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特集陳列「本州最西端の弥生文化-響灘と山口・綾羅木郷遺跡-」の見どころ(魅ドコロ…) 2 -食べモノ事情編

現在、平成館考古展示室では昨年10月29日から本年3月9日まで平成25年度考古相互貸借事業として、特集陳列「本州最西端の弥生文化 -響灘と山口・綾羅木郷遺跡-」を開催しています。
会期は残すところひと月余りとなりましたが、もうご覧いただけましたでしょうか?

展示風景
展示風景

この特集陳列では、通常の発掘調査ではなかなか検出されることのない、食糧残滓をはじめとする動物や植物の遺存体を展示しています。これら有機質の資料は、弥生時代の食料(たべもの)を考える上でとても貴重ですが、残念ながら当館にはこれだけ豊富な有機質資料は所蔵されていません。
そこで今回は、綾羅木郷遺跡から出土した海の幸、山の幸、コメと木の実にスポットを当てて弥生時代の“食べモノ事情”についてご紹介いたします。


海の幸

綾羅木郷遺跡は山口県下関市に所在し、西には響灘に面し、南は関門海峡を経て周防灘へつながっています。
これまでの発掘調査によって、綾羅木郷遺跡では約600基もの貯蔵穴が検出されており、そうした貯蔵穴から魚骨や海獣骨など、当時の環境を反映した動物遺存体がたくさん出土しています。

出土動物骨
出土動物遺存体(1:ウニの棘  2:エイの尾棘  3:カニの脚爪 4:マダイ上顎骨 5:クジラの骨 6:硬骨魚下顎骨)

綾羅木郷遺跡では、マダイ、キチヌ、エイ、フエダイ科などの魚骨、ウニの棘やカニの脚爪、ヤマトシジミやハマグリ、サザエをはじめとする貝類、クジラやニホンアシカなどの海獣骨が出土しています。
マダイは深い岩場や砂底に生息し、キチヌは沿岸の浅い海の岩場や河口付近の汽水域を好むといわれています。フエダイはやはり沿岸部の岩場を好む魚です。響灘や綾羅木川河口付近でこうした魚を捕えていたと推測されます。
同じく遺跡から出土している骨製ヤスやクジラ骨製のアワビおこし、土錘や石錘などの漁撈具から考えると、当時は刺突漁、潜水漁、網猟などが活発であったことが窺えます。

骨角器
骨角器(2:アワビおこし、3:ヤス)

注目すべきは、クジラやニホンアシカなどの骨が検出されていることです。
特にクジラのような大きな動物を丸木舟で捕獲するのはとても危険で大変な作業であったにちがいありません。そのため、当時は浜辺に打ち上げられた漂着クジラを利用していたのではないかと推定されています。
いずれにせよ、綾羅木郷遺跡の弥生人は、内海だけではなく、時にはこうした大型の海獣を漁撈の対象として積極的に外海にも展開していた可能性があります。


山の幸
次に山の幸を見てみましょう。
綾羅木郷遺跡ではイノシシ、ニホンジカ、タヌキ、クマネズミ、モグラ類、ニホンザル、カモ類などが出土しています。特集陳列では、そのうちイノシシとニホンジカ、ニホンザルの骨を展示しています。いわば当時の弥生人の食べあとです。
これらの動物の多くは、現代でも里山周辺など、人間の生活環境で見かけることがあるように、当時も集落周辺に生息していたと考えられます。捕えた動物はその肉以外にも、毛皮、骨、角、牙など余すところなく生活道具の材料として利用されていたことが、出土した骨製のヤスやアワビおこし、縫い針などから窺えます。

出土動物骨
出土動物骨(1:ニホンジカの下顎骨  2:イノシシの上腕骨  3:ニホンザルの中手骨)

また、綾羅木郷遺跡からは小ぶりな打製石鏃が出土しています。明確な落とし穴は見つかっていませんが、イヌを使った追い込み猟や落とし穴猟が行われていたと考えられます。 
なお、こうした狩猟の場面を表すものに当館の銅鐸(伝香川県出土:国宝)があります。この銅鐸には袈裟襷文と呼ばれる文様区画の中に12場面の「絵画」が描かれていますが、その中にイヌを使ったイノシシ狩りや、人が弓に矢をつがえてシカを射ようとする場面があります。
綾羅木郷遺跡出土の動物骨は、この絵画に描かれた狩猟場面をよりリアルに伝えてくれる貴重な証拠ともいえるのではないでしょうか。

銅鐸の絵
国宝 銅鐸 伝香川県出土 弥生時代(中期)・前2~前1世紀 (2014年6月15日(日)まで平成館考古展示室にて展示)
左:イノシシ狩のようす 右:弓に矢をつがえてシカを狙う人物


炭化米と木の実

綾羅木郷遺跡では貯蔵穴からコメやムギなどの穀類、堅果類や果実の種などが出土しています。
炭化米は文字どおり炭化したコメです。地中に無酸素状態で埋没した結果、黒く変色したものや、焼け焦げたものを指します。綾羅木郷遺跡では貯蔵穴などから7,000粒を超える炭化米が検出されています。これらのコメは現在日本で一般的に食べられているお米と同じタイプのもの(ジャポニカ種)と推定されています。
また、間接的な証拠ですが、土器の底に籾痕がついた破片も見つかっています。土器作りの際に誤って籾が付着してしまったのでしょうか。

出土炭化米
左:炭化米 中:籾圧痕付土器(底部) 右:シイの実

ここで注意しなければならないことは、弥生時代の人々にとって、コメが日常的に食べられる食料であったかどうかです。ある研究の結果、弥生時代の一人が一日に口できるお米は前期で一勺(しゃく)程度、中期で六勺から一合程度、後期でも二合に至らないとする試算があります。
一勺は一合の10分の1、一升の100分の1という小さな単位です。もしこの数値が妥当であるならば、弥生時代の人々にとってコメはとても貴重な食料であり、毎食お腹いっぱい口にできるものではなかったと言わざるをえません。

植物食の出土遺跡数     弥生時代出土の穀物比率       
左:植物食の出土遺跡数 右:弥生時代出土の穀物比率
(森浩一編 1986 『日本の古代 4  縄文・弥生の生活』 中央公論社 ※寺沢薫論文より引用)


その一方で、縄文時代には身近であったどんぐりなどの木の実の利用はどうでしょうか。綾羅木郷遺跡でもスダジイ、マテバシイ、クリなどの木の実や、モモやウメなどの果実の種がたくさん出土しています。
今回はシイの実を展示しています。炭化していますが、形や大きさがよく分かります。
いわゆるどんぐりの中に、アク抜きなどの下ごしらえが必要なものもありますが、スダジイやマテバシイの実はアクが少なく利用しやすい木の実といえます。スダジイ、マテバシイは西日本の常緑照葉樹林にみられる木です。

どんぐり
左から、原生のスダジイ・マテバシイ・クリの実
(北川尚史監修・伊藤ふくお著 2007年 『どんぐりの図鑑』 トンボ出版より作成)



一般的に、弥生時代の食生活はコメを中心としたものと思われがちです。これはおそらく弥生文化が稲作に代表される農耕文化であるというイメージが強いからではないでしょうか。
ところが、ご覧いただいたように、弥生時代の人々はコメ以外のさまざまな食材も巧みに利用していたと考えられます。コメという魅力的でありながらも、天候や虫害などの影響で収穫量が不安定であった新来の作物の栽培を進めつつ、日々の生活では縄文時代以来の伝統的な食材をふんだんに利用していた食生活を窺うことができるのではないでしょうか。
炭化したコメやシイの実を見つめていると、当時の人々の巧みな知恵を感じることができるような気がします。


今回は綾羅木郷遺跡出土の有機物を中心に“食べモノ事情”についてご紹介しました。
綾羅木郷遺跡の弥生人は、コメ作りという一年を通じた農作業の中に、狩猟・漁撈・採集といった縄文時代からつづく伝統的な営みを巧みに取り込んでいたと考えられます。
展示されている綾羅木郷遺跡出土の動植物の遺存体を通じて、皆様に弥生時代の人々のくらしをお考えいただく機会になれば幸いです。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 井出浩正(考古室) at 2014年01月31日 (金)

 

特集陳列「本州最西端の弥生文化-響灘と山口・綾羅木郷遺跡-」の見どころ(魅ドコロ…) 1

現在開催中の特集陳列「本州最西端の弥生文化-響灘と山口・綾羅木郷遺跡-」(2013年10月29日(火)~2014年3月9日(日)、平成館考古展示室)の展示の構成と見どころをご紹介します。
  
展示風景と館内サイン

館内サイン
展示風景(冒頭から)・館内案内サイン

今回の展示は、本州最西端に位置する響灘沿岸の山口県下関市・綾羅木郷遺跡が舞台です。
弥生時代前期を中心として、2~3重の環濠に囲まれた大規模な集落遺跡で、南北を梶栗川と綾羅木川の沖積地に挟まれた台地上に拡がっています。

明治時代から知られた遺跡でしたが、九州北西部地方の前期弥生文化と同様な大型袋状土坑が約1000基近くも発見されたことでも注目されました。
1956年以降に度重なる発掘調査が行われ、1969年の遺跡破壊事件をきっかけに国の史跡に指定されました。
事態を重くみた文化庁がわずか4日間(休日を挟む…)で史跡指定の手続きを完了するという、ドラマチックな経緯で保存された遺跡としても有名です。
市民の保存運動や調査研究・行政担当者など、多くの関係者の努力によって守られた遺跡です。

1995年にオープンした下関市立考古博物館は、このような経緯で生まれた我が国を代表するサイトミュージアム(史跡博物館)の一つです。
本特集陳列は平成25年度文化庁考古資料相互活用事業によって、同博物館所蔵の出土品で特色ある綾羅木郷遺跡の弥生文化をご紹介するものです。

左)綾羅木郷遺跡 遺構分布図(西部:石仏・岡地区)、右)下関市立考古博物館 入口外観 下関市立考古博物館 入口外観
綾羅木郷遺跡 遺構分布図(西部:石仏・岡地区)、右下関市立考古博物館 入口外観

約1万2千年以前から約1万年ほど続いた縄文文化は、南北に長く連なる日本列島の四季とそれぞれの土地柄を活かした日本列島独自の新石器文化でした。
地方毎に、実に多様な生活が展開していたと考えられています。

一方、弥生時代は日本列島で本格的な農耕文化が根づいた時代です。
稲作を中心とする農耕技術が朝鮮半島を経てもたらされ、人々が一年の相当な期間、特定の土地(水田や畑)で農作業に従事することが必要となりました。
日々の生活がそれまでに経験したことがないリズム…に大きく転換し、人々の生活全体が激しく変化した時代といえます。

中学や高校の教科書にも必ず登場する一般的な弥生時代像は、静岡県登呂遺跡や畿内地方の大集落遺跡など、中期~後期の遺跡から復原された景観がほとんどです。
安定した時代は、規模も資料も多くイメージし易いものですが、このような時代の転換期に人々はどのように立ち向かい、また激しい生活の変化を受け入れていったのでしょうか?
そこには人々が農耕を始めるにあたって、多くの試行錯誤やさまざまな葛藤があったのに違いありません。


今回の展示は、激動の弥生時代前期の綾羅木郷遺跡の人々の生活ぶりを中心に、つぎのような大きく2つの部分[1・2+3]と、4つのコーナー[(1)~(4)]で構成しています。

1、響灘の弥生文化(ガイダンス)
2、綾羅木郷遺跡の交流と展開 
    1)綾羅木I式土器(前期後半)
    2)綾羅木II式土器(前期後半)と、(1)弥生農耕・(2)狩猟漁撈(生業具)
    3)綾羅木III式土器(前期末 )と、(3)海の幸(海産物)
    4)綾羅木IV式土器(中期初頭)と、(4)山の幸(陸産物)
3、信仰と生活

響灘の弥生文化
1響灘の弥生文化[後列:甕・壺(綾羅木III式土器)、前列左:土笛、同中:武器形磨製石器、同右:装身具(玉類)]
土笛

1は、ガイダンス部分で、綾羅木郷遺跡の象徴する部分(エッセンス…)を集めたコーナーです。
遺跡がもっとも拡大・発展した時期の綾羅木III式土器(壺・甕)と、響灘から日本海側沿岸の弥生文化に特有な土笛、西日本の前期弥生文化に特徴的な武器形磨製石器と、特異な石材の玉類(装身具)を展示しています。
土器がもっとも大型化した(雄大な…)姿が印象的です。

次の2では、綾羅木郷遺跡の集落の展開を、時期ごとに展示しています。
まず、1)は集落が形成しはじめる綾羅木I式土器です。
九州北西部地方のいわゆる遠賀川式土器(弥生時代前期)とよく似た土器も多く、文化の共通性が高いことがわかります(しかしすでに多くの壺には文様が…)。
2)は、壺の文様が美しい綾羅木II式土器で、この地方独特のスタイルが確立しつつあることが窺われます。貝殻を使って描いた綾杉文や山形重弧文を中心とした文様のバラエティがなかなかオシャレな感じですね。

綾羅木郷遺跡の交流と展開 
2綾羅木郷遺跡の交流と展開[左:綾羅木I式土器(壺・鉢・台付鉢)、右:綾羅木III式土器(壺・無頸壺・甕・鉢・蓋・無文土器)]

さらに、もっとも集落が発達した3)の綾羅木III式期では、土器が多様化し、主要な器種は大型化して、壺形土器の独特なソロバン玉形の形態が目を惹きます。
もちろん、文様はさらに発達して密に施されています。

ところが、4)の綾羅木IV式土器では文様がほとんど失われ、器種も減少して大きさも小ぶりになってしまいます。
そして、なぜか集落も衰えて消滅してゆきますが、この急速な変化の謎については、機会を改めて考えてみたいと思います。

    

綾羅木式土器 文様コレクション[上左・上中:I式、上右下左:I式、下中下右:I式]
それぞれどの土器か、是非探してみてください


次に、(これらの土器群の間に・・・)綾羅木郷人の生活ぶりを4つのコーナーに分けて展示しています。
(1)・(2)は、農耕やその他の食料獲得に用いた道具と収穫物を展示し、綾羅木郷遺跡の農耕とその他の生業活動の特徴をご覧いただきます。

(1)の石包丁は、東アジアの初期農耕文化に共通の収穫具で、炭化米・籾の圧痕なども稲作農耕社会の成立を感じさせるものです。ところが、炭化物にはシイの実(?!…)が含まれることが注目されます。
一方、(2)石鏃・ヤスは鳥類や小動物を捕らえていたことを示しています。また、土錘・アワビオコシは魚類だけでなく、浅海に生息する魚介類も盛んに獲っていたことが判ります。

しかし・・・そういえばこのような道具は、縄文文化にポピュラーな道具として知られているものを多く含んでいます。
ひょっとして、縄文文化とのつながりはどうなのでしょうか?。

  


上:(1)稲作農耕[左:石包丁、中・右:炭化物(米粒・シイの実)、奥:籾圧痕土器(壺底部)]、
下:(2)収穫具と漁撈具[打製石器(1石鎌
2石鏃)と漁撈具(1土錘2アワビオコシ3ヤス)]

また、次の(3)・(4)に見られる綾羅木郷の人々が食べた動物の骨など(いわゆる食べカスですが…)は、実に多様(で縄文的?)です。
イノシシにシカ・サル、ウニ・カニ・アワビやマダイにクジラなどなど、まさに「海の幸・山の幸(!)」をふんだんに利用している人々の姿が浮かび上がってきます(ずいぶんとグルメですね…)。

実は、同様な食料そのものや収穫具・狩猟漁撈具を出土する遺跡は、弥生時代前期の西日本には広く分布していることに注意する必要があります。
とくに、九州南部から瀬戸内・日本海側や東海地方には貝塚も多くみられます。

なかでも、(2)の石鎌は九州から東海地方に分布する弥生文化に特有な道具ですが、そのうちの約8割が九州北岸部、それも響灘沿岸部に集中しています。
石包丁は主に稲などの穀物の収穫具ですので…、そのほかの雑穀を収穫する道具とも考えられています。
もしかすると、稲作で学んだ新しい生活のサイクルを応用して、新しい植物栽培に挑戦していたのかもしれません。


このように綾羅木郷遺跡は海・山の資源を積極的に利用し、さらに稲作以外の農耕も行なっていた弥生文化の中心でもあったようです。
大陸からの渡来人の“仕業”とは思えない活動ぶりで、綾羅木郷弥生人のルーツをうかがわせるものと言えそうです。

そのもう一つの“証拠”は、次の「3.信仰と生活」で展示しているスタンダードな「弥生文化の道具(鉄器・磨製石器・紡織具など)」に混じるさまざまな“見慣れない”道具でしょう。
 
信仰と生活(石製工具・鉄製工具・紡織具・玉砥石・シンボル石など)
3信仰と生活(石製工具・鉄製工具・紡織具・玉砥石・シンボル石など)

その意味は、稲作が日本列島でもっとも早く定着したことで知られる九州西北部(玄界灘沿岸)地方にはない「土笛」の存在とも併せて、改めて考えてみたいと思います。


ところで(その前に…)、
綾羅木郷遺跡が多くの関係者の努力によって、遺跡の内容が明らかにされ保存されたことは、冒頭でご紹介しました。
このたび、発掘当初から発掘調査・研究と保存活動の中心的な役割を果たされたお二人の先生にお話を伺う特別講演会を予定しています。
金関先生は戦後の弥生時代研究を常にリードされてきた研究者としても著名ですね。

綾羅木郷遺跡の(歴史的意義も含めて)“全貌”をわかりやすくご紹介して頂く内容になると思います。
まずは、発掘調査担当者のお話(=マサに第1次資料!ですね)をじっくりお聴きする貴重な機会ですので、是非ご来場ください。


東京国立博物館・日本考古学会共催特別講演会
日時 2013年12月14日(土)13:30~15:00(一般公開・入場無料)
会場 東京国立博物館 平成館大講堂
講師 元下関市教育委員会 文化課主幹 伊東照雄氏
大阪府立弥生文化博物館 名誉館長 金関 恕氏 
演題 (講演・対談)「山口県綾羅木郷遺跡の保存と活用 -弥生時代前期における歴史的意義を巡って-」

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2013年12月11日 (水)

 

特集陳列「うつす・つくる・のこす」のみどころ(2)

10月20日(日)まで開かれている特集陳列「うつす・つくる・のこす -近代・現代の考古資料の記録-」のみどころをご紹介します。

先日(10月1日、8日)の列品解説では(“選手交代”しつつ)2回にわたって、本展示の軸をなす絵画・復原図などを中心に、作品・作家にまつわるエピソードやその時代背景などをお話しました。
2回目では、展示の全体構成が前半の収蔵資料の保存(「うつす・つくる→のこす」)に努力した段階から、後半の収蔵資料を研究する段階への変化を踏まえていることもご紹介しました。

展示風景
展示室風景:(左)北側ケース全景、(右)南側ケース全景

これは前回のブログで、明治・大正期(展示室北側)の「現状の把握」段階から、昭和初期(展示室南側)の「過去の復原」段階として紹介された内容とも対応するものです。
それは、1882(明治15)年に開館したJ.コンドルのレンガ造りの旧本館と、関東大震災(1923年)を契機に再建された復興本館(現在の本館)の展示構成に表れていたと考えられます。

本特集陳列の展示品は、私たちからは想像しにくい(=忘れかけている?)このような明治・大正期から昭和初期のドラスティックな変化を物語る、いわば貴重な“証言者”でもあるといえます。
今回はこれまでご紹介してきた以外にも、時代毎の我々日本人の過去や祖先に対する考え方(姿勢?)を実感させてくれる展示品をご紹介したいと思います。

まず、展示室真ん中にある(背中合わせになった)のぞき込むスタイルのケースに注目して頂きましょう。
中央展示ケース
中央展示ケース北側:(左)模造 土偶・土面、(中) 『人種文様』(右)平福陶棺(考古展示室) 岡山県平福出土

北側ケース左の模造土偶・土面は、明治から大正年間に古物収集家としても活躍した在野の研究者(作家の江見水蔭や図案家の杉山寿榮男ら)のコレクションを模造したものです。
また、ケース右の画集は明治・大正期に数多くの考古遺物の記録を残した大野雲外による陶棺の立体文様のスケッチです。

どこか素朴な“風合い”は、展示構成の前半の油絵や石版画・雑誌挿図などともあい通じる特徴で、この時代の過去や祖先に対するイメージからくるようです。
ちなみに、この陶棺文様は(以前もブログでご紹介した)大正期から戦後にかけて活躍し、1920年代から古代日本文化の独自性を説いた和辻哲郎が奈良時代以前の文化に眼を向けるきっかけとなったものです。ひょっとして、このスケッチ集を参照したことが壮大な古代日本文化論の契機となったのかもしれません。
なお、実物の陶棺は、現在平成館の考古展示室(飛鳥時代の古墳・古墳時代V)で展示中ですので、是非見比べて頂ければと思います。


続いて反対側に廻って、南側ケースをご覧ください。
なにやら“同じようなもの”がたくさん並んでいますが・・・。
展示ケース
中央展示ケース南側:(左)杏葉・模造 杏葉(2 木製・3 石膏製)  、(右)有柄鉄斧・模造 有柄鉄斧(2 木製)

いずれも保存処理された古墳時代の実物資料と、大正年間に製作された現状模造品を比較しています。
新素材であった石膏や、明治・大正年間に盛んに製作された正倉院宝物の木製模造品などの技術を用いて製作されたものです。
保存処理技術が確立されていなかった当時、日々銹化によって変形したり、なかには崩壊してしまう金属製品の姿をどうにか記録・保存しようとする必死の努力が窺われます。

さらに進んで、その左側には古墳時代の金槌を展示しています。
鉄鎚・模造 鉄槌(木製・鉄製)
中央展示ケース南側: 鉄鎚・模造 鉄槌(4 木製・5 鉄製)

最初は同じく保存処理された実物資料で、2番目が大正年間に製作された復原模造品ですが、木製であることが特徴です。
いわゆるトンカチの先端がめくれ上がった部分も忠実(リアル)に再現しています。しかし、金槌の重量感や表面の質感にはほど遠く、(かなり)“イマイチ”な印象です・・・。
おそらく当時の担当者(研究員)もそのように感じた(?)のか、昭和になって3番目の鉄製の復原模造品を新たに製作しています。

鉄素材で鍛冶工房に依頼しての製作にあたっては、実物の製作手順や微細な形態の仕上がりなどを何度も試行錯誤しながら繰り返し検証作業があったことは容易に想像できます。
いわば実験考古学の“はしり”(先駆け)といえるもので、資料の構造・形態や特徴・製作技術に関するさまざまな情報を得ることができたはずです。

このような経験を経て製作されたのが、隣の独立ケースに展示してある美しい眉庇付冑とその復原模造品です。
眉庇付冑・復原模造 眉庇付冑(鉄・金銅製)
独立展示ケース:(左)眉庇付冑・()復原模造 眉庇付冑(鉄・金銅製)

ウリ二つの形状だけではなく、黒光りした鉄の肌合いや金銅の輝きなど、実物資料以上に(?)にリアルな質感は、このような資料の詳細な観察に基づいた(すべての活用・公開の基盤ですが・・・)研究を踏まえた点にあった訳です。
このような視点で、後半の南側壁付ケースの復原図と復原模造品を比較した構成をご覧頂ければ・・・、その意味はすでにお判り頂けたことと思います。

短甲・冠・復原模造 短甲・冠・短甲着用男子・上代男子図
南側壁付展示ケース:(左)短甲・冠・復原模造 短甲・冠・短甲着用男子・上代男子図(右)全景

そう、リアルな質感(景観)が実現された“秘密”は、前回のブログでも紹介された研究者と絵画・工芸作家との間に行われた同様なプロセスが背景にあったことは、すでにお気づきの通りです。
これらの鉄製甲冑や金銅製冠の復原模造品や、武装男子図や女子図などの復原図は、実物資料の詳細な観察を経て得られた研究成果を踏まえて製作(制作)されたからこその造形・表現といえます。
金銅製冠の実物も、やはり平成館考古展示室(王者の装い)で展示中ですので、是非ご覧ください。


このようないわば科学的な精神(姿勢)は、どこからもたらされたものでしょうか?
そこには深い理由があったはずです。

先日の列品解説(10月8日)では、1910~20年代に紹介されたヨーロッパの研究方法(型式学)の影響で、急速に日本考古学の研究方法が整備され、研究が進展したことをご紹介しました。
遺跡・遺物の新古が整理され、 “先住民族”への関心(民族論)などが中心であった過去に対するイメージが急速に薄れてゆき、ストイックな1930年代の縄文土器・弥生土器や前方後円墳・甲冑などの編年研究の急速な確立には、このような背景があったとみられます。

南側壁つき展示ケース全景
展示室全景:(左)北側壁付ケース、(右)南側壁付ケース

その結果、遺物の形態や構造はもちろんその用途をはじめ、装身具・武具においては着装形態までも、リアルに追求されるようになりました。
まさに「うつす・つくる・のこす」といった明治・大正年間の現状の維持・保存の活動は、過去の人間(祖先)への深い愛着と理解に基づいた文化財の保護の過程そのものであったといえます。

これに対し、復原模造や復原図の制作・製作といった昭和初期に始まる過去の復原の活動は、考古資料の意義の追求・究明に向けた.本格的な研究と活用のはじまりということができるのではないでしょうか。
もちろん、現状の把握(維持・保存)があったからこそ、過去の復原(再現・究明)という段階に進むことが出来たことは言うまでもありません。

このような急速な変化は、とくに考古資料の絵画や模造品の表現や造形の「差」に表れており、それを具体的に辿ることができることが博物館資料の重要な点です。
今回の展示を通して、近現代における日本人の過去(祖先)に対するイメージの転換を肌で感じ取って頂ければ幸いです。

 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2013年10月12日 (土)

 

考古学者に挑戦!

10月5日、雨にも負けず平成館に子どもたちが集結、これから考古学者に挑戦するというので密着です。
挑戦を受けてたつのは、トーハクの品川研究員と井出研究員のふたり。正真正銘の考古学者です。
子どもたちに考古学者体験をして楽しく学んでもらおうと意気込んでいました。

まず考古学者体験に挑んだのは小学校1~4年生のちびっこ考古学者。
毎日の生活で使っている食器やお鍋などをみて、その役割をあてるゲーム。
お鍋は煮炊きに使います。お皿には食べものをもりつけます。飲み物を飲むためにはやかんやコップが必要ですね。
役割にあわせて、いろいろな形の食器を使い分けているんです。これって当たり前だけど、とっても大切なポイント。

トーハクくんも一緒に挑戦!
トーハクくんも一緒に挑戦!

縄文時代も役割によって食器を使い分けていたのかな?
ということで、縄文時代の食器である土器のシルエットシールを使って、土器の役割をあてる2つめゲーム開始。
シルエット、大きさや色ではなく形だけで役割を予想します。
「なんだろう、これ」「わからないよ」という言葉も聞こえてきますが、みんな制限時間いっぱい一生懸命考えました。
答え合せはせっかくなので平成館考古展示室で!
まずはシルエットシールのモデルになった土器を探します。本日3つめのゲームです。
探し当てた土器をみんなで観察、2つめのゲームの答え合せをかねて、その役割を品川研究員、井出研究員が教えてくれます。

シルエット探し
ほんものは意外に大きい!思ったよりもようがいっぱい! ユリノキちゃんも応援してくれていました。

観察していてみんなが気になったのは土器のもよう。
最後はどんな道具でもようをつけたのか、粘土板を使って考えるゲーム。
自分で「これ!」と思った道具を使って、ほんものの土器のもようを粘土板で再現したら、ほんものの土器をもう一度観察。
「あれ、違うかも。貝じゃなくて竹かなぁ」
思ったようにいかなかった子どもたちは、すぐさまやり直しにいきます。すごい根気と集中力!
何度も観察して考えて、時にはみんなで相談して、正解がわかったときの表情はまるで、新知見を得た考古学者です。
学んだ成果をニコニコしながらお父さん、お母さんに教えてあげる姿は頼もしくもありました。


粘土
じっくり見て、しっかり考えてみるといろんなことに気づくはず。

続いて午後は小学校5年生から中学2年生の考古学者のタマゴたちの挑戦です。
タマゴたちは考古学者の仕事を勉強したあと、土器片の拓本に挑みます。
まずは品川研究員、井出研究員のデモンストレーションをじっくりみてコツを伝授されます。


拓本デモ
井出研究員もタマゴたちも真剣。トーハクくん、邪魔しちゃいけませんよ。

さっそくそれぞれ拓本に挑戦。
拓本という言葉すら聞いたことがない彼らにとっては緊張する体験だったでしょう。
「拓本だと、写真でみるよりももようがよく見える」という驚きもあったようです。
みんな無事に拓本が完成しました。

頑張ってつくったはじめての拓本
なれない作業に四苦八苦。土器片と考古学者のタマゴがとった、はじめての拓本です。


最後に展示室でほんものの土器を観察。
拓本体験をした直後だからでしょうか、みんなもように夢中です。
かたちや大きさ、色などの変化についての解説を聞き、もようだけでない土器の魅力を楽しみました。
ちびっこ考古学者のみなさんも、もう少し大きくなったら、今度はこちらに挑戦しましょう!




考古学者体験に挑戦し、考古学者とふれあい、土器と向き合ってたくさんのことを学んだ子どもたち。
考古学者になりたい!という夢を大きく大きく育ててください。
いつかみんなの夢が叶いますように。

集合写真
ちびっこ考古学者と考古学者のタマゴたち。ユリノキちゃんとトーハク君もちゃっかり…



カテゴリ:教育普及考古

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posted by 川岸瀬里(教育普及室) at 2013年10月08日 (火)

 

考古学と美術の出会い「特集陳列 うつす・つくる・のこす」のみどころ(1)

10月20日(日)まで本館2階特別2室で開催中の特集陳列「うつす・つくる・のこす-日本近代における考古資料の記録-」のみどころをご紹介します。
今回の特集陳列では、考古学と美術の出会いとも言える、考古学のために描かれた絵画作品を多く展示しています。

まず、皆様をお迎えするのは、大正時代に活躍した洋画家・長原孝太郎や二世五姓田芳柳が描いた大きな油絵です。
 
展示風景
現状の把握コーナー(遺跡を描いた油画と、関連する考古資料や写真を展示しています。)

これらの絵画は考古陳列室に展示するために、帝室博物館(昔のトーハク)から画家へ制作が依頼されました。本作に求められていたのは、遺跡の現状を伝えて理解を助ける、現代でいうところの展示パネルの役割でした。
ケース右手前の《貝塚図》では、土器片が非常に丁寧に描かれていることが眼をひきます。長原は初代東京人類学会会長の神田孝平のもとで古物の整理をしていた経験から、実際に縄文土器をよくみる機会があったのかもしれません。

細部に注目してみると、作品には画家の遊び心がちょっと顔をのぞかせています。
《貝塚図》のサインは土器片に装飾的に組み込まれています。絵画の手前には、モチーフとなった陸平貝塚から実際に出土した土器片も展示していますので併せてご覧ください。
大正時代の考古展示も、こんな風に行われていたのかも知れませんね。

長原孝太郎筆 貝塚図
貝塚図(部分) 長原孝太郎筆 大正5年(1916)頃 現地=茨城県美浦村土浦字陸平 陸平貝塚 東京国立博物館蔵

奥へ進んで、ケースの左端には《群集横穴図》を展示しています。
モチーフとなった吉見百穴は、古墳時代後期から終末期(6~7世紀)に造られた横穴墓群です。明治時代初期には先住民とされた土蜘蛛の住居跡とも考えられ、いわゆる「穴居論争」の舞台になりました。

右下には、横穴の入り口部分が別窓で説明的に描かれていますね。一枚の絵画として鑑賞しようとすると、この入り口の部分が唐突に見えてしまいますが、考古学の展示解説のパネルとしては、十分にその機能を果たしていたことでしょう。
しかも、この入り口部分はもっとも気合いを入れて(?)描かれていて、サインもこの部分にあります。そこだけ切り取ってみると、立派な秋の風景画(!)です。

二世五姓田の義理の兄・五姓田義松も明治11年(1878年)にH・V・シーボルトと吉見百穴を訪れて絵を描いたそうですが、その絵はまだ見つかっておりません。義松の百穴図はどんな絵だったのか、ぜひ見てみたいものです。
 

二世五姓田芳柳 筆 群集横穴図
左:群集横穴図 二世 五姓田芳柳筆 大正2年(1913)頃 現地=埼玉県比企郡吉見町北吉見 吉見横穴 東京国立博物館蔵
右:群集横穴図(部分)


次に、対面する壁付ケースは、重要文化財の武人埴輪から始まります。
吉見百穴の発掘にも関わった埼玉県の素封家・根岸武香の旧蔵品で、有名な埴輪のために絵画資料もたくさんあります。本展覧会では、お雇い外国人のW・ゴーランドの著書に登場する図を併せてご覧いただきます。
外国の方が描くとちょっと外国人風…です。

こちらのケースでは、昭和初期の杉山寿栄男による色鮮やかな復原図の掛け軸を中心に、出土遺物をもとに復原された模造品を展示しています。
 
過去の復元コーナー
過去の復元コーナー(装身具や武具を身に着けた様子がよくわかる人物埴輪と復原模造品、復原図を展示しています。)

さて、進んで中央の昭和初期に制作された2幅の男子像などは、現代的なデザイン画を連想させますね。それは作者がデザインの教育を受けて、印刷業界で活躍された方だからでしょう。
これらの絵画作品の特長は、当館所蔵の考古遺物がそれとわかるようにしっかりと描かれていることです。きっと当時の研究員と繰り返し相談しながら描いたことでしょう。

たとえば、憂いを含んだ瞳が印象的な《上古時代女子図》の女性の耳には、当館所蔵の埴輪と同じかたちの耳飾りが描かれています。額(ひたい)の櫛の使い方は絵画の方がずっとわかりやすいですね。
これらの絵画作品と実際の考古遺物や模造品は一緒に展示していますので、両方を見比べて杉山の視点をぜひ実感してみてください。

杉山寿栄男筆 上古時代女子図 と 埴輪      
左:上古時代女子図(部分) 杉山寿栄男筆  昭和5年(1930)頃 東京国立博物館蔵
右:埴輪 腰に鈴鏡をつける女子
(部分)  群馬県伊勢崎市下触町出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵

当館の所蔵するこれらの考古学に関する絵画作品を見ていくと、明治・大正時代は「現状の把握」が第一義で、遺物や遺跡をありのままに「うつす」ことが求められたようです。
次の昭和初期には、「うつす」だけでなく考古学者と造形作家が一緒に展示品を「つくり」、「過去の復元」に努めていった様子がわかります。

また会場中央の覗き込みケースや行燈ケースには、遺物を発掘された状態のままにうつす「現状模造」や、遺物が造られた当時の状態を再現する「復原模造」などを実物と比較して展示しています。これらは、仕様や素材をさまざまに変えながら、考古学者と工芸作家が工夫を重ねた模造品の数々です。こちらもぜひご覧ください。

今回展示する作品は、近代の日本における考古資料の記録であるだけでなく、文化財を後世に遺(のこ)し伝えていくために、博物館の考古学者と造形作家が協働してきた証でもあります。
それはまた、写真と油画の関係や、古物収集家と美術の関係など、日本美術の研究においても多様な広がりを含んでいます。
それぞれの立場から、さまざまな読み取り方をしていただければ幸いです。

ところで、今回の展示の油彩画3点の修理には、館内設置の募金箱にお寄せいただいたご芳志を使用させていただきました。
ご協力くださいました皆様には、心より御礼申しあげます。
このような今回の展示の準備を通じて、文化財を「のこす」活動はご来館くださる皆様によって支えられているということを感じさせられました。

140年の歴史のあるトーハクで多くの方に支えられて守られてきたこれらの作品を、皆様もぜひ実際にご覧ください。
ご来場を心よりお待ちしております。

10月1日(火)(14:00~14:30)は会場で列品解説を行います。どうぞお運びください。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 鈴木希帆(登録室) at 2013年09月23日 (月)