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1089ブログ

東京国立博物館コレクションの保存と修理

今年で140周年を迎えた東京国立博物館(トーハク)は、11万3千件を超える文化財を所蔵しています。
その歴史は日本の博物館のなかでもっとも古く、収蔵品の量も最大規模。
それだけにコレクションの保存状態は、必ずしも良好なものだけとは限りません。
貴重なコレクションを次の世代に伝えることができるように、トーハクでは文化財の収集や展示などと並行して、保存と修理のための活動にも日々取り組んでいます。
特集陳列「東京国立博物館コレクションの保存と修理」(~2012年4月1日(日))は、実際に修理した収蔵品の展示を中心に、普段なかなかご覧いただくことのできない保存と修理の活動をわかりやすくご紹介する企画です。
平成12年(2000年)から数えて今年は12回目の実施となります。


平成21年(2009年)に実施した特集陳列「東京国立博物館コレクションの保存と修理」の会場


修理の内容は作品個々の分野や材質・状態、さらには目指す展示や保管のあり方によっても変わってきます。
今回のブログでは 重要美術品 柳橋水車図屏風(りゅうきょうすいしゃずびょうぶ)を例にして、修理がどのように進められたのかを具体的に紹介したいと思います。


修理前の作品。裂や縁木などは新調しました。
重要美術品 柳橋水車図屏風 筆者不詳 安土桃山~江戸時代・16世紀末~17世紀初
6曲1双 紙本金地着色
右隻 本紙 縦154.4㎝ 横323.1㎝
左隻 本紙 縦154.8㎝ 横324.3㎝



(1)この作品の保存上の問題点はなんといっても盛り上げた胡粉(ごふん)と緑青(ろくしょう)部分の剥離・剥落でした。

 
(左)剥落した蛇籠の盛り上げ胡粉
(右)剥落した柳の葉の絵具・緑青



(2)修理前には観察を通して内部の保存状態を詳細に把握。肉眼観察だけでなく、光学機器などを使うこともあります。

 


(3)いよいよ処置を開始します。まずは屏風を1扇ずつに解体。金具や縁木も外していきます。

 


(4)次に剥離が起こっている絵具を膠(にかわ)(動物の骨や皮から作る接着剤)などで安定させます。これを剥落止めといいます。盛り上げ胡粉の部分も保護してから下地から本紙を剥がします。

 


(5)下地から剥がしたら、再び絵具などに剥落止めを行ない、古い裏打紙を除去します。少しずつ裏打紙を剥がしていった後に、今度は新たに裏打ちを行ないます。

 


(6)同時に下地の準備も行ないます。木製の骨下地が歪まないように、全部で六種類もの下張りを繰り返します。下張りには今回の修理をいつだれが行なったのかという記録も添えます。このような記録は、いつか次の修理をする時にきっと役に立つはずです。

 


(7)平行して、新しい裂(きれ)や金具を選びます。関係者が幾度も話し合いを行ないます。PCのバーチャル空間で裂の取り合わせ作業も試みました。

 


(8)作品を前にして、候補の裂と作品の相性を確認しました。



新調する金具は、制作された時代によく見られる唐草文を取り入れたデザインにしました。

 


(9)本紙の欠失部分には補紙をあて、その部分にのみ補彩を行ないます。色の見本を作って色を合わせていきます。

 


(10)絵具層も安定し、下地も完成したらいよいよ張り込みです。



唐紙、本紙を張り込んでいきます。

 


(11)裂を張り込んだら、縁木と金具を取り付けて仕上げです。

 


(12)関係者が集まって仕上がりを点検。大勢の人たちが関わり、話し合いをしながら、一つの修理作業がようやく終わりました。




以上、柳橋水車図屏風の修理をどのように進めてきたのかについてご説明いたしました。
修理の結果、この屏風はいったいどのように生まれ変わったのでしょうか。
その答えは会場でぜひ直接お確かめください!

会場には柳橋水車図屏風のほかにも、絵画・書跡・工芸・彫刻・考古など幅広い分野の作品が合計15件展示されています。
修理を通して再生された作品の魅力とともに、ひとつひとつ異なる修理作業の奥深さにも触れていただければ幸いです。
 

(関連事業)
列品解説 東京国立博物館の保存修復事業について 2011年2月21日(火) 当日受付
列品解説 柳橋水車図屏風の修理について 2011年2月28日(火) 当日受付
列品解説 絵画・書跡作品の保存と修理 2011年3月13日(火) 当日受付
列品解説 屏風修理の事前調査 2011年3月27日(火) 当日受付

カテゴリ:研究員のイチオシ

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posted by 川村佳男(保存修復室) at 2012年02月21日 (火)

 

江戸時代の地図

今回の特集陳列「江戸時代の地図」(~2012年3月25日(日))は大きく特別1室が日本図、特別2室が世界図という分け方で展示をしています。
 
(左)特別1室、日本図の展示 (右)特別2室、世界図の展示

無論、世界には日本も含まれているわけで、各時代の世界図の中で日本がどのように描かれているかを見ていただくと興味深いものがあります。
以降に掲載の画像は全て、2012年3月25日(日)まで展示。


日本列島は大陸から離れた島国ですから、その具体的な形はなかなかわかりませんでした。特に遠方のヨーロッパ人には「黄金の国ジパング」と名ばかり高く、実際にポルトガル人が日本に到達し(1543年)やオランダ船が日本に漂着(1600年)しても、地図上では不確かな情報をもとに怪しげな日本列島が描かれました。

重要文化財 エラスムス立像 1598年 栃木・龍光院蔵
慶長5年(1600)に日本に漂着したオランダ船デ・リーフデ号の船尾像でした。



「西洋鍼路図」2面のうち、アジアを描いた図の東北端に日本が描かれていますが、もとの図では形が変です。
 
西洋鍼路図 17世紀 (右)左画像の部分

まるで近畿以東がなくなっているように見えます。たぶんこの図が制作されて以降、同じように考えた人がいたのでしょう。後筆で東日本を書き加えており、房総半島、三浦半島、伊豆半島とそれらしい形になっています。ところが当時のヨーロッパ人は日本列島は南へ曲がっていると考えたらしく、一見、紀伊半島と見えるのは、実は東北地方のつもりらしいのです。日本列島の形が整うのは、日欧の交流の機会が増える17世紀前半以降のことでした。


日本にも西欧流の測量術が伝わり、「日本航海図」のような、私たちが見ても一目で日本と想像のつく図が制作されるようになります。

重要文化財 日本航海図 江戸時代・17世紀


その後、19世紀の伊能図の完成に至るまで、日本の形は次第に整い正確になってゆきます。

重要文化財 日本沿海輿地図(中図) 東北 伊能忠敬作 江戸時代・19世紀

カテゴリ:研究員のイチオシ

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posted by 田良島哲(書籍・歴史室長、調査研究課長) at 2012年02月17日 (金)

 

宋元の筆墨、清朝の色彩

特別展「北京故宮博物院200選」(~2012年2月19日(日))には多くの傑作が展示されていますが、第Ⅰ部と第Ⅱ部で大分雰囲気が違うのをお感じになる方も多いでしょう。第Ⅰ部では中国芸術の頂点の一つである、宋元の書画や工芸の名品を展示し、第Ⅱ部では清朝の世界観を展示しています。前半の第Ⅰ部が息をのむ名品の数々だとしたら、後半の第Ⅱ部はワクワク、ドキドキするような作品で展示が構成されています。このような展示は、世界中でも北京故宮展にしか出来ません。
今回はまるで中国芸術の大きな流れをそのまま体感できるような展示なのですが、前半と後半の絵画の芸術性には大きな違いがあります。
宋元の書画を特色づけるのは、その生き生きとした墨の表現です。中国芸術では1000年以上あくことなく、作者の感情をそのまま写し出すような筆と墨による表現を追求してきました。作品に向き合えば、単色の墨のなかに、無限の色と精神が表現されているのを感じることができるでしょう。
(以降に掲載の画像はすべて中国・故宮博物院蔵。~2012年2月19日(日)展示)

 
(左)一級文物 桃竹錦鶏図軸(とうちくきんけいずじく) 王淵筆 元時代・至正9年(1349)
(右)一級文物 疏松幽岫図軸(そしょうゆうしょうずじく) 曹知白筆 元時代・至正11年(1351)


渇墨の表現が心に沁みいります。


しかし清朝の宮廷絵画になるとその華麗な色彩に眼を奪われます。例えば「乾隆帝像」。満州族の正装に身を包んだこの作品は、卓越した彩色技法が駆使されています。

 
乾隆帝像 清時代・乾隆元年(1736) (右)左画像拡大部分

輪郭をとることなく、正確なデッサンをもとにした典雅な造形。
イタリア人宣教師、カスティリオーネの作品です。
ほかの部分も、拡大してみましょう。

 
(左)袖口には金、青金(銀を混ぜた金)、銀の三色が使われています。
(右)五爪の龍にも金。黄色の発色が見事です。


 
(左)なまめかしい指先。
(右)見えにくいですが椅子には金泥を塗った上から色がかけられ、全体にキラキラと光り輝く印象を与えています。まさに西洋と東洋の絵画技法を駆使した「技のデパート!」。



乾隆帝の甲冑も同時に展示しています。絵画作品と比較してみましょう。
  
(左)一級文物 乾隆帝大閲像軸 清時代・18世紀
(中)一級文物 黒貂纓金龍文真珠飾冑(くろてんえいきんりゅうもんしんじゅかざりかぶと) 清時代・乾隆年間(1736-1795)
(右)明黄色繻子地金龍文刺繍甲(めいこうしょくしゅすじきんりゅうもんししゅうよろい) 清時代・18-19世紀


金属の輝きが見事に表現されています。
 
(左)一級文物 乾隆帝大閲像軸(部分) 清時代・18世紀
(右)一級文物 黒貂纓金龍文真珠飾冑(部分) 清時代・乾隆年間(1736-1795)


兜には細金による細やかな細工。一つ一つを克明に描きこんでいます。
 
(左)一級文物 乾隆帝大閲像軸(部分) 清時代・18世紀
(右)一級文物 黒貂纓金龍文真珠飾冑(部分) 清時代・乾隆年間(1736-1795)



「フェルメールブルー」ならぬ「清朝的青」。
息をのむような鮮やかな発色の青色と、白とピンクを基調にした布の取り合わせが、なんとも美しいですね。
 
雍正帝行楽図像冊 清時代・17-18世紀 (右)左画像拡大部分


このような清朝の絵画芸術は、南宋画や文人画を重視してきた従来の日本ではほとんど評価されてきませんでした。しかし、作品に静かに対面すれば、その技術の奥に秘められた、画家達の日々のたゆまぬ修練に感動を覚えることでしょう。皆様は第Ⅰ部と第Ⅱ部、どちらがお好きでしょうか?乾隆帝なら「どちらも素晴らしい!」、と言うかも知れません。

中国には「好事多磨(ハオシドゥオモォ)」(良い事には困難がつきものである)、という言葉があります。トーハクが20年以前から故宮と交流を重ね、ようやく実現するに至ったこの展覧会。私は最後の1年に加わったに過ぎませんが、今まで本当に多くの方の努力があってようやく実現したこの展覧会に、少しだけ加わることが出来たことを、心から喜んでいます。

お客様が帰られたあと会場にいると、展覧会の主役の一人、乾隆帝が作品を見に来ているような気がします。
トーハクでの乾隆帝ともあと数日でお別れです。

どうかあと少し、お見逃しなく!

カテゴリ:研究員のイチオシ2011年度の特別展

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posted by 塚本麿充(東洋室) at 2012年02月15日 (水)

 

江戸時代のお人形

江戸時代の技巧を凝らした人形と、3月3日の桃の節供にちなみ、毎年恒例となった    雛飾りを展示する特集陳列「おひなさまと日本の人形」(~2012年3月4日(日))のご紹介です。
以降掲載の画像はすべて(~2012年3月4日(日)展示)です。

女の子が人間や調度を小さく象ったおもちゃで雛(ひな)遊びをすることは、平安時代の昔からありましたが、人形が広く人々の生活の中で親しまれるようになったのは、江戸時代になってからのこと。
室町時代末期から江戸時代初期にかけて描かれた風俗屏風には、人形使いである傀儡子(くぐつし)や人形浄瑠璃を演じる小屋などが見られ、人形を用いた芸能が人々の娯楽として定着しつつあった様子がうかがえます。
玩具や芸能だけではなく、鑑賞用に人形が作られるようになったのは、江戸時代になってからのことです。ひなまつりに飾る内裏雛はその典型といえますが、ひとひねりした細工にはいかにも日本らしい人形の特徴が見られます。

「嵯峨人形」は京の嵯峨に住む仏師が寛永~寛文期頃より手遊びに作るようになったと言われています。木彫に胡粉を厚く盛り、衣服の部分に彩色や金箔を施した華やかな作りが特徴で、その模様はなるほど、仏像の衣に表された模様のようにも見え、また、寛文期に流行したキモノや元禄期頃の鍋島の色絵磁器や友禅染の割付模様と共通するデザインが見られます。
 
嵯峨人形 首振り嵯峨(部分) 江戸時代・19世紀 個人蔵

猿廻しや人形使い、遊女など当時の風俗を表したものや桃太郎や七福神といった御伽噺に出てくる親しみやすい造形が特徴です。町方で愛好されたものでしょう。
この「首振り嵯峨」は、子どもが小脇に子犬を抱えた姿で表されます。


犬は子沢山ですから、子宝に恵まれるように、という思いが人形に込められていると言われています。後頭部をつつくと首が動き・・・
うなずく拍子に子どもの口からぴろっと、舌が出るようになっています!


嵯峨人形は次第に進化し、縮緬や錦でできた衣裳を着せ替えできる「裸嵯峨」と呼ばれる5歳児くらいの大きさの人形が生まれます。裸嵯峨から発展した人形が、お公家さんがお土産物として遣った「御所人形」と言われています。
「御所人形」はあどけない幼子の姿を写したものが多く、桐塑に胡粉を塗り重ね、磨き上げたつややかな白肌は「白菊」に喩えられます。特に「つくね」と呼ばれる小さい御所人形の愛らしさは、手にとってみてはじめて感じられるものかもしれません。
見てください、このふっくらとしたお手々!6ヶ月くらいの赤ちゃんの手を思い出します。

御所人形 唐冠をかぶり唐団扇を持つ童子 江戸時代・19世紀

座ったおしりもかわいいでしょう!


日本の雛人形や雛飾りの見所といえば、驚くほどに繊細な細工にあります。
江戸時代後期に流行した「牙首雛」は顔と手が象牙細工でできた雛人形です。

牙首雛(1対のうち) 江戸時代・19世紀 三谷てい氏寄贈

高さ5cmほどの小さな人形ですが、着重ねた衣裳の丁寧な木目込みや、繊細な手や耳の彫りをご覧ください。
 

もう一点、トーハク自慢の一品は、紫檀に蒔絵を施し、調度金具を象牙細工で表した、この箪笥です。
 
紫檀象牙細工蒔絵雛道具 紫檀製重箪笥 江戸時代・19世紀 三谷てい氏寄贈

高さ13㎝ほどのミニチュア箪笥にちゃんと扉が開閉できる精巧な象牙細工!このこだわりこそ日本の工芸の真髄と言うにふさわしいものです。
 




今年は東京国立博物館で雛飾りを始めて10周年記念ということで特に名品の数々を展示いたしました。今回ご紹介したものの他にも、からくり人形や船鉾人形など、見どころ満載です。本館14室で江戸時代の人形たちが皆様をお待ちしております。

カテゴリ:研究員のイチオシ

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posted by 小山弓弦葉(工芸室) at 2012年02月14日 (火)

 

「古墳時代の神マツリ」のミカタ(見方・味方…) 3

特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))の展示についてご紹介する「「古墳時代の神マツリ」のミカタ(見方・味方…) 」は今回で3回目となります。
2月14日(火)には、本展示についての列品解説を行います。

さて、前回のブログでご紹介した三輪山神(大物主神)は酒神としての性格のほかに、祟り神としても知られていたことに触れました。
三輪山神のもう一つの“正体”は、実はその直前の記事に語られています。

『日本書紀』崇神天皇五年条
     「国内に疾疫(エノヤマヒ)多くして、民(オオミタカラ)死亡(マカ)れる者有りて、且大半(ナカバニス)ぎなむとす。」

三輪山神は疫病の流行をもたらした畏(オソ)ろしい祟り神として登場し、過半の人々が病に倒れるという大変な惨禍がです。このような自然の猛威は、人間の歴史の中で幾度となく訪れたことでしょう。
あの大田田根子(オオタタネコ)は、この苦境を神マツリの力で打開した“救世主”であった訳です。
 
土製模造品(左: 臼・杵、右: 坩・柄杓(ヒシャク)と案(ツクエ)) 奈良県桜井市三輪馬場  山ノ神遺跡出土 古墳時代・5~6世紀 東京国立博物館蔵・通年展示

それにしても、三輪山神の“豹変”ぶりは、穏やかな雰囲気(?)のお酒の神さまのイメージとはだいぶかけ離れていて、戸惑いを覚えます。
もしかして・・・、神さまの二重人格(イヤ“神格”)?。
ところが8世紀の文献には、古代以前における祟り神の猛威ぶりが頻繁に登場します。

『筑後国風土記』逸文 筑後國號の条
     「[前略]昔、この堺の上に麁猛(アラブル)神あり、往來(ユキキ)の人、半ば生き、半ば死にき。[中略]因りて命盡(ツクシ)神と曰ひき。時に筑紫君肥君占へて、筑紫君等が 祖甕依姫(ミカヨリヒメ)を祝(ハフリ)と為して祭らしめき。それより路行く人、神に害(ソコナ)はれず。[後略]」

福岡(筑紫国)県の熊本県境の峠にすむ命盡神という荒ぶる神が人々を苦しめていたので、占い(神意)によって筑紫君が先祖甕依比女という人物に祀らせたところ、鎮めることに成功したという内容です。
手荒で暴力的な峠の荒ぶる神に、路行く人々が畏(オソ)れ慄(オノノ)いていた様子が目に浮かぶようです。

しかし・・・「半ば生き、半ば死にき。」、どこかで聴いたような表現ですね。
そう、三輪山神が人々を苦しめたときの表現と大変よく似ていて、話の筋立ても大田田根子の話とそっくりです。

前期の祭祀遺物(上段: 石釧残欠・石製紡錘車他、下段: 土製模造品・土錘他)
長野市石川条里遺跡出土 古墳時代・4世紀 長野県歴史博物館蔵

(特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))にて展示)

ほかに、こんな説話もあります。
『肥前国風土記』佐嘉郡条
     「[前略]この川上に荒ぶる神ありて、往來(ユキキ)の人、半ば生かし、半ば殺しき。ここに縣主等の祖大荒田占問ひき。時に、土蜘蛛、大山田女・狭山田女といふものあり、[中略]下田の土を取りて人形・馬形を作りて、この神を祭祀らば必ず應和(ヤワラ)ぎなむ、といひき。[中略]神、この祭を(受)けて、遂に應和(ヤワラ)ぎき。[後略]」

佐賀(肥前国)県の有力者・大荒田の先祖が地元女性(首長?)のアドバイスで、土で人・馬形を作って荒ぶる神を鎮めたという内容です。このとき、川上の荒ぶる神に相応しい(望む?と考えた)土製祭具、つまり土製模造品を使った神マツリが行われていて注目されます。

これらの説話には、語りの表現や登場人物の性格に大変共通点が目立ちます。
つまり、同じ話型をもつ説話といえ、同じような背景があったと考えることができるようです。

平安時代の『土佐日記』にも、紀貫之が京へ帰還する船旅の途中、荒天時に海神に旅の安全を祈った記事があります。
このときは、海中に鏡を投入して平穏を取り戻しましたが、これも類似した話型をもつ説話といえます。

中期の祭祀遺物(前列左から :子持勾玉・滑石製斧・滑石製鎌・滑石製勾玉他)大阪府カトンボ山古墳出土 古墳時代・5世紀 他
(特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))にて展示)

これらは日本の古代祭祀では、和魂・荒魂という二つの側面で呼ばれるカミは、人間にとってプラスとマイナスの性格を併せもつという観念があったのとよく似ています。
マツリの力によって、神さまの性格をマイナスからプラスに「転換」して(機嫌を直して?)頂く。そのような“手続き”(儀礼)が神マツリであったという訳です。
日本古代における祭祀の本質をうかがう上で、大変興味深い伝承といえます。


ところが『風土記』には、人間と神の関係の移り変わりを如実に示す、次のような有名な説話があります。
『常陸国風土記』行方(ナメカタ)郡 提賀(テガ)里条
     A「[前略]箭括(ヤハズ)の氏の麻多智(マタチ)、郡より西の谷の葦原を截(キリハラ)ひ、墾闢(ヒラ)きて新たに田を治(ハ)りき。この時、夜刀(ヤト)の神、相群れ引率て、ことごとに到来(キ)たり。[中略]吾、神の祝(ハフリ)と爲りて、永代に敬ひ祭らむ。冀(ネガワ)くは、な祟りそ、な恨みそといひて、社を設けて初めて祭りき、といへり。」
     B「[前略]壬生連麿、初めて其の谷を占めて、池の堤を築かしめき。[中略]麿、声を擧げて大言(オタケ)びけらく、[中略]役(エダチ)の民に令(オホ)せていひけらく、目に見る雑の物、魚虫の類は、憚(ハバカ)り懼(オソ)るるところなく、ことごとに打殺せ。言ひ了(オハ)はる應時(ソノトキ)、神(アヤ)しき蛇避け隠りき。」

Aは、継体朝(6世紀)に水田開発に際して、蛇身の夜刀神と対峙した箭括氏麻多智が神と人間の棲分けの代償として、祝(ハフリ=祭主)となって夜刀神を祀るという内容です。
続くBは、孝徳朝(7世紀)になると、壬生連麿が池造成の谷開発で、(ナント!)神を追い払ったというものです。


これまでの逃げ惑うような姿に比べると、一転してずいぶんと“強気”な姿勢に少々びっくりです。
人間の方がまるで二重人格のよう・・・ですね。

後期の祭祀遺物(須恵器 壺 ・土製模造品・土製勾玉他)千葉県館山市出野尾猿田遺跡他出土 古墳時代・6世紀  千葉・館山市立博物館蔵 他
(特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))にて展示)

これらはいずれも、神マツリを介して自然に立ち向かう人間と神の間のさまざまな葛藤を物語る伝承とみられます。
あの三輪山神の大田田根子伝承も、一般に5世紀頃に伝来した須恵器の起源を語る説話と考えられています。
少なくとも8世紀頃の人々は、過去の時代には人間と神の関係にはかなりの「変化」があった、と捉えていたフシがあります。

これらの諸伝承から、時代を経るにしたがって、神マツリの背景にある人間の自然に対する姿勢が次第に“進化”していった様子が窺えそうです。
Ⅰ:荒ぶる神を避けるだけの一方的な段階  → Ⅱ:特別な能力の人物を祝として鎮めさせる段階
                                                        → Ⅲ:自ら祝として鎮める段階  → Ⅳ:荒ぶる神を駆逐(!?)する段階

もちろん、地域や社会階層が違えば、微妙にズレや差があったということは想像に難くありません。
しかし8世紀の伝承に、このような人間側の世界観(気分?)の変遷がうかがえることが重要です。
古墳時代における神マツリのあり方は、ずいぶんと“進化”を遂げていたに違いありません。

やはり、それぞれの時期の祭祀遺物に映し出された神々の「性格」を、もう一度確かめてみる必要がありそうです。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年02月11日 (土)