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予告!特集陳列「天翔ける龍」1

いつの間にか師走。
時の流れの速さに驚き、あわただしくお過ごしの方も多いのではないでしょうか。
私もそのひとりです。
まもなくやってくる辰年にちなんだ特集陳列「天翔ける龍」(2012年1月2日(月)~1月29日(日))の準備も
まさに佳境を迎えています。
今日から数回に分けて、この特集陳列の裏側と注目ポイントをお話します。
初回は企画全体のご案内です。


特集陳列「天翔ける龍」に展示されるのは時代やジャンルもまったく異なる作品。
これらをつなぐ鍵は、龍というモチーフだけ。
名品と呼ばれるものから、意外なものまで、
龍を表した選りすぐりの作品77点を一挙公開いたします。
解説を読んで通り過ぎるのではもったいない。ぜひ龍のかたちや意味にご注目下さい。

たとえば、
5本の爪を持つ龍は、中国皇帝の象徴。
宮廷以外では使用が認められませんでした。もちろん朝鮮や日本でも。
でも、見つけました。
あってはならない5本の爪の龍。展示室で探してください。
翼を持つ応龍は、戦で殺生をしたかどで天界に帰れない過去を持ちます。
応龍という龍の存在だけでなく、こうしたエピソードは
あまり知られていないのではないでしょうか。

龍文朱箱、色絵応龍文陶板
(左)何度見ても爪は5本。でもこれは中国ではなく朝鮮でつくられたもの・・・
重要文化財 龍文朱箱 朝鮮時代・17~18世紀
(右)龍には見えませんが龍の仲間。
色絵応龍文陶板 伊万里(柿右衛門様式) 江戸時代・17世紀


龍は虎や鳳凰とペアで表現されることが多いのはなぜでしょう。
雲や波と表されるのはどうして?
翼があっても、うろこがなくても龍なの?
龍のすがたから、そこにこめられた思いや意味をたどると、
龍の魅力の発見につながるのかもしれません。


展示だけではありません。展示を楽しむための関連企画も準備しました。
今回は「自在置物 龍」を展示します。
皆さんは「自在置物」という江戸時代の金工品をご存知でしょうか。
動物のかたちをした金属製の置物で、からだの節々が動きます。
太平の世になり甲冑の需要が減った江戸時代、
動きやすい甲冑を作る技術を応用して甲冑師たちが作ったとされています。
自由自在の自在置物。
江戸時代の技術の高さだけでなく、遊び心や粋を感じずにはいられません。

自在置物 龍
こんなにアクティブ!じつはずっしり重い。
自在置物 龍 明珍宗察作 江戸時代・正徳3年(1713)


でも展示室で動かすことはできません。
動く、という自在置物最大の魅力をお伝えできないことがいつも残念でした。
ホンモノを触っていただくことは叶いませんが、何かほかの方法があるのでは・・・
そこで、科学技術の力を借りた企画を行うことに。
自在置物が自在に動く様子を映像でご覧いただくとともに、
期間中の16日間(日程は「天翔ける龍」ページ参照)はデジタル展示の特性を活かし、
実際に自在置物に触れて動かせるような疑似体験ができます。
また、1月2日(月・休)・3日(火)限定で「東博龍めぐり&掛軸ふうカレンダー
1月28日(土)、29日(日)には自在置物に関連したファミリーワークショップを実施。
どちらも毎年人気の企画です。
今回の展示作品以外にも龍を表した作品は数多くあります。
これらを取り上げた図録を新年から、
龍のグッズ、絵はがきはすでにミュージアムショップで扱っています。
お楽しみに。

作品の見どころは次回のブログでご紹介します。


龍は何かを恐れたり、憧れたり、願ったりするひとの心が、
長い、長い時間をかけて創りあげてきた架空の生きもの。
展示室に並ぶのは何千年もの間、人びとがつむぎ続けた龍のイメージを
さまざまに表現した作品です。
どうぞゆっくり、じっくり、ご覧ください。
時の流れの速さを憂う気持ちが、すっと消えるような時間を
新年にぜひ、東博で。

カテゴリ:研究員のイチオシ催し物博物館に初もうで

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posted by 川岸瀬里(教育普及室) at 2011年12月09日 (金)

 

年末恒例「仮名手本忠臣蔵」

浮世絵(本館10室)の部屋では、12月に『仮名手本忠臣蔵』を題材とした浮世絵を陳列することがよくあります。本年も12月の浮世絵版画は『仮名手本忠臣蔵』に関する作品で構成しています。
「忠臣蔵」というと、元禄14年(1701)3月14日、江戸城松の廊下で、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、吉良上野介義央に切りつけた刃傷沙汰に端を発し、翌元禄15年12月14日、家老大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士四十七人が本所吉良邸に討ち入って上野介の首級を挙げた仇討ちを思い出すでしょう。
元禄赤穂事件と呼ばれるこの事件は、現代では「忠臣蔵」と一般に言わていますが、「忠臣蔵」は、江戸時代以来、歌舞伎や人形浄瑠璃の演目として人気を集めた『仮名手本忠臣蔵』のことです。同時代の武家社会の事件を上演することが禁じられた江戸時代、『仮名手本忠臣蔵』は、太平記の時代を舞台とし、登場人物の名前を変え、さまざまな脚色がなされて演じられました。
登場人物の名前も
浅野内匠頭は、赤穂藩の名産である「塩」にかけて、塩冶判官(えんや はんがん)。
吉良上野介は、高家肝煎であったことから、高師直(こうの もろのう)
大石内蔵助は、大星由良助(おおぼしゆらのすけ)。
その息子の・大石主税(おおいしちから)は、「ちから」を「力」として大星力弥(おおぼしりきや)。といった具合に史実を連想させる名付けがなされています。
他に、討ち入りに加わらず不忠臣とされた浅野家の家老大野九朗兵衛が、斧九太夫(おのくだゆう)、息子が斧定九朗(おのさだくろう)。絶世の美人浅野内匠頭の正室阿久利は、顔世御前(かおよごぜん)、由良助の武器調達を助けたとされる大坂の義商天野屋利兵衛は、天川屋儀平として登場しています。

今回は、歌川広重が芝神明前にあった版元有田屋から出版した全11段を12枚に描いた揃いを展示します。
冒頭の大序では、「鶴ヶ岡社前の場」が描かれています。右が高師直、刀を握って詰め寄っているのは、塩冶判官ではなくもう一人の饗応役である桃井若狭介。左に描かれたのが顔世御前。好色ジジイの師直が顔世に言い寄るのですが、若狭介が間に入って顔世を救う。邪魔された師直に悪口を言われた若狭介が刀を握って詰め寄る場面が描かれています。(以下画像は全て2011年12月11日(日)までの展示)

忠臣藏・大序
忠臣藏・大序 歌川広重筆 江戸時代・19世紀


二段目は、若狭介の館。右が「桃井館上使の場」で、桃井家の家老加古川本蔵の義理の娘小波と許婚の大星力弥。奥の庭では、師直との一件を聞いた本蔵が、若狭介の前で松の枝を切り落とす「桃井館松切りの場」が描かれています。

忠臣藏・二段目
忠臣藏・二段目 歌川広重筆 江戸時代・19世紀


仇討ちが、男女の恋を絡めながら展開するのですが、そこは、『仮名手本忠臣蔵』をお読みいただくとして、今回は「忠臣蔵」に題材をとった見立絵などを多く展示していますので、それについてご紹介します。
「忠臣蔵 七段目」は、「祇園一力の場」。紫の着物を着て目隠しをして鬼ごっこで芸子と遊ぶ由良助。そこに斧九太夫一行が由良助の様子を見にあらわれます。

忠臣藏・七段目
忠臣藏・七段目 歌川広重筆 江戸時代・19世紀


この、「祇園一力の場」の見立てとなっているのが、鳥高斎栄昌が目隠し鬼を描いた「めんないちどり」

めんないちどり(見立由良之助一力遊興)
めんないちどり(見立由良之助一力遊興) 鳥高斎栄昌筆 江戸時代・18世紀


そして、『仮名手本忠臣蔵』の七段目では、由良助が顔世からの密書を読む場面が続きます。床下に隠れた斧九太夫が、これを盗み見るのですが、それが鳥文斎栄之の「見立忠臣蔵七段目」では、女性に置き換えられています。ここに描かれているのが寛政三美人の高島おひさと難波屋おきたというのも趣向です。

見立忠臣蔵七段目
見立忠臣蔵七段目 鳥文斎栄之筆 江戸時代・18世紀


そして、同じような図は磯田湖龍斎によっても描かれています。

炬燵で文を読む男女
炬燵で文を読む男女 磯田湖龍斎筆 江戸時代・18世紀

歌川国芳筆の「木曾街道六十九次之内・大井」は、木曽街道ならぬ山城の「山崎街道の場」。
では、なぜ木曽街道のシリーズとして描かれているのかというと、……

木曾街道六十九次之内・大井
木曾街道六十九次之内・大井 歌川国芳筆 江戸時代・19世紀


早野勘平が仇討ちに加わるために必要な金を用立てた与市兵衛が夜道を山崎に急ぐ。後ろから手を上げて「オオイ、オオイ、おやじ殿」と声をかけるのが落ちぶれた斧定九朗。この後与市兵衛から金を奪うという場面である。

他にも、歌麿が自身の姿を、酒で討ち取られる高師直に見立てて描いた「高名美人見たて忠臣蔵・十一だんめ」など、さまざまな忠臣蔵浮世絵が展示されています。

(左)忠臣藏・夜討(右)高名美人見たて忠臣蔵・十一だんめ
(左)忠臣藏・夜討 歌川広重筆 江戸時代・19世紀
(右)高名美人見たて忠臣蔵・十一だんめ 喜多川歌麿筆 江戸時代・18世紀>



芝居では、客が不入りの時でも忠臣蔵を出せば当たるといわれるほど庶民に人気のあった「忠臣蔵」。
さて、東博での入りはいかが相成るでしょうか。
 

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posted by 田沢裕賀(絵画・彫刻室長) at 2011年12月03日 (土)

 

終了間近アジアギャラリー 表慶館の魅力

建築とは、人間の欲求からなる美・技術・環境・思想など、高度に調和、統合されたものです。 また、「時代を表す象徴」と言われ、建造物が生きてきた時代の政治や文化、思想や技術の影響が色濃く反映されます。現存する近代の建造物が「経済性」と「老朽化」などの理由によりスクラップ&ビルトされる今日において、表慶館は竣工から100年が過ぎ、重要文化財として残されている意義は大きく、この建造物をどのように使いどのように後世に渡すかは、現代の私たちに課せられた課題でもあります。

表慶館(1908年竣工、片山東熊設計)は、明治末期を代表する当時最高の技術が結集された西洋風建築です。 日本で最初に作られた美術館として知られ、関東大震災にも耐えた堅牢な建造物です。 創建当時は、現在の本館の位置に旧本館(J・コンドル設計)が鎮座し、現在とは全く違った様相をみせていたのではないかと思います。


(左)旧本館(J・コンドル設計)、(右)表慶館(片山東熊設計)

現存する図面やパースを見ると、現在のドーム形状に至るまで数案の検討がなされていたことがわかります。 どの案であっても採用されれば現在の印象とは違ったものになったことは、いうまでもありません。 帝室時代の宮廷建築として、上品であり端正な造形の外観は、イオニア式オーダー、2階外壁部分にピラスター(付柱)、欄間に彫刻装飾があり、 単純な十字形平面に対して立面は、変化に富んだ構成と美しいプロポーションが印象的です。 片山の「建築物は芸術作品でなければならない」という思想を感じさせます。







建築構造は石造のように見えますが、煉瓦造で躯体煉瓦の壁に花崗岩が張られています。 中央大ドーム(直径16.7m)と両翼左右のドームを支える構造は鉄骨造で、アメリカのカーネギー社により製造されたものです。 ドームやフィニアルをはじめとする多くの装飾は、木製の下地により形作られ、それを銅版で葺いたり覆ったりしています。


基礎工事


(左)中央ドームフィニアルの木製下地、(右)屋根部分の木下地

中央ホールは大理石が多く用いられ、床はモザイク張りで幾何学模様が美しく、空間全体は上品で重厚な印象を受けます。 中央部の大理石の柱は、1階が角柱、2階が円柱となっており、1階の重厚さと2階の軽快さのバランスが見事です。 過度に装飾を施さず、美術館のエントランスにふさわしい意匠は必見です。


右、左ともに中央ホール

東洋の彫刻・工芸・考古遺物を展示する表慶館(アジアギャラリー)は2011年12月25日(日)までで見納めです。(表慶館は一時休館。次回開館予定は未定です。)
東洋美術の作品を鑑賞された後に、100年前に造営され、細部にわたり意匠を凝らした建築空間を楽しんでみてはいかがでしょうか。

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posted by 矢野賀一(デザイン室) at 2011年12月01日 (木)

 

明の名将にも知られた倭寇必須の剣術?!

2011年11月22日(火)から始まりました本館16室の展示「武家の作法―弓馬のたしなみと剣術・砲術・礼法」(~2011年12月25日(日)展示)を担当した研究員の髙梨です。
ブログでこの展示の見どころの一部を紹介したいと思います。

テーマはズバリ、武士が生業としていた“戦い方”。
そして、その日常生活を規定していた礼法つまり“マナー”です。

まず戦い方です。
時代劇の影響もあって、侍というとすぐに刀を振るうチャンバラを連想しがちですが、本来は馬にのって高速な機動力を活かし、遠距離兵器の弓で矢を放つ騎射が基本でした。
本館6室で時々展示される大鎧をご覧になったことはありますか?
あんなに重いものを着て刀で戦うのは、よほど体力があっても無理でしょう。
つまり武士にとって馬と弓は切っても切り離せない関係だったのです。
そうした意味から本展示でも弓馬術に関する資料を陳列しています。

ではみなさんご存知の“チャンバラ”はいつごろ始まるのかというと、すでに平安時代にはありました。
ただし騎馬どうしの戦いで、刀を使うのは敵を打ち取るためにその首を取る際です。
だから古来の剣術とは馬術の補助的な意味合いが強かったのですが、南北朝・室町と時代が下ると戦い方が変化します。
“武者”どうしの馬上の戦いから“雑兵”と呼ばれた下級兵士が入り乱れて戦う集団・白兵戦が主流となってきます。
そうなると相手と対峙して刀や槍などの接近戦用の武器でいかにしてか戦うかが、武士たちの生死を分ける重要な要素となってきます。
現代にまで続く剣術流派の多くが室町時代中ごろから生まれてくる背景には、日本列島が応仁の乱以降、戦闘状態に突入する“戦国の世”の幕開けがあります。

さて、その剣術ですが皆さんはどんな流派を思い出しますか?
こちらも正月のワイド時代劇でよく登場する、柳生但馬守や十兵衛で知られた「柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)」などご存知の方もいらっしゃいましょう。
また最近では「鹿島新当流(かしましんとうりゅう)」を創始した塚原ト伝(つかはら ぼくでん)を主役にしたテレビドラマも放映されていますね。
実はこれら有名な流派の源流に当たる「陰流(かげりゅう)」という剣術がありました。
愛洲久忠(あいすひさただ)が創始した流派で「愛洲陰流」とも呼ばれますが、これを学んだ上泉信綱(かみいずみのぶつな)が後に「新陰流」を創始し、信綱に学んだ柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)が「柳生新陰流」として展開していきます。

この陰流ですが、日本のみならず遠く異国にまで知られた流派でした。
時代は少し下って江戸時代の元禄年間に大阪の儒医松下見林(まつしたけんりん)が『異称日本伝』という日本・中国・朝鮮半島の歴史を研究した書物を著しています。
その中で日本関係の記事として引用した文献に『武備志』という中国・明の兵学者茅元儀(ぼうげんぎ、1594年-1640年?)が著わした兵学書があります。
そこには明の将軍、戚継光(せきけいこう、1528-87)が1561年に倭寇からの戦利品として「影流之目録」を得たとの記載があります。
つまり、この陰流は中国や朝鮮半島沿海部を荒らしまわった倭寇たちの間で学ばれていた剣術であった可能性があります。
本展示では、この陰流の伝書を陳列しています。
倭寇退治の名将をてこずらせた剣術だったのかと思うと、ちょっとびっくりですね!!

愛洲陰流伝書
愛洲陰流伝書 室町時代・16世紀写

ちなみにそこには剣士と様々な天狗たちの立ち合いの図が、各構えごとに描かれています。
しかも剣士の頭は禿げあがり髭ぼうぼうの姿です。
何となく「倭寇図巻」(東京大学史料編纂所蔵)に描かれた姿に似ているように感じられるのは私だけでしょうか?

余談ばかりで恐縮ですが、このほかにも大砲の玉や鉄砲にかかわる資料も展示しています。

大砲玉
大砲玉 下野国川西町糖塚原(栃木県大田原市)出土 江戸~明治時代・19世紀 植竹三右衛門寄贈

荻野流鉄砲組立之図
荻野流鉄砲組立之図 江戸時代・19世紀写 徳川宗敬氏寄贈

矢立鉄砲
矢立鉄砲 江戸~明治時代・19世紀 杉浦正氏寄贈

武士の多様な世界観を楽しんでいただければ幸いです。

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posted by 高梨真行(書跡・歴史室、ボランティア室)) at 2011年11月28日 (月)

 

法然と親鸞展 研究員おすすめのみどころ その3(彫刻)

「あ、このお像は素晴らしいな」と心に響く仏像とそうでない像があります。
どちらも歴史的な遺品として大切であることは変わりませんが、彫刻作品として考えると、どうしても優劣ができてしまいます。
その差が生じる理由の一つは作家の技量です。優秀な作家がお金と時間をかければ素敵な作品ができるでしょう。
でもそれだけではないようです。
特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」(~2011年12月4日(日))に出品されている彫像2点を見て、そんなことを考えました。
浄土宗所蔵の阿弥陀如来立像。
この像を拝すると、心のわだかまりが消えて、すーっと澄み切った気分になります(個人差があります)。


重文 阿弥陀如来立像 鎌倉時代・建暦2年(1222) (浄土宗)
 
無量光如来という別名にふさわしい輝きを感じます。
きりっとした顔立ち、体の引き締まった肉付きとリズミカルに刻まれた衣の襞。
像の高さ1mほどの阿弥陀如来立像は繰り返し造られてきたものなのに、この1体はとてもいきいきしていて、新鮮です。
これは仏師の意気込みが違うのだと思います。
“たくさん注文があるなかの一体”、ではなく“特別な一体”だったのではないか。
法然上人の一周忌法要の本尊にするため、弟子の源智が造らせた像、とひとことで言えばそうですが、
源智の並みならぬ思いに仏師が心打たれた、あるいは仏師が法然をとても尊敬していたなど、さまざまな可能性が考えられます。
しかし仏師の名前も知られないのでそれをたどることはできません。


次はこちらのお像です。

 
性信坐像 鎌倉時代(13~14世紀) (群馬・宝福寺)

群馬・宝福寺の性信坐像。この像の体、着ている服はペタンとしていて、写実的ではありません。
衣を見ても布という感じがしませんね。からだについて言えば素朴な味わいの像です。

しかし、顔に力があります。大きく見開いた目、眉間に深く皺を刻み、厳しさが感じられる。
鼻筋が通り、くっきりと広がる小鼻、鼻の両脇から口端にかけての皺も深く二重に彫っています。
下唇が上唇より前に出る受け口。両頬にも縦に2つ皺を刻みます。非常に個性的な顔ですが、強い魂が宿っていると思います。

この像を造った仏師大進は、率直に言って高い技量を持っているとは言えません。
この性信像の体と頭部では冴えが全く違います。ではどうしてこんな顔を造れたか?
大進は性信を知っていた、そしてとても強い印象を持っていた。そう考えることもできるでしょう。
あるいは性信の生前に写したか?ところが、茨城の報恩寺にこの像より洗練された性信像があって、顔は似ていません。
とすると大進の心に残っていた性信の面影を再現したものと考えるべきかもしれません。
以上、お像を前にして勝手に空想したことです。

カテゴリ:研究員のイチオシ2011年度の特別展

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posted by 浅見龍介(東洋室長) at 2011年11月24日 (木)