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1089ブログ

セミとフンコロガシ

特別展「三国志」の掉尾(ちょうび、“最後”)を飾る作品の一つが蟬文冠飾(せみもんかんしょく)(作品No.159)です。


蟬文冠飾 青銅製、金 西晋時代・3世紀 
2003年、山東省臨沂市王羲之故居洗硯池1号墓出土 
臨沂市博物館蔵


大変小さな作品ですが、粒金を駆使した超絶技巧に驚かされる作品です。
詳細については展示室の題箋や図録解説に委ねることにします。
ここで取り上げたいのは、なぜ蟬というおおよそ冠の飾りに似つかわしくない昆虫がモチーフに採用されたかについてです。

古代の中国人にとって蟬は、「含蟬(がんぜん)」として、死ぬ時に口に含ませられた昆虫でした。
土の中で長い時間過ごす蝉の幼虫は、羽化して自由に空を飛び回ります。それを不老不死の仙人になぞらえたのでしょうか。
考古資料にも蝉の造形は枚挙に暇がありません。まさに神仙思想の賜物だったのです。

ところで蟬と同じく昆虫モチーフの造形が古代エジプトにもあります。
それはスカラベ。またの名をフンコロガシ。
当時の人々が神聖視した一種の甲虫です。
日本ではあまり見かけませんが、後ろ足を使って糞をころがすさまを、太陽が東からのぼって西に沈み、ふたたび東から現れることに見立てたのでしょう。
エジプトには顔がスカラベとなったケペル神がいたほか、数多くの護符も出土しています。こちらは不老不死というよりも死んだ後の再生に重きが置かれています。
あるいは周期的に氾濫して大地に豊穣をもたらすナイルが念頭にあったのかもしれません。

さて、不老不死か再生かという究極の問題は、人類が避けられない「死」とどう向き合ったかが結晶しています。
エジプトと中国の古代の墓に描かれた彩色壁画をみても、両者の違いは歴然です。
エジプトでは死後のさまざまな儀式と再生への道のりが主要画題の一つになっているのに対し、中国では墓の主(被葬者)が生前同様に来世でも生活する場面がほとんどなのです。
すこしややこしい言い方ですが、死を境として現世と来世とを全く別物ととらえるか、いったん仙人になるための一時休止期間と捉えるかという死生観が根底にあるのではないでしょうか。

死後の復活で思い出されるのが聖書です。受難後に復活したイエス・キリストによってすべて人間の罪が贖われることは敬虔な信仰生活を送る上で重要な教義でした。
エジプトと中国の間にあるメソポタミアでは、英雄ギルガメッシュが不老不死を求めて旅をし、叶わずに永遠の眠りにつきました。
南アメリカのアンデスでは死と生の世界はシャーマンの助けをかりて交流しました。

さらにアフリカのガーナでは、個人の人生にちなんだ棺がオーダーメイドされています。
死生観を反映したさまざまな「死のイメージ」に注目すると、人間の共通性と多様性とが時空を越えて浮かび上がってくるようです。

蟬文冠飾に戻りましょう。
この磚室墓からは9件の蟬文冠飾が出土し、その中には成人に達しない子供も含まれていたといいます。
親にとって早すぎるわが子の死はさぞかし痛恨事だったにちがいありません。
せめて来世だけでも、仙人のように世界を自由に飛び回ってほしいと願う親の思いがこの作品には結実しているのだと思います。
 


展示されている蟬文冠飾

特別展「三国志」チラシ

 

日中文化交流協定締結40周年記念
特別展「三国志」

2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室

 

特別展「三国志」チラシ

日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ2019年度の特別展

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posted by 河野一隆(調査研究課長) at 2019年08月01日 (木)

 

三国志の時代の武器

特別展「三国志」では、三国志の時代(後漢時代末から三国時代)の武器も多数展示しています。
では、三国志の時代の英雄豪傑達は、どのような武器を使ったのでしょうか。


三国故事図(さんごくこじず)より、馬超(ばちょう)は渭水(いすい)にて曹操を追撃、許褚(きょちょ)が馬の鞍で矢を防ぐ様子を描いた場面
絹本着色 清時代・18~19世紀
天津博物館蔵


三国時代が終わって間もなく書かれた歴史書である『三国志』には、武器に関しては、拍子抜けするくらいわずかな記述しかありません。
『三国志』からわかるのは、弓や弩(ど)が多用されたことと、城攻めの特殊な兵器が工夫された(実態は不明)ことくらいです。
有名な武将が愛用したのは刀なのか、矛なのか、弓なのか、そうしたことは全くと言っていいほど記録されていません。
関羽が日本の薙刀のような形の青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を使ったとか、張飛が刃が曲がりくねった蛇矛(じゃぼう)なるものを用いたとか言う話は、当時の歴史書にはなく、のちの時代の創作です。
この時代の武器は考古資料から探るほかありません。


古代中国の武器、厳密には武器の刃先は、青銅製から鉄製へと進化しました。
青銅は硬いのですが折れやすいという欠点がありました。
そのため青銅製の武器は、剣のようにまっすぐに突き刺すようにして敵を攻撃します。
一方、鉄は折れにくいが柔らかいのが特徴ですが、技術の発達によって硬く折れにくい鋼鉄が作れるようになると鉄製の武器が普及していきました。
大体、前漢時代、前2世紀から前1世紀のころには、鉄剣が銅剣にとってかわります。
後漢時代の1世紀から2世紀ころになると、一点だけを攻撃する剣に代って、振り回すことによって広い範囲を効率よく攻撃することができる刀が普及しました。
三国志の時代はすでに長い鉄刀が一般化していました。
鉄刀のなかには金象嵌を施した装飾的なものもあり、鉄刀は身分の象徴でもあったようです。
一定以上の地位にある武人が、鉄刀を愛用していたことはたしかでしょう。


環頭大刀(かんとうたち)
鉄製 後漢~三国時代(蜀)・3世紀
1990年、四川省綿陽市何家山出土
綿陽市博物館蔵


三国志の時代に特徴的な武器に、鉤鑲(こうじょう)があります。
鉄製の小型の盾から鉄の棒が突き出すちょっと変わったものです。


鉤鑲
鉄製 後漢~三国時代(蜀)・3世紀
1998年、四川省綿陽市白虎嘴崖墓出土
綿陽市博物館蔵

当時の墓の石壁には、右手に刀、左手に鉤鑲をもつ姿が刻まれたものがあり、左手の鉤鑲で相手の刃を受け止め、その隙に右手の刀で攻撃したものと思われます。
鉤鑲が流行したのは短期間でしたがその理由はよくわかりません。
想像ですが、初期の鉄刀は比較的軽量で片手で扱うことができ、そのために片手でもった鉤鑲でも受け止めることができたが、殺傷力を増すため刀が重くなると刀は両手で扱わなければならなくなって鉤鑲は廃れたのかもしれないと思います。
皆様も実物を見て考えてみると面白いと思います。


三国志の時代の武器の花形といえば、弩ということになるでしょう。


一級文物 弩
[弩機]青銅製 [木臂]木製
三国時代(呉)・黄武元年(222)
1972年、湖北省荊州市紀南城出土
湖北省博物館蔵

最近はクロスボウなどというようですが、私(60代ですが)の前後の世代の方なら「ウィリアムテルの弓」というほうが通りがよいのではないかと思います。
木製の腕の先に弓を水平に取り付け、引き絞った弦は青銅製の発射装置(弩機といいます)に引っかけておき、狙いを定めて引き金を引くと矢が飛び出します。
弩は、腕だけでなく、両足まで利用して全身の力で弦を引きます。
腕力だけで引いた弓とは比べものにならないほど強い矢を、正確に発射することができるわけです。
しかし矢継ぎ早に射ることはできず、また馬上での操作も困難という欠点があります。

『三国志』には弩についてはやや多くの記述があります。
平地での戦いでは、使いかた次第で効果を発揮したり不首尾に終わったりしたようです。
弩が威力を発揮したのは水上戦や攻城戦のように、弩を持つ兵士がさほど走り回らなくてもよい状況であったようです。
『三国志』の時代に弩が多用されたのは、水上戦や攻城戦が多かったという事情があったためでもあるのでしょう。
弩もほどなく廃れました。騎馬隊が戦いの主力となるなどの戦法の変化があったためと考えられています。

 


水上戦をイメージした展示空間の中に展示される弩


『三国志』には、城の攻防戦には特別な機械が導入され、曹操や諸葛亮なども工夫をした話が記録されています。
しかし残念ながら具体的な形状などは記録がありません。
近年の考古学調査で、その一端が見え始めました。
呉が攻めた魏の合肥新城(ごうひしんじょう)の遺跡では、漬け物石ほどの大きさの丸い石が発見されています。
丁寧に加工されているところをみると、専用の投石機で狙いを定めて投げ込んだものと思われます。


石球
石製 三国時代(魏)・3世紀
2004年、安徽省合肥市合肥新城遺跡出土
合肥盧陽董鋪湿地公園管理処蔵


考古学的調査の進展により、三国志の時代の武器も少しずつ確かな姿を現わしつつあります。

特別展「三国志」チラシ

 

日中文化交流協定締結40周年記念
特別展「三国志」

2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室

 

特別展「三国志」チラシ

日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ2019年度の特別展

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posted by 谷 豊信(特任研究員) at 2019年07月25日 (木)

 

何この重さ!? 長谷寺の十一面観音菩薩立像

特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」(~9月23日(月・祝))は連日多くの方に熱心にご覧いただき、うれしく思っています。
これから数回にわたって展示している仏像についてみどころをお話します。
最初は長谷寺の巻です。


十一面観音菩薩立像 平安時代・12世紀 奈良・長谷寺蔵

この十一面観音菩薩立像は、右手に錫杖を持ち、四角形の岩座に立つ点が特徴で、これは長谷寺本尊、10メートルを超える巨大な木造十一面観音像と同じです。この形の像を長谷寺式十一面観音像と呼びます。ただし、この像の右肘から先と岩座は後世のもの(左手も)なので、後に本尊にならって作り替えられた可能性があります。



わずかに腰を左にひねって立っています。後姿も優美です。



肩に髪束が垂れています。耳の後方から垂れ下がる部分は別材で造っていたのがなくなってしまいました。冠や、衣の下にわずかに見える腕の飾りは細かく彫刻しています。

この像を事前に調査した時、驚きました。持ち上げてみたら重いのです。やさしい顔は平安時代後期のもの。この時期の像は内部の空洞部が大きい、つまり木が薄いので軽いのが普通です(餡のない最中の皮が軽いのと同じです)。

しかし、この像は一木造でしかも内刳りをしていない(内部に空洞がない)のです。異例のことです。
それにしても重い、ヒノキではなさそうだ、と思って像の足枘(像を台座に立たせるための凸部。台座に彫った穴に差し込んで立たせる)を見ると、針葉樹ではなく広葉樹、木目から見るとおそらくクスノキです。クスノキはヒノキより重いので納得。

ただ、足枘を見るとまったく接ぎ目がないことにまた驚きました。足の先まで頭、体と同じ一つの木から彫り出しているのです。足の先は突き出ているので、別の木で作って接合するのが普通です。できる限り、一つの木から造ろうという意識があったのでしょう。

右手は肘まで、左手は手首まで、体と同じ木で作るほか、
からだの正面2段にU字形に垂れる天衣も、腕の内側は接ぎ目が見当たりません。

こうした像の造り方は、白檀(びゃくだん)製の像に多くみられるものです。白檀はインド南部、東南アジアにしか生えない香りの良い木で、大きくなりません。日本には飛鳥時代以降、中国から白檀製の仏像がもたらされました。また材木、香木としての白檀も古くから輸入はしていましたが、非常に高価で入手困難。そこで、カヤで代用することが多かったのです。これらの像を檀像と呼びます。

この像はクスノキを使っていますが、平安時代後期に造られた檀像として貴重なものとわかりました。

展示ケースに入っていますが、後ろからもご覧いただけます。
ぜひ、じっくりとご覧ください。

特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」

本館 11室
2019年6月18日(火)~ 2019年9月23日(月)

カテゴリ:研究員のイチオシ彫刻特別企画

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posted by 浅見龍介(企画課長) at 2019年07月22日 (月)

 

君は曹操高陵を見たか?

三国志のなかでも抜群の知名度を誇る曹操。
そのお墓(曹操高陵 (そうそうこうりょう))がみつかったのは今から10年ほど前のことでした。
特別展「三国志」では、2016年に刊行された発掘報告書をもとに、曹操高陵の墓室を実寸で再現しています。


本展会場に実寸で再現した曹操高陵の内部

この墓をご覧になって、立派な墓と感じる方もいれば、意外と簡素だなと思われる方もおられることでしょう。
私たち研究者も、そうした点に強い関心を抱いています。
なぜなら、西晋時代の陳寿が著した正史『三国志』に、曹操は自身の葬儀を簡素にするようにとの遺言が記されているからなのです。
遺令の内容は次の通りです。
 

天下はいまだ安定していない状況である。
よって、古制にしたがうこともままならない。
葬儀が終われば皆は早々に喪を解くように、
将兵は持ち場を離れてはならない。
役人は職務を遂行せよ。
遺体を飾る必要はない。
金玉珍宝の類いを墓におさめるな。


これによると、墓室の大小は曹操がいう薄葬とは直接的な結びつきはないのかもしれません。
ただこれまで知られている魏の有力者の墓とくらべると、曹操高陵は抜きんでて大きいというわけではなさそうです。

あらためて遺令をみてみましょう。
遺体を飾るなというくだり、そして金玉珍宝を墓に入れるなという最後の一文。
これらは考古学的に検証ができそうです。

遺体を飾るなというのは、原文では「時服」にせよと言っています。
いうなれば「普段の装いのまま葬れ、特別なあつらえは不要である」と言っているのです。
では、特別にあつらえた死装束とはどのような服だったのでしょうか。
漢時代、王などの貴族が葬られる際は、軟玉の板を銀や銅の糸で綴じ合わせた「玉衣」を着せるならわしでした。


亳州市博物館の展示室でみた玉衣(曹氏一族墓出土)

ところが、曹操高陵の中からはその断片すら検出されませんでした。
後漢時代の王クラスの墓の発掘事例をみますと、盗掘に遭っている場合でも少量の玉衣片はみつかるものです。
その痕跡すら確認されなかった以上、曹操は玉衣に覆われることなく葬られたといえそうです。


次に金玉珍宝とはどのようなものをいうのでしょうか、後漢時代の王クラスの墓にはまばゆいばかりの金粒細工による品々が納められました。
特別展「三国志」では、後漢時代の金製獣文帯金具(きんせいじゅうもんおびかなぐ)を展示しておりますが、こうした文物がまさに当時いわれたところの「金玉珍宝」であったと考えられます。


一級文物 金製獣文帯金具
金製、貴石象嵌 後漢時代・2世紀
2009年、安徽省淮南市寿県寿春鎮古墓出土
寿県博物館蔵

曹操の墓からは、若干の金糸などが出土しているものの、「金玉珍宝」と言えるものは見つかっていません。
ここでひとつ留意しておきたいことがあります。曹操高陵は過去に何度も盗掘に遭っているということです。
金目のものはすでに持ち去られている可能性があるのです。
そうした可能性を完全に排除することはできませんが、現在知り得る情報に基づけば、曹操の遺言は実行にうつされたと判断できます。


それでは、曹操の墓からどのようなものが出土したのでしょうか。
詳しくは会場でご覧いただきたいと思うのですが、曹操高陵からは用途不明のものが多数出土しています。
まるで曹操が研究者の力量を試しているかのようです。
なかでも際立っているのが瑪瑙円盤(めのうえんばん)です。


瑪瑙円盤
瑪瑙製 後漢~三国時代(魏)・3世紀
2008~09年、河南省安陽市曹操高陵出土
河南省文物考古研究院蔵

木星を思わせる美しい縞模様。表面は丁寧に磨き上げ、周囲は面取り加工を施しています。
何かにはめ込んだのか、そのまま使ったのか。使ったとしてその用途は何なのか。
いまだ答えにはたどり着けていません。

開閉器(かいへいき)も謎に満ちています。


開閉器
青銅製、鍍銀 後漢~三国時代(魏)・3世紀
2008~09年、河南省安陽市曹操高陵出土
河南省文物考古研究院蔵

下半の砲弾型の部分が左右に開く仕組みになっているのですが、具体的な用途となると皆目見当もつきません。
こうした謎めいたものに出会ったとき、私たち考古学者はどうするのかというと、とにかく実物をよく観察するのです。
答えに近づくヒントは、インターネットの中でも文献の中でもなく、往々にしてそのモノに込められているからです。
また、よく観察しておくことで、何か別の資料を見たときに思わぬ共通点に気づくこともあるのです。

特別展「三国志」は始まったばかり。
これからも実物をじっくり観察し、なんとか謎の解明につなげたいと思っています。
 

特別展「三国志」チラシ

 

日中文化交流協定締結40周年記念
特別展「三国志」

2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室

 

特別展「三国志」チラシ

日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古2019年度の特別展

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posted by 市元塁(東洋室) at 2019年07月18日 (木)

 

長谷寺の難陀龍王立像、地上に降り立つ

本館1階11室で開催中の特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」(~9月23日(月・祝))では、奈良県北東部に所在する、岡寺、室生寺、長谷寺、安倍文殊院の4つのお寺から、貴重な仏像や寺宝にお出ましいただいています。

その中で、ふだんはお堂のなかの高いところに安置されていてなかなか近くでみることができない、長谷寺の難陀龍王立像(なんだりゅうおうりゅうぞう)を運び出したときの様子をお話しします。

難陀龍王立像は、赤精童子(雨宝童子)立像(せきせいどうじ(うほうどうじ)りゅうぞう)とともに、長谷寺の本尊である巨大な十一面観音菩薩立像(像の高さが10メートルを超えます)の脇侍として安置されています。


重要文化財 難陀龍王立像 舜慶作 鎌倉時代・正和5年(1316) 奈良・長谷寺蔵

本堂のなかの向かって右の高い壇の上にある厨子のなかにいらっしゃいます。
(写真内の上部中央の奥にある厨子です。)

このように龍の頭は天井ぎりぎりです。
さて、こんなに高いところにある像をどうやって運び出すのか。
そのためには像を安全に降ろす方法を考えなければなりません。


このように、壇の下に鉄骨の足場を設置しました!大人が数人乗っても安全です。

そしていよいよ像を壇の上から降ろします。
像を移動させるにはいくつか方法がありますが、今回は像を立てたままの状態で台座ごと運びます。


台座の下に敷いた木の板を4人がかりで持ち上げます。
このとき、全体が常に水平になるよう息を合わせるのが重要です。


像を持ち上げる人だけではありません。
像がお堂の柱や壁、装飾品にあたらないよう周囲の人のサポートが必須です。
その様子はまさにチームプレー。
無事に像を降ろすことができました。


次は梱包です。頭に龍を載せているので横に寝かせられないため、立った状態で運びます。
輸送車が揺れても像が動かないように固定します。

そして、いよいよお堂から外へと運び出します。


美術品専用の輸送車は大きくて、山の中腹にある本堂までは上がれないため、
小型の車の荷台に像を積んでふもとの駐車場まで運びます。
もちろん、雨が降ったらできない作業です。


この急な角度をごらんください!
つづら折りの坂道をゆっくりゆっくりと進みます。


駐車場で像を美術品専用車へ移し入れてひと安心。東京国立博物館まで運びました。

ところで、難陀龍王は雨乞いの本尊としても信仰されてきました。
ただ今回の搬出にとって雨は大敵。
雨が降ることも考えて、梱包の工夫や予備日の設定など、事前にあらゆる対策を準備していましたが、当日は天気に恵まれ快晴でした。
雨を降らせるのも止めるのも自在な難陀龍王が晴天をもたらしてくれたのかもしれません。


本堂からの景色

上野の地に降り立った難陀龍王立像の姿をぜひご覧ください。

 

特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」

本館 11室
2019年6月18日(火)~ 2019年9月23日(月)

 

カテゴリ:研究員のイチオシ彫刻特別企画

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posted by 増田政史 at 2019年07月05日 (金)