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1089ブログ

1300年つづく、日本書紀の研究

日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」、もうご覧いただけたでしょうか。
養老4年(720)に元正天皇へ奏上された「日本書紀」は、神代から持統天皇11年(697)までを編年体で記した歴史書で、全30巻あります。
本展では、巻2(神代巻)(じんだいかん)を展示しています。

重要文化財 日本書紀 巻二(にほんしょき まきに) 重要文化財 日本書紀 巻二(にほんしょき まきに)
重要文化財 日本書紀 巻二(にほんしょき まきに) 
南北朝時代・永和元年~3年(1375~77) 愛知・熱田神宮蔵

この場面は、本展の主旨となる第九段一書第二の部分です。右から四行目に、「高皇産霊尊」(たかみむすびのみこと)[▲1][▲1] と、同じ行の下方に「大己貴神」(おおなむちのかみ)[▲1][▲1] という文字が見えます。高皇産霊尊が大己貴神に、「顕露之事」(あらわにのこと)[▲2~3][▲2~3] は我が皇孫が治めるから、あなたは「神事 [▲3][▲3](幽事 [▲4][▲4])」(かくれたること)を治めなさい、と述べています。この時に分けて治められることになった「幽」と「顕」を象徴する場所が、出雲と大和なのです。

この「日本書紀(熱田本)」は、愛知県名古屋市に鎮座する熱田神宮(あつたじんぐう)に奉納され伝わったものです。巻2にはありませんが、全15巻中10巻に奥書(おくがき)があり、永和元年から三年の間に写されたことがわかります。さらに巻9には原本の奥書も記されており、そこから、卜部兼熈(うらべかねひろ、1348~1402)が秘点を記した本を写したことがわかります。

兼熈の卜部氏吉田家は、「日本書紀」の研究を重要視しており、本展の前期(~2月9日(日)まで)で展示した国宝「日本書紀 神代巻(乾元本)」には、卜部氏吉田家の秘点、すなわち解釈や訓点が書き込まれていました。この熱田本にも、その卜部氏吉田家の秘点が継承されていると考えられます。


これは、江戸時代に仮名で書かれた「日本書紀」です。


仮名日本紀 
香河景号写 江戸時代・享保3年(1817)写、30冊のうち、東京国立博物館蔵
※本展で展示はありません

赤線部分に、「あらはにの事」(顕)、「神の事」(幽)が見えます。「日本書紀」は、その読み方や解釈について、鎌倉時代以降に卜部氏が中心になって、研究がさかんに行われました。江戸時代の国学者の間でも研究はつづき、このように読みやすく仮名で記された本も作られたのです。

成立から1300年、さまざまに解釈され研究されてきた「日本書紀」の重みを、ぜひ本展で感じてください。

日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」

平成館 特別展示室
2020年1月15日(水) ~ 2020年3月8日(日)

 

カテゴリ:2019年度の特別展

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posted by 恵美千鶴子(百五十年史編纂室長) at 2020年02月12日 (水)

 

出雲と大和の仏像より日本仏教の歩みをたどる

日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」。ご覧いただいた方のなかには、こんなにたくさん仏像が展示されているなんて知らなかった!という驚きの声をよせてくださる方もいらっしゃいます。

そうなんです。4章立ての展示構成のなかで、最後の第4章「仏と政(まつりごと)」では、奈良、島根からお出ましいただいた仏像をご覧いただくことができます。

本展の展示構成は、「出雲」に代表されるような有力な地域がそれぞれ日本各地に存在していた弥生時代から、奈良の三輪山付近を中心にして「大和」が力をつけ、そうした日本列島の広い地域をゆるやかに束ねる連合体のヤマト王権が成立し、その後中国の政治制度や文化を取り入れて中央集権的な律令国家へと移り変わっていく過程を順にご紹介する内容になっています。

仏教は朝鮮半島にあった百済国から伝来しました。外来の宗教を受け入れるか受け入れないか揉めた後、仏教が受け入れられるようになると、大王家、有力氏族は古墳に代わって寺院を建立するようになります。こうした氏族のシンボルが古墳から寺院へと変化するちょうど過渡期の様相を示すのが、第四章冒頭の「飛鳥寺塔心礎埋納品(あすかでらとうしんそまいのうひん)」です。飛鳥寺五重塔の礎石に埋められていた品々ですが、古墳に納められていたような勾玉や甲などが見られる点が特徴的です。


飛鳥寺塔心礎埋納品
飛鳥時代・6世紀 奈良県明日香村 飛鳥寺出土 奈良文化財研究所 飛鳥資料館蔵

飛鳥時代後期になると、寺院の数は飛鳥時代前期に比べると10倍ちかくに増え、全国に広まります。島根・鰐淵寺(がくえんじ)の観音菩薩立像は、法隆寺の百済観音菩薩立像(くだらかんのんぼさつりゅうぞう)にも似た、すらりとした長身に目を奪われますが、このお像が重要なのは出雲地方の有力氏族が両親のためにつくったものであることが銘文からはっきりわかる点です。たどたどしい文字が台座に見られますが、両親に対する思いが刻まれているかのようです。


重要文化財 観音菩薩立像
飛鳥時代・持統天皇6年(692) 島根・鰐淵寺蔵 (島根県立古代出雲歴史博物館寄託)


台座に刻まれた銘文

仏教は朝鮮半島を経由して日本に伝来してきたため、日本で最初期につくられた仏像は朝鮮半島の仏像の特徴を色濃く引き継いでいます。ところが遣隋使や遣唐使を派遣し、中国とやり取りをするようになると、中国の最新の情報が日本に直接的にもたらされるようになりました。中国唐代はじめの初唐期は、その前の隋代の仏像様式から、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が持ち帰ったインドの造形に影響を受けた写実性あふれる初唐様式へと移り変わる時期に当たります。当館の十一面観音菩薩立像(じゅういちめんかんのんぼさつりゅうぞう)は中国製の檀像(だんぞう)ですが、彫りの深い顔立ちからは、この像が玄奘三蔵帰朝後に造られたものであることがわかります。


重要文化財 十一面観音菩薩立像
中国・唐時代・7世紀 東京国立博物館蔵

こうした中国初唐期の仏像のかたちや技法が日本に取り入れられた実例が、奈良・石位寺(いしいでら)の浮彫伝薬師三尊像(うきぼりでんやくしさんぞんぞう)や奈良・當麻寺(たいまでら)の持国天立像(じこくてんりゅうぞう)(四天王像のうち)です。當麻寺の持国天立像は脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)という、奈良・興福寺の阿修羅像と同じ技法でつくられた日本最古の四天王像で、木粉などと漆を混ぜたペースト状のものを盛り上げて表面を形づくるため、細やかな起伏を表現することができます。大きさにも驚きますが、持国天面部の眉根を寄せた表情や見開いた目の表情など、モデルがあったのかと思うほど写実的で、迫真性に富んでいます。


重要文化財 浮彫伝薬師三尊像
飛鳥時代・7~8世紀 奈良・石位寺蔵


重要文化財 持国天立像
飛鳥時代・7世紀 奈良・當麻寺蔵

 

飛鳥時代後期から次第に国の輪郭が整ってくると、奈良時代には仏教が神祇とならんで国の重要な柱となりました。「護国」を担うとされる四天王は重要な信仰対象となり、また十一面観音菩薩のような変化観音の流行も、中国での信仰の隆盛を受けて日本にも取り入れられ、人々の安寧につながる現世利益的な効験を期待されたのでした。

本展の第4章では、日本の仏教黎明期から隆盛期という日本仏教の歩みをたどっていただける展示構成になっています。仏像ファンも必見の特別展「出雲と大和」。ぜひお見逃しなく。

日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」

平成館 特別展示室
2020年1月15日(水) ~ 2020年3月8日(日)

 

カテゴリ:2019年度の特別展

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posted by 皿井舞(平常展調整室長) at 2020年02月07日 (金)

 

世界最大の円筒埴輪を観察する

日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」が1月15日(水)に開幕いたしました。本展では島根県と奈良県にゆかりのある作品を幅広い分野にわたり展示しています。なかでも私が今回おすすめするのは、考古の作品。古墳時代の埴輪です。

日本書紀によると、大和にて倭彦命(やまとひこのみこと)の葬儀に際して、近習者を集めて古墳のまわりに生き埋めしたむごい光景をみて垂仁(すいにん)天皇が心を痛めていました。そこで皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の葬儀の際に野見宿禰(のみのすくね)が妙案をひねり出し、出雲から埴輪作りの工人(職人)を呼び寄せて、生きた人の代わりに人の埴輪を埋めたことが書かれています。これが日本書紀に書かれている埴輪創生の話です。

このような伝承が日本書紀に残っていますが、実際、遺跡を発掘しますと人の埴輪は5世紀から出現して6世紀に日本列島各地で積極的に作られるようになります。一方で3世紀後半からすでに筒の形をした円筒埴輪が大和を中心にして全国各地に広まっていることが、考古学の成果からわかっています。つまり人や馬の埴輪が最初に作られたという日本書紀の記述と、円筒埴輪が最初に作られたという考古学の成果とには齟齬があるのですが、それは日本書記が720年に作られたものであり、埴輪の成立した3世紀後半からはおよそ470年近く開きがあるからです。現在の我々からすると470年前は1550年、戦国時代のころです。現在の我々が戦国時代のことを正確に記述しようとしても戸惑いますが、さらに史料のほとんどない古墳時代の事を奈良時代の方々が記述する事は困難であったと思われます。そのため日本書紀の記述をそのまま事実として捉えるのではなく史料批判をする、また文献史料と考古資料とを突き合わせながら、どこに歴史的な事実が隠れているのかを見極めなければいけません。

今回展示している数ある埴輪のうち、奈良県桜井市のメスリ山古墳出土の埴輪を観察することで、様々なことがわかります。

このメスリ山古墳は、墳丘長224mの前方後円墳です。ヤマト王権の中心地である大和(おおやまと)古墳群の南端に築造された、王墓とも呼ぶべき大きさの4世紀の古墳です。後円部の中央には埋葬施設があり、その上には石垣で長方形の壇がつくられ、その周囲には円筒埴輪が2重に立て並べられていました。ここまで密に円筒埴輪を並べる理由としては、聖域として区画したい意図があったのでしょう。


メスリ山古墳 後円部の石室と埴輪の配列

この埋葬施設の主軸線上の一番大事なところに置かれていたのが、中央に展示した埴輪です。


メスリ山古墳出土の円筒埴輪

最初にご注目いただきたいのはその大きさです。なんと高さが約2.5mもあり、世界最大の円筒埴輪です。この巨大な埴輪は、大和に君臨したヤマト王権の力の大きさを示します。

そして、帯状の突帯が8段ありますが、均等につけられています。埴輪の厚さをみると、なんと1.6~1.8㎝と薄い。これらのことから、かなり高い技術で作られていることがわかります。つまり埴輪作りに熟練した工人が、この大和の地にいたことの証明にもなります。

また、突帯が剥がれてしまった箇所に黒ずんだ横線があるかと思います。そこをよく観察すると、一本の線であったり、点であったり様々な装飾のようなものが施されています。これは突帯設定技法といいまして、突帯を円筒部に貼り付ける際に、貼り付けをよくするためにする技法です。この技法は突帯を貼ってしまうと隠れてしまうため、工人の癖の差を示すことがよくあります。突帯設定技法をみますと複数の種類がありますので、この埴輪作りに携わった人は複数人いたことでしょう。


円筒埴輪の突帯設定技法(線)


円筒埴輪の突帯設定技法(点)

このほか、かなり通な人向けの観察視点として、円筒の形をよくご覧ください。わずかに膨らみの単位をみることができます。これは一気に埴輪を作ったのではなく、少しずつ筒を製作して、乾いたところで再度積み上げた痕跡です。やわらかい粘土のまま一気に積み上げると崩壊しますので、かなり時間をかけて慎重に埴輪を製作したことがわかります。


積み上げの単位

どうやら埴輪作りのセンターは大和にあり、王権ともかかわりの深い熟練した埴輪作りの工人がこの大和の地にいたことが、このメスリ山古墳の円筒埴輪をみるとよくわかります。そうなると大和の埴輪は、出雲出身の方が作ったという日本書紀の記述が気になるところですが、いまのところ埴輪を詳細に観察しても出雲出身の方が作った痕跡はみられません。どうして日本書紀には出雲と埴輪との深いかかわりが書かれているのでしょうか。日本書記に書かれた内容は、なにかしらの理由があって書かれたものだと思います。なぜ出雲と大和と埴輪が結びつくのか、今後よくよく考えてみたいと思います。

日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」

平成館 特別展示室
2020年1月15日(水) ~ 2020年3月8日(日)

 

カテゴリ:2019年度の特別展

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posted by 河野正訓(考古室研究員) at 2020年01月28日 (火)

 

必見!圧倒的な数の青銅器

日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」がついに開幕しました。今回は出品作品のうち島根県出雲市荒神谷(こうじんだに)遺跡出土の青銅器を紹介しましょう。

本展では荒神谷遺跡出土の銅剣358本中168本、銅矛16本中16本すべて、銅鐸6個中5個のあわせて189点を展示しています。これだけの数の青銅器が東京でご覧いただけるのは約20年ぶりの機会です。島根県雲南市加茂岩倉(かもいわくら)遺跡出土の銅鐸とともに展示室を埋め尽くすかごとくに整然と並んだ様子は圧巻です。


国宝 銅剣(どうけん) 
島根県出雲市 荒神谷遺跡出土 弥生時代・前2~前1世紀 文化庁蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)



国宝 銅鐸(どうたく) 
島根県雲南市 加茂岩倉遺跡出土 弥生時代・前2~前1世紀 文化庁蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)

荒神谷遺跡は昭和59(1984)年に農道工事にともなって発掘調査が始まりました。その成果は「定説を覆す」、「教科書を書き換える」とまで評価されています。


荒神谷遺跡における銅剣の出土状況

荒神谷遺跡から出土した銅剣の数は358本。それまで発見された弥生時代の銅剣の数は約300本でしたので、その圧倒的な数はすぐに大きな話題となりました。荒神谷遺跡出土品はまずその数で多くの人を驚かせたのです。
銅剣発見の翌年、今度は銅鐸と銅矛が一緒に出土し、再び多くの人々の注目を集めました。しかも銅矛が一カ所からの出土した数としては最多の16本というものでした。
一般に、銅鐸は近畿から東海、銅矛は北部九州から四国南部から多く出土します。分布の中心から外れた荒神谷遺跡での発見は、弥生時代の出雲に大きな勢力が存在したことを示すとともに、当地で北部九州や近畿と深い交流が行われていたことを裏付けたのです。


荒神谷遺跡おける銅鐸と銅矛の出土状況

さて、大量に出土した銅剣はいずれも山陰を中心に分布する中細形(なかぼそがた)銅剣c類と呼ばれるもの。長さ約50㎝、重さ約500ℊと規格性の高いもので、多くは茎(基部)に×印が刻印されています。その規格性の高さと他遺跡から出土する中細形銅剣c類に×印の刻印がないことから、荒神谷遺跡の銅剣は、比較的短い期間に製作から埋納まで一括して取り扱われたものと考えられています。展示室では祭器として使うよりも埋納を前提に作られたとも考えられるこれらの銅剣の薄さにも注目ください。


荒神谷遺跡出土銅剣に刻まれた×印

一方、出土した銅鐸は菱環鈕(りょうかんちゅう)式銅鐸と外縁付鈕(がいえんつきちゅう)式銅鐸、銅矛は中細形銅矛、中広形(なかびろがた)銅矛と複数の種類からなります。銅鐸の内面はいずれも突帯(とったい)がすり減っているために、比較的に長期間振り鳴らされたものと考えられています。また同じ鋳型で作られた外縁付鈕銅鐸が京都府や淡路島などで確認されています。銅矛は、荒神谷遺跡を除き山陰での出土例はないため特異な存在とも言えます。また研ぎ分けされ、綾杉状の装飾をもつ銅矛もあることか佐賀平野など北部九州で作られたと考えられています。

なぜ、このような異なる来歴をもつ銅剣、銅鐸、銅矛が荒神谷遺跡に一括して埋納されたのか、いまだにその理由ははっきりとわかっていません。加茂岩倉遺跡とともに弥生時代を代表する遺跡として知られる荒神谷遺跡。その発見はたった30年ほど前のことです。特別展「出雲と大和」に足をお運びいただき、日本の考古学界を揺るがせた発見に是非触れてみてください!

日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」

平成館 特別展示室
2020年1月15日(水) ~ 2020年3月8日(日)

 

カテゴリ:2019年度の特別展

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posted by 品川欣也(考古室長) at 2020年01月24日 (金)

 

日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」開幕!

トーハクで開催される2020年の特別展のトップバッター、日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」が1月15日(水)に開幕しました。



本展では古代日本において重要な地であった、出雲(島根県)と大和(奈良県)の名品を一堂にご覧いただくことができます。
展示室を少し覗いてみましょう。


「第1章 巨大本殿 出雲大社」では、神々や祭祀の世界を司るオオクニヌシが鎮座する、出雲大社に伝来する数々のご神宝を紹介します。

第1章ではまず、心御柱(しんのみはしら)と宇豆柱(うづばしら)が皆さまをお迎えします。


重要文化財 心御柱(左)・宇豆柱(右奥)
島根県出雲市 出雲大社境内遺跡出土 鎌倉時代・宝治2年(1248) 島根・出雲大社蔵(宇豆柱は島根県立古代出雲歴史博物館保管)

心御柱と宇豆柱は1本が直径約1.3メートルの巨木を3本束ねて一つの柱としています。
その直径はなんと、約3メートル!
この巨大な柱は鎌倉時代のもので、当時の出雲大社本殿を支えていた柱とされています。
この柱から推定すると、出雲大社本殿の高さは48メートルにのぼるとも考えられており、そびえたつ柱をイメージして展示しています。
また、心御柱と宇豆柱の中心間の距離は7.2メートルで、出土した時の距離を再現しています。
こちら2件そろって公開されるのは、本展が初めてです。
当時の出雲大社本殿が、いかに巨大な建築物であったかをどうぞご体感ください。


展示室内の心御柱
※3本のうち1本は複製


模型 出雲大社本殿 平成11年(1999)
島根・出雲市蔵

10世紀ごろ(平安時代)を想定した、出雲大社本殿の1/10スケールの模型。
10分の1で、この大きさ。模型出雲大社本殿の巨大さが分かります

 

次に、「第2章 出雲 古代祭祀の源流」では、弥生時代の祭祀に用いられた品々の移り変わりを通して、出雲における古代祭祀の源流を探ります。

圧巻なのは、島根県出雲市の荒神谷遺跡や雲南市の加茂岩倉遺跡から出土した青銅器が展示室を埋め尽くす光景です。
また、銅剣、銅鐸、銅矛といった異なる種類の青銅器を比較してみることができるのも見どころの一つです。
さらに、銅鐸の中でも大きさや文様の違いを見ることができることも、とても興味深いです。


国宝 銅剣・銅鐸・銅矛 
島根県出雲市 荒神谷遺跡出土 弥生時代・前2~前1世紀 文化庁蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)


国宝 銅鐸 
島根県雲南市 加茂岩倉遺跡出土 弥生時代・前2~前1世紀 文化庁蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)

 

「第3章 大和 王権誕生の地」では、古墳時代の埴輪や副葬品の多彩な造形とその展開をたどり、ヤマト王権の成立の背景に迫ります。

第3章の注目作品の一つが、奈良県桜井市にあるメスリ山古墳出土の円筒埴輪です。
大和の地に出現した巨大な墳墓である前方後円墳は、政治権力の象徴するもので、メスリ山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀前半)につくられた前方後円墳です。
後円部の中央には被葬者を埋葬するために竪穴式石室が築かれており、その上に方形の区画をなすように約170本の円筒埴輪がびっしり並んでいました。
被葬者が眠る埋葬施設と外界を遮断し、聖域を保護していたと考えられています。

本展では、世界最大の円筒埴輪を展示しています。
その圧倒的な大きさに驚かされます。
また、高さ約2.5メートルという大きさに対し、厚さは1.6~1.8センチメートルという薄さで、高い技術力により作られたことが分かります。


メスリ山古墳の後円部の竪穴式石室と埴輪の配列復元図
※パネルにて展示


重要文化財 円筒埴輪 
奈良県桜井市 メスリ山古墳出土 古墳時代・4世紀 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館蔵

また、大和は貴重な三角縁神獣鏡が多く出土する地です。
奈良県天理市の黒塚古墳では三角縁神獣鏡が33面出土しており、1つの古墳から出土した数では全国最多となります。
本展では、出土した三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面すべてをご覧いただくことができます。
 


重要文化財 画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡 
奈良県天理市 黒塚古墳出土 古墳時代・3世紀 文化庁蔵(奈良県立橿原考古学研究所保管)
出土状況写真のタペストリーも合わせて展示しています

 

「第4章 仏と政」では、天皇を中心に仏教を基本とした国づくりが進められていくなかで、国家の安泰と人々の生活の安寧を祈るために誕生した造形をご紹介します。

第4章最初のみどころは、當麻寺の持国天立像です。
持国天は仏の世界を守護する四天王の一人です。
こちらの持国天立像は脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)という、大陸新来の技法で作られた現存最古の四天王像です。
彫りの深い凛々しい顔立ちは、時を忘れて見入ってしまいます。


重要文化財 持国天立像 
飛鳥時代・7世紀 奈良・當麻寺蔵


 

こちらの浮彫伝薬師三尊像(うきぼりでんやくしさんぞんぞう)は寺外初公開となります。
とても保存状態がよく、1300年の間大切に守り伝えられてきたことが感じ取れます。


重要文化財 浮彫伝薬師三尊像 
飛鳥~奈良時代・7~8世紀 奈良・石位寺蔵

 

今回ご紹介した作品以外にも、特別展「出雲と大和」では、考古、刀剣、工芸品、彫刻など、多種多様な作品が皆さまをお待ちしています。
是非、足をお運びください!

 

日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」

平成館 特別展示室
2020年1月15日(水) ~ 2020年3月8日(日)

 

カテゴリ:2019年度の特別展

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posted by 長谷川 悠(広報室) at 2020年01月23日 (木)