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1089ブログ

特集「親と子のギャラリー よりそう動物たち」みどころ(1)三館園連携企画と特別講演会(5月19日)レポート

こんにちは。教育講座室の横山です。

現在、本館2階特別2室では、特集「親と子のギャラリー よりそう動物たち ―家族、仲間のすがたとかたち―」(6月16日(日)まで )を開催しています。


特集「親と子のギャラリー よりそう動物たち ―家族、仲間のすがたとかたち―」の展示風景

この特集は、毎年5月18日の「国際博物館の日」を記念し、春から初夏にかけて開催しているシリーズ展示で、今年で17回目になります。
国際博物館の日を記念する事業として、同じ上野公園内にある恩賜上野動物園(おんしうえのどうぶつえん、以下 動物園)、国立科学博物館(こくりつかがくはくぶつかん、以下 科博)と東京国立博物館(以下、東博)が一緒に動物に関連する共通テーマを設定し、「上野の山で動物めぐり」と題してイベントを行ってきました。
当館ではその動物テーマに合わせて、家族向けの展示企画を行っています。

2019年までの「上野の山で動物めぐり」は、実際に三館園を一日をかけてめぐり歩くものでした。
たとえば、「クマ」がテーマであった年には、動物園で動くクマを観察し、科博でクマのはく製に触れ、そして東博でクマに関係した作品を集めた特集展示をみる…といった具合です。
コロナ禍にあったここ3年間は、オンライン配信によって、各三館園の担当解説員・研究員がそれぞれスライドを使ってお話しをしました。
(昨年度の様子、これまでの開催の様子については、ぜひ昨年度のブログ、特集「親と子のギャラリー 尾・しっぽ」みどころ(1) 三館園のコラボ展示! 裏側ストーリーを参照ください)

そして今年は、久々の対面形式として、去る5月19日(日)、東博の大講堂を使って特別講演会を実施しました。
お客様は、動物園のサイトを通じて応募してくださった東博が初めての方、科博のリピーターの小学生など、全部で約250名。
東博のいつもの講演会とはまた違った雰囲気のなかでの開催となりました。

今年の共通テーマは、「ひとりでくらすか、みんなとくらすか」です。
動物の群れ、単独行動、くらしかたに注目をしていきます。

はじめに、科博の川田伸一郎さん(動物研究部 研究主幹)が、海外で発表された最新の論文を紹介しながら、群れる動物、単独行動の動物の分類や、それぞれのくらし方のメリット・デメリットについてお話しくださいました。
川田さんはモグラを専門にご研究をされていますが、そのモグラは、基本的には単独行動をするグループの動物です。
なわばりのなかで限られた食料資源を確保し、生き延びるためには単独でくらすほうがメリットがある、というお話でした。

 
国立科学博物館 川田伸一郎さん(動物研究部 研究主幹)の発表の様子

つづいて、動物園の小泉祐里さん(動物解説員)からは、動物のコミュニケーションについてのお話がありました。
群れでくらす動物たちが、それぞれどのようなコミュニケーション方法をとっているのか、サル、ゾウを例に、動物園で撮影された動画を使って説明いただきました。
また、群れずにくらすトラやサイが、なわばりをアピールする方法についても紹介があり、それぞれの違いがよく理解できました。

 恩賜上野動物園 小泉祐里さん(動物解説員)の発表の様子
恩賜上野動物園 小泉祐里さん(動物解説員)の発表の様子 撮影・提供:(公財)東京動物園協会

最後は東博の横山から、特集展示で展示中の作品を例に、美術工芸品にあらわされた動物の群れや家族の表現についてお話をしました。
異なる時代や地域でつくられた作品からは、それぞれの時期や場所でどのように動物の群れや家族がとらえられていたか、といった背景を考えるきっかけにもなります。

 
東京国立博物館 横山梓の発表の様子 撮影・提供:(公財)東京動物園協会

講演の後半は、事前に寄せられた質問に3人で答えていくトークセッションを実施しました。
質問のひとつに「異種の動物が一緒にくらすことについて」というものがあり、小泉さんが動物園での事例をもとに回答をされました。
川田さんからは、「この連携事業そのものが、ある種の『異種間同居』みたいな感じですね!」というご指摘があり、
私もまさにそのとおりだな、と思わず膝を打ってしまい、会場からも共感が得られました。
あっという間の1時間半でしたが、対面形式ならではの、お客様の反応を得ながら進む楽しいひとときとなりました。

 
トークセッションの様子 撮影・提供:(公財)東京動物園協会

上野という地の利を生かしたこの連携事業は、普段なかなかご一緒することのない動物園、科博と交流できる貴重なものです。
ひとつの動物テーマでも、生態系分野からの視座を得ることで、毎回新たな気づきがあります。
なんとなく可愛いな、面白いな、綺麗だな…と思ってみていた東博の所蔵品の動物たちも、動物のことを詳しく知ってからみてみると、また違ったとらえかたができるように思います。

次回のブログでは、そうした「気づき」などにふれつつ、
特集「親と子のギャラリー よりそう動物たち ―家族、仲間のすがたとかたち―」の展示作品のなかから、私たち東京国立博物館教育講座室の室員のおすすめ作品をご紹介したいと思います!
 

カテゴリ:特集・特別公開

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posted by 横山梓(教育講座室) at 2024年06月07日 (金)

 

仏像を特別な存在にするために

極楽にいる仏、あるいは極楽から迎えに来てくれる仏…。
阿弥陀如来は苦しい現実に生きる人々を救う存在として、日本でも各地で信仰されました。
ただし、仏そのものに会えるとしたら奇跡や臨終の時と考えられていたため、そのかわりとなる仏像や仏画が造られてきました。

一方で、「仏作って魂入れず」ということばがありますが、仏像が仏そのものではなく木や金属でできたモノであることはわかっているため、入れ物である仏像に仏の魂を込めることで、仏として信仰してきたのです。
しかし、魂が入っていることは、あいにく仏像の外観からはわかりません(魂が入っている証拠としてさまざまな奇跡が語られることはありますが)。

そこで、魂を入れることとは別に、昔から仏像が特別な存在になるように工夫が凝らされてきました。
本館特別1室で開催中の特集「阿弥陀如来のすがた」(2024年7月7日まで)で各時代の阿弥陀如来像を展示していることにちなみ、今回は阿弥陀如来像に凝らされた工夫をご紹介したいと思います。

展示の冒頭で紹介するのは、阿弥陀如来と判明する、日本でもっとも古い仏像です。


重要文化財 阿弥陀如来倚像および両脇侍立像(あみだにょらいいぞうおよびりょうきょうじりゅうぞう)
飛鳥時代・7世紀


じつは、中央の仏だけでは阿弥陀如来かどうかはよくわかりませんが、両脇に立つ菩薩の冠をよく見ると、小さな仏と瓶があらわされています。
小さな仏をつけたのは観音菩薩、瓶をつけたのは勢至菩薩という、阿弥陀如来に従う両菩薩であるため、中央の仏も阿弥陀如来であることが知られるのです。
いつもは法隆寺宝物館に展示されていますが、特集「阿弥陀如来のすがた」にお出ましいただきました。

他にも法隆寺宝物館の第2室では多くの金銅仏と呼ばれる金属製の小さな仏像がご覧いただけますが、大陸から仏教が伝えられた際に、日本に持ち込まれたのはこうした金銅仏だったと考えられています。当時の人々にとって仏像の理想だったのでしょう。
悟りを開いた仏の体からは光が発せられると経典にあるため、本来は純金で仏像を造ることが理想とされましたが、それではあまりに高価なため、そのかわりに銅に鍍金(金メッキ)した仏像が多く求められました。

以下の写真をご覧ください。


阿弥陀如来倚像の像底

仏像の裏側が赤く塗られています。他の金銅仏にも数多く見られ、何らかの意味があったのでしょう。諸説ありますが、魔除けとして塗られた可能性があります。
もちろん外からはわかりませんが、造った人、造らせた人にとっては大事なことだったに違いありません。

時代は下り、平安時代になると仏像を木で造ることが多くなります。
とはいえ、木工のように木らしさを強調するのではなく(そういう仏像もあります)、多くは彩色されたり、金箔が貼られたりしました。
金箔が貼ってあると、木でできているかどうかもわからなかったと思います。


重要文化財 阿弥陀如来坐像(阿弥陀如来坐像及び両脇侍立像のうち)(あみだにょらいざぞう あみだにょらいざぞうおよびりょうきょうじりゅうぞうのうち)
平安時代・安元2年(1176) 埼玉・西光院蔵


金箔を貼るのは、金銅仏と同じく、仏が本来は光を発することをあらわすためです。
表情は穏やかで、体や衣の彫りは浅く、暗い堂内で拝すると、光り輝く仏が浮かび上がるような印象があったのではないでしょうか。

平安時代の末から鎌倉時代に入ると、その後の仏像を大きくかえる技術が生まれます。
両眼にあたる部分を刳り抜いて、レンズのように薄く削った水晶の板を嵌める「玉眼(ぎょくがん)」です。

阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)
鎌倉時代・12~13世紀 静岡・願生寺蔵

玉眼になると、急に生々しさを感じますね。仏像を見ているはずが、逆に見られているような気がします。
見る角度によっては玉眼がキラリと光るので、ぜひ会場でご覧ください。
ちなみに、修理によって、表面の仕上げを取り除いてしまっていますが、もともとは金箔仕上げでした。

 

阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)(C-19)
鎌倉時代・13世紀
阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)(C-508)
永仙作 鎌倉時代・正嘉3年(1259)
安田善次郎氏寄贈
阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)(C-321)
鎌倉時代・13~14世紀

 

鎌倉時代以降、広く定着するのは三尺(1メートル程度)の大きさの阿弥陀の立像です。
もともと仏像の大きさにはさまざまな決まりがあり、理想とされたのは一丈六尺(4.8メートル程度)ですが、これはさすがに大きすぎてなかなか造ることができません。
この半分、何分の一、という大きさもあり、三尺の由来は諸説ありますが、一丈六尺の約五分の一のサイズです。

また、これまで阿弥陀如来像といえば、「極楽の主」という性格からか、坐像が多かったところ、この頃から「極楽から迎えに来る」という期待が大きくなり、立像が増えていきます。
阿弥陀の立像で注目したいのは、両足の裏に模様を描くものがある点です。

阿弥陀如来立像(C-19)の像底
阿弥陀如来立像(C-19)の像底 拡大図

 

阿弥陀如来立像(C-321)の像底
阿弥陀如来立像(C-321)の像底 拡大図

 

実際にはご覧いただけないため、会場ではパネルで展示しています。
一般的に、立像は足裏にあたる木を削らずに枘(ほぞ)という角材状で残し、これを台座に開けた穴に挿して固定します(枘の形はさまざまです)。
これらの像は、これとは逆に踵の後ろに穴を開けて、台座から枘をつけてこれに挿します(逆枘と言います)。
これは、ひとえに足裏に文様を描くためです。

経典によると、仏の手足にはおめでたい文様があらわれているといい、インド以来、仏像の手足に仏法を象徴する車輪(法輪)等の文様をあらわすことがありました。
法隆寺金堂壁画に描かれた阿弥陀如来にも、手足に文様があるのを確認できます。

法隆寺金堂壁画(模本)第六号壁(ほうりゅうじこんどうへきが(もほん)だいろくごうへき)
桜井香雲模 原本:奈良・法隆寺所蔵
明治17年(1884)、原本:飛鳥時代・7~8世紀
法隆寺金堂壁画(模本)第六号壁に描かれた阿弥陀如来の手

 

また、足裏に文様のある阿弥陀如来立像のうち、こちらの像は頭髪にも特徴があります。

阿弥陀如来立像(C-19)の頭部
阿弥陀如来立像(C-19)のX線CT画像(宮田将寛作成)

 

阿弥陀如来立像(C-19)のX線CT画像
螺髪のうち銅線部分(宮田将寛作成)

 

肉眼では見えにくいのですが、特集「阿弥陀如来のすがた」の事前調査で実施したX線CT撮影では、螺髪を呼ばれる髪の毛を銅線であらわし、一本ずつパンチパーマのように巻いて、木製の軸と一緒に植え付けていることがわかります。
足裏に文様を描くことと、髪の毛を銅線であらわすことはセットで行われることがあったようです。

また、このCT撮影では、後頭部に銅製の筒が2本埋め込まれていることも判明しました。
おそらく頭周辺の光背である頭光をつける際、支柱を使わずに固定する工夫だったのでしょう。

阿弥陀如来立像(C-19)のX線CT画像(宮田将寛作成)
阿弥陀如来立像(C-19)の後頭部

 

現在は木製の詰め物をして、表面からは気づかれないようになっていますが、他にも筒をそのまま残している仏像が複数確認されているため、かつては少なくなかったようです。
確かに、仏が発する光に「支柱」がついていたら、現実に引き戻されてしまうかもしれません。

また、中央の展示ケースに仮面を並べていますが、これは実際に人がつけて仏に仮装するための道具です。

特集「阿弥陀如来のすがた」の展示室風景
重要文化財 行道面 菩薩(ぎょうどうめん ぼさつ)その2
快慶作 鎌倉時代・建仁元年(1201) 兵庫・浄土寺蔵

 

阿弥陀如来が迎えに来る「来迎」をより実感したいという人々の願いから、菩薩の仮面をつけた人々が来迎の様子を再現する練供養(ねりくよう、迎講とも)が行われるようになりました。 毎年行われる奈良の當麻寺が有名ですが、都内では九品仏浄真寺でも四年ごとに行われています。

あるいは、仏像を山車に乗せてパレードを行う、行像(ぎょうぞう)というイベントは古くからアジア各地で行われていましたが、仏像が動く、あるいは人が仏像に仮装するというのは、仏をリアルに体感したいという願いのあらわれといえます。


特集「阿弥陀如来のすがた」(本館特別1室、2024年7月7日(日)まで)の展示室風景

いつか目の前に阿弥陀如来が現われる日を待ち望み、人々が向き合ってきた仏像。
ぜひ展示室で追体験していただければ幸いです。

 

カテゴリ:彫刻特集・特別公開

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posted by 西木政統(登録室) at 2024年06月05日 (水)

 

ほとけを演じるための仮面

仮面をつけて、自分とは違うものになりきって遊んだり、劇をしたりした経験は多くの方がお持ちだと思います。
仮面は古くから、別のものを演じるために使用されてきました。
今回、特集「行道面 ほとけを演じるための仮面」(本館14室にて、5月26日(日)まで)で展示している行道面(ぎょうどうめん)は、ほとけ様を演じるための仮面です。
法要で使われたり、仮面をつけてほとけ様になりきって、経典にあるシーンを再現したりしていたようです。


特集「行道面 ほとけを演じるための仮面」 展示室の様子

展示室に入ると、いろいろな種類があることに気づくと思います。
さまざまなほとけ様を演じていたことが想像できますね。
いくつかをじっくり見てみましょう。


「行道面 菩薩(ぎょうどうめん ぼさつ)」の展示風景

画像に写っている4つの行道面は、いずれも「行道面 菩薩」です。
本特集では、兵庫県浄土寺に伝わった計25面の菩薩面のうちの4面を展示しています。二十五菩薩が亡くなった人を迎えに来て、浄土に導くというシーンを演じる法会で使用したのでしょう。
どれも同じに見えるかもしれませんが、よく見るとそれぞれ表情が違います。
展示ケース内の左側の2面は笑顔です。

 

行道面 菩薩 その24
快慶作 鎌倉時代・建仁元年(1201) 兵庫・浄土寺蔵
行道面 菩薩 その24 横から見た様子

 

行道面 菩薩 その25
快慶作 鎌倉時代・建仁元年(1201) 兵庫・浄土寺蔵
 

 

「行道面 菩薩 その24」は上下の歯を見せて微笑んでいるようです。横から見ると、歯がしっかりとあらわされているのがわかるはずです。
「行道面 菩薩 その25」も口元に歯と思われる白い部分があり、目も笑っています。

一方、こちらの2面はどうでしょうか。

 

行道面 菩薩 その14
快慶作 鎌倉時代・建仁元年(1201) 兵庫・浄土寺蔵
行道面 菩薩 その5
快慶作 鎌倉時代・建仁元年(1201) 兵庫・浄土寺蔵

 

「行道面 菩薩 その14」は口がうっすらと開いてはいるものの、笑顔とはいいがたい表情です。顎のあたりがすっきりとしたようにも見えますね。
「行道面 菩薩 その5」はほかに比べて頬や顎のあたりが少しふっくらとし、落ち着いて見えます。

表情がいろいろだということ、感じていただけたでしょうか。
さらに近づいてみましょう。


行道面 菩薩 その25 左眉部分

眉の部分がくりぬかれていることが見えるはずです。
目の孔だけでは、面をつけた時に視野が狭いのですが、眉も開いているとよく見え、息もしやすいのでしょう。
仮面をつけて練り歩くことを考えれば実用的な工夫のように思いますが、なぜかほかに眉の輪郭にそって全体をくり抜いた面は知られません。

この菩薩面が伝わった、兵庫県の浄土寺は、快慶の阿弥陀三尊像でよく知られています。
菩薩面もまた、快慶のもとで複数の仏師が制作したものと考えられます。
顎のあたりがすっきりとしているとご紹介した菩薩面には快慶らしさが感じられます。
ふっくらとして落ち着いた菩薩面は運慶や康慶に近い雰囲気といえるかもしれません。

人々の声や音楽のなか、表情豊かな二十五菩薩がそろって練り歩く法会はきっと、にぎやかだったことでしょう。
特集「行道面 ほとけを演じるための仮面」では、ほかにもたくさんの種類の面を展示しています。
近づいてじっくり、また法会で使われている様子を想像しながらご覧ください。

 

カテゴリ:特集・特別公開

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posted by 川岸 瀬里(教育普及室長) at 2024年04月17日 (水)

 

おひなさまと日本の人形

東京国立博物館では、毎年、この季節になりますと3月3日の桃の節句(上巳の節句)にちなんで、当館のコレクションの中から雛飾りを展示しています。


特集「おひなさまと日本の人形」(3月31日(日)まで)の展示風景

本館14室に入り向かって右側にある大きなケースには、毎年、恒例の三段飾りをしています。
この雛壇には、古来より宮廷貴族の間でもちいられてきた「天児(あまがつ、男の子)」、「這子(ほうこ、女の子)」といった原初的なスタイルの人形から、紙で胴体を形作った「立雛(たちびな)」、室町時代の宮廷風俗を模したとされる「室町雛(むろまちびな)」、上方で流行したまあるいお顔の「次郎左衛門雛(じろざえもんびな)」など、ひな人形の歴史をたどることができる展示をしています。

 

天児
江戸時代・19世紀
這子
江戸時代・18世紀

 

立雛(次郎左衛門頭)(たちびな じろざえもんがしら)
江戸時代・18~19世紀
古式次郎左衛門雛(こしきじろざえもんびな)
柴田是真旧蔵 江戸時代・17~18世紀

 

また、ミニチュアだからこそ日本の卓越した工芸の技を存分に発揮できる、雛道具の数々も見どころです。
この雛壇の展示作業を一日で行うのがとっても大変なのですが、この度、その様子を動画で紹介しています。ぜひ、ご覧ください。

 


特集「おひなさまと日本の人形」ができるまでのタイムラプス

特集「おひなさまと日本の人形」ができるまでのタイムラプス

 

雛飾りばかりではなく、特に江戸時代に飛躍的に発展、成熟を遂げた、日本の伝統的な人形も、毎年テーマを変えて展示しております。
今年のテーマの1つは「嵯峨人形(さがにんぎょう)」。江戸時代前期に嵯峨在住の仏師(仏像を彫刻する職人)が、余技で始めたのがその始まりだと言われています。
木彫りした人形に胡粉(ごふん)といわれる白い塗料を塗り、黒紅(くろべに)と呼ばれた赤黒い色で着物の地色を塗り、その上に仏像に施されるような細密な金彩色を着物の模様として施す点が特徴です。
猿廻し、人形使(にんぎょうつか)い、遊女など、江戸時代のさまざまな職業の風俗を表しました。


嵯峨人形 人形使い(さがにんぎょう にんぎょうつかい)
江戸時代・17世紀~18世紀 野村重治氏寄贈


また、今回の注目は頭を後ろからつつくと首が前後に動き、舌がぺろっと出てくる子どもの姿を表した「嵯峨人形 首振り(さがにんぎょう くびふり)」です。江戸時代には人気の仕掛け人形だったようで、いくつもの例が遺されており、子だくさんを願う子犬を小脇に抱えています。展示されている人形は動きませんが、動いている様子を本館14室のモニターで見ることができます。


嵯峨人形 首ふり
江戸時代・17世紀


嵯峨人形は、着せ替えのできる「裸嵯峨(はだかさが)」と呼ばれる子どもの人形へと変化し、それが御所人形へと発展していったと言われています。
今となっては伝世品の少ない「裸嵯峨」や、愛らしい赤子姿の「御所人形(ごしょにんぎょう)」も本館14室でご覧いただけます。


御所人形笛吹き童子(ごしょにんぎょう ふえふきどうじ)
江戸時代・19世紀 尾竹越堂氏寄贈


特集「おひなさまと日本の人形」は本館14室にて3月31日(日)まで開催しています。
現代の生活では大きな雛壇の雛飾りが難しくなってきたこの頃、ぜひ、当館で華やかな伝統の雛祭りの様子をご体感ください。

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 小山 弓弦葉(工芸室室長) at 2024年03月13日 (水)

 

たくさんの塔を造る


本館14室 特集「塔と厨子(ずし)」の展示風景

先日の1089ブログ「舎利を祀(まつ)る塔」でも書いたように、釈迦(しゃか)は死後に荼毘(だび)に付され、遺骨は釈迦を慕う人々に分け与えられ、「舎利」と呼ばれて八つの塔に祀られました。2,400年(一説には2,500年)ほど昔のことです。

今から2,200年ほど前、古代インドのマウリヤ朝の第3代の王となり、インドに統一国家を建設したアショーカ王(前268~232)は、仏教による国造りを進め、舎利を祀る八つの塔のうち七つの塔を開いて新たに塔を建立(こんりゅう)したと伝わります。その数何と八万四千。釈迦の涅槃(ねはん)の地であるクシナガラをはじめサーンチーやバールフットに遺(のこ)るストゥーパは、このアショーカ王の建立、増改築によるものとされています。
「八万四千」というのは、インドで大きな数を表す際の数字ですので、本当にこの数が作られたかは定かではありませんが、この圧倒的な数の作善行(さぜんぎょう)は、後世にも大きなインパクトと影響を与えました。中国・五代の呉越国(ごえつこく)王・銭弘俶(せんこうしゅく、929~988)は、このアショーカ王(中国では阿育王(あいくおう))の故事に倣って八万四千基の塔を造り、各地に配布したと伝えられています。日本へも海を越えて500基がもたらされたとされており、福岡・誓願寺(せいがんじ)に伝わるものや和歌山・那智山経塚(なちさんきょうづか)から出土したもの(図1)が知られています。


(図1)銭弘俶八万四千塔(せんこうしゅくはちまんよんせんとう )
中国・五代時代・10世紀 
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山出土 
北又留四郎氏他2名寄贈


また、現存作例はありませんが、日本でも阿育王の故事は重要視され、白河院(1053~1129)や後鳥羽院(1180~1239)が、五寸(約15センチメートル)の大きさの八万四千塔を造立(ぞうりゅう)したことが記録に残されています。
こうしたたくさんの塔を造る作善は江戸時代まで続いており、京都・仁和寺(にんなじ)でも八万四千塔の造立が行われたようです。当館蔵の焼き物の「八万四千塔(はちまんよんせんとう)」(図2)は、基台裏の銘文(図3~図6)から、その3,333番目として焼かれたことがわかります。また、奈良国立博物館には、仙洞御所(せんとうごしょ、光格天皇、1771~1840か)の御願によって作られた、天保十年(1839)の紀年銘を有する焼き物の八万四千塔が所蔵されています。


(図2)八万四千塔 道八 江戸時代・19世紀

 

八万四千塔の基台裏(図3)
八万四千塔の基台裏(図4)

 

八万四千塔の基台裏(図5)
八万四千塔の基台裏(図6)

 

ところで、たくさんの塔が造られた事例としては、称徳天皇(718~770)による「百万塔(ひゃくまんとう)」(図7)の造立が挙げられます。
藤原仲麻呂の乱(764年)によって多くの血が流れたことを受けて、その鎮魂と滅罪のため、『無垢浄光大陀羅尼経(むくじょうこうだいだらにきょう)』の教えに基づき、世界最古級の印刷物とされる陀羅尼を納めた塔が百万基造立され、奈良及びその周辺の10の寺院に10万基ずつ納められました。
現在はそのうち、奈良・法隆寺に納められたものが、法隆寺に遺る4万基余りをはじめ各地に所蔵されています。法隆寺にだけ遺った理由は定かではありませんが、法隆寺には奈良時代の「鋸(のこぎり)」(図8)や「鎌」(図9)のような道具類も近代まで伝わっており、ものを大切に保管する習わしがあったのかもしれません。


(図7)百万塔 奈良時代・宝亀元年(770)
画像左端(H-1183)は川住三郎氏寄贈

(図8)重要文化財 鋸 奈良時代・8世紀
法隆寺宝物館第4室「木・漆工-武器・武具」にて展示
(図9)重要文化財 鎌 奈良時代・8世紀
法隆寺宝物館第4室「木・漆工-武器・武具」にて展示

 

王侯貴族のような権力者は、経済力や権力で多くの作善を行うことができましたが、いつの時代も何かをなすにはお金の問題がつきまといます。
「お金はないけどたくさんの塔を造って善行を積みたい」ということで作られたのが、土で造られた塔「泥塔経(でいとうきょう)」(図10)です。型抜きで作った塔形に『法華経(ほけきょう)』の経文(きょうもん)の一文字と地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の種子(しゅじ)、カを表したもので、鳥取県の智積寺(ちしゃくじ)経塚から出土したものが各地に多数伝わっています。『法華経』はおよそ7万字ですので、それだけの数が作られたのかもしれません。

(図10)泥塔経 鳥取県東伯郡琴浦町智積寺 智積寺経塚出土 室町時代・15世紀 道祖尾萬次氏寄贈

この他、1089ブログ「舎利を祀る塔」でも紹介した「穀塔(もみとう)」(図11)も、多くの人が仏縁を結びやすいように、木と籾(もみ)とで作られたもので、奈良・室生寺(むろうじ)や奈良・元興寺にも多くの籾塔が伝わっています。


(図11)穀塔 鎌倉時代・13~14世紀 植原銃郎氏寄贈


『法華経』の「方便品(ほうべんぼん)」には「どんな塔を造ることも悟りに繋がる」と説かれています。そしてそれらは多い方がより功徳(くどく)も大きいと考えられました。そうした教えやアショーカ王の「八万四千」の故事などによって、想像を絶するような多くの塔が造られ、供養(くよう)されたのです。

ところで、それらの塔はどこに行ってしまったのでしょうか。法隆寺に遺る百万塔(それでも半分以上は消滅?)を除くと、これほどたくさん造られた塔もほとんどが失われてしまったことに気付きます。
改めて、現在我々が、こうした先人の善行を目の当たりにできる奇跡を、思わずにはいられません。

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 清水健(工芸室) at 2024年02月21日 (水)

 

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