こちらはぜひ、本山寺(子宝に恵まれなかった法然の両親が参詣した寺院)、菩提寺(法然が最初に身を寄せた天台宗寺院)とともにお訪ねください。
(レンタカーがおすすめです)

最後に、ご来場の前にお知らせしておきたい情報を2つ。



音声ガイドにあまりご興味のない方もいらっしゃると思いますが、
今回のガイドは目から鱗、というより涙です。

加賀美アナウンサーによる沁みるような語り。
そして赤い彗星・・・
会場解説にはない情報が満載の音声ガイドです。
ぜひお試しください。



音声ガイドを装着されましたら、
こちらの白い道の上を、会場内へお進みください。

赤いところは「怒りの炎」、青いところは「むさぼりの水」。
どちらにも落ちないように、その清らかな心を守って。
(「二河譬(たとえ話)」より)

次回は彫刻担当研究員よりみどころを紹介します。
お楽しみに。

カテゴリ:研究員のイチオシ2011年度の特別展

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posted by 瀬谷愛(平常展調整室) at 2011年11月18日 (金)