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大聖寺藩伝来の能面をみる

現在本館14室では、特集「大聖寺藩(石川県)前田家伝来の能面」(2024年1月14日(日) まで)を開催しています。


本館14室 展示風景

その中から見どころをいくつかご紹介します。

加賀100万石で知られる加賀藩の支藩が大聖寺藩(だいしょうじはん)です。
加賀藩主前田利常(としつね)の三男を初代藩主とした大聖寺藩は小さな藩でしたが、
加賀藩と足並みを揃え能楽が盛んで、特に能楽の流派のひとつである宝生流(ほうしょうりゅう)と深いつながりがありました。
そのため大聖寺藩伝来の面には、宝生家の能面の写しが多数含まれています。

能面 節木増(ふしきぞう) 「宝生大夫/良重(花押)」金字銘 江戸時代・18世紀 文化庁

 

これは大聖寺藩に伝わった、増女(ぞうおんな)という種類の面です。
鼻の付け根左側、左目眼頭との間に茶色のしみが見えます。
ちょっと近づいてじっくりしみを見てください。


能面 節木増(部分)

このしみは自然な汚れではなく、作為的に描いたものであることがわかるはずです。
なぜそんなことをしたのでしょうか。

実はこの増女は、宝生家の名物面「節木増」の写しで、このしみはその節木増にあるものなのです。
宝生家の節木増のこのしみの部分には、面の材である木の節(ふし)があります。
木の節からにじみでた樹脂がこのようなしみとなり、そのため「節木増」と呼ばれています。

この名物面の名の由来ともなったこのしみは重要な要素だったので、写す際にはあえて描いたわけです。
大聖寺藩の節木増の面裏、ちょうどこのしみの裏側には節を示すように穴がありますが、
これも本当の節の穴ではなく、あえて作られたものです。


能面 節木増(面裏・部分)

穴のまわりには「御命により家の増うつし上ル者也」と加賀藩の能の指南役を勤めていた宝生良重が署名しています。
宝生良重とは、宝生流9世友春(ともはる・1654~1728)のことです。
この節木増の写しは大聖寺藩主からの命令で作られたということでしょう。
樹種まで宝生家の節木増に合わせているところからも、非常に熱心に名物面の写しを請う大聖寺藩主の姿がうかがえます。


能面 節木増(面裏・「御命により家の増うつし上ル者也」と書かれた部分)

 

こちらの面をみて驚く方も多いのではないでしょうか。
灰色と茶色のしみがたくさんあり、何とも不思議な面です。

能面 怪士(あやかし)(木汁怪士・きじるあやかし)  江戸時代・18~19世紀 文化庁

これも節木増同様、木の脂によるしみなので「木汁怪士」と呼ばれる宝生家の名物面の写しです。
ただし、灰色のしみは宝生家の面に見られるものですが、茶色のしみはありません。
茶色のしみは大聖寺藩に伝わった面の材から樹脂が出たもので、本物のしみなのです。
特徴のある毛描きなど、丁寧に宝生家の名物面を写していますが茶色の樹脂は想定外のことでしょう。
宝生家の木汁怪士とは雰囲気が変わってしまったかもしれませんが、そのことを大聖寺藩の人々はどうとらえていたのか、興味がわいてきます。

 

今度は反対に、大聖寺藩の面の写しを宝生家が持っているという例をご紹介しましょう。

能面 老女(ろうじょ) 室町時代・15~16世紀 文化庁

 

この面は老女といいます。大聖寺藩に伝わったもので室町時代の作でしょう。
この老女とそっくりな面が宝生家にもあり、前田備後守(びんごのかみ)家のものを写したことが記録されています。

備後守には大聖寺藩第4代藩主利章(としあきら)、6代利精(としあき)、9代利之(としこれ)が任じられていますが、前田氏が治めていた加賀藩や富山藩には備後守に任じられた人物はいません。
そのため、宝生家の老女は大聖寺藩の老女を写したものだとわかるのです。
宝生家が写しを求めるほどの面が、なぜ大聖寺藩にあったのかなど謎もまだまだ多く残されています。

大聖寺藩にはほかにも宝生家の能面の写しはたくさんあり、また、能楽の他の流派である金春家(こんぱるけ)や観世家(かんぜけ)の面の写しもあります。
多くの能面を収集する中で、名物面の写しは流派を越えて求めたのかもしれません。

あえて写した傷は、肉眼でもわかるものがあります。
能面を見るときに、作為的につけられた傷があれば、その面は写しかもしれません。
傷も含めた面の魅力が、その写しを求め、また手間をかけ細やかに写す動機になったのでしょう。
じっくりと見ながら面の魅力を感じてください。
 

カテゴリ:特集・特別公開

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posted by 川岸 瀬里(ボランティア室長) at 2023年12月07日 (木)