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1089ブログ

トーハクくんがいく!~夜の東洋館でミイラに会うほー その2~  

ほほーい!ぼくトーハクくん。
前回に続いて、ぼくとユリノキちゃんは、夜の東洋館に潜入中だほ。


東洋館展示室の2人

トーハクくん、ワークシートの問題とけた? 私はあと1問。
ミイラのからだの中には何が入っているの? 


かんたん! かんたん! ユリノキちゃん、ミイラの作り方をおさらいしてみようか。
まず死んだ人のおなかに穴をあけて、中の内臓を取り出して、よく乾燥させ・・・


きゃー、やめて! 無理~~!!!!



ユリノキちゃん、こわがりすぎだほ。えーと、ミイラのからだの中には、内臓のうちいちばん大切だと思われたものを戻したんだほ。



いちばん大事? 脳ミソかしら。



ぶぶー。 脳は、あまり重要ではなくて、捨てちゃったらしいほ。
ユリノキちゃん、いちばん大事なのは、ハートだほ! 


そっか。こたえは ●●●● ね。
このワークシートをといてみたら、古代エジプトの人々が考えていた死後の世界について、少しわかってきたわ。


4つのこたえのなかに2回以上出てくる文字を選んで、四角いマスをぬりつぶすんだって。



きっちり、濃くぬることがコツですって。


 

ワークシートのマス塗りつぶす


ぬりつぶしたら、東洋館ラウンジとミュージアムシアターの入り口にある、答え合わせステーションにかざしてみるほ。



答え合せステーション

キャー、うれしい。正解だわ!!



ワークシートの内側のぬり絵の面を答え合わせステーションにかざしてみるほ。
 


うわーーーー。
塗り絵にきれいな色がついたわ!
 


4色再現の様子

なるほど、実はこんなにきれいな棺だったのね。
あ、ミイラが最後の暗号を教えてくれたわ。
この暗号をインフォメーションに伝えると、プレゼントがもらえるんですって!

みんなもクイズに挑戦するほー。



夏休みは東洋館の親と子のギャラリー「ミイラとエジプトの神々」にぜひお越しくださいね。



さすが、ユリノキちゃん。締めだけはしっかりしてるほ。
じゃ、ボクからもお知らせ。「ミイラとエジプトの神々」をテーマに、8月29日(土)に子ども質問箱「教えて!エジプトのひみつ」を開催するほ! 研究員さんがみんなの質問になんでも答えてくれるんだほ。
というわけで、ただいま質問大募集中~!

質問箱
待ってるほ!

子ども質問箱「教えて!エジプトのひみつ」の質問は東洋館エントランスと「ミイラとエジプトの神々」会場に設置された質問箱にご応募ください。
ウェブサイト、はがきでの応募も受け付けています。
詳しくはこちら

質問募集中


親と子のギャラリー「ミイラとエジプトの神々」 

9月13日(日)まで 東洋館3室にて開催中
ワークシートは東洋館ラウンジ、展示室などで無料配布

VR作品「東博のミイラ デジタル解剖室へようこそ」
10月12日(月・祝)まで   毎週 水・木・金・土・日・祝
東洋館 TNM&TOPPAN ミュージアムシアターにて上演中
料金:高校生以上 500円
※9月13日(日)まで、小・中学生のシアター鑑賞料無料

 

カテゴリ:教育普及特集・特別公開

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posted by トーハクくん at 2015年08月06日 (木)

 

トーハクくんがいく!~夜の東洋館でミイラに会うほー その1~  

ほほーい!ぼくトーハクくん。今日は、古代エジプトのミイラさんに会うために、夜の東洋館に潜入するほ。今は夏休み企画 親と子のギャラリー「ミイラとエジプトの神々」も開催してるんだほ~。


展示室入り口のトーハクくん

ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ~。どんどん先に行かないで!
なんだか面白そうだからついてきちゃったけど、やっぱりこわい。
東洋館といえばミイラでしょ・・・もしよみがえったりしたら・・・


ほー。びっくりだほ、ユリノキちゃんにもこわいものがあったのかほ!?



だって、ミイラって、死んだ人のからだでしょ? ほんとに古代エジプトのお墓に入ってたんでしょ。



ぼくだって、古墳育ちだほ。死んだ人との付き合いは長いほ。だから、ぜんぜんこわくないほ。
ほら、これがパシェリエンプタハさんのミイラだほ。


ミイラを見る二人


な、なんで名前知ってるの?



だって、ミイラさんの棺に書いてあるんだほ。



え? トーハクくん、さすがに詳しいのね。
カラダは布でくるまれているけど、頭蓋骨は出ているのね。やっぱりこわい!!!


ほんとうは全身が亜麻布というエジプトの布でくるまれていたんだほ。
昔のエジプトでは、人は死ぬとこうやってミイラにされたんだほ。
まずはおなかに穴を開けて、からだの中から内臓を取り出し・・・


きゃー、やめて! トーハクくん。無理!無理無理無理!



(しょうがないなあ。ミイラの作り方について知りたい人は、展示室で解説を読んでくださいだほー)
じゃ、ユリノキちゃん、このミイラの入っている棺をよく見てみて。



パシェリエンプタハのミイラ(部分) 
パシェリエンプタハのミイラ エジプト、テーベ出土 第3中間期(第22王朝)・前945~前730年頃 エジプト考古庁寄贈
ミイラが入れられているカルトナージュ棺は、もとはミイラを包むケースのような形でした。
明治37年(1904)に、エジプトの考古庁からトーハクに贈られたあと、こうやって身と蓋のように切り分けられ、中のミイラが見えるように展示されることになったのです。


真っ黒だけど・・・あら?
よく見ると、きれいなもようが描いてある。



棺に描かれた模様

この棺にはもともときれいな絵が描かれていたのに、真っ黒い液体のようなものをかけられてしまったんだほ。何を、どうしてかけたのかは、トーハクの研究員さんもわからないって言ってたほ。


もとの絵を見てみたいわね。



うん、研究員さんたちもそう思ったんだほ。それで、赤外線撮影や、高精細3D撮影をやってみたら、描かれていた絵の線が見えてきたんだほ。
おまけに、古代エジプトの象形文字ヒエログリフも書いてあったんだほ。だから、ミイラさんの名前もわかったんだほ。ヒエログリフを解読したら、ミイラさんのためのお願い事も書いてあったんだほ。

願い事ってなに?

パシェリエンプタハさんのために「神さまから供物と食べ物が与えられますように」って書いてあるんだほ。


なぜ死んだ後も食べ物が必要なの?

 
ほー、ユリノキちゃん、いいとこついてくるほー。
古代エジプトでは、人は死んだ後、死後の世界の王オシリスのところに行って、裁判を受けなくてはならないと信じられていたんだ。そこで、生前悪いことをしなかったことは証明されると、死者は永遠の命をもらうことができるんだほ。

永遠の命? じゃあ、死んだあとは何をしているの?


エジプトの人たちは、生きているときとおなじように、ナイル川のほとりで畑を耕して豊かな恵みをもらう、そんな暮らしがずーっと続くと思っていたんだほ。ずーっと生き続けるためには、永遠に腐らないからだが必要だったんだほ。だから、死んだからだをミイラにしたんだほ。
 

イアルの野
エジプト センネジェムの墓の壁画
古代エジプトの人々がイメージしていた死後の世界「イアルの野」。
豊かな恵みをもたらすナイルのほとりで生きているときと同じような暮らしが続くと思っていました



じゃあ、このミイラさんもずっと生きているの? でも、死んだ後も今と同じように畑を耕したり、働いたりなんて、私はごめんだわ。


古代エジプトにもユリノキちゃんのような考えの人がいて、死んだ人のかわりに働いてくれるウシャブティというミイラ型の人形をお墓に入れたんだほ。ほら、これがそのウシャブティ。



ウシャブティ
アメン神官のウシャブティ 末期王朝時代時代・前664~前332年 エジプト出土 (百瀬治・富美子氏寄贈)
手にスキとツルハシを持ち、背中には籠をしょっています


へえ、至れり尽くせりね。


ほかにも死者のためにいろいろな仕事をする人たちの人形をお墓に入れて、死者があの世で困らないようにしたんだほ。


じゃあ、この真黒な棺に絵はどんな絵が描かれていたの?


説明するのはちょっと難しいけど、死と再生に関係のある神様、死者を守る神様たちが描かれていたんだほ。
たとえば、ミイラさんの頭の上にはこんな絵。


フンコロガシの姿のケプリ神
カルトナージュ棺の頭の上の部分に描かれている模様の彩色復元。
フンコロガシの姿のケプリ神


えーっ? 虫?!


これは、フンコロガシの一種、スカラベという虫だほ。動物の糞を丸めて転がしていくところが、太陽を押し上げているように見えることから、復活と再生のシンボルとされたんだほ。


じゃ、この大きな翼をもった人はだれ?(下写真右)



カルトナージュ棺に描かれている模様の彩色復元
カルトナージュ棺に描かれている模様の彩色復元

これは、死者を守る女神さま。イシスとネフティスだほ。
棺に描かれていた絵に興味がある方は、ぜひミュージアムシアターにいくといいほ。
きれいな色もついた再現映像がたっぷりみられるほ。ミイラさんをCTで撮影したとっておきの映像もたっぷり公開中~。


ほんと? じゃあ行きましょう!


ユリノキちゃん、いまはもうしまってるほ。明日、開館中に行くほー。


うーん、明日まで我慢できない!!!
あら? トーハクくん、楽しそうなワークシートがあるわよ。


ワークシート
ワークシートは東洋館ラウンジ、展示室にて配布しています


ほー! ほんとだ。一緒にやってみるほ。



(続く)
「ミイラのワークシートに挑戦!」の巻は次回のお楽しみ!



親と子のギャラリー「ミイラとエジプトの神々」 
9月13日(日)まで 東洋館3室にて開催中
ワークシートは東洋館ラウンジ、展示室などで無料配布

VR作品「東博のミイラ デジタル解剖室へようこそ」
10月12日(月・祝)まで   毎週 水・木・金・土・日・祝
東洋館 TNM&TOPPAN ミュージアムシアターにて上演中
料金:高校生以上 500円
※9月13日(日)まで、小・中学生のシアター鑑賞料無料
 
 

カテゴリ:教育普及特集・特別公開

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posted by トーハクくん at 2015年08月03日 (月)

 

養生と医学~江戸の養生を見直してみる~

日本の医学は、江戸時代の中頃にオランダから入ってきた西洋医学の影響をうけて、大きく進歩しました。それに対し、古くから日本で行われていたのが「養生」です。養生とは、健康に注意し,病気にかからず丈夫でいられるようにつとめるという意味です。近年、さまざまな養生のあり方が、病気を予防する医学の立場から注目されています。
現在、本館15室では「養生と医学」(2015年7月7日(火) ~2015年8月30日(日))をテーマに特集展示をしています。
 

神農図
神農図 楊月筆
室町時代・16世紀 
東京国立博物館蔵
まず古代中国の伝説上の神である神農図(しんのうず)をごらんください。頭には角がはえていて牛のようですが、薬としての効果を調べるために自ら草の根や木の皮をなめ、毒に苦しみながらも、薬草の力でよみがえり、ついに薬草を発見したといわれています。民衆の生活のなかで長く信仰の対象とされてきました。
 
銅人形
重要文化財 銅人形  岩田伝兵衛作
(展示では胸部は開けていません)
江戸時代・寛文2年(1662)
東京国立博物館蔵(松平頼英氏寄贈)
では、人体の仕組みについて、昔の人はどのように考えていたのでしょうか。江戸時代には体がつらいときや長期の旅行の前などに、「つぼ」に鍼(はり)や灸(きゅう)をすることが広く行われていました。東洋医学では、人体は内臓の総称として用いられていた五臓六腑などに「気」「血」を送る十二経絡によって構成されるとしています。病気は、その流れが滞ることであると考えられているため、「つぼ」を使って、気の滞りを解消するわけです。
17世紀ころになると、この十二経絡や「つぼ」を、紙製や木彫りの銅人形に付けて学習する方法が普及し、胴(銅)人形師という職人も登場しました。さきほどの神農図の横で、ややうつむきかげんにしている銅人形は、金属の網の表面に色分けした十二経絡を巡らし、内部の骨格や内臓の様子が見えるのが特徴です。同じ人物が製作したものが、ドイツのハンブルグ州立民俗学博物館に所蔵されていますが、両者の表情がずいぶん違っているので、おそらく何人かのモデルがいたのだと思います。
 
銅人形
銅人形  康野忠房作
江戸時代・貞享元年(1684)
東京国立博物館蔵
人体解剖模型
人体解剖模型
江戸時代・19世紀  
東京国立博物館蔵
ここで振り返ると、少し高さのあるケースのなかに、木製の銅人形と、人体骨格模型が横たわっていることに気づかれるでしょう。この人体骨格模型は手足など一部が欠失しているのが残念ですが、胃・脾・腸・腎・膀胱をはじめ、隔膜・脈管などが含まれている点で、類例が少ないものといえます。
 
医心方
国宝  医心方 巻第22 婦人部
丹波康頼編 江戸時代・17世紀
東京国立博物館蔵
一番長いケースは、日本で最も古い医学書である『医心方』ではじまります。古代の中国の文献を引用し、編集したもので、中国ではすでに失われてしまっているものが多く含まれている点でもたいへんに貴重です。短気を治す方法などが書かれている巻第9と、妊娠中の女性が気をつけるべき事を図入りで解説した巻第22を展示しています。
 
つぎの巨登富貴草(ことぶきぐさ)は、フランスで発明されたリユクトシキップという飛行船に乗った主人公が、不老長寿の「霊剤」を求めて、色欲・大酒・過食の国を旅行するなかで、日々の節制の大切さを知るという養生のお話です。何と「竜伯国」では、巨人の体内に迷い込み、巨人のくしゃみで脱出する場面もあります。
 
巨登富貴草
巨登富貴草 (左は巨人のくしゃみで脱出した主人公の拡大図)
多紀元悳著、粟田口蝶斎筆  
江戸時代・18世紀   東京国立博物館蔵(徳川宗敬氏寄贈)

江戸時代中頃の養生論は、その目的が長寿にあり、神気を養い、色欲を遠ざけ、飲食を節することにありました。でも、人々の生活にゆとりがでてくると、養生の内容も変化してきます。したいことをがまんするよりも、「よく生きる」ことや、身体を動かすための武道が奨励され、「生活の病」にかからないための方法を説いた養生書などが登場してきます。
 
覆載万安方
覆載万安方  巻第54
梶原性全著、坂璋筆
江戸時代・天保5~6年(1834~35)
東京国立博物館蔵
一方、これまでの東洋医学の五臓六腑という考え方だけでなく、日本最初の西洋解剖書の本格的な翻訳書である『解体新書』などの影響をうけて、人体に関する最新の知識が普及してきます。次第に『解剖図』も詳細に描かれるようになるので、ちょっと不気味な感じの場面が多くなってきますから、あまりじっと見つめないように、気を付けてごらんください。
 

一般には、江戸時代の庶民について、貧しい生活のなかで、病気に対する知識をもたず、ろくに医師の診察も受けられなかったというような印象が持たれています。ところが、実際には医療について関心をもち、灸をすえたり、湯治に出かけるなどして健康の維持につとめ、必要に応じて医師の診断を受けていた人が少なくありませんでした。
現代では、薬や注射で、手間をかけずに病気を治せると考えてしまいがちですが、病気にならずに長生きするために日頃何をしたらよいかを求めていた江戸時代の人々の考え方を、もう一度見直すことも大切ではないでしょうか。
 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 高橋裕次(保存修復課長) at 2015年07月24日 (金)

 

特集「清時代の書」の見どころ

梅雨の時期、皆様はいかがお過ごしでしょうか。私はお昼休みに、展示室に向かうことがあります。快適な空間で作品を楽しむ、この時期には、何よりの幸せを感じます。現在、東洋館8室で開催中の特集「清時代の書」(2015年6月9日(火)~2015年8月2日(日))も、会期の半ばを過ぎました。天候不順、ジメジメして気分も晴れない…本展には、そんな時期だからこそ見ていただきたい作品が展示されています。

展示風景
篆書・隷書・楷書・行書・草書、そして篆刻に印譜と、様々な作品が展示室を彩ります。


本展の舞台となるのは、中国・清時代(1616~1912)も乾隆帝による最盛期を過ぎた18世紀末から19世紀にかけて。書の分野では、この頃より碑学派(ひがくは)と称される一派が隆盛します。法帖を中心に学んできた従来とは異なり、彼らが書の拠り所としたものは、古代の青銅器や石碑など金石に見られる銘文の字姿でした。当時、全盛を迎えていた考証学(こうしょうがく/客観的・実証的に儒家古典を研究する学問)。その進展により金石が再注目され、広く研究されていたことが背景にありました。
これら金石の書のなかには、南北朝時代の石碑など以前は書としての価値が見出されず、お手本とされなかったものや、漢時代以前の篆書・隷書など生気に満ちた表現の開拓により、新たな息吹が吹き込まれ、再び脚光を浴びたものがあります。
碑学派は書の鑑賞と表現の幅を拡充させ、清時代の書を百花繚乱のごとく彩りました。


乙瑛碑と高貞碑
左:乙瑛碑(部分) 中国 後漢時代・永興元年(153)
 東京国立博物館蔵高島菊次郎氏寄贈)※本展出品作品ではありません。
高貞碑(出土初拓、部分) 中国 北魏時代・正光4年(523) 台東区立書道博物館蔵 ※本展出品作品ではありません。台東区立書道博物館「不折が愛した中国・南北朝時代の書―439年から589年、王朝の興亡を越えて―」にて7月20日(月・祝)まで展示中。

本展では、そんな碑学派隆盛の礎をなした鄧石如(とうせきじょ、1743~1805)・包世臣(ほうせいしん、1775~1855)・呉熙載(ごきさい、1799~1870)の、師弟3代にわたる系譜にスポットを当てています。

鄧石如
左:鄧石如像(『清代学者象伝』第2集) パネル展示
草書五言聯 鄧石如筆 中国 清時代・嘉慶9年(1804) 個人蔵
生涯、仕官せず、各地を歴遊して、書と篆刻で身を立てた鄧石如。言葉数は少なく、高潔で実直な人柄だったようです。生命感にあふれた鄧石如の書を見ていると、どこか力が湧いてくるような気がします。


包世臣
左:包世臣像(『清代学者象伝』第2集) パネル展示
楷書嬌舞倚床図便面賦軸 包世臣筆 中国 清時代・18~19世紀 東京国立博物館蔵
経世家として、また書の理論家として才を発揮した包世臣。小柄で精悍な人物だったようです。絹本に書かれたこの作品は、爽やかな墨の色合いに目を奪われます。

呉熙載像
左:呉熙載像(『清代学者象伝』第2集) パネル展示
篆書張茂先励志詩四屛 呉熙載筆 中国 清時代・19世紀 東京国立博物館蔵青山杉雨氏寄贈
生涯、仕官せず、書画篆刻や書籍の棗刻などを生業とした呉熙載。誠実で情に厚い人柄だったようです。しなやかさのある呉熙載の篆書を見ると、あたかも心地よい風が吹き抜けていくような気がします。


師弟とは言っても、それぞれの関係は異なります。鄧石如と包世臣は、師友の間柄に近く、実は生涯に2度ほど会ったにすぎません。しかし、この2度の出会いこそが、後に鄧石如の書の評価を不動のものとするきっかけになったのです。
初めての出会いは、嘉慶7年(1802)、鄧石如60歳、包世臣28歳のときのこと。鎮江(江蘇省)で鄧石如を知った包世臣は、書の教えを乞うべく、10日余りも彼のところを訪れました。それほどまでに自身を突き動かす何かを、鄧石如の人と書に感じたのでしょう。そして、鄧もまた、30以上も歳の離れた若者の熱意に、きっと心を許したにちがいありません。鄧石如は、包世臣を自身の書のよき理解者だとし、包もまたそれを自負していました。翌年、両者は揚州(江蘇省)で再会を果たしますが、これが終世の別れとなります。
鄧石如の没後、包世臣は、その生涯を「完白山人伝」として記し、伝授された技法を「述書」にとどめます。そして、当代の書を9つのランクに分けて評価した「国朝書品」において、包は唯一、鄧石如の書を第1等に置き、鄧の書が自身の理想を体現したものであることを世に示したのでした。

篆書白氏草堂記六屛
篆書白氏草堂記六屛 鄧石如筆 中国 清時代・嘉慶9年(1804) 個人蔵
鄧石如の篆書は、隷書とともに神品(第1等)に置かれました。


包世臣よりも24歳年少の呉熙載は、若くして包の入室の弟子となります。呉熙載は包世臣の字、慎伯(しんぱく)にちなんで、室号を師慎軒(ししんけん)とするほど、師を慕い、尊敬してやみませんでした。
既に呉が21歳のときには、包世臣の書法を会得し、包から、自身の書と見分けがつかない、とまで言われるようになっていました。呉熙載の素質と、ひたむきに努力する人柄を認めた包世臣は、愛弟子として、また書を深く語り合える数少ない者として、彼に様々な技法を授けたのです。そこには、師の鄧石如から学んだことも多分に含まれていたでしょう。
呉熙載の書を見てみると、楷書・行書・草書の3体は包世臣のものと酷似し、篆書・隷書・篆刻は鄧石如の作に範をとっていることが分かります。包世臣が著述で師を顕彰したように、呉熙載は自身の作品を通して、何よりも二人の師のことを世に伝えたかったのではないでしょうか。


楷書淮南子主術訓横披 呉熙載筆と臨孝女曹娥碑冊 包世臣筆
左:
楷書淮南子主術訓横披 呉熙載筆 中国 清時代・19世紀 個人蔵

臨孝女曹娥碑冊(部分)包世臣筆 中国 清時代・道光20年(1840) 東京国立博物館蔵(高島菊次郎氏寄贈)


隷書七言聯 呉熙載筆と隷書崔子玉座右銘横披 鄧石如筆
左:隷書七言聯 呉熙載筆 中国 清時代・19世紀 個人蔵
隷書崔子玉座右銘横披 鄧石如筆 中国 清時代・嘉慶7年(1802) 個人蔵


彼らの後を受けて、趙之謙(ちょうしけん、1829~1884)・徐三庚(じょさんこう、1826~1890)・呉昌碩(ごしょうせき、1844~1927)といった人物が碑学派を隆盛に導きます。碑学は楊守敬(ようしゅけい、1839~1915)の来日によって、明治時代に日本にも伝わり、日中双方において近現代の書を語るうえでは不可欠と言えるほど、絶大な影響を及ぼしました。
3家の人柄に思いを馳せつつ、近現代の書との結節点、清時代の書をごゆっくりお楽しみください。


台東区立書道博物館では、碑学派も学んだ南北朝時代の書が展示されています。こちらも是非、お見逃しなく。
「不折が愛した中国・南北朝時代の書―439年から589年、王朝の興亡を越えて―」
2015年3月24日(火)~2015年7月20日(月・祝)
前期:3月24日(火)~5月17日(日)  後期:5月19日(火)~7月20日(月・祝)

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 六人部克典(登録室アソシエイトフェロー) at 2015年07月02日 (木)

 

大彦コレクションと友禅染─第2次友禅染ブームと、加賀染、久隅守景のことなど

今、トーハクでは、江戸時代の小袖がずらりと展示されています(画像1)。「小袖」というのは現在の着物の原型です。江戸時代までは袖口を小さく縫い狭め、袂がある長着を「小袖」と呼んでいました。これらの小袖コレクションを蒐集したのは、明治期から大正期にかけて業界で名を馳せた呉服商、野口彦兵衛(1848~1925)です。明治8年に独自の友禅染を売る「大彦(だいひこ)」という店を日本橋に立ち上げた彦兵衛。明治20年代の終わりにはそのデザインが「東京一本立」と称されるほど、京阪とは異なる趣向をもった個性的な染め模様であったようです。
 

展示風景
画像1:本館特別1室・2室で展示中の特集「呉服商「大彦」の小袖コレクション」


「大彦染」と称された彦兵衛の店のきものは江戸時代から続く日本の伝統技法「友禅染」で染めたものです。だから彦兵衛が蒐集した小袖コレクションにも友禅染が多いのでしょう(画像2)。しかし、彦兵衛が江戸時代の友禅染を参考に「大彦染」のデザインを考案した、というわけではないようです。彦兵衛は小袖のほかにも、人形や武具、インド更紗などを蒐集していましたが、当時の「大彦染」は「更紗染に工夫がある」や「絵画と更紗風とを調和し巧みに意匠を付したるものなり」などと評されているように、むしろ彼のもう1つのコレクションであるインド更紗から影響をうけていたことがうかがえます(画像3)。

大彦染
画像2
左:振袖 白縮緬地梅樹衝立鷹模様 野口彦兵衛旧蔵
 江戸時代・18世紀 (展示中)
右:小袖 浅葱縮緬地唐山水模様
 野口彦兵衛旧蔵 江戸時代・18世紀 (展示中)
当館所蔵の友禅染の名品は、まず、「大彦」のコレクションであるといっていい

彦根更紗
画像3
彦根更紗 紫地立木小鳥文様更紗 
野口彦兵衛旧蔵 南インド・18世紀 彦根藩井伊家伝来 (展示中)
彦兵衛が大正期に井伊家から購入した。彦兵衛は「更紗きちがい」と言われるほどに更紗を集めていたと言われるが、関東大震災で焼けてしまったという。

実は、彦兵衛が活躍した明治期の友禅染は、江戸時代から続くものとは随分異なっていました。友禅染の始まりは、江戸時代前期、京都・知恩院門前で店を構えていた宮崎友禅が描く大和絵風の扇絵が都で大流行、その扇絵(画像4)を小袖の模様にも染めるようになったことがきっかけでした。貞享年間(1684-1687)にこの友禅模様は一大ブームを引き起こしますが、元禄期(1688-1707)には廃れてしまいます。しかし、友禅風の模様を染めていた技法のことは、ブームが終わってからも「友禅染」と言われ続けました。絵画的な模様を色彩豊かに染め、しかも色落ちしない、という点が友禅染のセールスポイントでしたが、江戸時代後期にかかる頃には、その特色も省みられなくなります。町人に対するたび重なる贅沢禁止令によって町方の女性たちが華やいだ色小袖を着用することが難しくなり、江戸時代末期には、手彩色で手間隙のかかる友禅染は豪商の妻子が晴着に染める程度で、市井の人々が着用することはほとんどなかったのでした。

友禅筆の扇絵
画像4
蛍図扇面 宮崎友禅筆 江戸時代・17世紀(この作品は展示されていません)
宮崎友禅自筆と伝えられる扇。江戸時代、宮崎友禅は京都の扇工として知られていた。

ところが、明治期に化学染料が日本に輸入されるようになると、友禅染にも大きな変革期が訪れました。化学染料を糊に混ぜ、型染で反物に模様を定着させる「写し友禅」「型友禅」が京都で生産されるようになりました。手描き友禅ほど手間隙をかけずに量産ができ、江戸時代の友禅染よりは安価で友禅染が着られるようになり、一般女性の間でも、友禅染の華やかな着物が着られるようになったのです。「大彦」の時代は、いわば第2次友禅染ブームといっていいでしょう。

友禅染が再び注目を集めるようになった明治期以降、その歴史についてもこれまでにない新たな説が取り沙汰されるようになりました。江戸時代後期に活躍した戯作者・考証学者である柳亭種彦の説「友禅は京都の染物屋で、加賀(現在の石川県金沢市)生まれの人であり、加賀染をよくする」(『足薪翁記(そくしんおうき)』)が広まり(しかし、柳亭の説は何を典拠に記したのかは定かではありません)、友禅染は加賀が発祥の地である、と考えられるようになったのです。大正9年には、金沢の龍国寺で宮崎友禅の墓碑が発見され、京都で加賀染を発展させた友禅が故郷に帰り、その染技法を地元の染屋に伝授した、という伝説が「裏付け」られました(画像5)。さらに伝説は膨らんで、加賀染は、一時期加賀に在留した狩野派の絵師・久隅守景(画像6)が九谷焼の色絵を元に発明した技法で、それを守景から直接伝授された宮崎友禅が京都に出て大成させた、という説まで登場しました(野村正治郎『友禅研究』)。確かに、地元・金沢の史料を見ると、友禅染で染めた着物のことを「色絵」と呼んでおり(享保三年御用御染物帳)、また、久隅守景が描いたという色絵九谷焼の磁器も残っているのですが…。想像を膨らませた妄説と言われても、仕方がありません。

紫式部観月図友禅染絵
画像5
左:友禅染掛幅石山寺観月図 江戸時代・享保5年(1720)(この作品は展示されていません)

右:左下拡大図
加賀で染物業を営んでいた太郎田屋5代、茂平(茂兵衛)が宮崎友禅の指導のもと、製作したと伝えられる。染絵の左下に「享保伍庚子六月十五日於加州/御門前町染所茂平」と染め抜かれる。「加州」とは加賀のこと。

納涼図
画像6
国宝 納涼図屏風(部分)  久隅守景筆 江戸時代・17世紀(
この作品は展示されていません
宮崎友禅は加賀生まれと言われ、狩野派の絵師に絵画を学んだと言われている。それもまた、狩野探幽の弟子だった久隅守景と関連付けられる理由の一つである。

面白いのは、彦兵衛がコレクションの友禅染に付けた付箋には例外なく「加賀染」と記していることです(写真7)。なぜ、「友禅染」とは言わずにあえて「加賀染」と称したのでしょうか。

彦兵衛自筆の紙札
画像7:小袖 浅葱縮緬地唐山水模様(写真2の右)に付属する彦兵衛自筆の紙札
紙札には「享保頃 加賀染潟模様 唐縮緬 地空色 唐画山水」と記される。

今でも「大彦」の友禅染の特徴は、糸目糊で輪郭線を描き、色を挿していく江戸時代以来の伝統的な技法(画像8)であるといわれています。新規の型友禅が出回った明治期以降、宮崎友禅が活躍していた時代の本物の友禅染の手本として、江戸時代の友禅染を蒐集することは彦兵衛の「大彦染」にとって、欠かせないものでした。それは「大彦流にして…蓋し始祖友禅の遺志を得たるものか」という批評にも表れています。だからこそ彦兵衛は、コレクションの中にある江戸時代の友禅染に、その源流である「加賀染」の名を用いたのではないでしょうか。

伝統的な技法
画像8
左:「振袖 白縮緬地梅樹衝立鷹模様(
画像2 左)」部分
右:「小袖 浅葱縮緬地唐山水模様(画像2右)」部分
細く白い輪郭線は、糸目糊を置いた跡である。繊細でゆるぎのない線を糊で描くには、相当の熟練がいる。



この特集では、彦兵衛が「加賀染」と呼んだ友禅染の優品がお披露目されます。是非、この機会に日本独自の染模様をご堪能いただきたいと思います。
 

特集「呉服商「大彦」の小袖コレクション」
2015年6月9日(火)~8月2日(日)  本館 特別1室・特別2室
※前・後期で展示替あり
前期:6月9日(火)~ 7月5日(日)
後期:7月7日(火)~ 8月2日(日)

関連事業
月例講演会「呉服商『大彦』の小袖コレクションについて」
2015年6月27日(土) 13:30~15:00 (開場は13:00を予定)
平成館大講堂

ギャラリートーク「呉服商『大彦』の小袖コレクション」
2015年7月14日(火) 14:00~14:30
東洋館地下  TNM&TOPPANミュージアムシアター

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 小山弓弦葉(工芸室主任研究員) at 2015年06月25日 (木)