「清時代の書-碑学派-」のブログも、いよいよ最終回となりました。
初回のブログ「清時代の書-碑学派- 勃興期@トーハク」でもお伝えした通り、このたびの連携企画では、10月29日にリニューアルオープンした台東区立朝倉彫塑館を加え、3館で碑学派の書人の代表作を紹介しています。
今回のブログでは、朝倉彫塑館で展示されている作品についてお話ししようと思います。その前に、朝倉彫塑館についてちょっと一言。
朝倉彫塑館は、彫刻家・朝倉文夫(1883~1964)が自ら設計してつくった自宅兼アトリエを、美術館として公開している施設です。朝倉がかつて生活していた空間で、朝倉自身の作品や、朝倉が収集した書画を楽しめるという、本当に贅沢なひとときを味わえる場所で、まさに都会のオアシス!!トーハクのK課長も、学生の頃によく朝倉彫塑館を訪れては、畳の部屋で瞑想にふけっていたとか…。
さて、そんな素敵な朝倉彫塑館では、碑学派の掉尾を飾る呉昌碩(ごしょうせき、1844~1927)の作品が部屋のあちこちに展示されています。なぜ、ここに呉昌碩の作品があるのでしょう?それは、朝倉文夫が呉昌碩の像を制作したことに由来します。
朝倉は、生涯において400点ほどの肖像彫刻を制作しています。若い頃から名声を博していた朝倉は、大隈重信、犬養毅、渋沢栄一、市川団十郎、尾上菊五郎など、日本の著名な政治家や実業家、役者など、著名人の像を数多く制作していますが、その中で2点だけ中国人の像があります。呉昌碩と、京劇の大スター梅蘭芳(メイランファン)です。2人の像は大正10 年(1921)に制作され、東京の上野竹の台陳列館にて開かれた東台彫塑会第1回展に出品されました。
東台彫塑会 第1回展(右から3番目が呉昌碩像)
朝倉が呉昌碩の像をつくることになったきっかけは、ある日本人の仲介により、呉昌碩と朝倉文夫との間で作品交換の話が持ち上がったことからでした。これには呉昌碩も大いに乗り気になって、まず呉昌碩から「老松図(ろうしょうず)」(図1)と「臨石鼓文(りんせっこぶん)」(図2)を朝倉に贈ります。2点とも呉昌碩77歳の近作で、特に画に関しては多数の作品から選んだ自信作だったようです。
図1 老松図軸 呉昌碩筆 中国 中華民国時代・民国13年(1924) 台東区立朝倉彫塑館蔵
(展示期間終了)
図2 臨石鼓文額 呉昌碩筆 中国 中華民国時代・民国9年(1920) 台東区立朝倉彫塑館蔵
(展示期間:10月29日(火)~12月26日(木)、台東区立朝倉彫塑館にて展示)
さて今度は、朝倉が呉昌碩に作品を贈る番です。朝倉は肖像彫刻を制作する際、対象となる人物に直接会うことを心掛けていますが、海のむこうにいる呉昌碩との対面は叶いませんでした。
そこで朝倉は、先方に写真を送ってもらうことにします。写真の依頼を受けた呉昌碩は、前・後・左・右から撮影した4枚の写真を朝倉に送りました。朝倉は、その写真を見て呉昌碩の姿かたちを可能な限り再現し、また書画作品から感じた呉昌碩の印象なども加味しつつ、像を仕上げていったと想像できます。
完成した呉昌碩像は、展覧会の出品後、船便で本人のもとに届けられました。像を受け取った呉昌碩の感激ぶりは、めりはりのきいた流麗な行草体で自身の思いを綿々と綴った書簡からも十分に伝わってきますね(図3)。
図3 朝倉文夫宛書簡 呉昌碩筆 中国 中華民国時代・民国10年(1921) 台東区立朝倉彫塑館蔵
(展示期間:10月29日(火)~12月26日(木)、台東区立朝倉彫塑館にて展示)
書簡の最後には、作品2点を一緒に送ったことが書かれています。その書画が、朝倉への為書きがある「竹石図(ちくせきず)」(図4)と「篆書神在箇中(てんしょしんざいこちゅう)」(図5)です。
落款の年号を見ると、像を受け取るや否や、すぐさま返礼の意を込めてこの2作を制作したことがわかります。
図4 竹石図軸 呉昌碩筆 中国 中華民国時代・民国10年(1921) 台東区立朝倉彫塑館蔵
(展示期間終了)
図5 篆書神在箇中額 呉昌碩筆 中国 中華民国時代・民国10年(1921) 台東区立朝倉彫塑館蔵
(展示期間:10月29日(火)~12月26日(木)、台東区立朝倉彫塑館にて展示)
呉昌碩は、初代社長をつとめた篆刻の研究機関である杭州の西泠印社(せいれいいんしゃ)に朝倉制作の像を置きました。弟子たちとともに西泠印社を散策するとき、呉昌碩はこの像の鋳造技術の高さを称え、弟子たちにも習練を積むことの大切さを諭していたそうです。
しかしその後、1966年に始まった文化大革命で、この像は惜しくも亡佚してしまいます。朝倉のもとには石膏原型がありましたが、これも関東大震災で壊れ、現在はその破損部分が収蔵されています(図6)。
図6 呉昌碩像原型(破損像残部) 朝倉文夫作 日本 大正10 年(1921) 台東区立朝倉彫塑館蔵
(展示期間:10月29日(火)~12月26日(木)、台東区立朝倉彫塑館にて展示)
朝倉は、呉昌碩像の制作のやりとりで呉昌碩の書画を4点手に入れていますが、これを機にファンになり、以後自ら呉昌碩作品を収集しています。また朝倉は、呉昌碩の流れを汲むものとして、王一亭(おういってい、1867~1938)の作品(図7)や、孫松(そんしょう、1882~1962)の作品(図8)なども収集し、中国書画コレクションのより一層の充実化を図っています。
図7 書画扇面額 王一亭筆 中国 中華民国時代
画は民国17年(1928)、書は民国18年(1929) 台東区立朝倉彫塑館蔵
(展示期間:11月19日(火)~12月8日(日)、台東区立朝倉彫塑館にて展示)
図8 墨梅図 孫松筆 中国 中華民国時代・民国15年(1926) 台東区立朝倉彫塑館蔵
(展示期間:12月10日(火)~12月26日(木)、台東区立朝倉彫塑館にて展示)
朝倉の自宅の各部屋には、呉昌碩の作品がいくつも飾られていました。呉昌碩が朝倉制作の像を見せ、弟子たちを励ましていたように、朝倉もまた呉昌碩の書画を生活のなかに溶け込ませることで、自らの創作意欲を刺激しようとしていたのかもしれません。とまれ、呉昌碩書画に対する傾倒が、朝倉の彫刻家としての営為に少なからぬ影響を与えていたことだけは間違いなさそうです。
特集陳列「清時代の書 ―碑学派―」 (2013年10月8日(火)~12月1日(日)、平成館企画展示室)
特別展「清時代の書― 碑学派 ― 鄧石如生誕270年記念」 (2013年10月8日(火)~12月1日(日)、台東区立書道博物館)
リニューアルオープン記念展示「第Ⅰ期:朝倉文夫 交流の書画」 (2013年10月29日(火)~12月26日(木)、台東区立朝倉彫塑館)
カテゴリ:研究員のイチオシ、特集・特別公開、中国の絵画・書跡
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posted by 鍋島稲子(台東区立書道博物館主任研究員) at 2013年11月28日 (木)
日本が世界に誇る伝統芸能のひとつである能楽に欠かせない「面(おもて)」の作家を「面打(めんうち)」、木を「彫り」、表面に「彩色」をして面を作ることを「面を打つ」といいます。
木を彫り、彩色する。まさに、彫刻です。
当たり前のことなのですが、なぜか忘れがちなことでもあります。
実際能面を鑑賞するとき、どうしても能楽の道具として、どの演目のどの役がつける、ということに注目してしまいます。
しかし、彫刻としての魅力を持つ能面はたくさんあるんです。
しっかりじっくり能面と向き合える博物館での鑑賞だからこそ、彫刻として楽しんでいただきたいなぁ、と思っていました。
彫刻としてという視点を持つためには、彫刻しているところを見るのが一番!
「特集陳列 日本の仮面 能面 是閑と河内」(2014年2月16日(日) まで、本館14室)にあわせ、11月24日(日)に面打新井達矢氏をお迎えし、実演とトークショーを開催しました。
ちなみに、特集陳列のタイトルにある、是閑と河内も安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した面打です。
新井さんによれば、ひとつの面をつくるのには1~2ヶ月ほどかかるとのこと。
イベントですべての工程をご覧いただくことは叶いませんが、彫刻らしい、特集陳列の鑑賞の参考になるだろう工程を選んでご覧いただきました。
面のおおよその形をつくる粗彫りなど彫りの工程の実演では、勢いよく鑿が振るわれます。
おだやかな能面からは想像できないような大胆な作業を見ていると、「面を打つ」という言葉に妙に納得。
木を打つ音、削る音が響き、材である檜の香が漂い、私もお客様と一緒に見入ってしまいます。
粗彫りの工程です
トークショーでは、新井さんとトーハクの浅見龍介研究員が登場。
仕事も経歴も年齢も違うおふたりの共通点は面が好きであることと、多くの人にその魅力を伝えたいと思っていることだけです。
そのおふたりが作り手と彫刻史研究者、それぞれの視点で展示作品についてお話されました。
キーワードは「彫刻としての能面の魅力」。
演目などの話はあえて省き、仏像との比較を交えながら、材、道具、彫りや彩色に焦点をあてた和やかなトークショーでした。
ご参加いただけなかった皆様のために、「特集陳列 日本の仮面 能面 是閑と河内」鑑賞のポイントをひとつご紹介します。
肌の質感です。
是閑と河内の面の肌によく見られる特徴的表現があります。
ぜひご自身の目で肌の質感の違いをご覧ください。
(左) 「能面 平太」 「天下一是閑」焼印 安土桃山~江戸時代・16~17世紀
(右) 「能面 十六」 「天下一河内」焼印 江戸時代・17世紀
是閑の肌(左)は彩色後に磨いてつやを出し、河内の肌(右)は彩色で凹凸をつくる梨地などと呼ばれる肌です。
新井さん、お集まりいただきました皆様、ありがとうございました。
能面は彫刻としての魅力に溢れていました。
このイベントを企画する前からもちろんそう思っていたのですが、
面を打つ工程を見てから、彫刻としての魅力という視点で改めて能面を鑑賞すると実感するものです。
能面の彫刻としての魅力を皆さんの目でみつけ、感じ、お楽しみいただければと思います。
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posted by 川岸瀬里(教育普及室) at 2013年11月26日 (火)
呉彬「山陰道上図巻」に驚く!―最初で最後!?東洋館でしかわからない画家の実像―
特別展「上海博物館 中国絵画の至宝」では、貴重な宋元画を含む18件もの一級文物が来日していますが、二級文物のなかにもぜひともご覧になっていただきたい作品があります。
「西湖図巻」や、今回全巻展示された呉彬筆「山陰道上図巻」です。
西湖図巻 南宋時代・13世紀
西湖図巻と西湖の実景が対比して展示されています。
西湖にこの画巻を持って行って実景と対照させた乾隆帝の気分を味わえます。
東洋館の10メートルケースに全巻展示された呉彬筆「山陰道上図巻」。全長862.2㎝の大迫力!
こんなすごい作品が二級文物なのには、「呉彬」という画家の評価をめぐる歴史が関係しています。
呉彬の詳しい一生は不明な点が多いのですが、福建省に生まれ、のち北京の高官であった米万鐘の支援を受けて北京、南京などで活躍します。
何といってもそのトレードマークは、一度見たら忘れられない、その奇怪な山の表現です。
山陰道上図巻 呉彬筆 明時代・1608年 上海博物館蔵
「こんな風景みたことない!?」。画家は山陰(浙江省)の風景と言っていますが、単純な実景ではありません。
造形を見ればびっくりしてしまいますが、しかし、呉彬はただの「変な画家」ではないようです。
よく見れば、全長862㎝を超える作品の最初から最後まで、一つとして同じ描写はなく、画家は細かな描写を変化させているのがわかります。
春の山はおだやかで → 夏の山は湿潤 → 秋の山は色づき → 冬の山は静寂
じつは私はこれこそが、呉彬がこの作品にこめた最大のメッセージだと思っています。
画巻は春の朝焼けからはじまり、夏の雨景、秋の夕暮れ、冬の雪景色と静かな夜景で終わりますが、さらに、中国絵画史を彩る古代の画家の筆法をおり混ぜながら描くことで、四時(朝昼夕夜)と四季(春夏秋冬)、そして、画家が修行の過程で体得した中国絵画の歴史そのものが、一巻のなかに出現する、という作品になっているのです。
【夏】
米友仁の描き方 たとえば↓
(左)呉彬筆「山陰道上図巻」のうち夏景
夏山のジメジメした雲は北宋の米友仁に学んだ描写です。
例:(右)離合山水図 杜貫道賛 明時代・14世紀(出品作品ではありません)
同じく北宋の米友仁に学んだ明時代の山水。
【秋】
李成の描き方 たとえば↓
(左)呉彬筆「山陰道上図巻」のうち秋景
夕景の飛び立つ北宋の李成に学んだ描写です。
例:(右)王雲筆「山水楼閣図冊」のうち、倣李成山水図 清時代・康熙56年(1717)(出品作品ではありません)
同じく北宋の李成に学んだ清時代の山水。
【秋】
王蒙の描き方 たとえば↓
(左)一級文物 山陰道上図巻 呉彬筆のうち秋景
牛の尻尾のようなモワモワした描写は元時代の王蒙に学んだものです。
(右)一級文物 青卞隠居図軸(部分)王蒙筆 元時代・至正26年(1366)
その実際の作品もご覧いただけます。文人の苦悩を表わすかのような壮絶な描写です。
ではなぜ呉彬はこのように描いたのでしょうか?
ことの真相は最後の「吹き出し」のようになった跋に書いてあります。
この絵は米万鐘のために、「晋唐宋元諸賢」の描き方をまねて、描き上げたものです。
おそらくそこには、最も大切なパトロンのために、持てるすべての技を駆使しようとした、真摯な画家の姿が見えてくるでしょう。
呉彬は単に「変な画家」だったのではなく、中国の古典をしっかりと学んだ画家だったのです。
岩の中に吹き出しのように書いている「山陰道上図巻」の呉彬の跋。過去の画家を真似て描いたことが記されています。
意外なことに呉彬の作品が大きく再評価されたのは20世紀になってからで、それは日本とも大きな関係があります。
大阪の高槻市で中国書画を収集された橋本末吉氏(1902-1991)は、おそらくもっとも初期に呉彬の面白さに気がつき、のちに「奇想派」と呼ばれる明末清初の大コレクションを築かれました。
戦後、日本にフルブライト奨学生としてやってきた若きジェームス・ケーヒル(のちのカリフォルニア大学教授)は、橋本コレクションで呉彬「渓山絶塵図」に出会い、今までのおとなしい中国絵画とは全く違う呉彬作品に感銘を受け、帰国後「エキセントリックスクール」という新しい概念から展覧会を開き、研究活動を開始します。
こうして呉彬らは20世紀の日本やアメリカの研究者によって再評価されていったのです。
(左)渓山絶塵図 呉彬筆 個人蔵 (出品作品ではありません)
(中央)一級文物 青卞隠居図軸 王蒙筆 元時代・至正26年(1366)
呉彬の奇怪な表現は、王蒙や北宋山水画の影響も受けていることが指摘されています。
(左)James Cahill , Fantastics and eccentrics in Chinese painting , Asia Society,1967 (出品作品ではありません)
呉彬を評価した最初期の展覧会の図録です。資料館で閲覧することができます。
呉彬「山陰道上図巻」はこのように、最初から最後まで息つくヒマもない程の、筆墨の変化こそが最もおもしろいところですが、一部分しか展示できないのでは、この作品の素晴らしさが全く伝わりません。
今回特にこの作品をお願いしたのは、名品であること、そしてこれが、東洋館8室で新しく作られた10メートルケースにぴったりとおさまるからです。
まさに、新しい東洋館のために描かれたような、奇跡の作品。
このような全巻展示は上海博物館でもほとんどなく(私は見たことがありません)、新しい東洋館ならではの、最初で最後のチャンスかもしれません。
会場では呉彬の傑作から顔を上げれば、呉彬が学んだ王蒙や北宋絵画が見えるように展示しました。
まさに「中国絵画の教科書」のようなぜいたくな空間になっています。
明末清初はこのような、ちょっと変わった画風(奇想派)が流行した時代でしたが、よく聞かれるのは、日本の奇想派との関係です。
私は関係があるのではないかと思っていますが、これはこれからの研究課題となっていくでしょう。
東博の主役は日本美術の素晴らしいコレクションです。
しかし日本の美術もアジアの美術を知ることでより深く理解することができます。東博はその両者がそろった世界でも稀有な博物館です。
どうかこれからもリニューアルオープンした東洋館で、アジア美術の名品を同時にお楽しみいただければ幸いです。
特別展「上海博物館 中国絵画の至宝」は、11月24日(日)までです。どうぞお見逃しなく!
カテゴリ:研究員のイチオシ、news、2013年度の特別展、展示環境・たてもの
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posted by 塚本麿充(東洋室) at 2013年11月20日 (水)
祝・20万人!
特別展「京都―洛中洛外図と障壁画の美」(12月1日(日)まで、平成館)は、
11月19日(火)、20万人目のお客様をお迎えしました。
連日たくさんのお客様にご来場いただいておりますこと、心から御礼申し上げます。
20万人目のお客様は、東京都世田谷区からお越しの大宝ひとみ(25)さんです。
ご親戚である城野京子(66)さんとご来場いただきました。
東京国立博物館長 銭谷眞美より、記念品として本展図録と洛中洛外図舟木本のミニフレームを贈呈いたしました。
大宝さんと銭谷眞美館長
11月19日(火)東京国立博物館 平成館エントランスにて
デザインを学んでいる大宝さんは、
「古い美術品には今の時代にはない感性があり、色々なことを感じることができます。
今回は4Kの迫力ある映像も楽しみです。」
と、笑顔で展示会場に向かわれました。
カウントダウン企画 特別夜間開館
京都展もいよいよ残すところあと12日。カウントダウンに突入です!
1人でも多くのお客様に、少しでもゆったりと展示をお楽しみいただきたく、
通常の夜間開館日のほかにも夜間延長開館を実施することになりました。
11月22日(金)、23日(土)、24日(日)の週末と、
27日(水)~12月1日(日)のラスト5日間、京都展は夜8時まであいています。
お仕事や学校のお帰りに、是非お立ち寄りくださいませ。
なお、通常の夜間開館日22日(金)と29日(金)を除いて、時間延長は特別展「京都
―洛中洛外図と障壁画の美」のみとなります。
総合文化展及び「上海博物館 中国絵画の至宝」展は17時に終了いたしますので、
くれぐれもご注意ください。
さらに、27日(水)からは、平成館2階の京都展グッズのショップで3,000円以上お買い
上げの方先着1000名様に、10月17日に行われた「洛中洛外図 舟木本」をモチーフ
にした3Dプロジェクションマッピングを手の平で楽しめる「ハコビジョン -東京国立博物館
『KARAKURI』- 」(2014年1月発売予定)のプロトタイプをプレゼント。
(※お買い上げ対象は、京都展グッズショップの商品です。東京国立博物館のミュージア
ムグッズは含まれません)
ハコビジョンについてはこちら
プレゼントは予定数量に達し次第終了とさせていただきます。
皆様のご来場お待ちしています。
カテゴリ:news、2013年度の特別展
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posted by 小林牧(広報室長) at 2013年11月19日 (火)
今回は、先の「清時代の書─碑学派─ 勃興期@トーハク」のバトンを受けて、碑学派の隆盛期についてお話ししようと思います。その前に、碑学派の立役者であり、今年生誕270年を迎えた鄧石如(とうせきじょ、1743~1805)について触れておきましょう。
鄧石如像軸 湯禄名筆 中国 清時代・同治3年(1864) 個人蔵
(台東区立書道博物館にて展示中)
中国の書の歴史は、官僚たちによって作られてきました。勃興期のブログにも登場した翁方綱(おうほうこう)や阮元(げんげん)、李宗瀚(りそうかん)たちも、超エリート官僚です。しかし鄧石如は、貧しい家の生まれでした。父に書や篆刻の手ほどきを受け、若い頃から各地を放浪し、売字売印の生活を送りながら糊口をしのいでいました。その才能を見抜いた名士たちは、鄧石如のために衣食や紙墨などを提供したり、豊富な収蔵品を自由に見せたりと、鄧石如を全面的に支援します。鄧石如もそれに応えるべく、当時ようやく脚光を浴びつつあった古碑の臨摸を通して切磋琢磨し、篆書や隷書の臨書を何百回と繰り返すことで、熟練した技法を身につけました。そして、王羲之の書とは全く異なる視点から、雄渾で格調高い書風を創出したのです。古典に基づいた新たなスタイルの篆書や隷書は、鄧石如によって打ち立てられたといっても過言ではありません。事実、後の碑学派の書は、鄧石如の書風を基盤として開花していきました。在野の売芸家だった鄧石如が“碑学派の祖”と称えられるゆえんです。
左:篆書白氏草堂記六屏 鄧石如筆 中国 清時代・嘉慶9年(1804) 個人蔵(平成館企画展示室で展示中)
右:隷書登黄鶴楼和畢制府韻詩軸 鄧石如筆 中国 清時代・乾隆57年(1792) 京都国立博物館蔵(台東区立書道博物館にて展示中)
鄧石如の偉業は、包世臣(ほうせいしん、1775~1855)を通じて、呉熙載(ごきさい、1799~1870)に受け継がれ、やがて趙之謙(ちょうしけん、1829~1884)、呉昌碩(ごしょうせき、1844~1927)へと継承されて、碑学派は全盛時代を迎えます。
包世臣は、多くの人の書法を研究していましたが、その中で最も影響を受けたのが鄧石如でした。包世臣が鄧石如と会ったのはわずか2回でしたが、晩年の鄧石如の書は最高の境地にあり、包世臣もまた鄧石如の指導を受け入れられるだけの素地が十分にできていました。包世臣は、斬新で個性豊かな鄧石如の書法を吸収し、その教えを呉煕載に伝えます。
呉熙載は10代の後半に包世臣と出会い、弟子入りしました。呉熙載は包世臣を深く尊敬し、師の方法論を順守します。包世臣は持てる知識と技の全てを、鋭敏な頭脳を持つ呉熙載に授けました。草書や行書、楷書については、包世臣自身の書風を伝え、篆書と隷書については、鄧石如の書を学ばせました。
左:臨孝女曹娥碑冊 包世臣筆 中国 清時代・18~19世紀 東京国立博物館蔵(高島菊次郎氏寄贈)
右:楷書淮南子主術訓横披 呉熙載筆 中国 清時代・19世紀 個人蔵
(いずれも台東区立書道博物館にて展示中)
この2つの楷書作品をみると、包世臣の書風を、呉熙載が忠実に学んでいることがよくわかりますね。
呉煕載も鄧石如と同様、官僚となることなく、民間人として生涯を全うしました。書画篆刻はもとより、書籍の勘校、筆耕、棗刻(そうこく)などに従事し、清貧な一生であったといいます。
呉熙載の篆書や隷書は、鄧石如の書法をベースとした一つの典型をつくり、鄧石如よりも軽妙洒脱な、都会的な雰囲気の書風を築き上げました。
篆書崔子玉座右銘四屛 呉熙載筆 中国 清時代・咸豊6年(1856) 個人蔵
隷書文語横披 呉熙載筆 中国 清時代(19世紀) 個人蔵
(いずれも台東区立書道博物館にて展示中)
呉熙載の上品で華やかな篆書や隷書は、碑学派の隆盛をさらに推し進めることとなります。
さて、前述の包世臣ですが、彼は、阮元の著『南北書派論』、『北碑南帖論』という、石碑の拓本に価値を求めた説を継承し、それをさらに発展させた形で石碑の理論的研究を進める必要性を『芸舟双楫(げいしゅうそうしゅう)』で説きました。包世臣は書表現の理想を「気満(きまん)」に求め、それを「逆入平出(ぎゃくにゅうへいしゅつ)」という用筆法をもって具体的に示したのです。この用筆法は、北碑(ほくひ)の表現技法として実に斬新なものでした。阮元、包世臣による石碑重視、とりわけ北碑尊重の唱導が清朝後期の書壇に与えた影響は計り知れず、碑学派においては北碑を重視する傾向が強くなります。
こうした理論が先行した雰囲気の中で、今度は趙之謙のように、北碑派の主張を実践的に展開する者が現れました。趙之謙は、北魏の石刻を基とし、包世臣の気満の理想を実現すべく逆入平出の法を改良し、そこから全く新しい表現形態を樹立しました。
楷書斉民要術八屛 趙之謙筆 中国 清時代・同治8年(1869)頃 個人蔵(平成館企画展示室で展示中)
趙之謙のこの独自のスタイルこそが、後に「北魏書」といわれているものです。
清朝碑学派の掉尾を飾る大御所といえば、やはり呉昌碩でしょう。呉昌碩は、金文(きんぶん)や石鼓文(せっこぶん)など、古代文字の要素をとり込んだ書風が顕著です。
臨石鼓文軸 呉昌碩筆 中華民国・民国14年(1925) 東京国立博物館蔵(林宗毅氏寄贈)
(平成館企画展示室で展示中)
この篆書作品はまさにその典型であり、彼は秦時代の小篆(しょうてん)よりも古い、紀元前5~前4世紀頃の石鼓文を自家薬籠中(じかやくろうちゅう)のものとし、一家を成しました。
こうして清時代も末期になると、北碑からさらに時代を遡った殷、周、秦時代にまで書制作の資料が広く求められるようになり、書の表現は多様化しました。また金石(きんせき)の新資料が次々と発見されたこととも相まって、清朝後期の碑学派たちによる研究活動は、広範囲に及ぶのみならず、その内容も充実していきます。芸術性の追求のみを主眼としていた従来の書が深化し、文字学や金石学、考古学といった分野からの知見を基礎とした「清朝書学」が成立したことも大きな要因でしょう。これら碑学の隆盛は、書活動の制作面にも多大な影響を与え、帖学のみではなし得なかった表現も、碑学の導入によって新たな境地を開くことが可能になり、書の潜在的な表現力は飛躍的な高まりをみせていったのです。
特集陳列「清時代の書 ―碑学派―」 (2013年10月8日(火)~12月1日(日)、平成館企画展示室)
特別展「清時代の書― 碑学派 ― 鄧石如生誕270年記念」 (2013年10月8日(火)~12月1日(日)、台東区立書道博物館)
カテゴリ:研究員のイチオシ、特集・特別公開、中国の絵画・書跡
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posted by 鍋島稲子(台東区立書道博物館主任研究員) at 2013年11月16日 (土)