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1089ブログ

「呉昌碩の世界」その3 中華文人の友だちづくり

東京国立博物館(以下「東博」)の植松です。

現在、東洋館8室では、特集「生誕180年記念 呉昌碩の世界―金石の交わり―」(~3月17日(日))が開催中です。
こちらは毎年恒例の東博と台東区立書道博物館の連携企画ですが、今年は、呉昌碩生誕180年記念事業ということで、もう2館、台東区立朝倉彫塑館兵庫県立美術館の呉昌碩展示とも時期を合わせて、より総合的に「呉昌碩の世界」をご案内しています。
 
この展示をよりお楽しみいただくため、リレー形式による1089ブログをお送りします(過去のブログはこちらから。「呉昌碩の世界」その1その2)。
3回目の今回は東博展示から、呉昌碩とその師友との交流がよくわかる作品を紹介します。

古柏図軸(こはくずじく) 呉大澂(ごたいちょう)筆 清時代・光緒14年(1888) 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館蔵
【東博にて3月17日(日)まで展示】


こちらの、「古柏図軸」、なんか、画のまわりにいっぱい字がある! と驚かれるかもしれません。
どうしてこういうことになるのでしょうか。それはこの作品が、本来は、展覧会に掛けて公(おおやけ)に楽しまれるものではなく、文人たちの友情を深めるためのプライベートな贈りものであったからなのです。
「柏」と題がついていますが、中国でいう柏は、日本のカシワ(落葉樹)ではなくヒノキ(常緑樹)の類を指し、いつでも葉が青々としていることから、長寿や高潔な人柄の象徴として愛されてきました。
贈りものにするのにぴったりの画題ですね。

誰がどんなことを書いているのか、まずは、絵画の部分を見ていきましょう。
落款(らっかん)と印章が2セットあります。


古柏図軸の絵画部分
 

古柏図軸の湯貽汾(とういふん)落款部分

左下の方には「湯雨生(とううせい)」と書かれています。
雨生は、清代後期の著名な画家、湯貽汾(とういふん、1778~1853)の字(あざな)であって、これはその落款ということになります。
 
でもちょっと待ってください。
その下に「清卿臨本(せいけいりんぽん)」と印がありますね。
「臨本」すなわち模写ですから、これは清卿という人が、落款も含めて湯貽汾の古柏図を模写したものという意味になります。
清卿は、清代末期の高官で学者、書画篆刻家としても著名であった呉大澂(ごたいちょう、1835~1902)の字です。

その呉大澂の落款が右上、画の中ほどにあります。


古柏図軸の呉大澂(ごたいちょう)落款部分

これにより、呉大澂は光緒14年(1888)の秋7月、この模写を作って「見山(けんざん)」という人に贈ったことがわかります。
見山は、やはり学者で書家としても有名な楊峴(ようけん、1819~96)の字になります。

模写作品を贈りものにするというのはちょっと変な感じがします。
ただ、清の武官として活躍し、太平天国(たいへいてんごく)の乱で南京が陥落した際に殉死した湯貽汾は、呉大澂にとって尊敬すべき先輩であり、模写も特に謹厳な態度でのぞんでいます。
そのような模写作品であれば、楊峴への贈りものとして問題なかったのではないでしょうか。

楊峴は、光緒16年(1890)の夏6月、画の右外に題記を書いています。
ここには、光緒14年秋、呉大澂からもらったこの作品を、2年後のこの年、「麈遺先生(しゅいせんせい)」なる人の「松柏之寿(しょうはくのじゅ、長寿)」の祝いとして贈ったとあります。


古柏図軸の楊峴(ようけん)題記部分

残念ながら、麈遺先生が誰かはわからなかったのですが、この麈遺先生に頼まれて、光緒16年8月、画の上に堂々たる題字を書いたのが、まだ47歳と比較的若い呉昌碩です。


古柏図の呉昌碩題字部分

呉昌碩にしてみれば、9歳上の呉大澂はこの頃知り合ったばかり、官位も、学者、書画篆刻家としての名声・実績も遠く及びません。
また、25歳上の楊峴は、30代から大変お世話になっている書と詩の師匠です。
その二人ゆかりの作品に題字を書くというのは大変なプレッシャーだったと想像されますが、見事それに応えています。
こういった、作品上での文人同士の交流が、書画家としての呉昌碩を育てていったことがわかるでしょう。

古柏図軸

その後も、10年にわたり都合5名の文人たちが、呉大澂、楊峴、呉昌碩に続いて、画の両側を埋め尽くすように題記を書いた結果、本作は現在の姿になりました。
現代の私たちには見慣れない、書と画の競演ですが、呉昌碩と師友たちとの交流の軌跡として楽しんでいただければ幸いです。

(追記)
ブログを読んでくださった方から、「麈遺」は、楊峴と同郷の書画家、凌霞(りょうか)の号であるとご指摘いただきました。
ありがとうございました!
 

カテゴリ:研究員のイチオシ中国の絵画・書跡「生誕180年記念 呉昌碩の世界—金石の交わり—」

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posted by 植松瑞希(絵画・彫刻室) at 2024年02月26日 (月)

 

平泉の日々

今から20数年前の夏のこと、私は1ヶ月ほど、岩手県の平泉に滞在していました。

当時、私は工芸史を専攻する大学院生で、特に蒔絵や螺鈿といった日本の漆工史についての研究に取り組んでいました。
そして夏季休暇の過ごし方として、それまで図版などでしか見たことがなかった中尊寺の金色堂や工芸品を、何日間か滞在して見学してみたい気持ちがあり、そのことを実家で話したところ、ちょうど父の長年の友人である故・荒木伸介(あらきしんすけ)先生(水中考古学の第一人者)が平泉郷土館長をされていたので相談させていただきました。
のちに荒木先生から伺ったところでは、先生が居酒屋でその話をされていたところ、そこに居合わせられた平泉町役場の関宮治良(せきみやはるよし)様が「うちに下宿させてあげよう」とご提案くださり、そのご厚意により関宮様のお宅で1カ月ほど居候させていただくことになりました。
 
金色堂の中央須弥壇
金色堂の堂内には3つの須弥壇があり、各壇に11体の仏像が安置されます。堂内は、螺鈿や蒔絵という漆工のほか、金工や木工などを駆使して、まばゆい極楽浄土が表現されています。
 
平泉での滞在中は、研究の合間に、下宿代として町の仕事をお手伝いすることとなりました。町内の発掘現場で発掘をし、中尊寺の境内にある白山神社での薪能の会場整備や案内をし、中尊寺のふもとにある駐車場で誘導をし、送り盆には奥州藤原氏や源義経を供養する束稲山(たばしねやま)での大文字送り火や北上川での燈籠流しの準備などをして、平泉の方々と一緒に汗を流しました。もちろん私に気を遣わせないご配慮でした。
 
私は東北地方に縁戚がなく、その言葉にもなじみがうすく、高齢の方の言葉などはきちんと聞き取れなかったので、町のなかで顔なじみになったおばあさんから「どさ(どこに行くのさ)」と話しかけられても、それが挨拶の言葉なのだろうと思い、笑顔で「どさ」と返していました。ある晩、関宮様の奥様が近所を訪問されるのにおともしたとき、訪問先で「おばんでがんす」とおっしゃるのを聞いて、その上品な言葉のひびきに感動しました。平泉の方々は大変に親切で、泉橋庵(せんきょうあん)という鰻屋さんがおいしいウナギをご馳走してくださったこともありました。いずれも楽しい思い出です。
 
白山神社の中尊寺能
中尊寺の境内にある白山神社の能舞台は、江戸後期に建てられました。茅葺きで、鏡板には堂々とした松が描かれた格調高い能舞台です。中尊寺では、僧侶の方々が能楽を伝承されています。
画像提供:中尊寺
 
肝心の研究については、当然ながらガラス越しではありましたが、じっくりと金色堂や讃衡蔵(さんこうぞう。中尊寺の宝物館)を見学させていただいたばかりでなく、長い滞在のうちには讃衡蔵の破石澄元(はせきちょうげん)様から金色堂や寺宝のお話を伺い、毛越寺の藤里明久(ふじさとみょうきゅう)様から庭園遺跡のお話を伺う機会もありました。空いた時間には自転車で達谷窟(たっこくのいわや)まででかけたり、当時はまだ整備されていなかった柳之御所や無量光院などの遺跡を散策したりしました。恵まれた学問の時間でした。
 
その後、幸運にも博物館で工芸史の研究員として働くことができ、20年以上が過ぎたのですが、このたび金色堂の建立900年を記念して開催される建立900年 特別展「中尊寺金色堂」の仕事に携わることとなりました。あの頃はガラス越しに眺めた金色堂の仏像や讃衡蔵の寺宝を、博物館の研究員として直(じか)に調査し、展示に携わらせていただけたことは、私にとって感慨深いものがありました。平泉からいただいた恩恵に比べるとわずかではありますが、ようやく学恩に報いることができたように思います。
 
特別展の会場風景
金色堂は奥州藤原氏の初代・清衡によって建立されました。本展では、清衡が葬られた中央の須弥壇の仏像、御遺体を納めていた金棺、美しく装飾された工芸品や経典が展示されています。
 

カテゴリ:彫刻工芸「中尊寺金色堂」

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posted by 猪熊兼樹(保存修復室長) at 2024年02月22日 (木)

 

たくさんの塔を造る


本館14室 特集「塔と厨子(ずし)」の展示風景

先日の1089ブログ「舎利を祀(まつ)る塔」でも書いたように、釈迦(しゃか)は死後に荼毘(だび)に付され、遺骨は釈迦を慕う人々に分け与えられ、「舎利」と呼ばれて八つの塔に祀られました。2,400年(一説には2,500年)ほど昔のことです。

今から2,200年ほど前、古代インドのマウリヤ朝の第3代の王となり、インドに統一国家を建設したアショーカ王(前268~232)は、仏教による国造りを進め、舎利を祀る八つの塔のうち七つの塔を開いて新たに塔を建立(こんりゅう)したと伝わります。その数何と八万四千。釈迦の涅槃(ねはん)の地であるクシナガラをはじめサーンチーやバールフットに遺(のこ)るストゥーパは、このアショーカ王の建立、増改築によるものとされています。
「八万四千」というのは、インドで大きな数を表す際の数字ですので、本当にこの数が作られたかは定かではありませんが、この圧倒的な数の作善行(さぜんぎょう)は、後世にも大きなインパクトと影響を与えました。中国・五代の呉越国(ごえつこく)王・銭弘俶(せんこうしゅく、929~988)は、このアショーカ王(中国では阿育王(あいくおう))の故事に倣って八万四千基の塔を造り、各地に配布したと伝えられています。日本へも海を越えて500基がもたらされたとされており、福岡・誓願寺(せいがんじ)に伝わるものや和歌山・那智山経塚(なちさんきょうづか)から出土したもの(図1)が知られています。


(図1)銭弘俶八万四千塔(せんこうしゅくはちまんよんせんとう )
中国・五代時代・10世紀 
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山出土 
北又留四郎氏他2名寄贈


また、現存作例はありませんが、日本でも阿育王の故事は重要視され、白河院(1053~1129)や後鳥羽院(1180~1239)が、五寸(約15センチメートル)の大きさの八万四千塔を造立(ぞうりゅう)したことが記録に残されています。
こうしたたくさんの塔を造る作善は江戸時代まで続いており、京都・仁和寺(にんなじ)でも八万四千塔の造立が行われたようです。当館蔵の焼き物の「八万四千塔(はちまんよんせんとう)」(図2)は、基台裏の銘文(図3~図6)から、その3,333番目として焼かれたことがわかります。また、奈良国立博物館には、仙洞御所(せんとうごしょ、光格天皇、1771~1840か)の御願によって作られた、天保十年(1839)の紀年銘を有する焼き物の八万四千塔が所蔵されています。


(図2)八万四千塔 道八 江戸時代・19世紀

 

八万四千塔の基台裏(図3)
八万四千塔の基台裏(図4)

 

八万四千塔の基台裏(図5)
八万四千塔の基台裏(図6)

 

ところで、たくさんの塔が造られた事例としては、称徳天皇(718~770)による「百万塔(ひゃくまんとう)」(図7)の造立が挙げられます。
藤原仲麻呂の乱(764年)によって多くの血が流れたことを受けて、その鎮魂と滅罪のため、『無垢浄光大陀羅尼経(むくじょうこうだいだらにきょう)』の教えに基づき、世界最古級の印刷物とされる陀羅尼を納めた塔が百万基造立され、奈良及びその周辺の10の寺院に10万基ずつ納められました。
現在はそのうち、奈良・法隆寺に納められたものが、法隆寺に遺る4万基余りをはじめ各地に所蔵されています。法隆寺にだけ遺った理由は定かではありませんが、法隆寺には奈良時代の「鋸(のこぎり)」(図8)や「鎌」(図9)のような道具類も近代まで伝わっており、ものを大切に保管する習わしがあったのかもしれません。


(図7)百万塔 奈良時代・宝亀元年(770)
画像左端(H-1183)は川住三郎氏寄贈

(図8)重要文化財 鋸 奈良時代・8世紀
法隆寺宝物館第4室「木・漆工-武器・武具」にて展示
(図9)重要文化財 鎌 奈良時代・8世紀
法隆寺宝物館第4室「木・漆工-武器・武具」にて展示

 

王侯貴族のような権力者は、経済力や権力で多くの作善を行うことができましたが、いつの時代も何かをなすにはお金の問題がつきまといます。
「お金はないけどたくさんの塔を造って善行を積みたい」ということで作られたのが、土で造られた塔「泥塔経(でいとうきょう)」(図10)です。型抜きで作った塔形に『法華経(ほけきょう)』の経文(きょうもん)の一文字と地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の種子(しゅじ)、カを表したもので、鳥取県の智積寺(ちしゃくじ)経塚から出土したものが各地に多数伝わっています。『法華経』はおよそ7万字ですので、それだけの数が作られたのかもしれません。

(図10)泥塔経 鳥取県東伯郡琴浦町智積寺 智積寺経塚出土 室町時代・15世紀 道祖尾萬次氏寄贈

この他、1089ブログ「舎利を祀る塔」でも紹介した「穀塔(もみとう)」(図11)も、多くの人が仏縁を結びやすいように、木と籾(もみ)とで作られたもので、奈良・室生寺(むろうじ)や奈良・元興寺にも多くの籾塔が伝わっています。


(図11)穀塔 鎌倉時代・13~14世紀 植原銃郎氏寄贈


『法華経』の「方便品(ほうべんぼん)」には「どんな塔を造ることも悟りに繋がる」と説かれています。そしてそれらは多い方がより功徳(くどく)も大きいと考えられました。そうした教えやアショーカ王の「八万四千」の故事などによって、想像を絶するような多くの塔が造られ、供養(くよう)されたのです。

ところで、それらの塔はどこに行ってしまったのでしょうか。法隆寺に遺る百万塔(それでも半分以上は消滅?)を除くと、これほどたくさん造られた塔もほとんどが失われてしまったことに気付きます。
改めて、現在我々が、こうした先人の善行を目の当たりにできる奇跡を、思わずにはいられません。

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 清水健(工芸室) at 2024年02月21日 (水)

 

見て触って学べる! 特集「親と子のギャラリ― 中尊寺のかざり」

建立900年 特別展「中尊寺金色堂」(2024年1月23日(火)~4月14日(日))と足並みをそろえて、特集「親と子のギャラリ― 中尊寺のかざり」(2024年1月23日(火) ~ 3月3日(日))が本館特別2室ではじまりました。
この特集は、子どもから大人までを対象に美術作品やそのつくり方に興味や関心を深めることを目的にしています。
今回は特別展にあわせ「中尊寺のかざり」をテーマにしました。
 
金色に光り輝く美しさで著名な中尊寺金色堂は「光堂」、「皆金色」とも形容されますが、その輝きに彩りを与えているのが、螺鈿(らでん)や金工の技法(つくり方)です。
今回の展示では、中尊寺に伝来する荘厳具(しょうごんぐ)や仏具を対象に螺鈿と金工のつくり方に注目して展示を構成しています。
 
展示品は復元模造品と制作工程見本が占めています。その意図は復元模造品や、制作工程見本だからこそわかることがたくさんあるからです。
復元模造品は制作にあたって制作対象と同じ材料や同じ技法で復元することによって、制作対象そのものを深く知ることができます。
また多くの調査分析、検討を踏まえて作られた復元模造品は制作当初の様子をよく表しています。
さらに制作工程見本は、制作にあたって使用される材料や道具、技法を時系列にそってより詳しく知ることができる利点があります。
 

螺鈿八角須弥壇(模造)
小西美術工藝社制作 平成4年(1992)
原品:平安時代・12世紀 木製漆塗 岩手・中尊寺大長寿院所蔵
*須弥壇の側面には、蓮の花にのる迦陵頻伽、その周りを飾る雀や孔雀などが、金工や螺鈿の技術(つくり方)で表現されています。

螺鈿工程見本
小西美術工藝社制作 平成4年(1992)
原品:平安時代・12世紀 木製漆塗 岩手・中尊寺大長寿院所蔵
*丹精込めて作られた様子は工程数にも表れています。
今回の展示に合わせて新たに中尊寺金色堂の須弥壇を飾る孔雀の制作工程見本とハンズオンを作成しました。
実寸大の孔雀の制作工程見本は、制作道具と一緒に展示しています。
また孔雀を留める敷板の大きさは須弥壇の区画と同じ大きさに揃えたので、須弥壇の大きさを想像しながらご覧いただければと思います。
 

中尊寺金色堂内観

今回の制作対象となった中央壇の格狭間に飾られた孔雀(赤枠拡大図)
展示風景
*材料の銅から完成まで8工程で孔雀の制作工程を展示しています
 
また中尊寺と同時代の獅子螺鈿鞍を例にあげ、「漆の飾り 螺鈿」というタイトルで螺鈿のつくり方(制作工程)を示す動画と触察ツールを作成しました。
動画は手話入り日本語版と英語版を上映し、触察ツールは日本語と英語に加えて点字でも解説を用意しています。
制作が進むにつれて現れる獅子の姿とともに輝きをましていく螺鈿、見て触れてお楽しみいただければと思います。 
 
重要文化財 獅子螺鈿鞍 平安~鎌倉時代・12~13世紀 嘉納治五郎氏寄贈 東京国立博物館蔵


動画「漆の飾り 螺鈿」
 
触察ツール「漆のかざり 螺鈿」
 
この展示を楽しむために、仏さまを飾るもよう探しのリーフレットを用意しました。
もようの役割や意味を学びながら、この特集展示や特別展「中尊寺金色堂」はもちろんのこと、本館1階11室の彫刻や2階1室・3室の仏教の美術の展示をご覧になる際にもご活用いただければと思います。
 
 

リーフレット「仏さまをかざるものたち」

この特集の意図は多くの方が中尊寺のかざりに興味や関心をもつきっかけをつくること。
オンラインでも一部楽しめますが、ぜひ会場で体感いただければと思います。
本特集の会期は特別展より1か月短い3月3日(日)までです。みなさん、お見逃しのないように。
 

カテゴリ:教育普及特集・特別公開工芸「中尊寺金色堂」

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posted by 品川 欣也(教育普及室) at 2024年02月16日 (金)

 

舎利を祀る塔

2月15日は何の日でしょう。バレンタイン・デーの次の日?
かつて多くの男子が落涙した日かもしれませんが、大昔違う涙の流れた日です。
それは仏教を開いた釈迦の命日。

今からおよそ2,400年前(一説に2,500年前)に、インドのクシナガラというところのガンジス川の支流の畔、沙羅双樹(さらそうじゅ)の間で、北を枕にして人間・ゴータマ・シッダールタは80年の生涯を閉じました。その様子は「仏涅槃図(ぶつねはんず)」(図1)に描き継がれており、釈迦の死を悼んで泣き咽(むせ)ぶ弟子や信徒、動物の姿が描かれています。旧暦の15日のことなので、空には満月が輝き、皓々(こうこう)と釈迦の亡骸を照らしています。その後釈迦は荼毘(だび)に付されました。


(図1)重要文化財 仏涅槃図(ぶつねはんず) 
平安時代・12世紀
本館3室「仏教の美術―平安~室町」にて2月18日(日)まで展示


因みに、釈迦の死は多くの物語を伴っており、金色の棺に納められ、天から死を悼んで降りてきた母・摩耶夫人(まやぶにん)に対し、甦って説法をした話(金棺出現)や、火葬後に残った遺骨を、釈迦を慕う八つの部族が分け合って塔に祀(まつ)ったという話(分舎利)などが知られています。金色の棺に北枕というと、現在本館1階特別5室で開催中の特別展「中尊寺金色堂」にて展示されている藤原清衡(ふじわらのきよひら、1056~1128)の「金箔押木棺(きんぱくおしもっかん)」(重要文化財)の事例を思い出します。金色に輝く棺(図2)。何か関係があるのでしょうか。



(図2)重要文化財 金箔押木棺 
平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
建立900年 特別展「中尊寺金色堂」(~4月14日(日))にて展示

それはさておき、先に述べたように、釈迦の遺骨は舎利と呼ばれて大切にされ、信徒によって分けられ、塔に祀られたとされています。舎利というと、お寿司のお米の部分が思い浮かぶかもしれませんが、形が似ていることに加え、お米が一粒一粒に至るまで大切にされたことから、そう呼ばれるようになったのではないでしょうか。

舎利を祀る塔は、インドに端を発し、中央アジア、中国、朝鮮半島を経て、飛鳥時代には日本に伝わりました。
『日本書紀』には、敏達天皇十三年(584)に渡来人の司馬達等(しばたっと)が食器の中に舎利を発見し、これを献上された蘇我馬子(そがのうまこ、?~626)が塔を建立(こんりゅう)して祀ったことが記されています。
私も子供の頃にご飯を食べていて、石のようなものに出くわしたことがありますが、捨ててしまいました。今思えばあれは舎利だったのかもしれません。残念。
その後蘇我馬子によって建立された法興寺(飛鳥寺)にも百済(くだら)からもたらされた舎利が塔の心礎に納められました。この辺りが我が国の舎利信仰の始まりです。

舎利は司馬達等のように急に出現することもありましたが、インドが本場なので、より本場に近いところで入手されたものが由緒あるものとしてありがたがられました。
高名なのは、戒律の作法を伝えた中国の僧・鑑真(がんじん)和上(687~763)がもたらした奈良・唐招提寺の舎利3,000粒と、弘法大師空海(774~835)が、大同元年(806)に唐から帰国した際にもたらした京都・東寺の舎利80粒です。
いずれも中国直伝の品で、インド(天竺)がどうしたら行けるのかわからないような遙かな憧れでしかなかった時代に、由緒正しい舎利として革命的に尊崇されたことと思われます。唐招提寺の舎利は金亀舎利塔(きんきしゃりとう)に、東寺の舎利は金銅舎利塔(こんどうしゃりとう)に、今も大切に祀られています。

鎌倉時代に入ると、平安時代の末に源平合戦の煽(あお)りで焦土と化した奈良で寺院の復興が本格化し、それとともに仏教の原点である釈迦に回帰しようという考えが盛んになりました。そのため舎利が尊崇され、これを安置する多くの舎利容器が作られ、礼拝(らいはい)されるようになりました。現在多くの作例が残るのは、鎌倉時代以降になります。そして舎利への信仰はその後も続き、江戸時代に至るまで多くの舎利容器が作られています。

そうした中で、舎利を塔に納める作法は、その後小さな塔を作ってそこに納めたり、塔自体を舎利に見立てて礼拝するようになっていったようです。
本館14室で開催中の特集「塔と厨子(ずし)」(1月16日(火)~2月25日(日))にはそうした舎利を祀る塔を展示しています。

薬師寺に伝わる「金銅舎利塔(こんどうしゃりとう)」(図3)は江戸時代の作で、宝塔の中に舎利を納めた火焔宝珠形(かえんほうじゅがた)の容器を納めています。塔と舎利との関係性を伝える一例です。なお、この舎利塔には扉に四天王を描いた厨子が伴っていて、舎利=釈迦を仏教の守護神がしっかりと護るように作られています。


(図3)金銅舎利塔 
江戸時代・17世紀 奈良・薬師寺蔵


塔の中でも、平安時代の後半に密教の教えによって創造された五輪塔(世界を構成する五大要素である地・水・火・風・空を形にしたもの)は多くの遺例があります。五輪塔形舎利容器では、下から2段目の円い水輪に舎利を納めるものが多く作られました。「金銅装水晶五輪塔形舎利容器(こんどうそうすいしょうごりんとうがたしゃりようき)」(図4)では、水晶製の容器の中に舎利が納められているのが見えます。


(図4)金銅装水晶五輪塔形舎利容器 
室町時代・15世紀


また「水晶五輪塔(すいしょうごりんとう)」(図5)は高さ4センチメートルほどの小さな塔ですが、水輪に舎利が納められるようになっています。八角形のこうした小塔は、真言宗の一派である真言律宗を開いた奈良・西大寺の僧・叡尊(えいそん、1201~90)の教えが反映した可能性が指摘されています。


(図5)水晶五輪塔 
静岡県沼津市本出土 鎌倉時代・13世紀


密教の祈祷に用いられる五種鈴(独鈷鈴、三鈷鈴、五鈷鈴、宝珠鈴、宝塔鈴の5点)という組の法具があります。その中でも中心的な役割をなす宝塔鈴には舎利が納められることがありました。「金銅塔鈴(こんどうとうれい)」(図6・7)はそうした一例で、先端の塔の部分が外れるようになっています。ここに舎利を納めて祈祷を行ったと考えられます。

 

(図6)金銅塔鈴 
鎌倉時代・13世紀(E-19885)
(図7)金銅塔鈴(E-19885) 
塔を外した姿

 

少し変わったところでは、密教で用いられた能作生塔(のうさしょうとう)があります。中世日本の密教では、願いを叶える不思議な力を持つ玉である宝珠(ほうじゅ)と舎利とが同じものであると考えられたため、宝珠を通じて舎利が信仰されました。能作生珠という香木などを漆で練って作った魔法の玉を納めた能作生塔の代表的な遺例である奈良・長福寺の国宝「金銅能作生塔(こんどうのうさしょうとう)」(図8)は、インドで舎利容器として用いられたという水瓶(すいびょう)の形をしています。
真ん中の円い部分が上下に開閉できるようになっていて、ここに魔法の玉(これは絶対に見てはならない!)を入れて礼拝したと考えられます。上端には宝珠があしらわれ、一層神秘な趣を掻き立てています。


(図8)国宝 金銅能作生塔 
鎌倉時代・13世紀 奈良・長福寺蔵


能作生塔のような特殊なものがある一方、籾塔(もみとう)といって、木製の小塔に籾を入れて祀った塔もあります。作るのに手間や費用がかからないので、庶民も含めて大量に作られ、お寺の堂内などに安置されました。「穀塔(もみとう)」(図9)はその一例で、底の裏に籾が入れられるようになっています。籾は脱穀する前の殻の付いたお米のこと。お米を舎利ということと、こんなところで結びついているのかもしれません。


(図9)穀塔 
鎌倉時代・13~14世紀 植原銃郎氏寄贈


さて、舎利塔は日本だけでもかなりたくさん作られていますが、舎利はそんなにたくさんあったのでしょうか。
これは難しい問題ですが、例えば東寺の舎利は、数えてみると知らないうちに増えている(減っている)ことが『東宝記』という南北朝時代の東寺の歴史を記した書物に書いてあります。世の中が平和だと舎利は増えるのだとか。
舎利がどんどん増えるような世の中が続けばいいのにと改めて思いました。


本館14室 特集「塔と厨子(ずし)」の展示風景

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 清水健(工芸室) at 2024年02月14日 (水)