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特集「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」

2024年は、画家の黒田清輝が没してから100年という節目の年にあたります。そこで、黒田清輝の代表作で、通常は黒田記念館特別室で年3回の公開以外は展示されることのない《智・感・情》を中心に、東京国立博物館の誇る近代絵画の名品との特集展示「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」(2024年10月20日(日)まで)を組むこととなりました。

《智・感・情》の展示が決まったのは、鹿児島市立美術館で開催された大回顧展「鹿児島市立美術館開館70周年記念 没後100年 黒田清輝とその時代」展など、今年開催された黒田関連の展覧会への貸出がなく展示できる状態の代表作であったから、という裏話的な事情もありますが、現存する完成作の中では最大級であり、後世への影響も大きかったこの作品を展示の核とすることで、「近代絵画の冒険者たち」という全体のテーマも決まっていきました。


展示中の《智・感・情》 黒田清輝筆 明治32(1899)


本展では、裸体の人物を描くという日本にはなかった手法を持ち込んだ《智・感・情》を糸口として、明治以降、西洋絵画に学んだ画家たちの試みを取り上げました。
東京国立博物館の所蔵する近代の絵画作品は、日本に美術館がなかった時代に収蔵されたものが多数を占めます。これらは、全国津々浦々に美術館があり、充実したコレクションを見ることのできる現在からは想像もつかないほど「美術」という存在が不確かなものであった頃、画家たちがどのように道を切り開いてきたかを伝えてくれます。

《智・感・情》は、人間の裸体を写実的に描き、何らかの理念を象徴させるというそれまでの日本にはない内容を持つ絵画でした。
当時の多くの洋画家たちがまずは日本で絵画の基礎を学んだのに対し、黒田が絵画の勉強を本格的に始めたのは(幼少期の短期間の経験は別として)フランスに留学してからのことです。裸体の人体デッサンを基礎とするアカデミックな教育を受けたことが、黒田のその後のスタイルを決めました。
人体デッサンは黒田が教鞭を執った東京美術学校(現在の東京藝術大学)の西洋画科でもカリキュラムに組み込まれ、画家育成の基礎と位置付けられていきます。


裸体習作 黒田清輝筆 明治21(1888)


1909年に開催された第3回文部省美術展覧会(文展)に発表された吉田博《精華》は、黒田のライバルと目された吉田の描いた数少ない裸体画の大作です。白百合を持ち、ライオンたちに何事かを告げるかのように指で示す少女は、「美の威厳」を表しているとも解釈されています。
裸体画への批判にしばしばみられるのが、人物が裸体である必然性がなく場面として不自然であるというもので、例えば東京勧業博覧会で一等賞を受賞した中村不折《建国剏業(けんこくそうぎょう)》には、鎧を着け忘れたのかといった皮肉が寄せられました。洞穴で猛獣と向かい合う人物という設定にはキリスト教絵画からの影響が指摘されていますが、裸体の聖性を高める演出になっていると言えそうです。


精華 吉田博筆 明治42(1909)


中村不折《建国剏業》明治40(1907)年(焼失。展示していません)


展示会場の本館特別2室のサインにも選ばれたラグーザ玉《エロスとサイケ》は、日本ではなくイタリアで描かれました。玉は旧姓を清原といい、日本画を学んでいましたが、1876年に創立された工部美術学校の教諭として来日したヴィンチェンツォ・ラグーザに教わり、西洋絵画に転向しました。
ラグーザは故郷のパレルモで美術工芸学校を創立する計画を持っており、玉とその姉夫妻を教師として雇うという契約を結び、共に帰国しました。玉は水彩画と蒔絵の教師となり、さらにパレルモ大学美術専門学校で油彩画を含む美術の専門教育を受けました。姉夫妻が日本に帰った後に玉はラグーザと結婚し、「エレオノーラ」という洗礼名を受けます。《エロスとサイケ》には「O. E. Chiyovara」(お玉、エレオノーラ、清原)というサインがあり、玉の油彩画が目に見えて表現力豊かなものとなっていった1910年代に描かれたものと考えられています。


エロスとサイケ ラグーザ玉筆 明治~大正時代、20世紀


今回の特集展示では、「歴史資料」として収蔵されているために近代絵画の展示室では展示されたことのない織田東禹《コロポックルの村》も出品しています。
織田は古代の貝塚発掘に興味を持ち、人類学者の坪井正五郎などに取材して水彩画としてはかなりの大作となる本作を完成させました。1907年の東京勧業博覧会の美術部門に応募された本作は、あまりに前例のない作品であったため美術部門での審査を拒否され、結局石器時代の日本を描いた教育的資料として展示されました。その後、好古家としても知られた華族の二条基弘、徳川頼貞の手を経て東京国立博物館に収蔵されています。


コロポックルの村 織田東禹筆 明治40(1907)


黒田清輝の作品を多数所蔵している黒田記念館は、もとは彼が美術の奨励事業に充てるために遺した遺産によって1930年に設立された「美術研究所」でした。黒田の画業を顕彰するだけではなく、美術の研究を目的とした機関としての研究所の方向性を決めたのは美術史学者の矢代幸雄です。
美術作品の良質な図版が美術の研究に不可欠だと考えた矢代は、ヨーロッパで学んだ経験をもとに国内外の美術作品の写真を集め、それらは東京文化財研究所に現在も引き継がれています。本展に出品した黒田の日記や矢代の主著『“Sandro Botticelli”』といった東京文化財研究所の所蔵資料は、美術を社会に根付かせるという黒田の理想が受け継がれていることを示すものでもあるのです。


“Sandro Botticelli”  矢代幸雄著 大正14年(1925) 東京文化財研究所蔵



本館特別1室に展示される《智・感・情》

特集「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」は、本館特別1室・特別2室にて2024年10月20日(日)まで開催中です。 ぜひご覧ください。

 

 

カテゴリ:特集・特別公開絵画

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posted by 吉田暁子 (東京文化財研究所) at 2024年09月19日 (木)

 

「あるもの」と向き合い、「わからない」を楽しむ

現在開催中の「内藤礼 生まれておいで 生きておいで」(以下、「内藤礼展」)は、先の荻堂研究員のブログにもあったように、通常の当館の特別展とは違っています。展覧会入口に「ごあいさつ」のパネルがないことからはじまり、展示室内には作品解説パネルの類はいっさいない、会場外で並ぶことはあっても会場内の人数はそれほどでもない、3か所の会場がまとまっていない、など、ないことばかりです。

さかのぼれば、ポスターは作家の作品ではない当館収蔵品のアップ(原寸大以上)でチラシにも作家の作品画像は掲載されていない、開幕時に図録がない、とこれまたないものだらけ。現代美術展ではそれほどめずらしいことではありませんが、当館をよく知っている皆さんは、「?」と思ったかたも少なくないのでは、と思います。


展覧会第1会場エントランス 撮影:畠山直哉
推奨順路のはじまりはさりげない

美術家・内藤礼さんにとっても、この展覧会はこれまでの個展とは違うと言います。自分の作品ではない、東博の収蔵品を使っての空間作品制作は初めてのことだそうです。

ないものが多い展覧会。そこにあるのは内藤さんがつくった「空間作品」です。この展覧会では、まずは作品と向き合ってほしいと思います。

博物館では、誰もが「わかりやすい」展示を心がけます。その作品は何なのか、何でできているか、誰がどういう目的で作ったか、あるいは作らせたのか、誰が持っていたか、など、特に東博にある「古美術品」といわれるものには、すでにわかっている「作品についての情報」がたくさんあり、それを伝えるのは博物館の重要な役目です。情報が多いほどその作品あるいはそれをつくった時代など作品にまつわるさまざまなことに興味を持って楽しんでもらえるのではないかと期待して、できるだけ多くの情報を提供できるよう心がけています。また、当館の総合文化展は寄託品を除いて写真撮影可能です。

一方、「内藤礼展」会場では一切の説明を提示していません。来場者に配布する作品リストには、タイトルと制作年、材質、サイズなど作品自体の基本情報のみで、作品ごとの「解説」はありません。それは、会場でまず、来場したお一人お一人が作品と向き合い、ご自分の眼で見ていただきたいからです。会場内での撮影も不可としています。警備上の理由もありますが、写真を撮るよりもその場にいて自分の眼で見えるもの、感じることを最大限受け取ってほしいのです。部屋の入口に設けた短いトンネルを抜けて拡がる、身のまわりにあるささやかなもので構成された世界でしばし時を過ごすと、小さなものごとに気づいたり、それらに何か感じたりする、かもしれません。それは、実際に展示室にいるその時に見えること、感じられることなのです。そうしたことを持ち帰っていただきたいと思います。


第1会場展示風景 撮影:畠山直哉
《color beginning》2024 のある会場。生がはじまり、空間に色が生まれる
これほどカラフルなポンポンを多くつかったのは初めてだそう

第2会場の制作に入って数日後、作家が何かに衝き動かされるように作り始めた《母型》は、部屋のほぼ全面を使った大掛かりな作品です。この空間内をぶらぶらと歩いたり《座》に座ったりしながら、来場者自身でご自分なりにその空間を体験してみてください。会場にいる日の天気、時間、体調、気分で受け取るものは違うでしょう。第2会場と第3会場は、天気と時間で見える光景が全く異なります。晴れた朝、曇った昼間、西日の強い夕方、大雨で真っ暗な閉館間際、など、日にちと時間でここまで見えるものが違う展覧会は、当館ではめずらしいことです。


第2会場風景 撮影:畠山直哉
ガラスビーズが下がった空間《母型》は、作家が展示室での制作に入ってから発想してできた作品。
このように大きな作品を制作に入ってから構想し生み出したのも初めての経験だそう

展覧会は、会期が決まっていて、終わったら消えていくものです。特に、内藤作品はその時に顕す空間が作品なので、後日厳密に再現することは難しい。だからこそ、その日その時に見えるもの、気づくことに集中していただければと思います。


猿形土製品 さいたま市真福寺貝塚出土 縄文時代(晩期)・前2000年~前1000年 当館蔵 撮影:畠山直哉

現代美術はどうみてよいのかわからない、という方は多いと思います。私自身、現代美術の専門家ではないので、自身の眼でみたものと体験、記憶からしか作品を語ることはできません。もちろん、作家の意図はありますし、「こうみてほしい」などの希望はあり、例えば会場は1⇒2⇒3⇒(エルメスでの連携展(注1))⇒3⇒2⇒1の順にご覧になると、内藤さんの物語に沿うことになります。しかし、何かをこう感じなければならない、のではなく、皆さんがその時見えるもの、感じることが、皆さんにとっての展覧会体験です。


第3会場《母型》2024 撮影:畠山直哉
生の往還を顕すこの作品は、さまざまな時代の生の証が集まる博物館を象徴するよう

「なんだろう」「わからない」ことを悪いことだと思わず、楽しんでください。その疑問が美術鑑賞のはじまりであり、人生を楽しむきっかけとなることを願います。

(注1)銀座メゾンエルメス フォーラムでの本展覧会と同タイトルの個展 ~2025年1月13日(月・祝)

カテゴリ:「内藤礼」

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posted by 鬼頭智美(広報室長) at 2024年09月13日 (金)

 

「縄文しばりがあったのですか」

神奈川県立近代美術館の学芸員・三本松倫代さんに今回の「内藤礼 生まれておいで 生きておいで」(2024年9月23日(月・休) まで)は「縄文しばりがあったのですか」と尋ねられ、はっとした。もとより本展は、東博の建築や当館に収蔵される文化財を活かして構成されるということは決まっていたが、実際にどの分野の作品や資料を内藤礼が選ぶのかは決まっていなかったのだ。このような経緯をすっかり忘れてしまうほど、本展では内藤作品と縄文時代の考古遺物が会場と一体となって展示空間を形作っている。

さて本展に出品された考古遺物の選定は全て内藤に委ね、最初に土版が選ばれ、次に足形付土製品、そして動物形土製品や獣骨、最後に土製丸玉が選ばれた。

展示される考古遺物を、あらかじめ当方から提案することや説明することは避けた。なぜなら最初に内藤が選んだのが欠けのある簡素な土版であったからだ。当館には造形的にも優れ、完全な形を残す土版もあるため、正直戸惑った。代わりの考古遺物を内藤に提案しようかとも思ったが、敢えて止めた。むしろ欠けた土版を選択した内藤の意図を探ることで、これまでとは違った観点から内藤が作る作品や展示空間ときっと深く向き合えると考えたからだ。そして欠けたとは言え、この土版に縄文人が願った安産や子孫繁栄、そして豊かな自然の恵みを祈る率直な思いは一切損なわれてはおらず、これが本来あるべき姿とも思ったからである。


土版 縄文時代(後~晩期)・前2000~前400年 東京都品川区 大井権現台貝塚出土
顔や乳房を欠き、儀礼による被熱で変色している

土版に続き内藤が選んだのは本展のポスターやチラシのキービジュアルにもなっている足形付土製品である。過去の内藤展と異なり、内藤作品ではなく考古遺物がキービジュアルになっていることに内藤ファンや考古学ファンはどのように見たのだろう。だが本展をご覧になった方で、この選択に違和感をもつ方はいないのではないかと思っている。


重要文化財 足形付土製品 縄文時代(後期)・前2000~前1000年 新潟県村上市 上山遺跡出土


ポスター・チラシに用いたキービジュアル
自然光のなかで撮影された足形付土製品の柔らかな陰影


本例のような幼児の手のひらや足の裏を押し当て、その形を写し取った土製品は、手形あるいは足形付土製品と呼ばれている。手形や足形の反対側となる裏面には押し当てる際についた太く長い指の痕が残るものがあることから、子ども本人が手形や足形を写したのではなく、親などの大人を介して作られたものと考えられている。また手形・足形付土製品は墓から出土する例もあることから、亡くなった子どもの形見として作られたと考えられ、親子の絆や愛情を象徴するものとして理解されている。


足形付土製品(模造)をもつ大人の手

足形付土製品(模造)と2歳児の足裏
昔も今も変わらない親子の思いを素直に表した形

内藤によって土版に続き足形付土製品が選ばれたことで、ようやく一担当者として内藤の意図を少し理解ができたような気がした。いわゆる内藤が期待したのは火焔型土器や遮光器土偶のような縄文造形ではなく、素直に生を紡ぎ、生を営んだ結果として生じた形が縄文時代の考古遺物の本質だと内藤が考えて選んだのだと。だからこそ、本展では小さな獣骨片にさえ十分な居場所が与えている。そして、内藤の思いは来館者にも注がれているはずで、それぞれの居場所がきっと用意されているはずである。

「生まれておいで、生きておいで」
ぜひご来館いただき、東博での内藤作品と展示空間を体験して欲しいと思う。

 

カテゴリ:「内藤礼」

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posted by 品川欣也(学芸企画部海外展室長) at 2024年09月06日 (金)

 

障壁画100面、一挙公開! 特別展「大覚寺」のご紹介

2025年1月21日(火)~3月16日(日)、平成館特別展示室で、開創1150年記念 特別展「旧嵯峨御所 大覚寺―百花繚乱 御所ゆかりの絵画―」を開催いたします。
 
特別展「大覚寺」メインビジュアル
 
みなさんは大覚寺に足を運んだことはありますか?
正式名称は旧嵯峨御所大本山大覚寺(きゅうさがごしょだいほんざんだいかくじ)といい、京都市右京区嵯峨に位置する真言宗大覚寺派の大本山です。
「嵯峨」といえば、渡月橋や竹林の道が有名な「嵯峨野・嵐山エリア」として記憶されている方も多いかもしれません。
古くから景勝地として知られるこのあたり一帯は、平安時代には禁野(皇族専用の狩猟場)として、天皇や貴族の別荘が立ち並ぶ風光明媚な遊覧の地でした。
大覚寺も、平安時代初期に嵯峨天皇が造営した離宮・嵯峨院がそのはじまりで、代々皇室や貴族が住職を務めました(門跡寺院)。現在でも皇室とのゆかりの深さを示す証を境内の至るところで見つけることができます。
 
大覚寺は令和8年(2026)に開創1150年を迎えます。これに先立ち、本展では大覚寺の寺宝の数々を一挙にご紹介いたします。
7月4日(木)には報道発表会が開催されました。会の様子とともに、展覧会の概要を見ていきましょう。
 
報道発表会の様子(平成館大講堂) 
 
冒頭では、主催者である旧嵯峨御所大本山大覚寺執行長の伊勢俊雄(いせしゅんゆう)氏と、当館副館長の浅見龍介(あさみりゅうすけ)がご挨拶しました。
 
旧嵯峨御所大本山大覚寺 執行長 伊勢俊雄氏
当館副館長 浅見龍介
 
その後、本展の担当研究員・金井裕子(かないひろこ)より、本展の見どころを解説いたしました。
 
当館学芸企画部博物館教育課教育講座室長 金井裕子
 
これに沿って、大覚寺の歴史と本展のみどころをご紹介します。
 
大覚寺の歴史
大覚寺の歴史は、今から約1200年前に嵯峨天皇が離宮・嵯峨院を造営したことにはじまります。その後貞観18年(876)、皇女・正子内親王(まさこないしんのう)の願いにより寺院に改められました。
鎌倉時代後期には大覚寺統(後の南朝)の拠点となり、政治的に大きな影響力を持つようになります。応仁の乱により堂宇(どうう)は焼失しますが、安土桃山時代から江戸時代にかけ御所の一部が移築されるなどして、現在の寺観が整えられました。
 
重要文化財 宸殿
大覚寺伽藍の中心となる建造物。元和6年(1620)に後水尾天皇に入内した和子(まさこ、東福門院)の女御御所がのちに移築されたものと伝えられています。
 
みどころ1 圧巻!123面の障壁画
大覚寺には安土桃山~江戸時代に制作された約240面の襖絵や障子絵等の障壁画が伝来しています。本展はこれらから前期・後期あわせて123面を展示します。
 
重要文化財 牡丹図(部分) 狩野山楽筆 江戸時代・17世紀 京都・大覚寺蔵 通期展示
宸殿「牡丹の間」の東・北・西面を飾る襖絵。花株の位置を細かく計算して配置することで、リズミカルな展開と画面の奥行きを見事に表現しています。本展では全18面(全長22メートル)すべてを展示。
 
重要文化財 松鷹図(部分) 狩野山楽筆 安土桃山~江戸時代・16~17世紀 京都・大覚寺蔵 展示期間:1月21日(火)~2月16日(日)
正寝殿「鷹の間」を飾る襖絵。力強くダイナミックにうねる巨大な松の描き方は、山楽の師・狩野永徳の影響を強く受けたものと考えられています。
 
展示室では、四方を取り囲むように障壁画が並びます。見渡す限り障壁画・・・という圧巻のパノラマ展示をお楽しみください。 
 
障壁画の展示風景(イメージ)
 
みどころ2 ふたつの五大明王像
嵯峨天皇は旱魃(かんばつ)により疫病が流行した際、空海の勧めで般若心経を書写するとともに、持仏堂に五大明王像を安置しました。この時の仏像は残されていませんが、大覚寺には平安時代後期と鎌倉~室町時代の2つの五大明王像が伝わっています。特に明円作の五大明王像は平安時代後期の仏像の最高傑作のひとつであり、優美さと力強さが巧みに調和した作品です。
 
重要文化財 五大明王像 明円作 平安時代・安元3年(1177) 京都・大覚寺蔵  通期展示
不動明王を中心に5体の明王から成る五大明王。力強い姿の中に、整った顔立ちや柔らかな体つきなどには気品があふれ、洗練された美しさを示しています。東京に5体揃うのは初めてです。
 
みどころ3 選りすぐりの天皇の書
大覚寺中興の祖とも称されるのが後宇多法皇(ごうだほうおう)です。鎌倉時代後期、後宇多法皇は大覚寺で院政を行い、大伽藍を造営するなど大きな影響力を持ちました。
 
重要文化財 後宇多天皇像 鎌倉時代・14世紀 京都・大覚寺蔵
展示期間:1月21日(火)~2月16日(日)
 
書の名手としても知られる後宇多法皇をはじめ、本展では歴代天皇の優美で力強い宸翰(しんかん)をご紹介いたします。
 
国宝 後宇多天皇宸翰 弘法大師伝(部分) 後宇多天皇筆 鎌倉時代・正和4年(1315) 京都・大覚寺蔵
展示期間:1月21日(火)~2月16日(日)
後宇多法皇が書写した空海の伝記。謹厳な楷書から力強い草書へと変化する書体がみどころ。
 
国宝 後宇多天皇宸翰 御手印遺告(部分) 後宇多天皇筆 鎌倉時代・14世紀 京都・大覚寺蔵
展示期間:2月18日(火)~3月16日(日)
後宇多法皇が大覚寺の興隆を願い記した21か条の定め。冒頭と各条のはじめに朱で手形(御手印:おていん)を押しています。
 
このほか、「源氏物語」など、宮廷文化を伝える大覚寺の名宝の数々をご紹介いたします。
 
 
源氏物語 室町時代・16 世紀 京都・大覚寺蔵 通期展示
源氏物語全54帖のうち46帖を伝える作品。伏見宮貞敦親王(1488-1572)を中心に伏見宮家とゆかりの深い貴族らによって書写されました。外題(表紙に付された短冊形の表題)は後柏原天皇(1464-1526)によるものです。
 
重要文化財 太刀 銘 忠(名物 薄緑〈膝丸〉) 鎌倉時代・13 世紀 京都・大覚寺蔵 通期展示
源満仲、頼光、義経など清和源氏に代々継承された、「薄緑」「膝丸」の伝承をもつ太刀。長大で力強い刀身に細やかに乱れた刃文を焼入れており、鎌倉時代初期の備前刀の作風が認められます。
 
 
報道発表会の最後には、本展のPR大使と音声ガイドを務める、俳優の吉岡里帆さんにもご登壇いただきました。
 
吉岡里帆さんご登壇の様子
 
吉岡さんは京都府ご出身。大覚寺には小学生のころから絵を描きに行かれるなどされていたそうです。
住んでいたからこそわかる大覚寺の厳かな雰囲気やきらびやかな歴史もPRしたいとお話いただきました。
会場ではぜひ吉岡さんの音声ガイドもお楽しみください。
 
 
報道発表会終了後のフォト・ムービーセッション。左から浅見副館長、伊勢執行長、吉岡里帆さん。
背後の襖絵は「牡丹図」の原寸大パネルです。
 
会期は2025年1月21日(火)から。ぜひカレンダーに書き込んでおいてください!
 

カテゴリ:「大覚寺」

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posted by 天野史郎(広報室) at 2024年09月04日 (水)

 

高雄曼荼羅を写す

前回のブログ「密教の仏たちに包まれる―高雄曼荼羅の世界―」でご紹介しましたように、現存最古の両界曼荼羅である「高雄曼荼羅」は、平安時代にはすでに、空海が直接筆を執った特別な曼荼羅と認識されていました。


国宝 両界曼荼羅(高雄曼荼羅)(りょうかいまんだら、たかおまんだら)の展示風景
平安時代・9世紀 京都・神護寺蔵 
【金剛界】後期展示(8月14日~9月8日)

曼荼羅に描かれた仏たちは、密教の仏のお手本、規範であり、「白描(はくびょう)」という、墨の輪郭線を駆使した手法でその姿形が写し取られました。会場では平安時代後半から鎌倉時代の作品を展示しています。


重要文化財 高雄曼荼羅図像(たかおまんだらずぞう) 金剛界 巻上、巻中(部分)
平安時代・12世紀 奈良・長谷寺蔵 金剛界は
後期展示(8月14日~9月8日)

密教の仏は、たくさんの顔や手があったり、持ち物も複雑です。仏の姿ですから間違いは許されません。会場に並ぶ作品を見ると、一発勝負の緊張感を味わうことができます。

重要文化財 三十七尊羯磨形図像(さんじゅうしちそんかつまぎょうずぞう)(部分)

鎌倉時代・13世紀 京都・醍醐寺蔵 後期展示(8月14日~9月8日)

 
高雄曼荼羅はこれまで、鎌倉時代、江戸時代、そして現代(平成28年から6年かけてなされました)と、三度の修理が行われました。

江戸時代の修理の後、修理を企画した光格天皇と後桜町(ごさくらまち)上皇によって、原寸大の模本が制作されました。


両界曼荼羅(りょうかいまんだら)
右から【胎蔵界】江戸時代・寛政7年(1795)【金剛界】江戸時代・寛政6年(1794)
 京都・神護寺蔵 通期展示

「高雄曼荼羅」は、紫色に金銀が生える美しい作品です。今回行われた修理の際に分析が行われ、「紫根(しこん)」という非常に高価で希少な染料が使われていたことが明らかとなりました。「紫根」は紫色の染料ですので、高雄曼荼羅も描かれた当初は、模本に見られるような色味をしていたと考えられます。
 
江戸時代後半にかけて、原寸大だけでなく、数多くの模本が制作されました。空海ゆかりの曼荼羅の規範として、変わらず尊ばれていたことがうかがえます。
 
なかでも「両界曼荼羅」(京都・知恩院蔵)は、江戸時代後半の京都で活躍した仏画師、高橋逸斎(たかはしいっさい)が描いた作品です。


両界曼荼羅(りょうかいまんだら)右から胎蔵界、金剛界
江戸時代・文政11年(1828)
 京都・知恩院蔵 通期展示
 
本作品の魅力はなんといっても超絶技巧というべきその描写です。4メートルを超える大きさの高雄曼荼羅を1.8メートルの大きさに圧縮しているので、描写密度が半端ないのです。
 

両界曼荼羅 胎蔵界の部分
 
描線も美しく、高橋逸斎の持つ技術の高さが感じられます。

表装部分も描いています!


両界曼荼羅の表装部分
 
このほか会場には、高雄曼荼羅の仏を版木にした作例も展示しています。


高雄曼荼羅版木(たかおまんだらはんぎ)
明治3年(1870)
 京都・仁和寺蔵 通期展示

これは、当館に所蔵される京都・高山寺伝来の白描図像を下絵に版に起こされました。会場で久々の再開が果たされたのです!
 
高雄曼荼羅図像(たかおまんだらずぞう)
鎌倉時代・13世紀 
東京国立博物館蔵 通期展示
 
このように、平安時代後半から高雄曼荼羅の仏たちは様々に写されました。そこには、正しい仏を広めたいという高雄曼荼羅への人々の熱い想いを感じることができます。

高雄曼荼羅をご覧になった後は、ぜひこうした「写し」の作例もじっくりご覧ください。
「高雄曼荼羅」では見えにくい、気づきにくいモチーフを発見できるかもしれません。


重要文化財 高雄曼荼羅図像の賢劫千仏(げんごうせんぶつ)部分
 

同じく重要文化財 高雄曼荼羅図像 前期展示の胎蔵界ではカニが描かれていました※現在は展示されておりません
 
創建1200年記念 特別展「神護寺空海と真言密教のはじまり」の会期は残りわずかです(9月8日(日)まで)。

高雄曼荼羅や本尊「薬師如来立像」は、空海の時代から伝えられてきた神護寺の至宝です。今に伝えられたことの奇跡と軌跡、是非お見逃しなく!



 
 

 

カテゴリ:news絵画「神護寺」

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posted by 古川 攝一 (教育普及室) at 2024年08月30日 (金)