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1089ブログ

特集 おひなさまと日本の人形

着物を着かえて 帯しめて
今日は私も 晴れ姿
春の弥生の このよき日
なにより嬉しい ひな祭り


都内は寒さ厳しい日々が続いておりますが、トーハクでは一足早く恒例の特集「おひなさまと日本の人形」(本館14室、~2019年3月17日(日))が始まりました。
おひなさまやその御道具を眺める心地は、華やかで楽しいものですが、トーハクでお人形を担当する私としては、毎年展示に苦労する季節でもあります。

企画展示の陳列作業は、だいたい午前中に撤収があり、午後から新しい展示の陳列作業が行われます。
こまごました人形や御道具は、どれも一つ一つ丁寧に包んで収蔵庫に納められていますが、午後の1時から陳列をはじめて、休憩を入れつつ5時には空箱の返却も含め全ての作業が終了していなければなりません。
とても壊れやすい作品を安全に扱いつつ、時間内に終えることができるのか・・・。陳列に携わるスタッフ一同の大変な思いは、おひなさまを展示している全国の美術館・博物館において、担当者共通の思いでしょう。

さて、こうして出来上がった今年の展示は、江戸を代表する金物商であった三谷家(みたにけ)伝来の雛飾りを中心として、御所人形の名品も一堂に集めました。
三谷家の雛飾りの中心は、豪華な御殿に収められた雛人形。牙首雛(げくびびな)というもので、頭部をはじめ、手足など肌を表す部分を象牙で作っています。全国的にも類例が少ないなかで、特にその代表作と言える貴重なお人形です。


牙首雛(内裏雛) 江戸時代・嘉永3年(1850)頃 三谷てい氏寄贈


この牙首雛の表情は雛人形には珍しいほど個性的。特に仕丁(しちょう)という役目で庭を掃除しているお爺さんは、顔のシワや手の指の節だった様子などが、わずか身長10センチ程のなかで精緻に表現されており、驚異的とも言える出来映えです。


牙首雛(仕丁) 江戸時代・嘉永3年(1850)頃 三谷てい氏寄贈


お雛さまの御殿は、京都御所の正殿である紫宸殿(ししんでん)に倣った造り。
正面の軒下には「紫震殿」の額が掲げられています(「震」の字を使ったのは天皇の住まいを指す「宸」の字に遠慮したからでしょうか)。


紫宸殿(雛用御殿) 江戸時代・嘉永3年(1850)頃 三谷てい氏寄贈


江戸時代、京都を中心に関西地方ではこうした紫宸殿に倣う雛御殿が飾られていましたが、江戸の地においては、飾ること自体遠慮されるものだったようです。
それというのも、高価な雛道具が競って作られた江戸後期、安永八年(1779年)に日本橋の十軒店(じっけんだな)に店を開いて以来、江戸一番の売れっ子職人だった初代・原舟月(はら しゅうげつ)は見せしめの意味もあったのか捕らえられ、江戸の地から追放されます。
その時の罪状の一つが紫宸殿に倣った御殿を作ったのが不敬にあたるというものでした。
本質的には関西の雛御殿に倣った飾りを江戸でも売り出したというだけの話で、全くの言い掛かりですが、その後江戸では紫宸殿型の雛御殿は見られないようになります。
しかし、三谷家の雛飾りにあっては、堂々と御殿に「紫震殿」と掲げられています。そこには三谷家の持った社会的力の強さが表れているのではないでしょうか。

展示室中央の独立ケースには、三谷家伝来の紫檀象牙細工蒔絵雛道具(したんぞうげざいくまきえひなどうぐ)を展示しています。高価な材料を駆使して緻密に造り上げた作品であり、トーハクの雛人形コレクションを代表する雛道具です。


紫檀象牙細工蒔絵雛道具 江戸時代・嘉永3年(1850)頃 三谷てい氏寄贈


金物を表す部分は象牙で出来ているのですが、長持の四隅の部分など、丸みのある形に添うようピシッと収められており、さすがの出来映えと感心します。
今回は箪笥の扉を開いた状態で展示しましたので、中の引き出しに施された蒔絵にもご注目ください。そこには婚礼を象徴するは蝶々が舞い遊ぶという華やかさで、粋な遊び心を見ることができます。

また今回は、日本の人形文化を代表する作品として、御所人形(ごしょにんぎょう)を展示しました。
御所人形は京都の御所を中心として、公家(くげ)や大名家(だいみょうけ)などの間で好まれた人形です。宮中では、ご下賜(かし)をはじめとした贈答に用いられたため、お土産人形とも呼ばれています。まるまると肥えた男の幼児を表しており、胡粉(ごふん)を塗って作られた肌は白く艶やかに輝いています。
枕草子に「ちごどもなどは、肥えたるよし」とあるように、健康的に育つ赤ん坊の姿はめでたさに溢れています。こうした吉祥性を高めるため、御所人形にはさまざまな意味を持つ見立てが行われました。
その代表が能の見立てで、今回は「羽衣」に取材した天女の姿と思われる御所人形と、「鶴亀」の御所人形を展示しています。
どちらも高さが70センチ程もある超大型のお人形で、大名家の雛飾りなどでも、こうした人形が活躍しました。


御所人形 見立て鶴亀 江戸時代・19世紀
※この写真はトーハクにある九条館の床の間で撮影したものです。


「鶴亀」は、春を迎えた唐の宮廷で、皇帝の長寿を祈って鶴と亀が舞い踊り、これに感じ入った帝も踊りだすというお目出度い演目です。
見立て鶴亀の御所人形は、手足を動かしてポーズをとらせることが出来るので、今回の展示では、実際に踊っているような姿にしましたのでご注目ください。

日本は諸外国では全く例を見ないほど、人形制作を芸術に高める文化が発達しました。
本来子供の遊び相手である人形の制作に大変な手間隙をかけ、気品高く可愛さを表現してきた歴史は、今日国際的にも用いられる「カワイイ」という美的価値観の源流をなすものでしょう。
おひなさま巡りが盛んとなるこれからの季節、是非トーハクにも江戸時代の「カワイイ」に会いに来てください。 

特集 おひなさまと日本の人形
本館 14室 2019年2月5日(火) ~ 2019年3月17日(日)

 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 三田覚之(工芸室研究員) at 2019年02月13日 (水)

 

「顔真卿 王羲之を超えた名筆」 密かなつぶやき その1

年明けに始まった特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」も、気がつくといつのまにか折り返し地点を過ぎていました。連日多くのお客様にお越しいただいておりまして、関係者一同、心より御礼を申し上げる次第です。

開幕前は、「顔真卿って、誰っ!?」という状態で、はたしてどれくらいの人が展覧会を観に来てくださるのだろうかと、不安でいっぱいでした。
もちろん、展覧会の構成は顔真卿だけでなく、中国の書の歴史そのものを概観しつつ、顔真卿が生きた唐時代の書をたっぷりと紹介し、さらに唐時代の書が日本や後世に与えた影響も考えてみようという、壮大なスケールで準備をしてきました。
書は基本的に紙の白と墨の黒のモノトーンで繰り広げられる二次元の地味な世界です。そのハンディを克服すべく、本展は、書の歴史上もっとも華やかな唐時代に重きを置き、展示作品数も唐時代の書を充実させました(選んだ作品が多すぎてケースに入りきれず、泣く泣くあきらめたものも多々ありましたが…)。

今回のブログでは、展覧会のキモである唐時代の書のなかから、チラシやホームページにはない、かくれたみどころをご紹介しようと思います。


王羲之の字姿のデパート
集王聖教序-孔氏嶽雪楼本- 王羲之筆
唐時代・咸亨3年(672) 香港中文大学文物館(北山堂寄贈)


唐時代の書は、太宗皇帝による王羲之崇拝と深い関係があります。
集王聖教序は、懐仁という弘福寺の僧が太宗より命じられ、宮中に所蔵される王羲之の真筆から文字を集めてつくった石碑です。王羲之の字姿を豊富に見ることができるので、手本としても尊ばれました。
本作は、清時代の収蔵家である孔広陶(1832~1890)の旧蔵品で、宋時代の貴重な拓本です。
香港中文大学文物館には、北山堂の堂名で知られる利栄森(1915~2007)の膨大なコレクションが収蔵されており、拓本だけでも2000件以上にのぼります。その中から特に優品10件を精選して「北山十宝」と名付けました。
今回、香港中文大学文物館よりお借りした4件は全て「北山十宝」の名品であり、もちろん、どれも初来日です!


ようこそ、日本へ!

九成宮醴泉銘-汪氏孝経堂本- 欧陽詢筆
唐時代・貞観6年(632) 香港中文大学文物館(北山堂寄贈)



李思訓碑-呉栄光蔵本- 李邕筆
唐時代・開元28年(740) 香港中文大学文物館(北山堂寄贈)



麻姑仙壇記-何紹基蔵本- 顔真卿筆
唐時代・大暦6年(771) 香港中文大学文物館(北山堂寄贈)




褚遂良の美のツボをおさえてます
金剛般若波羅蜜経残巻
唐時代・7世紀 三井記念美術館(2月13日より展示)


中国書道史は、100年ほど前まで拓本や模本を中心に編まれてきました。しかし20世紀初頭、敦煌莫高窟の第17窟から5~10世紀に至る肉筆の写本が大量に発見されたことで、隷書や楷書の変遷がつぶさに観察できるようになりました。
今回注目すべき唐時代の書のウリの一つがこの肉筆写本であり、美しい楷書の姿には本当に心を奪われます。
本作は、671年から677年頃の唐高宗の時代に、宮中の優秀なエリート写経生らによって書写された「長安宮廷写経」とよばれる経巻です。「長安宮廷写経」は、世に30点余りしか現存しません。
筆致や書風はもちろん、紙や墨にいたるまで、あらゆる点において最高の出来栄えを誇ります。書風は麗しく雅であり、張りのある線質で、晩年における褚遂良の艶やかな書の影響がうかがえます。


王羲之たちのゴシップあります
国宝 世説新書巻第六残巻-豪爽-
唐時代・7世紀 東京国立博物館(2月13日より展示)


唐時代は、敦煌莫高窟で発見された写本のほかに、遣唐使らによって日本に将来された写本があります。端正で美しく、力強い筆致で書かれた本作は、『世説新語』の名で知られる書物で、後漢時代の末から東晋時代にかけて活躍した名士のゴシップを集めたものです(今でいう週刊誌ネタのようなもの)。中には王羲之やその一族たちがやり玉に挙げられている内容も収録されています。いつの時代も有名人は苦労が絶えません…。
紙背には、平安時代末期の『金剛頂蓮花部心念誦儀軌』が書写されています。
日本への伝来の古さを物語っていると同時に、本作がいつしか日本でリサイクル紙として使われたことがわかります。平安時代の貴重な筆跡とともに、世説新書の残巻は我が国で大切に保存されてきました。




受験生の諸君、健闘をいのる
干禄字書 顔真卿筆
唐時代・大暦9年(774) 台東区立書道博物館


受験シーズン、まっさかり。受験生のみなさんは、毎日重圧に耐えながら一生懸命勉強をされていることと思います。
中国でも、官僚になるためには科挙という大変難しい試験を受けなければなりませんでした。
この干禄字書は、科挙の答案に用いるべき正しい字形を示した字書であり、受験生の必須アイテムでした。干禄とは、禄をもとめる、つまり官に仕えるという意味です。
顔真卿の叔父である顔元孫が著し、顔真卿が66歳の時に書写しました。字書の内容はもちろんのこと、顔法で書かれた楷書もまた後世に大きな影響を与えました。
さすがに科挙の受験バイブルとあって、石碑の拓本をとる人たちがあとを絶たず、この拓本からも碑面の文字が摩滅している状態がよくわかります。


さて、ほんの少しだけ唐時代の書をご紹介いたしましたが、まだまだみどころは語り尽くせません。
今回の展示総数177件のうち、唐時代の書は106件あります。海外からは8件お借りし、国内の所蔵作品は98件展示されています。
百聞は一見にしかず。ぜひ会場で、唐時代の書の魅力を感じてみてください!


 
関連展示
特別展「王羲之書法の残影ー唐時代への道程ー」2019年3月3日(日)まで
東京国立博物館東洋館8室、台東区立書道博物館にて絶賛開催中!

 

カテゴリ:研究員のイチオシ中国の絵画・書跡2018年度の特別展

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posted by 鍋島稲子(台東区立書道博物館主任研究員) at 2019年02月12日 (火)

 

王羲之書法の残影-唐時代への道程- その2

平成館で開催中の特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」は連日、国内外から多くのお客様にご鑑賞いただいており、たいへんな賑わいをみせております。
特別展の鑑賞前後に、あわせて足を運んでいただきたいのが、東京国立博物館東洋館8室(トーハク)と台東区立書道博物館(書博)で開催している連携企画「王羲之書法の残影-唐時代への道程-」です。

先日、書博の鍋島主任研究員が連携ブログ「その1」として、連携企画展の構成や見どころ、顔真卿展との関係をわかりやすくお伝えくださいました。
今回の「その2」では、数ある展示作品(展示件数:トーハク34件、書博67件・展示替えあり、計101件)のなかでも、主に法帖に残された南朝の書、石碑などにみられる北朝の書、そして肉筆の書から、オススメの作品やポイントをご紹介いたします。


東洋館8室の展示風景

台東区立書道博物館の展示風景


本展で展示している書の資料は、大きく肉筆と拓本に分けられます。
真跡とされる肉筆の書は、基本的に世の中に1点しか存在しません。一方、石碑・墓誌・摩崖(自然の岩肌に刻されたもの)などの石刻資料の拓本や、書の名品を石や木に刻して作られた版からとられた拓本(法帖)はいわばコピーで、原石・原版がある限り、複製は可能です。
古代の肉筆資料や古い時代にとられた拓本はたいへん希少で、書の鑑賞や学習においても珍重されています。

南朝の書のオススメ 万歳通天進帖
南朝では、後漢時代の建安9年(204)と西晋時代の咸寧4年(278)に発令された、いわゆる立碑の禁(石碑の建立の禁止)を踏襲したため、この時期の石碑の書はあまり残されていません。
一方、後世に制作された法帖には、王羲之・王献之(二王)らの書法を継承した南朝の貴族たちによる書簡などの書が残されています。

法帖をもとにしてまた新たな法帖が作られたことにより、その書は原本(肉筆)の字姿をどれほど忠実にとどめているか不確かな面があります。しかし、法帖は宋時代から清時代まで途絶えることなく制作され、書の鑑賞や学習の主なツールとして扱われてきました。それにより、二王や南朝の貴族たちの書も広範に普及して、その書のイメージが形成されたと見られます。

展示作品の中では、「万歳通天進帖」に所収される書がオススメです。
この「万歳通天進帖」は、唐の則天武后の治世、万歳通天2年(697)に、王羲之の子孫で当時宰相であった王綝が、二王をはじめとする家宝の王氏一族の書を、則天武后に献上したものです。
原本は残されていませんが、則天武后の命により宮中で制作された精巧な模本が遼寧省博物館に現存し、明時代に制作された華夏『真賞斎帖』や文徴明『停雲館帖』といった法帖にも収録されて、その様相を窺うことができます。
書博では、『真賞斎帖』中の「万歳通天進帖」から王羲之「姨母帖」と王献之「廿九日帖」を、トーハクでは『停雲館帖』中のそれから王僧虔「行書太子舎人帖」、王慈「草書栢酒帖」、王志「草書一日無申帖」を展示しています。
「万歳通天進帖」の確かな来歴や両法帖の「刻」の精細さからも、これらは原本の字姿をよく伝えるものと考えられ、是非ご覧いただきたい作品です。

 
右:廿九日帖 王献之筆 東晋時代・4世紀 台東区立書道博物館蔵(書博 全期間展示)
左:行書太子舎人帖 王僧虔筆 宋~斉時代・5世紀 東京国立博物館(東洋館8室 全期間展示)

王献之は王羲之の第七子。南朝の宋から斉にかけては、骨力のある王羲之の書以上に、より華麗で斬新な王献之の書が尊ばれました。
王僧虔は王羲之と同じ琅邪王氏一族の子孫。宋の文帝は王僧虔の書を見て、王献之より優れていると評したと言います。



北朝の書のオススメ 龍門二十品
北朝では立碑の禁の風習は薄れ、石碑など石刻資料が数多く残されます。
石刻資料にみられる銘文とその拓本の書には、刃物によって文字を彫った際の「刻」の味わいが、少なからず原本(肉筆)の書に加味されて表現されます。
彫刻された書の味わいとともに、原本の字姿を想像することも拓本を鑑賞する醍醐味の一つです。

北朝の石刻資料の書のなかでも、龍門造像記は「刻」の味わいが顕著で、鑑賞の醍醐味を楽しむことができます。
河南省洛陽から南へ14kmほどのところに位置する龍門石窟は、北魏から唐時代にかけて造営された石窟寺院です。1352か所もの洞窟には、10万にも及ぶ仏像が彫られ、そこに仏像を造った際の願文である造像記が数多く残されます。
2千件とも言われる北魏時代の龍門造像記のうち、書の優品20件を選定した「龍門二十品」はその代表格として知られます。
本展では、両館あわせて20件全てを展示し(トーハクで8件、書道博物館で12件)、龍門造像記の雄強な書の世界をご堪能いただけます。

 
右:楊大眼造像記(部分) 北魏時代・5~6世紀 東京国立博物館蔵(東洋館8室 全期間展示)
左:孫秋生造像記(部分) 北魏時代・景明3年(502) 台東区立書道博物館蔵(書博 全期間展示)

ともに「龍門二十品」、また「龍門四品」にも数えられる龍門造像記の名品です。
両者にみられる文字構えや重厚で鋭い筆法は、北魏時代の肉筆の書にも通ずるところがあります。



肉筆の書のオススメ 異なる趣の楷書の美
本展では、南北朝時代から唐時代までに書写された仏典などの典籍の写本(肉筆の書)をトーハクで4件、書道博物館で6件展示します。
肉筆の書と拓本の書を同日に比べることはできませんが、肉筆の書の良さは何と言っても、その一点一画に筆者の息づかいや感情の起伏までもが顕著に表れ、文字の造形には筆者の趣味嗜好や地域・時代ごとの特性が映し出され、それらを直に感じ取ることができる点にあります。

三国時代(220~280年)に萌芽した楷書は、晋を経て、南北の両朝で少なからず趣の違いを見せ、南北の統一を果たした隋時代(581~618年)に両朝の趣が融合したかのような整った美しい造形に至り、唐時代(618~907)には更に洗練された様式として完成します。
展示する肉筆の書には、その過程の一端を窺うことができます。

 
律蔵初分巻第十四 北魏時代・普泰2年(532) 台東区立書道博物館蔵(東洋館8室 全期間展示)
「律蔵初分巻第十四」は筆の鋒先を利かせて書写され、弾力性に富み、鋭く重厚な線が見られます。右上がり強く、構築的な字姿は、龍門造像記の書を彷彿させます。

 
僧伽吒経巻第二 隋時代・大業12年(616) 台東区立書道博物館蔵(東洋館8室 全期間展示)
「僧伽吒経巻第二」は、実に均整のとれた文字構えをしています。この字姿には、隋時代の楷書が至った造形美が見られます。
 

毎年恒例となりましたトーハクと書博の連携企画は、本展で16回目を数えます。
実は顔真卿展でも、書博から50点近くの貴重な作品をご出陳いただいており、あらためて世界屈指の書のコレクションだと感じました。
トーハクと台東区立書道博物館で、多彩な書の世界をご堪能いただけますと幸いです。  

図録 唐時代への道程
図録 
王羲之書法の残影-唐時代への道程-

編集・編集協力:台東区立書道博物館、東京国立博物館
発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団
定価:1,000円(税込)
ミュージアムショップにて販売
※台東区立書道博物館でも販売しています。
図録 唐時代への道程
図録 
王羲之書法の残影-唐時代への道程-

編集・編集協力:台東区立書道博物館、東京国立博物館
発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団
定価:1,000円(税込)
ミュージアムショップにて販売
※台東区立書道博物館でも販売しています。


週刊瓦版

台東区立書道博物館では、本展のトピックスを「週刊瓦版」という形で、毎週話題を変えて無料で配布しています。トーハク、書道博物館の学芸員が書いています。展覧会を楽しくみるための一助として、ぜひご活用ください。
 

「顔真卿    王羲之を超えた名筆」チラシ


関連展示
特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」2019年2月24日(日)まで
東京国立博物館平成館にて絶賛開催中!

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 六人部克典(登録室研究員) at 2019年02月09日 (土)

 

黒田先生のアトリエから―特集「ラファエル・コランと黒田清輝」によせて

黒田記念館 黒田記念室では現在、特集「ラファエル・コランと黒田清輝」(~4月14日(日))を開催しています。
今日は、そのご紹介もかねて“日本近代洋画の父”、黒田清輝先生のお宅にお邪魔してみましょう。

写真はおそらく明治30年代後半、黒田先生のアトリエで撮ったものです。
足を組んでポーズをとる黒田先生、コール天の上下は当時、奔放な芸術家のファッションとして人目を引いたそうです。


アトリエでの黒田清輝 明治30年代後半撮影

黒田先生のうしろに見えるのは、現在、静嘉堂文庫美術館にある《裸体婦人像》(①)。
明治34(1901)年の白馬会展覧会で展示されたおり、風紀を乱すということで下半身を布でおおわれた、いわゆる“腰巻事件”で有名な作品です。
この写真でも、黒田先生の頭で下半身が隠れていますが、これはたまたまでしょう。

写真右端には、黒田先生が明治30(1897)年に描いた《秋草》(岩崎美術館蔵、②)も見えます。その左にある小さな額(③)に飾られているのは、おそらく現在、ミラノのアンブロジアーナ絵画館にある《貴婦人の肖像》の写真でしょう。この絵は長い間、レオナルド・ダ・ヴィンチの作と考えられていました。黒田先生、どうやらルネサンス美術にも関心があったようです。

さて、ご注目いただきたいのは、写真左上に写っている作品(④)です。
これは今回の特集「ラファエル・コランと黒田清輝」で展示している、ラファエル・コラン《三人の女下絵》のようです。


三人の女下絵
ラファエル・コラン筆 フランス 1892年頃 個人蔵(黒田清輝旧蔵)


《三人の女下絵》は黒田の旧蔵品として伝えられたものですが、この写真から、実際にアトリエの一隅を飾っていたことがわかります。
コランは、黒田がフランス留学中に画技を学び、その生涯を通して敬愛した師匠でした。
今回の特集では、黒田が描いたコランのポートレートも展示しています。


ラファエル・コラン像
黒田清輝筆 大正5年(1916) 東京国立博物館蔵


ちなみに《三人の女下絵》の右下に写っている絵(⑤)も、コランの作品《夏の野》(久米美術館蔵)です。
黒田とともにコランのもとで画技を学んだ久米桂一郎が持っていた作品ですが、ちょっとお借りしてアトリエに飾っていたのでしょうか。
なお図様の確認できる⑥の作品ですが、これはだれが描いた、なんの絵(の写真)なのか、今のところ不明です。
もしご存知の方がおられましたら、までお知らせいただければ幸いです。


ブログの最後に、特集「ラファエル・コランと黒田清輝」の展示作品をもう一点ご紹介しましょう。
先にふれた“腰巻事件”をめぐっては、黒田の《裸体婦人像》がよく知られていますが、取り締まりの対象となった作品は他にもありました。
黒田は自分の所持していたコランの絵を参考のために出品したのですが、ヌードということで、《裸体婦人像》と同様に腰部を隠して展示されました。
そのひとつが《オペラ・コミック座天井画「虚構に生気を与える真実」のための素描(1)》です。


オペラ・コミック座天井画「虚構に生気を与える真実」のための素描(1)
ラファエル・コラン筆 フランス 1898年頃 個人蔵(黒田清輝旧蔵)



明治34(1901)年11月1日付『二六新報』より
コラン作品の取り締まりの様子を、図入りで伝えています。



そんなわけで、今回の特集「ラファエル・コランと黒田清輝」は、黒田が愛蔵していたコランの作品を通して、師弟の絆の深さをしのぶと同時に、明治時代、西洋の美術がどのように日本に受け入れられていったのかをうかがう企画となっています。
どうぞお見逃しなく!
 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開絵画

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posted by 塩谷純(東京文化財研究所 文化財情報資料部 近・現代視覚芸術研究室長) at 2019年02月07日 (木)

 

イノシシ 勢いのある年に

こんにちは、ユリノキちゃんです!
ほほーい! ぼくトーハクくん!


 今日は本館特別1室・特別2室で開催中の、特集「博物館に初もうで イノシシ 勢いのある年に」(1月27日(日)まで)を見にきたんだほー

 亥年にちなんだ作品がたーくさん展示されているのよね。

 中でも「野猪」がオススメね、ユリノキちゃん。

 その声は、皿井研究員!

 こんにちは、トーハクくん、ユリノキちゃん。二人は動物の彫刻を見たことある?

 もちろんあるほ。鮭をくわえた熊だほ。

 おみやげっ(どこで見たの?)

 私は、本館18室・近代の美術のコーナーで「老猿」や「馬」を見たし、いまなら「牝牡鹿」も見られますよね。

 そう、近代の美術よね。
そもそも古い彫刻には動物作品はあまりなくて、近代になってモチーフのバリエーションを広げていく中で、ここにある「野猪」やユリノキちゃんが見た「老猿」といった作品が生まれてきたの。
とりわけ「野猪」は、日本の彫刻史全体の中でもイノシシをモチーフにした珍しい作品なのよ。


野猪 石川光明作 大正元年(1912) 石川光明氏寄贈

 なんだか、いじらしいほ。

 うん、可愛い。

 イノシシって、現代ではどっちかというと害獣で獰猛なイメージだけど、この「野猪」は横座りしてシナをつくった感じが、妙に可愛いってイメージよね。
作者の石川光明はもともと、根付とかの牙彫の職人として技術を学んだ人なの。根付ではいろんな動物を彫るのは普通のことなので、それを木彫でも制作したいっていうのは、彼の心の中に常日頃からあったのかもしれない。

 ふーん、根付のような可愛らしさが自然と表れたのかな。

 可愛いだけじゃなくて、牙彫作家らしい細かい彫りの技術も見てほしいな。細かい毛並み、動物らしい毛並みが実に巧みに表現されているの。可愛らしさと写実がギュッと凝縮されている作品なのよ。

 皿井さん、ここには他にもイノシシさんがいますね。

 ぼくの友達もいるほ。

 そうよ。例えばこの中国の「玉豚」は、ものすごく抽象化されていて、死者の手に握らせていたと考えられているものです。イノシシは多産や富の象徴として、死んだ後も幸せにいられるよう、お墓の中に一緒に埋葬されることがあったのね。


玉豚 中国 前漢~後漢時代・前2~後3世紀

 それと、そのほかの中国の作品を見ると、逆に小さいながらもイノシシの力強さがよくあらわされていて、中国の人たちの対象物を見て、それを写し取って造形化する技術力、造形把握能力ってものすごいと感じるけど・・・。


灰陶豚 中国 前漢時代・前2~前1世紀 広田松繁氏寄贈


褐釉豚 中国 唐時代・8世紀


 ん、なんだほ?

 一方で日本の「埴輪 猪」を見ると、あれ?って。これでよかったの?って。
縄文時代は、イノシシは狩猟の対象として身近だったからよーく観察されていて、「猪形土製品」のような形をちゃんと写し取った作品はいっぱいあるのに、それが埴輪になると一気にゆるキャラ化して・・・、形もこんな足が長い。馬みたい。


重要美術品 猪形土製品 青森県つがる市木造亀ヶ岡出土 縄文時代(後~晩期)・前2000~前400年


重要文化財 埴輪 猪 群馬県伊勢崎市大字境上武士字天神山出土 古墳時代・6世紀

 なな、なんてこと言うんだほ、皿井さん。

 ふふ。中国の造形に対する関心のあり方と、日本の対象物をどう造形化するか、この違いが浮き彫りになって、すごく面白い。皆さんにはそういうところも見てほしいと思います。

 しくしく。「埴輪 猪」の立場が・・・。

 じゃあ、どうして足が長いのか、私に説明させてください。

 あ、あなたは、河野研究員!

 ほほーい! 河野さん、たのんだほ!

 はい。まずこの重文「埴輪 猪」、縄文時代や東洋考古のイノシシと比べると極めて足が長いのが奇妙でして、イノシシというには不思議な体形ですね。
よく見ると足の先の後部が半円形にくりぬかれて、馬の蹄と同じようになっています。日常的にイノシシを見ている人が作ったのなら、偶蹄類なのでつま先は二つに分かれるはずなのに。
つまり、馬形埴輪を作っている人がイノシシをよく知らないまま作ったんではないかと思われます。




 えーっ、そういうことあるんですか?

 古墳時代になると、縄文時代にくらべて、人が生きる上での生業がいろいろ多様化していますし、山など自然からは離れて生活している、そういう人たちも沢山いたと考えられます。
イノシシ狩りは王様の狩猟儀礼みたいなものに変わってしまっているだろうし、イノシシと犬の埴輪でそれを古墳内に再現する際も、そこにはあまり写実性が求められてなかった、そんな背景があるんじゃないでしょうか。

 なるほどぉ。

 王様にとってイノシシを狩るというのは、突進してくる獰猛な存在をやっつけるということで、自身の権威を高めることになりますね。狩ったということを表現しようとして「矢負いの埴輪」も作られたと考えられます。古墳に眠る人の権威のほどを示したわけです。


埴輪 矢負いの猪 伝千葉県我孫子市出土 古墳時代・6世紀

 ほんとだ、“←”が付いてる! 現代のやじるしと全くおんなじ。

 この矢の形(←)というのは誰かが考えて広めたというものではなく、動物を狩るような尖ったものを表現する際、人類が普通に思い浮かび知らずしらず共有されている、時間と場所も超越する、そんなサインなのかな。だから、この埴輪でも使用されたんじゃないかと思います。

 そーそー、超越したサインなんだほ。

 埴輪を研究している身としては、この大阪の堺市から出土した「埴輪 猪」も、ぜひ見てほしいですね。


埴輪 猪 大阪府堺市出土 古墳時代・5~6世紀 伊藤福次氏・橘喜一郎氏寄贈

 微笑ましい表情で、私も大好き。

 ゆるキャラ具合もそうだけど、重文「埴輪 猪」と見比べてみて、どっか違うところないかい?

 ほ?

 こっちのは足の側面に穴が開いてるでしょ。これは近畿地方の埴輪の特徴です。埴輪の地域性が見て取れますね。



 ほんとだほ。お尻以外に足の付け根にも穴があるほ。ね、ユリノキちゃん。

 ほんと、お尻以外にも穴が空いてるわ。



 河野さん、言っておくけど、ぼくもユリノキちゃんも極めてマジメだほ。

 はい(汗)

 ところでトーハクくん、こっちには絵画作品もあるわよ。

 そうだほ。あれは、特集のメインビジュアルをつとめる「猪図」だほ。
もう、“猪突猛進”感だしまくり、ビューって向かってくるほ。


猪図 岸連山筆 江戸時代・19世紀 ハーディ・ウィルソン氏寄贈

 ふふふ。やっと私の出番がきたわね。

 大橋研究員!

 「猪図」もいいけど、私のオススメはこれよ。その名も「大小暦類聚」。

  だいしょうごよみるいじゅう?


大小暦類聚 寛政3年(1791)

 大黒天様の打ち出の小槌からイノシシさんがいっぱいでてきてる。よく見ると、大きいのと小さいのがいて、お父さん、お母さん、子供たちみたい。

 ほう。でも、大きいイノシシは2匹だけじゃないほ。叔父さん叔母さん、従妹たち、親せき一同が集まって、いったい何の騒ぎだほ?

 二人ともすばらしい観察力ね。これは適当に大小があるんじゃなくて、ちゃんとした、っていうか、江戸の時代のユーモアが隠されてるのよ。

 どういうことだほ?

 作品名を見てみて。大小の暦の類をあつ(聚)めたってことで、これは暦を描いているの。

 そうなんだ。

 江戸時代の暦は現代と違って、月の満ち欠けを基にした、大の月(30日)と小の月(29日)が年ごとに変わる、そういう暦だったの。

 ほー。

 お正月になると、その年の月の大小を示す絵暦を交換したりして楽しむようになって、デザインに干支を表わすおめでたい図柄も多く採用されたってわけ。
これもイノシシの大小によって月の大小がわかるというユーモアあふれる絵暦なのよ。




 じゃぁこれは、亥年の暦ってことですね?

 そう、200年以上前の寛政3年(1791)の絵暦です。

 暮らしぶりが粋なんだほ。

 うん、江戸時代の人たちは、いろいろと粋なことをして楽しんだのよ。
この「見立富士の巻狩」もそう。


見立富士の巻狩 葛飾北斎筆 享和3年(1803)

 葛飾北斎さんだほ。

 本来は、源頼朝の富士の裾野での狩りを題材にした「富士の巻狩」っていうのがあって、その中に頼朝に向かって突進してきたイノシシを退治した話があるんだけど、それを北斎は七福神がしているように見立てたわけ。つまり・・・

 パロディー!

 大黒天がイノシシに跨って、打ち出の小槌でしっぽを切ろうとする仕草が描かれていて、昔の人もパロディーを楽しんだっていうのが分かる作品なのよ。



 大橋さん、こっちは? イノシシの団扇を持っている人に蛇のオモチャでいたずらしてる人が描かれてますよ。

 むっ、悪さをする子は、ぼくが許さないんだほ。


浮世七ツ目合・巳亥 喜多川歌麿筆 江戸時代・19世紀

 二人とも十二支は言える?

 はい。子ぇ、丑、寅、卯ぅ、辰、巳ぃ

 午、未、申、酉、戌、亥ぃ・・・

 あ、巳年、蛇もでてくるわね。

 そう、この作品は「浮世七ツ目合・巳亥」といって、亥年のイノシシと巳年の蛇がモチーフになってるの。

 どうして、この組み合わせなのかしら?

 ある干支と、それから数えて七つ目の干支の組み合わせは幸運を招くとされていたからなのよ。亥年から七つ目は巳年なの。
この喜多川歌麿の作品は、いたずらしてるように見えて、じつは幸運を招く縁起の良さが描かれているのね。

 ほ! 巳年から数えたら七つ目は亥年だほ。この浮世絵はきっと、7年後の特集展示にも出てくるほ。

 トーハクくんて、ときどき妙にピントが合ったこと言うのね(まぁ、数えるなら6年後だけど・・・)。

 トーハクくん、イノシシさんの楽しい見方がいっぱい詰まった特集展示ね。

 ユリノキちゃん、そうなんだほ。みんなにもぜったい見てほしいんだほ。

 うん。じゃ、そろそろほかの展示室に行こうか?


 ちょっと待ったぁー!!!

  強烈に聞き覚えのある声。

 おいおいおい。水くさいじゃないか二人とも。

  井上副館長!

 そうだよ。井上副館長だよ。

 井上さん、そんなに興奮して、   ここにある国宝、目につかないかい? 国宝「袈裟襷文銅鐸」だよ。

 (食い気味にきたほ)画数の多い漢字は苦手だほ。


国宝 袈裟襷文銅鐸 伝香川県出土 弥生時代(中期)・前2~前1世紀

 この部分にイノシシが描かれているんだ。見てごらん。



 あっ、ほんとだ。ほかに小さい動物と人間もいますね。

 そ、これはもう弥生絵画の傑作だよ。
いいかい、まずイノシシ、それに立ち向かっていこうとする5匹の犬。そして矢を放とうとする人間。つまり当時の犬追い狩猟の様子の在りのままがここに再現されているんだ。
縄文時代はリアルなイノシシだって皿井さんが言ってたように、この弥生時代の銅鐸に描かれたイノシシもまた、イノシシそのものをうまく表現している。素晴らしいだろ?

 イノシシらしい鼻先、耳、しっぽ。イノシシにしか見えないわね。

 銅鐸にイノシシが描かれることは非常にめずらしい。多く描かれているのは鹿なんだよ。縄文時代の土製品などはイノシシが大変多いんだが、それが弥生時代に入ると、イノシシに代わって鹿が多くなるんだ。

 どうしてだほ?

 それには縄文時代と弥生時代の生業の違いが関係しているようだね。縄文時代は狩猟・漁労・採集といったものが人々の生活を支えていたんだ。ところが、弥生時代になると大陸から米作りが伝わり、人々の生活は大きく変化する。

 そうなんですか?

 おそらく、縄文人は獰猛で多産なイノシシにパワーを感じ、弥生人は稲作のシンボルとして田の豊穣をもたらす神、ひいては子孫の繁栄をもたらす神の象徴として鹿にパワーを感じていたんだな。稲作が始まって、狩猟採集から食料の栽培生産へと変化したために対象獣も変わったんだよ。
時代は変われど、人間は動物にさまざまな願いを託していたことを分かって欲しいんだ。そして大切なことは、この絵画が示すように、弥生人は稲作を始めたからと言って狩猟というものを止めたわけじゃないんだよと。

 たったこれだけの中に、それだけの情報が詰まっているのね。

 そう。ただし、他の遺物との比較があってのことだけどね。

 比較から、そういう考察が生まれるよってことだほ。

 そう、考察が生まれ、え?

  (トーハクくん、どうしちゃったの?)

 ん、二人ともなんだほ?

 だから、絵画、彫刻、歴史資料、いろいろなイノシシが会場にはいるけれど、ぜひこの銅鐸も見ていってほしんだな。

 うん、分かった。井上副館長、いろいろ教えてくれて、どうもありがとうなんだほ。

 皿井さん、河野さん、大橋さんもどうもありがとうございました。
さてトーハクファンのみなさん、私たちの紹介で、この特集に興味を持ってくれたかしら?

  特集「博物館に初もうで イノシシ 勢いのある年に」は1月27日(日)までです。
みなさんのご来館をお待ちしてまーす!

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開トーハクくん&ユリノキちゃん

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posted by トーハクくんとユリノキちゃん at 2019年01月15日 (火)