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「柿本宮曼荼羅」の秘密

特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」では仏画も展示されています。

やまと絵と仏画はつながりがなさそうですが、平安時代から鎌倉時代の初めころには、やまと絵を描いていた宮廷絵師と、仏画を描く絵仏師が、天皇が企画した絵画制作プロジェクトに一緒に参加していたことが記録に残されていて、互いの持つ技術を披露し合いながら絵を描いていたことが推測されます。その成果の一つが仏画に見られる自然景で、やまと絵の自然景と大差ありません。
こうした自然景の描写に重点が置かれた作例に、神社の境内を描いた宮曼荼羅(みやまんだら)があります。奈良・春日大社を描いた「春日宮曼荼羅」は有名です。
 
今回取りあげる作品は重要文化財「柿本宮曼荼羅」(奈良・大和文華館蔵 以下、本図と呼びます)です。
自然描写だけではない、本図とやまと絵との関わりについてご紹介します。
 
重要文化財 柿本宮曼荼羅(かきのもとみやまんだら)
鎌倉時代・13世紀 奈良・大和文華館蔵
展示期間:11月7日(火)~12月3日(日)
 
「柿本宮」といってもそういう名前の神社はなく、本図は奈良県天理市に所在する「和爾下神社」(わにしたじんじゃ)が舞台です。
画面上部に社殿を描き、上方に表された祭神の本地仏(神の姿を仏の姿を借りて表したもの)や、山が重なる構図は、「春日宮曼荼羅」と共通します。社殿は正面から堂々と捉えられていますので、祈るために制作された仏画と考えられます。建物の入口に当たる楼門の扉は開け放たれ、そこから延びる石段を下りると、十二社・弁才天社があり、本地仏の十二神将が描かれます。この十二神将、フィギュアのような姿かたちをしていてとても愛らしく、しかも描写は緻密で、本図の見所の一つです。
 

 
「柿本宮曼荼羅」の部分図(中央右)。十二神将が緻密に描かれています。 

さて、石段を下りたあたりから左に目を向けると、柱を支える礎石が整然と並ぶ空地があります。
 
「柿本宮曼荼羅」の部分図(中央左)
 
その右手にはこんもりとした墳丘が描かれます。
 
「柿本宮曼荼羅」の部分図(中央)
 
さりげなく描かれていますが、実はこの二つのモチーフは、本図にとって重要です。
墳丘は「歌塚」(うたづか)とよばれる柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の墓、空地は人麻呂を祀る寺院の跡です。柿本人麻呂は『万葉集』を代表する歌人で、のちに歌聖と崇められました。ただ、人麻呂とのつながりを示す二つのモチーフは、理想化されたものではなく、荒れた土地として描かれています。ここに本図を読み解く秘密が隠されています。
 
平安時代末から鎌倉時代前半に活躍した歌人、鴨長明(かものちょうめい)は、人麻呂の墓のありかを訪ねてもあたりに知っている人はいない、と記しています(『無名抄』(むみょうしょう))。つまり、12世紀前半には実際に本図のように荒廃していたと思われます。寺跡と墳丘は、すでに忘れ去られてしまった人麻呂ゆかりの二つの遺跡を、ありのままに描いたものだったのです。
 
和歌に詠まれた名所や景物から、名所絵や四季絵、月次絵が描かれるなど、やまと絵にとって和歌はとても重要です。ですから、本図は自然描写だけでなく、人麻呂ひいては和歌のイメージを読み取ることが可能な点も、やまと絵との関わりがある作例です。
 
ところで、本図が描かれたとみられる13世紀後半、京極為兼(きょうごくためかね 1254~1332)という歌人が活躍しました。為兼は京極派と呼ばれる、景物や心情をありのままに言葉に表すという、当時としては新しい歌風を確立しました。本図は歌聖である人麻呂ゆかりの土地を描きながらも、理想化することなく荒廃した様子を素直に描いていました。
こうした描写が京極派の歌風と通じると思うのですがいかがでしょうか。
さらに、本図が祈るために制作された仏画である点を踏まえると、為兼の父である為教(ためのり)が亡くなった弘安二年(1279)を制作の契機としたいところです。
 
人麻呂ゆかりの遺跡を手掛かりに、色々と想像(妄想?)を巡らせてみました。
実は筆者の前職は奈良県の大和文華館で、本図は思い入れのある作品の一つです。
本図は宮曼荼羅のなかでも大きな作例であり、自然景も濃彩でたいへん美しい作例です。宮曼荼羅には参詣の代用という機能がありました。

「柿本宮曼荼羅」は第一会場出口付近に展示しています。 
桜満開で緑も美しい境内、会場で絵の中を散策してみてください。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ「やまと絵」

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posted by 古川攝一(教育普及室) at 2023年11月10日 (金)