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1089ブログ

トーハクくん、“じょうもん土器先輩”に会いに行く

トーハクくん
ほほーい!ぼくトーハクくん!
今日は井出研究員に、“じょうもん土器先輩”のところへ連れて行ってもらうほ。
どんな先輩なのか…土器土器するほー!


井出研究員とトーハクくん
こんにちは!トーハクくん。

トーハクくん井出さん、今日はよろしくお願いしますほ!
その前に…。そもそも土器って、なんだほ?

井出研究員土器とは、粘土をこねて形を作り、焼いてできたうつわのことだよ。素材はトーハクくんと一緒だね。
土器が発明されたことによって、煮る、炊く、蒸すといった基本的な調理ができるようになり、人々の食生活は大きく改善され、暮らしが安定するようになったんだよ。スープを食べられるようになったのも、土器のおかげなんだよ。

トーハクくんほー。僕もうつわにされていたら、「踊るはにわ」ならぬ「踊るうつわ」なんてよばれていたかもしれないほ…。
じゃあ、「じょうもん」というのは、どういう意味なんだほ?

井出研究員縄文時代に使われた土器が縄文土器と呼ばれているよ。
ちなみに縄文土器の呼び名は土器の表面の縄目の文様に由来しているんだ。
縄目以外にも、竹や木、貝がらなどを加工して使ったり、そのまま押しつけたりした文様もあるよ。

トーハクくんなわめ?もんよう? むー、いったいどんなふうに作られているんだほ?

井出研究員(キリッ)縄文土器は、粘土をこねて、ドーナツ状のわっかをつくり、それをだんだんと重ねてうつわの形をつくります。
土器がある程度乾いたら、表面に、縄を転がしたり、押し付けたり、竹や木、貝がらなどを使ったりして、いろいろな文様を飾ります。日陰でしばらく乾かしてから、野焼きで焼いて完成です。
中には、さらに赤い顔料で模様を描いたり、漆を塗って表面をコーティングしたりと入念に仕上げているものもあります。

トーハクくんほほー。ドーナツ… いや、縄で文様をつけるから、「じょうもん」なんだね!
ところで井出さん、ここにいる“じょうもん土器先輩”たちは、人間の顔や動物の形みたいなものがついているけど、なんでだほ?

井出研究員(ふたたびキリッ)縄文時代には土器のほかに、人をかたどった土偶や動物の形の土製品があります。
これらは粘土で作った、いわば縄文時代のフィギュアともいえるでしょう。現代のフィギュアと大きくちがうのは、縄文時代の土偶や動物形土製品は、おもにお祈りやまじないといった特別な場面で使われた可能性が高いのです。たいていの土偶がバラバラの状態で発見されるのは、こうした場面でわざと壊されているからだと考えられています。
人や動物の姿を土器に飾るのは、縄文時代はじまりの頃までさかのぼります。最初は小さな飾りだったものが、しだいに土器の目立つ部分に、大きく、はっきりと飾られていくようになります。今から4500年位前の勝坂式土器(かつさかしきどき)とよばれるものは、そういった人物や動物文様が流行した頃の代表例です。

トーハクくんほほー。こちらの山梨県北杜市出身の“じょうもん土器先輩”たちは、カツサカシキ?から選ばれし先輩たちなの?

井出研究員そうだね。まずはこの土器から見ていきましょう。

トーハクくん顔がふたつ、見えるほ?



井出研究員土器の口のところと胴のところに、顔のような装飾が見えるよね。顔以外にも土器の表面の盛り上がった部分や線状の文様をよくみると、人間の体をまねたような文様があるよ。
胴のところの顔は、その人体をあらわしたような文様からこちらをのぞきこんでいるようにも見えるね。
この土器は、赤ちゃんがお母さんのおなかからまさに生まれ出ようとする、その瞬間をあらわしているとして「出産文土器」とも呼ばれているんだ。土器の口の部分についた顔が、お母さん、胴のところの顔が赤ちゃんというわけなんだ。
縄文人の安産祈願や豊饒への願いが込められていると考えられているよ。


顔面把手付深鉢形土器 山梨県北杜市 津金御所前遺跡 5号住居跡出土
縄文時代(中期)・前3000~前2000年 山梨・北杜市教育委員会蔵


後ろ側にも同じような顔の文様がついているんだ。


展示室では見られない、後ろ側

トーハクくんなんと!生命誕生の神秘! じょうもんの先輩たちは、土器に祈りを表現したんだね!


井出研究員次は、こちら。



トーハクくんこ、これは!ぼくの大好物のクッキーみたいだほ!!おいしそうだほ~(ヨダレ…)


井出研究員トーハクくん、食いしんぼうなんだね…(汗)。
たしかにクッキーみたいなのが、前と後ろに二つけられているよ。


人形装飾付深鉢形土器 山梨県北杜市 寺所第2遺跡 T-11号住居跡出土
縄文時代(中期)・前3000~前2000年 山梨・北杜市教育委員会蔵

(左が展示室でご覧いただける姿、右は後ろ側)

二つの顔は表情がまったく違うんだ。
一方の顔は、眉をひそめてつりあがった目元、口を一文字につぐんで見るからに怒っているようだね(下の右側の写真)。もう一方の顔は、目尻が垂れて口元は弓なりに上がって、まるで微笑んでいるように見えるね(下の左側の写真)。この土器のように、一つの土器に、対照的な顔や人体の文様が二つ以上、施されることがあるんだ。


右が展示室では見られない、後ろ側。表情を見比べてみてください。

それは男女の違いや、カミとヒトなどを対照的にあらわしているとも考えられているんだ。
この土器のほかにも、展示室には、一方はお尻が大きく、もう一方は小さく表現された二つの人体文様をもつ土器もあるよ。これは男女の違いを表しているのかもしれないね。


トーハクくんおや、こっちは、ずいぶんとフクザツなかたちをしているほー?


重要文化財 人形装飾付異形注口土器 北海道北斗市茂辺地出土
縄文時代(後期)・前2000~前1000年 東京国立博物館蔵

井出研究員これはボールのような丸い胴体に、橋をかけたような頸(くび)がついている、見るからに変わった注口土器(ちゅうこうどき)だね。
注ぎ口の部分がなくなってしまっているけれど、前後に顔、左右に人形、合計4人の顔が表されているんだ。
(展示室ではこの土器の細部を三次元計測機によって計測し展開させた図面を掲示しています)



トーハクくんチューコー土器?

井出研究員注口土器は土瓶(どびん)や急須の形に似ていることから、液体を注ぐ容器だったと考えられているよ。


トーハクくんほほー。井出研究員だったらお酒を注ぐところだほ…(ニヤニヤ)。

井出研究員ん?何か言った?
ところで、この土器は配石遺構(はいせきいこう)という、石で囲まれた特殊な遺構の周辺で発見されたんだよ。
配石遺構は、人が亡くなった際に行われた儀礼で使われた場所とも考えられているんだ。

トーハクくん今も昔も亡くなった人を偲んでお酒をのむのにかわりがなかったのかな?
土器についている顔は、亡くなった人の顔に似ているのかな?

井出研究員(最後にキリッ)今まで見てきたこれらの土器に、わざわざ多くの時間と労力をかけて、人や動物をあらわした装飾を施すはっきりとした理由は残念ながらよくわかっていません。
しかし、土偶や土製品ではなく、あえて、うつわに装飾を施したことに縄文人からの強いメッセージを感じます。
こうした土器が、どのような場面でどのように使われたのか、最新の発掘調査の成果を見ながら考えてゆかねばなりません。

トーハクくん井出研究員がそのナゾを解き明かしてくれるのを期待するほ!
今日はいろいろな“じょうもん土器先輩”を紹介いただき、ありがとうございました!

井出研究員おすすめ
井出研究員お気に入りの“顔面把手先輩たちと記念撮影


特集陳列「縄文土器に飾られた人物と動物
平成館 考古展示室   2013年7月9日(火) ~ 2013年10月27日(日)

自由研究応援キャンペーン ミュージアムシアター&考古学に挑戦!スタンプラリー 8月10日(土)~9月1日(日)
1. 小・中学生はミュージアムシアター無料(通常300円)
上演プログラム:
土偶 縄文人の祈りのカタチ─バーチャルで土偶に遭遇─
洛中洛外にぎわい探訪 徳川の威光と二条城障壁画─大名がひれ伏した二条城の鷹と虎─

2. スタンプラリー「考古学に挑戦!」で土偶ステッカーをプレゼント

 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by トーハクくん at 2013年08月10日 (土)

 

トーハクくんがゆく!「国宝 大神社展」其の六 最終回

トーハクくん登場

ほほーい!ぼくトーハクくん!
今日は井上研究員といっしょに「国宝 大神社展」を見に行くほ。
第2章 祀りのはじまり」について教えてくださいだほー!


井上さんとトーハクくん

待っていたよトーハクくん!最終回は、考古遺物を紹介しよう。

トーハクくんお願いしますほ!
この章では、「国宝 大神社展」のなかで一番古い時代のものを展示しているんだほ?

井上さん そうだよ。日本には神道のもととなった思想が、仏教伝来以前からあったわけだ。そのあたりを見てゆこう!

トーハクくんはいっ!(うぷぷ、井上さんの戦隊ヒーローモノみたいな語り口がたまらんほ!)


展示風景


井上さん 人々は、山や海、岩や木など、自然のものに神を見出して、畏れ敬ってきた。
第2章の展示は、この展覧会のコンセプトの基底をなす部分だけど、それをきちんと表現するには、少なくとも縄文時代の状況から説明しなければならない!
なにしろ縄文時代だけで1万年以上あるんだから、それだけでひとつの展覧会が出来てしまうくらいだ!
しかしそれには全然スペースが足りない!


苦悩の井上さん
苦悩する井上さんと、なす術のないトーハクくん。


そういうわけで、数ある遺跡のなかでも、神社が成立する以前の神マツリの状況が伝わりやすいであろう、2つの遺跡に絞って紹介することにした。
人々が何故山や海を信仰するようになったのか、それが神社創建にいかにつながっていったのかをご覧いただこう。


山ノ神遺跡出土品
山ノ神遺跡出土品
古墳時代・5~6世紀 東京国立博物館蔵



井上さん 奈良県の山ノ神遺跡は、山自体を御神体として祀っている大神神社(おおみわじんじゃ)に深く関わる祭祀遺跡、つまり、神を祀り、祈りをささげたところだよ。

トーハクくんほ~、なんだかボク、親しみを感じるほ。

井上さん そりゃそうさ、古墳時代・5~6世紀の遺物だから、キミの誕生とほぼ同時期だ。

トーハクくんほー!それはご縁だほー!
(トーハクくんは5歳ですが、モデルになった「埴輪 踊る人々」は古墳時代・6世紀の遺物です。)
お皿とかツボみたいな、いろんな形をしているけど、何かの道具なのかな。

井上さん うむ。鋭いな。これは、お酒をつくる道具という説が有力だ。
杵(きね)と臼(うす)で脱穀した米を箕(みの)でふるって、柄杓(ひしゃく)で汲んだ清水(せいすい)を加えて坩(かん。つぼのこと)で醸(かも)す。


山ノ神出土品をみる


トーハクくんほう。こんなにミニサイズの道具でお酒がつくれるほ?

井上さん おそらくこれは儀式用につくられたものだから、小さくつくられている。
でも酒造りは実際に行われていて、その工程を模したんだろう。

トーハクくんなるほ。
でも不思議だほ、山の神さまなのにどうしてお水やお酒と関係があるほ?

井上さん それはだねトーハクくん。
水は山から湧いてくる。湧いた水は泉になり、川になり、やがて海にたどり着く。
水は、山に住む動植物を育てる。田畑をも潤す。
その水と、水が育んだ米で造られる酒は、まさに神と人とを結びつけるものなんだ。

トーハクくんポエム!
井上さん、ボク今ちょっと感動しちゃったほ。そういう大事なことをどうしてもっと早くに教えてくれなかったほ!

井上さん それはキミが早く取材に来ないからだろう!

トーハクくんぎくっ!

井上さん まあいい、とにかく水の生まれ出るところは生命の根源、神聖な場所として崇められることが多いんだ。

トーハクくんそっか。なんだかボク、そういう感じが懐かしいような気分がするほ。
山の神様は、たくさん恵みを与えてくれるんだね。

井上さん そうだ。しかし同時に山は、土砂崩れ、地すべり、噴火など、いつも穏やかな顔ばかりじゃない。
だからこそ人々は山や自然を畏れ、敬うんだ。これが、神社創建に関わる思想的ルーツとも言えるんだな。


さて、もうひとつの作品を見てみよう。

方格規矩鏡
国宝 方格規矩鏡
古墳時代・4~5世紀 福岡・宗像大社蔵

井上さん 福岡県の沖ノ島祭祀遺跡から出土した鏡だ。

トーハクくんオキノシマ?

井上さん 島全体が御神体ともいわれている島だよ。古くから祭祀が行われていたから、遺跡がたくさんある。
もともとは一氏族が、航海の安全や一族繁栄のために祭祀を執り行っていたようだが、弥生時代以降、大陸との交流が盛んになることで、古墳時代には大和政権が国家的事業として祭祀に取り組むようになっていった。
この島で出土した遺物が、これだ。


鏡をみる


トーハクくんグラフィカルでかっこいいデザインだほ!

井上さん うむ。中央にある鈕(ちゅう。丸い部分)の周りを四角で囲み、その四方にはT・L・Vの形の文様がならぶ。
TとLは定規を、Vはコンパスをあらわしているとされている。

トーハクくん模様がとっても細かくて、いい仕事しているほ!デザインがあんまり日本っぽくないように感じるけど。

井上さん たしかに。そう感じるのは、この鏡に中国からきた四神(玄武・朱雀・青龍・白虎)の思想が盛り込まれているからだろう。
このデザインは、その思想を巧みに和様化したものだととらえている。
沖ノ島からはこうした精緻な銅鏡がたくさん発見されているが、その中でも目を見張るデザインと言えるだろう。

トーハクくんねえ井上さん、もしかして沖ノ島にはまだたくさん遺物が眠っているんじゃないの?

井上さん そうさ!まだまだ眠っているに違いないんだ!ここは通称「海の正倉院」と呼ばれているくらいすごい場所なんだよ。
もしさらに調査が進むのであれば、古代の人々の祈りの実態がもう少し深く分かってくるはずだ。
今後の調査に大いに期待したい!

トーハクくんミステリーがいっぱいありそうでワクワクするほ!
そうか。いまボクたちは神社へお参りに行くけど、神社ができる前は、山や海とか自然そのものに対してお祈りしたり、お祀りしていたんだね。
ここが神社のスタート地点だったんだ!
井上さん、アツいお話をどうも有難うございました!

Mr.銅鐸とトーハクくん
ミスター銅鐸とトーハクくん。

日本人の祈りのルーツが、自分の誕生するずっと前から脈々とあったんだと思うと、ちょっと胸が熱くなったトーハクくんなのでした。
~おわり~

カテゴリ:研究員のイチオシ考古2013年度の特別展

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posted by トーハクくん at 2013年05月28日 (火)

 

速報!七支刀、展示期間延長決定!!

あの「七支刀(しちしとう)」が、展示期間が延長され、5月12日(日)まで観られるようになった!!

七支刀
国宝 七支刀
古墳時代・4世紀 奈良・石上神宮蔵
[展示期間:5月12日(日)まで]


当初は5月6日(月・休)までの展示予定だったが、奈良・石上神宮の森正光宮司の格別なるご配慮により実現したのだ。
この刀剣がどれほど貴重なものか説明しよう。

教科書でもお馴染みの「七支刀」。
この名は忘れても、その独特の形を示せば、多くの方が「ああ、あれか!」と、ピンとくるはずだろう。それほど有名な刀剣だ。
しかし、実物が展示されることはほとんどない。それは、この刀剣がご神体にも匹敵するものだからなのだ。

七支刀 展示風景

この刀剣には、表裏合わせて61文字が金象嵌されている(彫った文字の上に金がのせられている)。
その銘文の解釈には諸説あるが、大意はざっと以下のとおりだ。
「泰和(太和に通じる)4年の吉日に上質の鉄で七支刀を造った。
この刀は多くの敵兵を退ける力があり、侯王にふさわしい。未だこのような刀は百済にはなかった。
百済王・・・(中略)・・・倭王のために造り、後世に伝えられるように。」

これにより、この刀剣が中国・東晋の太和4年(369)に制作され、百済王から倭王に贈られたことが推測される。
「七支刀」は、日本の古代史のみならず当時の東アジア情勢を考えるうえでもきわめて貴重な史料なのだ。
この機会を見逃すなかれ!

並み居る敵を退ける七支刀のパワーを、あなたももらいに来ないか!!

第5室 展示風景
「七支刀」は、第五章 伝世の名品の中盤に展示されている。

カテゴリ:研究員のイチオシnews考古2013年度の特別展

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posted by 井上洋一(学芸企画課長) at 2013年04月23日 (火)

 

特集陳列「南九州の古墳文化」

平成24年度 文化庁考古資料相互活用促進事業(考古資料相互貸借事業)として、宮崎県立西都原考古博物館と当館所蔵の宮崎県・鹿児島県内で出土した考古資料で、独自性の高い南九州地方の古墳文化をご紹介します。(特集陳列「南九州の古墳文化」3月3日(日)まで)
考古資料相互貸借事業は、国立博物館所蔵の考古資料を地元の地方博物館所蔵品と交換・展示し、相互に広く公開する目的で平成10年度に始まり15年目を迎えました。

展示全景、展示室入口
(左)展示全景、(右)展示室入口

さて、九州地方は日本列島を構成する主な4つの大島のうち、南北約320km、東西約220kmの規模をもち本州西端に接する位置します。
いわゆる北九州地方と南九州地方は、ちょうど東京-名古屋間くらいの距離ですね。
九州北部(長崎・佐賀・福岡県)地方は、対馬海峡を挟んで北西約200kmに朝鮮半島と向かい合い、弥生時代以降は連綿として大陸の影響を受けてきました。新来の文化は主に日本海や瀬戸内海地方を経て、中国・近畿地方へ伝えられました。
対して、九州南部(鹿児島・宮崎県)地方は、南(太平洋)側に1000kmにおよぶ西南諸島(琉球列島)が連なり、北東側には遠く四国西南部を望んでいます。

これまで先史・原史(縄文・弥生~古墳)時代の九州南部地方のさまざまな交流が明らかにされてきています。
すでに縄文時代(後期)には、市来貝塚(鹿児島県いちき串木野市)を標識とする市来式土器が西南諸島(沖縄本島)に及んでおり、屋久島では大規模な集落も確認されています。
また、豊後水道を挟んで四国西南部(伊予・土佐)との交流もみられます。
一方、弥生時代(中期~後期)には四国北岸部の瀬戸内系土器が出土し、これらの模倣土器が作られることから、豊後水道を経た瀬戸内海との交流も深めていったようです。
やがて、後期後半には畿内系土器が出土するようになり注目されます。

古墳時代前期(3~4世紀)に、九州北部の瀬戸内沿岸部に畿内型古墳が出現しますが、大正年間の調査などで、中期(5世紀)に宮崎県西都原古墳群などで高い水準の古墳文化が成立していたことが知られていました。
近年、宮崎県・鹿児島県の地元自治体・大学の調査研究によって、九州南部にもいち早く古墳文化の定着が確認され、前期~中期には九州最大の前方後円墳が、次々と営まれていたことが明らかになっています。

概説パネル
南九州の古墳文化解説パネル

これまで古墳文化発祥の畿内地方から遠隔地であることや、地下式横穴墓と板石積(いたいしづみ)石棺墓などの特異な墓制の存在からその独自性が強調されてきました。しかし、最近では大規模な古墳群と地下式横穴墓の一体性も解明されつつあり、このような九州南部の独自性の高い古墳文化の位置づけは今後の課題です。
日本古代国家形成期の古墳時代において、どのような歴史的位置を占めるかは23日(土)に開催される特別講演会(シンポジウム形式)に譲るとしまして、ここでは本特集陳列の見どころをかいつまんでご紹介します。


まず、前半部は九州東南部地方の独自性の高い地下式横穴墓からの出土品です。
地下式横穴墓は、地表から掘下げた1~2mほどの「竪坑」の底から、横方向に設けた「玄室」を墓室としていることが特徴です。
古墳時代中期(5世紀)から終末期の7世紀初めまで、霧島山系の北麓盆地部(宮崎県えびの市など)から宮崎平野と鹿児島県志布志湾(肝属平野)周辺地域を中心に分布しています。
えびの市内だけでも1000基を超えると推定されていて、在地系の古墳として定着していたことがわかります。

しかし、宮崎平野や肝属平野では5世紀後半の前方後円墳とも重複する例が見つかっており、墳丘をもつ畿内古墳文化とも融合していた可能性が高まってきています。
さらに従来、出土品に中期(5世紀)の古墳文化を代表する鉄製帯金式甲冑や武器類が多いことが著しい特徴であることは知られていましたが、近年の発掘調査でますます増加し、やはり地方において最大の甲冑出土古墳の集中地域であることがはっきりしてきました。
逆に云えば、“見慣れない”構造の古墳でありながら、中身は近畿地方と遜色ない内容で、被葬者の社会的位置を暗示しています。

鉄製帯金式甲冑 (左:宮崎県六野原8号地下式横穴墓出土、右:宮崎県西都原4号地下式横穴墓出土他)
鉄製帯金式甲冑 (左:宮崎県西都原4号地下式横穴墓出土、右:宮崎県六野原8号地下式横穴墓出土、古墳時代・5世紀  宮崎県立西都原考古博物館蔵)

一方、同じ出土品でも、なかには他の地方ではみられない“特異な”遺物が含まれることも注目されてきました。
その代表は蛇行剣です。
蛇行剣は古墳時代中期から後期(5~6世紀)に全国で約70例が出土していますが、そのおよそ半数が地下式横穴墓出土品です。
ただ、とっても使いずらそうですので・・・(= 戦争の道具としては大変キケン!です)、まさに九州南部の古墳文化を象徴する存在といえます。

同様に、本来の武器の機能をわざわざ“損ねる”ような製品は、実は5世紀には近畿地方でも多様な形態が知られています。
今回、当時大陸の戦闘で主流であった最新の武器である鉄矛の「“変わり”矛」(蛇行鉄矛・刀形鉄矛など)も小特集(考古展示室)していますので、是非ご覧頂きたいと思います。


(左) 蛇行剣 宮崎県大萩31号地下式横穴墓出土 古墳時代・5世紀  宮崎・宮崎県立西都原考古博物館蔵
(右上)蛇行鉄矛 兵庫県加西市亀山古墳出土 古墳時代・5世紀 東京国立博物館蔵 平成館考古展示室にて展示中
(右下)鉄矛 香川県綾川町小野津頭出土 古墳時代・5世紀 東京国立博物館蔵(宮武喩・大澤伊三郎氏寄贈) 平成館考古展示室にて展示中


また、九州地方全体で出土する圭頭形鉄鏃や(うまく表現できないほど“変わった形”の・・・)異形鉄鏃も、九州東南部地方独特のカタチをもつことが特色です。
当時の(近畿地方でも流行っていた)“トレンド”を採り入れた九州南部バージョンといえます。
ほかにも、奄美大島以南の西南諸島でしか獲れない南海産貝(イモガイ)製釧なども他の地方には見られません。
弥生時代以来の西南諸島との伝統を背景にした九州南部地方の交流の足跡と、独自のファッションを窺わせるもので注目されます。

ちなみに、当時最新で貴重品の初期馬具も、畿内地方では(おそらく沢山あったに違いないのですが・・・)副葬品にはあまり選ばれていません。しかし、地下式横穴墓には(なぜか?・・・)たくさん副葬されています。
もしかして?・・・、イイものが手に入った(!?)ということで、即(!)永遠の眠りの伴侶にしてしまうような(“屈託”のない)おおらかさを感じるのは私だけでしょうか・・・。

鉄鏃と貝釧・鉄鐸・初期馬具 (左:宮崎県小木原7号地下式横穴墓出土他、右:宮崎県旭台6号地下式横穴墓出土他)


貝釧・鉄鐸・初期馬具(左上:宮崎県小木原7号地下式横穴墓出土他)と鉄鏃・土器(右上:宮崎県旭台6号地下式横穴墓出土他、左下:鹿児島県溝下古墳出土、右下:宮崎県西臼杵郡高千穂町大字田原出土他・土器は宮崎県西都市下三財古城出土)

次に、後半部に展示されている埴輪にも、重要な特徴が見られます。
古墳時代中期(5世紀)に西日本最大級の前方後円墳として出現する宮崎県西都原古墳群の男狭穂塚・女狭穂塚古墳(全長175・175m:実は岡山県を除けば西日本最大!です)とその周辺の古墳には、きわめて高い技術で製作された埴輪群が樹立されていたことは、古くから知られていました。

近年の宮崎県立西都原考古博物館の発掘調査によってその全貌が解明しつつあり、埴輪のほとんどが高い技術で製作される西日本でも稀な例であることがいよいよはっきりしてきました(他の古墳では通常、“地元の職人”が製作したと考えられる製品が混じっているのが普通です・・・)。
その典型が、戦後早く重要文化財に指定された子持家形埴輪と船形埴輪であることは誰しも認めるところとなっています。



(左)重要文化財 埴輪 船  宮崎県西都市三宅 西都原古墳群出土  古墳時代・5世紀(東京国立博物館蔵)
(右)
重要文化財 埴輪 子持家 宮崎県西都市三宅 西都原古墳群出土 古墳時代・5世紀(東京国立博物館蔵) 平成館考古展示室で展示


このようなある種の“文化的落差の混在”をギャップ?と感じてしまうのは、現代人の「古墳文化」に対するステレオタイプな考えに基づくものでしょう。
少なくとも、これらの古墳造りに参加した大半の人々は“地元”の人々と考えられますし、その指揮をしたのは(間違いなく・・・)西都原古墳群に集った首長たちとみられます。

むしろ、地下式横穴墓を代表とする独自性の高い古墳に眠る九州南部の人々が、ありのままの姿を見せてくれている“メッセージ”と考えた方が素直に理解できそうです。
そこには日本の古代国家成立期に各地方の畿内古墳文化への明確な主体性と、決して一方通行ではない地域間交流の多様な在り方があったことが如実に示されているようです。

このように、5世紀を中心とした九州南部地方には、独自の墓制の存在にもかかわらず近畿地方の最新の技術と製品が“投入”されている様子が明らかにされつつあります。
日本上代史にも登場する「日向・諸縣(もろあがたの)君」ら、南九州の首長達との関係があるのかどうか。 
あるとすれば、どのような「事情」なのか、その歴史的な評価はこれからです。

これらの地下の“メッセージ”から、当時の人々のダイナミックな活動振りに想いを馳せていただければ幸いです。
 

関連事業
特別講演会「南九州の古墳文化 ―日本古代国家成立と九州南部地域文化の展開―」
2013年2月23日(土) 13:00 ~ 16:15 平成館-大講堂

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<1089ブログ>特集陳列「南九州の古墳文化」特別講演会へのいざない

 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2013年02月22日 (金)

 

特集陳列「南九州の古墳文化」特別講演会へのいざない

今回の特集陳列「南九州の古墳文化」(平成館企画展示室、3月3日(日)まで)を記念して、2月23日(土)に開かれる特別講演会(シンポジウム形式)の司会・コーディネーターを務めることになりました横浜市歴史博物館長の鈴木靖民と申します。
専門は、日本と東アジアの古代史です。
 
企画展示室入口風景
企画展示室入口風景

「南九州の古墳文化」展は、平成24年度の文化庁考古資料相互活用促進事業(考古資料相互貸借事業)の一環として開催されています。
大正年間の発掘から著名な西都原古墳群に建設された宮崎県立西都原考古博物館の所蔵資料と東京国立博物館所蔵資料で、宮崎県と鹿児島県内から出土した豊富な考古資料が展示されており、大変見ごたえのある内容です。
これまで東京をはじめとする東日本では、あまり紹介されることがなかった南九州地方の特色ある古墳文化を知る絶好の機会といえます。

概説パネル
概説パネル

従来、8世紀の古代の南九州(主に宮崎県、鹿児島県)は、「隼人」とよばれた人々が住む、ほかの地方とは異なる自然環境にあり、稲作農業のない辺境であるとされてきました。
考古学では、古墳時代(3~7世紀)の多様な墓制の中でも、他の地方には見られない特異な地下式横穴墓や板石積(いたいしづみ)石棺墓、立石土坑墓という特殊な墓の存在が明らかにされ、その証拠だと考えられていた時代もありました。
しかし、地域は限られますが、古墳時代前期から大型の前方後円墳も出現し、最近では地下式横穴墓と併存する場合さえあることも明らかにされつつあり、注目を浴びています。

宮崎県地下式横穴墓出土遺物・西都原古墳群出土埴輪 全景
宮崎県西都原古墳群出土埴輪(左:東京国立博物館蔵)・同 地下式横穴墓出土遺物(右:宮崎県立西都原考古博物館蔵)

これをどう理解するか。
私が専門とする文献史学の立場からも、「隼人」が異民族ではなく、7世紀の天武朝期以後の大和の王権が作り上げた擬制的な集団に過ぎないという説が出されています。


そこで、今回は宮崎県と鹿児島県から第一線の考古学、文献史学の研究者を招き、一堂に会して、この地域独自の特色の実態を捉え直し、
そして、講演とディスカッションを通じて、南九州の地域社会の特色、大和や瀬戸内地方、北部九州との関係に迫り、日本古代の豊かな文化と歴史を究明したいと考えています。
 

特別講演会「南九州の古墳文化 ―日本古代国家成立と九州南部地域文化の展開―」
2013年2月23日(土)  13:00 ~ 16:15 平成館大講堂
当日先着380名 聴講無料(ただし当日の入館料が必要)

 

カテゴリ:news考古

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posted by 鈴木靖民(横浜市歴史博物館長) at 2013年02月17日 (日)