このページの本文へ移動

1089ブログ

大聖寺藩伝来の能面をみる

現在本館14室では、特集「大聖寺藩(石川県)前田家伝来の能面」(2024年1月14日(日) まで)を開催しています。


本館14室 展示風景

その中から見どころをいくつかご紹介します。

加賀100万石で知られる加賀藩の支藩が大聖寺藩(だいしょうじはん)です。
加賀藩主前田利常(としつね)の三男を初代藩主とした大聖寺藩は小さな藩でしたが、
加賀藩と足並みを揃え能楽が盛んで、特に能楽の流派のひとつである宝生流(ほうしょうりゅう)と深いつながりがありました。
そのため大聖寺藩伝来の面には、宝生家の能面の写しが多数含まれています。

能面 節木増(ふしきぞう) 「宝生大夫/良重(花押)」金字銘 江戸時代・18世紀 文化庁

 

これは大聖寺藩に伝わった、増女(ぞうおんな)という種類の面です。
鼻の付け根左側、左目眼頭との間に茶色のしみが見えます。
ちょっと近づいてじっくりしみを見てください。


能面 節木増(部分)

このしみは自然な汚れではなく、作為的に描いたものであることがわかるはずです。
なぜそんなことをしたのでしょうか。

実はこの増女は、宝生家の名物面「節木増」の写しで、このしみはその節木増にあるものなのです。
宝生家の節木増のこのしみの部分には、面の材である木の節(ふし)があります。
木の節からにじみでた樹脂がこのようなしみとなり、そのため「節木増」と呼ばれています。

この名物面の名の由来ともなったこのしみは重要な要素だったので、写す際にはあえて描いたわけです。
大聖寺藩の節木増の面裏、ちょうどこのしみの裏側には節を示すように穴がありますが、
これも本当の節の穴ではなく、あえて作られたものです。


能面 節木増(面裏・部分)

穴のまわりには「御命により家の増うつし上ル者也」と加賀藩の能の指南役を勤めていた宝生良重が署名しています。
宝生良重とは、宝生流9世友春(ともはる・1654~1728)のことです。
この節木増の写しは大聖寺藩主からの命令で作られたということでしょう。
樹種まで宝生家の節木増に合わせているところからも、非常に熱心に名物面の写しを請う大聖寺藩主の姿がうかがえます。


能面 節木増(面裏・「御命により家の増うつし上ル者也」と書かれた部分)

 

こちらの面をみて驚く方も多いのではないでしょうか。
灰色と茶色のしみがたくさんあり、何とも不思議な面です。

能面 怪士(あやかし)(木汁怪士・きじるあやかし)  江戸時代・18~19世紀 文化庁

これも節木増同様、木の脂によるしみなので「木汁怪士」と呼ばれる宝生家の名物面の写しです。
ただし、灰色のしみは宝生家の面に見られるものですが、茶色のしみはありません。
茶色のしみは大聖寺藩に伝わった面の材から樹脂が出たもので、本物のしみなのです。
特徴のある毛描きなど、丁寧に宝生家の名物面を写していますが茶色の樹脂は想定外のことでしょう。
宝生家の木汁怪士とは雰囲気が変わってしまったかもしれませんが、そのことを大聖寺藩の人々はどうとらえていたのか、興味がわいてきます。

 

今度は反対に、大聖寺藩の面の写しを宝生家が持っているという例をご紹介しましょう。

能面 老女(ろうじょ) 室町時代・15~16世紀 文化庁

 

この面は老女といいます。大聖寺藩に伝わったもので室町時代の作でしょう。
この老女とそっくりな面が宝生家にもあり、前田備後守(びんごのかみ)家のものを写したことが記録されています。

備後守には大聖寺藩第4代藩主利章(としあきら)、6代利精(としあき)、9代利之(としこれ)が任じられていますが、前田氏が治めていた加賀藩や富山藩には備後守に任じられた人物はいません。
そのため、宝生家の老女は大聖寺藩の老女を写したものだとわかるのです。
宝生家が写しを求めるほどの面が、なぜ大聖寺藩にあったのかなど謎もまだまだ多く残されています。

大聖寺藩にはほかにも宝生家の能面の写しはたくさんあり、また、能楽の他の流派である金春家(こんぱるけ)や観世家(かんぜけ)の面の写しもあります。
多くの能面を収集する中で、名物面の写しは流派を越えて求めたのかもしれません。

あえて写した傷は、肉眼でもわかるものがあります。
能面を見るときに、作為的につけられた傷があれば、その面は写しかもしれません。
傷も含めた面の魅力が、その写しを求め、また手間をかけ細やかに写す動機になったのでしょう。
じっくりと見ながら面の魅力を感じてください。
 

カテゴリ:特集・特別公開

| 記事URL |

posted by 川岸 瀬里(ボランティア室長) at 2023年12月07日 (木)

 

中国書画精華―日本におけるコレクションの歴史

東洋館8室では、特集「中国書画精華―日本におけるコレクションの歴史」が開催中(後期展示:2023年11月28日(火)~2023年12月24日(日))です。
「中国書画精華」は、東京国立博物館でおこなっている毎年秋恒例の中国書画名品展です。
今年は日本におけるコレクションの歴史を切り口に、「古渡(こわた)り」「中渡(なかわた)り」「新渡(しんわた)り」といった観点から作品を紹介しています。


東洋館8室 展示風景

中国絵画では、室町時代以前に日本に渡ったものを「古渡り」と呼びます。今回の展示では、室町以前の伝来が裏付けられる作品に加え、『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』など、足利将軍家の中国絵画趣味を伝える書物に名前が載っている画家の作品を、「古渡り」のカテゴリーで紹介しています。


重要文化財 羅漢図軸
蔡山(さいざん)筆
元時代・14世紀 中国
[展示中、12月24日まで]

羅漢図軸 寄進銘

例えば、元時代の怪奇趣味を体現する画家、蔡山による、どこか不気味な「羅漢図軸」は、右下の「奉三宝弟子左兵衛督源直義捨入」という寄進銘により、足利尊氏(1305~1358)の弟、直義(1306~1352)が、貞和2年(1346)に高野山 金剛三昧院(こんごうさんまいいん)に寄進した十六羅漢図の一つであることがわかっています。

次に、「中渡り」ですが、中国絵画分野では、「古渡り」と「新渡り」の中間、主に江戸時代に伝わったものを指しています。厳密にいえば、江戸時代に伝わったのか、それ以前から日本にあったのかは定かでありませんが、後世に大きな影響を与えた足利将軍家の中国絵画趣味の体系には入っていない作品を紹介しています。


重要文化財 天帝図軸
元~明時代・14~15世紀 中国 霊雲寺蔵
[展示中、12月24日まで]


天帝図軸 部分(玄天上帝)

天帝図軸 部分(四元帥)

江戸時代に日本にあったことが裏付けられる作品として、霊雲寺ご所蔵の「天帝図軸」があります。霊雲寺は、元禄4年(1691)、5代将軍徳川綱吉(1646~1709)により、徳川将軍家の祈願寺として湯島に創建された名刹です。
本作には、北斗七星の旗と剣、玄武を従える玄天上帝が描かれ、その周りに、青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を持った関元帥(関羽)、黒衣の趙元帥、火炎に包まれる馬元帥、青顔の温元帥が配されます。画家の名は伝わりませんが、細かな描写と華やかな彩色が見事な、道教絵画の名品です。


天帝図軸 箱蓋裏(箱蓋裏を拡大して見る

天帝図 竹沢養渓(たけざわようけい)、養竹(ようちく)摸 天明8年(1788)
(注)現在、展示されていません。

霊雲寺の4世住職法明(1706~63)による、箱の蓋裏の書付(1754年)によれば、本作は狩野探幽(1602~74)の旧蔵で、御用絵師を務めた狩野家から8代将軍徳川吉宗(1684~1751)に献上されたものといいます。吉宗はこれの摸本を作らせたのち、原本を霊雲寺の3世住職慧曦(1679~1747)に下賜(かし)したそうです。
狩野家ではこれの摸本を代々作っていたようで、当館にも、狩野惟信(かのうこれのぶ・1753~1808)の弟子、竹沢養渓、養竹の摸本が伝わっています。

さて、清の衰退にともない、中国本土に秘蔵された名画が多く流出した近代には、古渡り、中渡りとは異なる、本場の文人趣味を体現する作品が日本にやってきます。
これら新渡りとして、高島菊次郎(1875~1969)蒐集の揚州八怪(ようしゅうはっかい)の作品を紹介します。揚州八怪は、清の最盛期に商業都市揚州(江蘇省・こうそしょう)で活躍した在野の書画家たちの総称です。その後の文人画の動向を決定づけた彼らの書画は、中国で大変珍重されたため、近代以前の日本人はその真跡を見ることはほとんどできなかったと思われます。


秋柳図巻(しゅうりゅうずかん) 黄慎(こうしん)筆 清時代・雍正13年(1735) 中国 高島菊次郎氏寄贈[展示中、12月24日まで]


秋柳図巻 拡大図

高島菊次郎は大正から昭和にかけての著名なコレクターです。王子製紙社長として活躍しながら、中国書画を多く収集しました。当館に寄贈された高島コレクションには、揚州八怪の一人、黄慎(1687~1768?)の優品が含まれています。
「秋柳図巻」は、王士禎(おうしてい・1634~1711)の著名な詩「秋柳」に想を得た作品で、葉の落ちた柳の枝に見られる、洗練されたすばやい筆さばきが見所です。本場の中華文人の洗練された筆墨を初めて目にした、日本の愛好家の興奮が想像されます。

以上、駆け足で古渡り、中渡り、新渡りについて紹介しました。これらを通覧することで、日本における中国絵画鑑賞伝統の層の厚さを体感していただければ幸いです。

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡

| 記事URL |

posted by 植松瑞希(絵画・彫刻室) at 2023年12月01日 (金)

 

国宝「源氏物語絵巻 夕霧」にみる人間模様

 「やまと絵」という言葉は、平安時代のなかばから使われており、古くは一条天皇の後宮に藤原彰子(ふじわらのしょうし)が入内(じゅだい)する際にやまと絵の屛風を用意したという記録があります。彰子は、藤原道長(みちなが)の娘であり、紫式部(むらさきしきぶ)が仕えた女主人として知られています。

重要文化財 紫式部日記絵巻断簡(むらさきしきぶにっきえまきだんかん)(部分)
鎌倉時代・13世紀 東京国立博物館蔵
藤原彰子が一条天皇の皇子(のちの後一条天皇)を出産して、その誕生五十日目を祝う場面。画面の右方で、背中を向けている女性が彰子。画面の下方の男性は、彰子の父である藤原道長。画面の左方には、道長の妻で、彰子の母である源倫子(みなもとのりんし)が皇子を抱いています。
 
紫式部が執筆した『源氏物語』は、彼女特有の深い洞察力と豊かな美意識によって、平安時代の貴族たちの上質な生活感がみごとに描写されており、登場人物たちは欠点すらも優雅すぎて感情移入しにくいところもあります。
これは時代の違いとばかりも言いきれず、平安時代の文学少女として知られる『更級日記(さらしなにっき)』の筆者は、子どものころ「大きくなったら、光源氏(ひかるげんじ)に愛された夕顔(ゆうがお)や、薫(かおる)に愛された浮舟(うきふね)のようになるんだ」と信じていたようですが(あとから思い返して恥ずかしがるのが良い)、これは現実感がないくらいハイスペックな紫の上や明石の君たちに比べると、自分自身を投影しやすくて魅力的なキャラクターだったのでしょう。
 
『源氏物語』には理想的な人物ばかりでなく、ちょいちょいと息抜きのように現実的な人々が登場します。いつの時代にもいそうで親しみをおぼえるのは夕霧(ゆうぎり)と雲居の雁(くもいのかり)のカップルです。
光源氏の息子である夕霧は、幼なじみの雲居の雁と結ばれるために、はやく一人前として認められるように努力を重ねました。念願がかなって雲居の雁と結ばれ、たくさんの子供に恵まれたところで、親友の柏木(かしわぎ)が亡くなり、あとに残された落葉の宮(おちばのみや)のもとに通ううちに、しだいに宮に心を奪われてゆきます。なかなか落葉の宮に心を許してもらえないうちに、2人の関係を誤解した宮の母君から夕霧にあてて、娘を粗略に扱うことをなじる手紙が届きます。夕霧がその手紙を読もうとしたところ、雲居の雁がこれを落葉の宮からの手紙であると勘違いして、夕霧の背後から忍び寄って手紙を奪い取ります。その後、とうとう雲居の雁は子供を連れて実家に戻ってしまいますが、いつの間にか仲直りしたらしく、のちには夫婦で息子の縁談について気をもむような場面がでてきます。

国宝「源氏物語絵巻 夕霧」の展示風景

国宝「源氏物語絵巻 夕霧」の展示風景
 
国宝 源氏物語絵巻 夕霧(げんじものがたりえまき ゆうぎり)
平安時代・12世紀 東京・五島美術館蔵
展示期間:11月21日(火)~12月3日(日)
落葉の宮の母君から届いた手紙を読もうとする夕霧の背後から、妻である雲居の雁が手紙を奪おうと近づく緊迫の瞬間。恋する男、嫉妬する女、不安に見守る端女(はしため)たち。みな同じような引目鉤鼻(ひきめかぎはな)の顔立ちですが、見る者の想像力によって、各人の表情が見えてきます。
 
『源氏物語』の本質は「もののあはれ」だという、分かるような分からないような評言があります。その意味するところはさておき、『源氏物語』にはさまざまな人生や感情が描かれており、人間というのは昔も今も変わらないことを思わされます。きっと未来も変わらないでしょう。
 
国宝「源氏物語絵巻 夕霧」や重要文化財「紫式部日記絵巻断簡」をご覧いただける、特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」は12月3日(日)まで。
ぜひ、足をお運びください。
 
特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」の会場入口

カテゴリ:研究員のイチオシ「やまと絵」

| 記事URL |

posted by 猪熊兼樹(保存修復室長) at 2023年11月24日 (金)

 

「柿本宮曼荼羅」の秘密

特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」では仏画も展示されています。

やまと絵と仏画はつながりがなさそうですが、平安時代から鎌倉時代の初めころには、やまと絵を描いていた宮廷絵師と、仏画を描く絵仏師が、天皇が企画した絵画制作プロジェクトに一緒に参加していたことが記録に残されていて、互いの持つ技術を披露し合いながら絵を描いていたことが推測されます。その成果の一つが仏画に見られる自然景で、やまと絵の自然景と大差ありません。
こうした自然景の描写に重点が置かれた作例に、神社の境内を描いた宮曼荼羅(みやまんだら)があります。奈良・春日大社を描いた「春日宮曼荼羅」は有名です。
 
今回取りあげる作品は重要文化財「柿本宮曼荼羅」(奈良・大和文華館蔵 以下、本図と呼びます)です。
自然描写だけではない、本図とやまと絵との関わりについてご紹介します。
 
重要文化財 柿本宮曼荼羅(かきのもとみやまんだら)
鎌倉時代・13世紀 奈良・大和文華館蔵
展示期間:11月7日(火)~12月3日(日)
 
「柿本宮」といってもそういう名前の神社はなく、本図は奈良県天理市に所在する「和爾下神社」(わにしたじんじゃ)が舞台です。
画面上部に社殿を描き、上方に表された祭神の本地仏(神の姿を仏の姿を借りて表したもの)や、山が重なる構図は、「春日宮曼荼羅」と共通します。社殿は正面から堂々と捉えられていますので、祈るために制作された仏画と考えられます。建物の入口に当たる楼門の扉は開け放たれ、そこから延びる石段を下りると、十二社・弁才天社があり、本地仏の十二神将が描かれます。この十二神将、フィギュアのような姿かたちをしていてとても愛らしく、しかも描写は緻密で、本図の見所の一つです。
 

 
「柿本宮曼荼羅」の部分図(中央右)。十二神将が緻密に描かれています。 

さて、石段を下りたあたりから左に目を向けると、柱を支える礎石が整然と並ぶ空地があります。
 
「柿本宮曼荼羅」の部分図(中央左)
 
その右手にはこんもりとした墳丘が描かれます。
 
「柿本宮曼荼羅」の部分図(中央)
 
さりげなく描かれていますが、実はこの二つのモチーフは、本図にとって重要です。
墳丘は「歌塚」(うたづか)とよばれる柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の墓、空地は人麻呂を祀る寺院の跡です。柿本人麻呂は『万葉集』を代表する歌人で、のちに歌聖と崇められました。ただ、人麻呂とのつながりを示す二つのモチーフは、理想化されたものではなく、荒れた土地として描かれています。ここに本図を読み解く秘密が隠されています。
 
平安時代末から鎌倉時代前半に活躍した歌人、鴨長明(かものちょうめい)は、人麻呂の墓のありかを訪ねてもあたりに知っている人はいない、と記しています(『無名抄』(むみょうしょう))。つまり、12世紀前半には実際に本図のように荒廃していたと思われます。寺跡と墳丘は、すでに忘れ去られてしまった人麻呂ゆかりの二つの遺跡を、ありのままに描いたものだったのです。
 
和歌に詠まれた名所や景物から、名所絵や四季絵、月次絵が描かれるなど、やまと絵にとって和歌はとても重要です。ですから、本図は自然描写だけでなく、人麻呂ひいては和歌のイメージを読み取ることが可能な点も、やまと絵との関わりがある作例です。
 
ところで、本図が描かれたとみられる13世紀後半、京極為兼(きょうごくためかね 1254~1332)という歌人が活躍しました。為兼は京極派と呼ばれる、景物や心情をありのままに言葉に表すという、当時としては新しい歌風を確立しました。本図は歌聖である人麻呂ゆかりの土地を描きながらも、理想化することなく荒廃した様子を素直に描いていました。
こうした描写が京極派の歌風と通じると思うのですがいかがでしょうか。
さらに、本図が祈るために制作された仏画である点を踏まえると、為兼の父である為教(ためのり)が亡くなった弘安二年(1279)を制作の契機としたいところです。
 
人麻呂ゆかりの遺跡を手掛かりに、色々と想像(妄想?)を巡らせてみました。
実は筆者の前職は奈良県の大和文華館で、本図は思い入れのある作品の一つです。
本図は宮曼荼羅のなかでも大きな作例であり、自然景も濃彩でたいへん美しい作例です。宮曼荼羅には参詣の代用という機能がありました。

「柿本宮曼荼羅」は第一会場出口付近に展示しています。 
桜満開で緑も美しい境内、会場で絵の中を散策してみてください。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ「やまと絵」

| 記事URL |

posted by 古川攝一(教育普及室) at 2023年11月10日 (金)

 

近世やまと絵を楽しむ

「近世のやまと絵」と聞いた時、どのような作品が思い浮かぶでしょうか?
「あれ、やまと絵といえば、平安時代のきらびやかな作品なのでは?」と思われる方も多いのではないかと思います。
しかしやまと絵は、日本絵画を代表するジャンルの一つとして、近世、江戸時代になっても輝きを放ち続けていました。

現在、平成館で開催中の特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」に合わせ、本館7室、8-2室、特別2室で開催している特集「近世のやまと絵-王朝美の伝統と継承-」において、「近世やまと絵」に関する作品を展示しています。


本館8-2室の展示風景

すでに特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」を御覧いただいた方はご存知かもしれませんが、室町時代後期、それまで200年近くやまと絵の仕事の多くを担っていた土佐家の当主が戦死し、土佐家の工房が京都から堺へと拠点を移すことになりました。そして土佐家の京都不在を機に、他の多くの絵師たちがやまと絵を手がけるようになったのです。それは、中世のやまと絵を継承しつつも、やまと絵が大きく変容していくことを意味していました。
今回特集「近世のやまと絵-王朝美の伝統と継承-」では、大きく3つのテーマを設けて展示しています。

まず本館7室では、「やまと絵の系譜―四季の景物、名所の情景―」と題し、やまと絵の大きな主題でもある四季や名所をテーマとする優品を展示しています。


桜山吹図屛風(さくらやまぶきずびょうぶ)
伝俵屋宗達筆 江戸時代・17世紀 田沢房太郎氏寄贈



桜山吹図屛風(さくらやまぶきずびょうぶ)
伝俵屋宗達筆 江戸時代・17世紀 田沢房太郎氏寄贈

桜と山吹が咲きほこる春の風景です。緑の土坡で大胆に画面が区切られ、金銀泥や砂子などで装飾された季節の草花の上に和歌が記された色紙が貼り交ぜられています。
宗達(そうたつ)が活躍したのは、安土桃山~江戸初期という変革期の京都。王朝文化に対する憧れから古典復興の気運が高まっていました。
宗達は、金銀を多用し鮮やかな色彩を用いて宮廷や京都の上層町衆の需要に応えていました。本作にみえるリズミカルで意匠美豊かな画風は、宗達が中世のやまと絵を継承しつつ、時代の要請に合わせて大胆に変容させた、近世やまと絵の画風の一端を示すものといえます。

続く本館8-2室では、「近世やまと絵の担い手たち」と題し、やまと絵本流である土佐派、住吉派、板谷派に加え、狩野派、岩佐派、長谷川派、さらには琳派、復古やまと絵の諸派など、画派ごとのやまと絵表現の流れをご覧いただきます。


粟穂鶉図屛風(あわほうずらずびょうぶ)
土佐光起筆 江戸時代・17世紀



粟穂鶉図屛風(あわほうずらずびょうぶ)
土佐光起筆 江戸時代・17世紀

堺に拠点を移した土佐派を一世紀ぶりに京都画壇に復帰させたのが土佐光起です。以降、土佐派はやまと絵を担う重要な画派として、幕末に至るまで活躍してゆくことになります。
鶉(うずら)は光起が得意とした画題の一つで、その後の土佐派の絵師たちにも受け継がれる代表的なモチーフとなりました。


秋郊鳴鶉図(しゅうこうめいじゅんず)
土佐光起、土佐光成筆 江戸時代・17世紀

今回は、光起の屏風と、息子である光成との合作の掛軸を並べて展示しています。
羽毛のふわふわ感を楽しんでいただければと思います。


粟穂鶉図屛風(あわほうずらずびょうぶ)(部分)
土佐光起筆 江戸時代・17世紀




年中行事図屛風(ねんじゅうぎょうじずびょうぶ) 左隻
住吉如慶筆 江戸時代・17世紀


ここでぜひこの機会にご覧いただきたい作品をご紹介しましょう。住吉如慶(すみよしじょけい)の屛風です。
如慶は土佐光吉(とさみつよし)、もしくは光則(みつのり)の門弟とされる絵師で、鎌倉時代以来途絶えていた住吉家を復興した人物として知られています。
なぜこの作品に注目かといいますと、ちょうど平成館で開催中の特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」で、如慶らが後水尾天皇の命で模写した「年中行事絵巻(住吉本)」が半世紀ぶりに(!)公開されているからなのです。
「年中行事絵巻」は、もともと平安時代後期に後白河天皇の命で制作された絵巻で、宮中や都の儀式や行事、儀礼などが描かれた年中行事の集大成だったのですが、原本は火災で焼失してしまい、模本のみが現存しています。そうした貴重な模本の中でも、住吉本は描写も正確であり、重要視されてきました。
特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」では、住吉本四巻の展示のうち、巻第五が展示されていますが(展示期間:11月7日(火)~19日(日))、この屛風には、ちょうど巻第五と同じ場面、「内宴」の様子、中でも内教坊(ないきょうぼう)の妓女(ぎじょ)たちが舞を披露するところが描かれているのです。
もちろん、絵巻から屛風へと拡大して描いていますので、構図も整理されていますし、そっくりそのまま形を踏襲しているわけではありません。
しかし、貴重な原本を模写した経験があるからこそ、如慶は、こうした屛風を描くことができたのです。この機会にぜひ、両作品を見比べるという経験もしてみていただけたら幸いです。


源氏物語図屛風(絵合・胡蝶)(げんじものがたりずびょうぶ えあわせ・こちょう)
狩野〈晴川院〉養信筆 江戸時代・19世紀



源氏物語図屛風(絵合・胡蝶)(げんじものがたりずびょうぶ えあわせ・こちょう)
狩野〈晴川院〉養信筆 江戸時代・19世紀

『源氏物語』はやまと絵において最も多く絵画化された主題だと思いますが、本作も、右隻は『源氏物語』の「絵合(えあわせ)」から、女御たちが冷泉帝の御前で絵を競う場面を、左隻は「胡蝶」から、秋好中宮(梅壺女御)が春の仏事を行う様子を描いています。(特集「近世のやまと絵-王朝美の伝統と継承-」では、現在「源氏物語図屛風(胡蝶)」を展示中)。
狩野派の絵師たちは、すでに室町時代からやまと絵の画法を取り入れた作品を制作していましたが、やまと絵学習という点において最も特筆すべき存在は、本作の筆者である木挽町(こびきちょう)狩野家九代目当主の養信(おさのぶ)です。
当館には木挽町狩野家に伝来したとされる模本類が5,000件近く収蔵されていますが、その模本からは、養信がすでに10歳で狩野探幽の作品を的確に模写し、14歳の段階でやまと絵の絵巻模写にも挑戦していることがわかります。


法然上人行状絵傳(模本)(ほうねんしょうにんぎょうじょうえでん)(部分)
狩野養信等模(原本:土佐吉光) 江戸時代・文化六年(1809)
(注)展示の予定はありません


養信はその後も膨大な数の古画の模写を続け、学習を深めていきました。
「源氏物語図屛風」は養信のやまと絵学習の成果がいかんなく発揮された優品です。保存状態も良いので、発色のよい絵具や精緻な描写など、ぜひお近くで御覧ください。


四季花鳥図巻(しきかちょうずかん) 巻下(部分)
酒井抱一筆 江戸時代・文化15年(1818)


酒井抱一(さかいほういつ)は、姫路藩主の弟として文雅をたしなむ風流人を多く輩出した家柄に生まれ、若くして俳諧や狂歌、能など諸芸をたしなみました。
そして江戸の地で尾形光琳を顕彰しながら、俳人ならではの感性で瀟洒(しょうしゃ)な作品を制作し、彼を取り巻く江戸後期の文芸サロンの交遊の中で、自らの画業を展開していきました。
「四季花鳥図巻」は、春夏で1巻、秋冬で1巻、計2巻にわたり月々の花と鳥たちが描き連ねられ四季がめぐってゆく画巻です(特集「近世のやまと絵-王朝美の伝統と継承-」では、現在下巻を展示中)。
左へと巻き広げる巻物の形態を最大限に生かした構図が特徴です。 幹や枝、蔓(つる)の配置とともに、鳥や虫たちも、左へと続く次の季節へとリズミカルに私たちの視線を誘導させていきます。 極上の絵具により描かれた本作は、抱一の琳派学習や江戸後期の中国絵画に対する嗜好、博物図譜の流行など、さまざまな要素を取り入れ紡ぎだされた、抒情性(じょじょうせい)あふれる抱一花鳥画の代表作の一つです。
近世の江戸における新たなやまと絵の表現をお楽しみください。


後嵯峨帝聖運開之図(ごさがていしょううんひらくのず)
冷泉為恭筆 江戸時代・19世紀 岡田かつ子氏寄贈


次にご紹介するのは、平安・鎌倉時代のやまと絵に立ち戻ることを作画理念とした復古やまと絵の作品です。
中でも最も著名な冷泉為恭(れいぜいためちか)の作品をご紹介しましょう。
「後嵯峨帝聖運開之図」には付属の書付があり、それによると、後嵯峨天皇がまだ即位する前、百姓から献じられた米を近習の男女が洗って折敷(おしき)・土器に盛ったところ、亀が現れて寿いだという話を絵画化しているようです。

為恭もまた、多くの古画を模写しやまと絵学習に励んだ人物でした。特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」で10月24日(火)~ 11月5日(日)まで展示していた「伝源頼朝像」(京都・神護寺像)を為恭が模写した作品が、当館に2点残されています。

伝源頼朝像(模本)(でんみなもとのよりともぞう もほん)
冷泉為恭模 江戸時代・19世紀
(注)展示の予定はありません
伝源頼朝像(模本)(でんみなもとのよりともぞう もほん)
冷泉為恭模 江戸時代・19世紀
(注)展示の予定はありません


為恭はまた、特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」で展示している、奈良・春日大社に祀られる神々の霊験を描いた「春日権現験記絵巻(かすがごんげんけんきえまき)」(皇居三の丸尚蔵館収蔵)の模写も制作しているのですが、「後嵯峨帝聖運開之図」にも絵巻からの影響が指摘されており、そうした古画学習の成果が発揮された精緻(せいち)な装束も見どころです。
また、画面をじっくり見てみると、2匹の可愛らしい亀も見つかるはずです。ぜひ会場で探してみてください。


後嵯峨帝聖運開之図(ごさがていしょううんひらくのず)(部分)
冷泉為恭筆 江戸時代・19世紀 岡田かつ子氏寄贈


そして最後の特別2室では、「近世やまと絵と宮廷」と題し、宮廷文化と深くかかわる作品や、京都御所ゆかりのやまと絵を展示しています。


四季草花図屛風(しきそうかずびょうぶ)
「伊年」印 江戸時代・17世紀



四季草花図屛風(しきそうかずびょうぶ)
「伊年」印 江戸時代・17世紀

「伊年」の印は、俵屋宗達の工房「俵屋」の商品に捺された商標的な印章です。宗達だけでなく、俵屋工房の他の画家の作品にも捺されていて、一種のブランドマークとして使われていたと考えられています。
伊年印の草花図屛風は、江戸初期の宮廷における園芸愛好も手伝い、多数の作品が現存しており、「四季草花図屛風」もその一つです(特集「近世のやまと絵-王朝美の伝統と継承-」では、現在右隻を展示中)。六曲一双の屛風に、四季折々の草花が絵具の濃淡を変えて華やかに描かれています。
宮内省の中でも宮中調度に関することなどを司った主殿寮(とのもりょう)から引き継いだ作品です。


耕作図屛風(こうさくずびょうぶ)
円山応瑞筆 江戸時代・19世紀


応瑞(おうずい)は、円山派の祖として近代日本画にまで多大な影響を与えた円山応挙(まるやまおうきょ)の長男です。
耕作図は重要な年中行事のひとつとして多く絵画化された画題で、本作でも、金砂子を撒いた画面の中、生き生きと農作業に勤しむ人々の姿が描かれています。
こちらも「四季草花図屛風」と同様、主殿寮(とのもりょう)から引き継いだ作品です。

応瑞の父である応挙は、多大な庇護を受けた円満院祐常(えんまんいんゆうじょう)をはじめとする宮中や公家のサークルとも深く関わっていました。
天皇の住まいである禁裏御所の七度目の造営(寛政度内裏造営)では、京都の町絵師が参加する中、多くの絵師を輩出したのも円山応挙率いる一門でした。
応瑞も父とともに参加し、その後も宮中との関係を築いていきます。
孫の応震(おうしん)が宮廷の依頼を受けて描いた下絵も当館に所蔵されています。


禁中花御殿障壁画下絵(きんちゅうはなごてんしょうへきがしたえ)(部分)
円山応震筆 江戸時代・天保5年(1834)
(注)展示の予定はありません



大嘗会屛風のうち悠紀屛風 嘉永元年度九月・十月帖(だいじょうえびょうぶのうちゆきびょうぶ かえいがんねんど くがつじゅうがつちょう)
土佐光孚筆 江戸時代・嘉永元年(1848)


最後にご紹介するのは、天皇が即位した際に行なわれる大嘗会の際に制作される大嘗会屛風です。京都から東の悠紀国、西の主基(すき)国からそれぞれ一国が選ばれ、その名所を詠んだ和歌と景色を描いたものです。
令和度は、悠紀は栃木県、主基は京都府だったことは記憶に新しいところですが、この屛風は嘉永元年、孝明天皇が即位した際の悠紀国(近江国)の屛風です。
頻繁に展示される作品ではないため、この機会にぜひ御覧いただければと思います。

以上、駆け足で展示作品をご紹介してきましたが、近世やまと絵の魅力はまだまだ語りつくすことはできません。
今回の特集「近世のやまと絵-王朝美の伝統と継承-」で出品している作品は、一般に知られる名品からあまり展示されることのない逸品まで、さまざまな作品を厳選しています。
ぜひ会場で各流派の画家たちが描く近世やまと絵の多様さを体感いただければと思います。
特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」と合わせて、中世から近世への900年に及ぶやまと絵の歴史とその変化を一気にご堪能いただけたら幸いです。
主要作品を載せたリーフレットも、本館インフォメーションにて好評配布中です。
また、今回の出品作品が多く掲載された『東京国立博物館所蔵 近世やまと絵50選 江戸絵画の名品』(吉川弘文館、2023年)も好評発売中です。
合わせてぜひ御覧ください。

 

カテゴリ:絵画「やまと絵」

| 記事URL |

posted by 大橋美織(保存修復室主任研究員) at 2023年11月07日 (火)