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1089ブログ

特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」30万人達成!

まもなく閉幕を迎える特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」(9月3日(日)まで)は、8月31日(木)午前、来場者30万人を突破しました。

これを記念し、東京都大田区からお越しの髙堂さんご一家に、当館館長藤原誠より記念品を贈呈いたしました。

 
記念品贈呈の様子。髙堂さんご一家と藤原館長(左)
 
お父様は自営業で、チョコレートなどを作られていて、メキシコはチョコレートとも縁が深いので、今回ご来館されたとのことです。
当館には昨年の東京国立博物館創立150年記念 特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」、「150年後の国宝展―ワタシの宝物、ミライの宝物150年後の国宝展」にもお越しになったとのことでした。
 
本展の会期も残り3日となりました。
明日9月1日(金)と2日(土)は本展のみ19時まで開館します。最終日3日(日)は17時までです。
東京で「赤の女王」に会えるのもあとすこし。どうぞお見逃しなく!
 
 

カテゴリ:「古代メキシコ」

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posted by 天野史郎(広報室) at 2023年08月31日 (木)

 

姫君婚礼につき

皇居のお濠から30分ほどぶらぶらと西へ歩くと、緑豊かな赤坂御用地が見えてきます。江戸時代、紀州徳川家の中屋敷はこの地にありました。
天明7年(1787)11月27日、この江戸城から紀州邸にいたる道のりを一人の姫君が辿りました。紀州徳川家第10代藩主・徳川治宝(はるとみ、1771~1853)に嫁いだ種姫(たねひめ、1765~94)です。
もちろんぶらぶら歩いたわけではなく、白地に蓬萊模様(ほうらいもよう)の御輿に揺られ、盛大な行列を引き連れての道行でした(注)。すなわち婚礼に伴う「御輿入れ」の行列です。
(注)1089ブログ「大名婚礼調度の役割」

江戸時代の言葉の用法では、「姫君」とは将軍家の娘に限って使用された敬称でした。種姫は田安徳川家の生まれですが、11歳の時に10代将軍家治(いえはる)の養子となっているため、これをもって「姫君」と呼ばれる身分になっています。つまり種姫の婚礼は、紀州家としては将軍家の姫君を迎え入れる、きわめて重大な行事だったわけです。

紀州家側では、姫君の住まいとして「御守殿(ごしゅでん)」と呼ばれる御殿を用意しました。たいへんな大工事だったらしく、このときは御守殿ほか造営のため七千畳の畳を手配したとのこと(『南紀徳川史』巻168)。
その門が御守殿門で、これは丹塗りとする決まりがありました。いわゆる「赤門」です。東博には「黒門」(鳥取藩池田家江戸上屋敷の表門)がありますが、残念ながら赤門はありません。現存する御守殿門としては、東大の赤門がよく知られています。東博の正面から歩いても30分くらいですね。


御守殿門(赤門)
徳川種姫婚礼行列図(上巻)巻頭部分 山本養和筆 江戸時代・18~19世紀
(この場面は展示されておりません)


種姫以後、婚礼の儀礼は次第に縮小の方向へと進んでいきます。大規模な婚礼行列を引き連れた盛大なパフォーマンスは、財政難に苦しむ大名たちの実情から離れたものとなっていました。

さて、治宝には種姫のほかに側室があり、於さゑ(おさえ、栄恭院(えいきょういん))との間には二人の仲良し姉妹が生まれます。鍇姫(かたひめ、信恭院(しんきょういん)、1795~1827)と豊姫(とよひめ、鶴樹院(かくじゅいん)、1800~1845)です。鍇姫は文化11年(1814年)に仙台藩主伊達斉宗(なりむね、1796~1819)に嫁ぎました。一方、豊姫は文化13年(1816)に清水徳川家から婿を迎え、紀州徳川家第11代斉順(なりゆき、1801~46)の正室となりました。

現在、特集「姫君婚礼につき―蒔絵師総出の晴れ舞台」で展示中の「竹菱葵紋散蒔絵調度」一式は、妹の豊姫の婚礼調度と伝わっています。展示室のケースにずらりと並ぶ分量が残っていますが、当初の品目が完全に伝わっているわけではありません。
たとえば、婚礼調度として重要な位置を占める貝桶や三棚(黒棚、厨子棚、書棚)がありません。それどころか、本来は100件を越す多彩な道具があったことが記録から窺えるので、現在われわれが目にすることができるのは全体のほんの一部だということになります。


豊姫婚礼調度
竹菱葵紋散蒔絵調度 江戸時代・文化13年(1816)


面白いことに、まったく同じ意匠・技法の竹菱葵紋蒔絵調度が林原美術館(岡山)に所蔵されています。豊姫の調度にはない三棚を含むため、これらは東博の竹菱葵紋蒔絵調度と一具ではないか? と考えたくなりますが、歯黒箱(はぐろばこ)や眉作箱(まゆづくりばこ)など重複する器種もあったりします。
そこで想起されるのが、お姉さんの鍇姫です。林原美術館の調度は、伊達家伝来であることから、伊達家に嫁いだ鍇姫の調度ではないかとする説が有力です。婚礼調度は使い回されることも普通でしたが、結婚の時期も近いので姉妹同じ規格で作られたのかもしれません。

豊姫は婿養子を迎えた形ですので、婚礼調度はそのまま紀州家に残ったようです。そして半世紀近く経過した文久2年12月21日、最後の藩主、第14代茂承(もちつぐ、1844~1906)と倫宮(みちのみや、徳川則子(のりこ)、1850~1874)の婚礼の際には再利用された可能性が指摘されています。本特集の最初に展示されている白無垢の打掛は、この倫宮所用のものです。この打掛を着て婚礼にのぞむ倫宮の晴れの舞台を、豊姫の調度は再度かざることとなったのでしょうか。


打掛 白地浮織幸菱模様 徳川則子所用 江戸時代・19世紀

 

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 福島 修(特別展室) at 2023年08月25日 (金)

 

大名婚礼調度の役割

こんにちは。東京国立博物館の猪熊です。
このたび平成館の企画展示室にて、特集「姫君婚礼につき―蒔絵師総出の晴れ舞台」(2023年9月18日まで)を開催して、江戸時代の大名の婚礼調度をご覧いただいております。

特集「姫君婚礼につき―蒔絵師総出の晴れ舞台」展示会場風景 打掛、乗物が展示されている写真
特集「姫君婚礼につき―蒔絵師総出の晴れ舞台」展示会場 竹菱葵紋散蒔絵の道具の写真

特集「姫君婚礼につき―蒔絵師総出の晴れ舞台」展示風景

私は、工芸品の歴史を研究しているのですが、博物館の展示をご覧になると分かりますように、工芸品にはおもに形状・技法・意匠といった見どころがあります。なので、その研究には、まずは美術史的な観点があります。
ところで、現在はケースのなかできれいに展示されている工芸品も、かつては鑑賞のためばかりでなく、実際に使用するために作られたものであったことは申すまでもありません。したがって、工芸品の研究については、生活史的な観点からも考えなければなりません。

工芸品の使用については、衣食住などでの実用的な機能ばかりでなく、時代や社会ごとの制度や常識といった枠組みのなかでの社会的な機能もあります。前近代のような階層社会では、身分ごとに使用できる服飾や調度が定まっており、逆に言えば、服飾や調度には使用者の地位を示す役割もありました。現代でもドレス・コードという取り決めがありますが、その他にも、たとえば指輪というアクセサリーはファッション・アイテムですが、これを左手の薬指に付けると、装身具としての機能に加えて、既婚であるという使用者の社会的状況を示す場合があります。そのことは特に法律などで定めているわけではなく、その常識を共有する人々だけが読み取れるコードです。日本では、婚姻は婚姻届によって法的に承認されるのですが、新郎新婦のまわりにいる人々は、結婚式や披露宴に参加して新郎新婦が紋付袴や花嫁衣裳あるいはタキシードやウェディング・ドレスを着ている姿を目撃して祝福することで、社会的に承認する心理もありうるでしょう(近年は多様な仕方があるので、いささかステレオタイプなたとえですが)。

結婚は、人類にとって最古のルールのひとつとされています。聖書のアダムとイブの物語や、中国神話の伏羲(ふくぎ)と女媧(じょか)の伝説のように、日本神話では世界のはじまりに続いて、イザナギ男神とイザナミ女神の結婚の物語があり、そこでは男から女に求婚する作法が説かれています。
古代日本の結婚は「妻問い(つまどい)」といって男が女の家に通う方法で行われ、その求婚は夜中に忍んで通うことではじまり、男のほうでは、まわりに気付かれないように頭にかぶった烏帽子(えぼし)を御簾(みす)にひっかけないとか、扉や襖を開けるときには軽く持ち上げて音を立てたりしないような配慮をするのがマナーでした。
やがて武家が台頭するにつれて、男の家に女を迎える嫁取婚(よめとりこん)という方法が行なわれるようになります。さらに大名の家どうしの政略結婚が行なわれるようになると、姫が輿(こし)に乗って嫁いでゆくようになり、輿入れ(こしいれ)という婚礼の作法が発達しました。


将軍家の姫の輿入れ
徳川種姫婚礼行列図(とくがわたねひめこんれいぎょうれつず)(部分)
山本養和筆 江戸時代・18~19世紀
徳川将軍家の種姫が紀州徳川家に嫁いだ際の、江戸城から赤坂にあった紀州藩邸までの輿入れの行列を描いた図。


そして輿入れが華やかに演出されるよう、化粧具・文房具・遊戯具などから構成される豪華絢爛な婚礼調度が製作されました。なかでも名高いのは、徳川将軍家の千代姫(ちよひめ)が、尾張徳川家に嫁いだ際に製作された「初音蒔絵婚礼調度」(徳川美術館所蔵)でしょう。これは『源氏物語』「初音(はつね)」巻を題材とする意匠が高度な蒔絵技法で表された調度群です。細やかな情景意匠に目を奪われて、つい見落としてしまうのは三つ葉葵(みつばあおい)の家紋です。当時の婚姻は、現行憲法が定める「両性の合意のみに基づいて成立」するような個人を重んじるものではなく、家と家との結びつきであれば、家紋こそが婚礼調度の果たす役割を象徴していたのです。

このたびの特集では、紀州徳川家の豊姫(とよひめ)が11代将軍・徳川家斉(いえなり)の七男・斉順(なりゆき)と結婚した際の婚礼調度を展示しています。この婚礼調度は『源氏物語』などの文学意匠ではなく、梨子地(なしじ)に竹菱文(たけびしもん)が均一的に表されて、三つ葉葵紋が散らされています。


豊姫婚礼調度 江戸時代・文化13年(1816)
東京国立博物館には「豊姫婚礼調度」として化粧具や遊戯具など35件が伝わりますが、分散したものもあり、本来はもっと大規模なまとまりであったと考えられます。

竹菱葵紋散蒔絵提重(たけびしあおいもんちらしまきえさげじゅう)
(豊姫婚礼調度のうち)
梨子地に竹菱文を表して、徳川家の家紋である三つ葉葵紋を配する。


「なんだ、同じ文様ばかりか」と物足りなく思われるかもしれませんが、繁殖力が強い竹には子孫繁栄の意味が込められており、当時の婚礼の真意を示す意匠といえます。
豊姫の婚礼調度を見ていると、単調な竹菱文と家紋ばかりのためか、大名の婚礼調度が単なる生活用具などではなく、また鑑賞品でもなく、家と家との結び付きと繁栄という究極の目的が良く理解されるように思われます。

 

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 猪熊兼樹(保存修復室長) at 2023年08月23日 (水)

 

古代メキシコの遺跡を体感!

皆さまこんにちは、特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」担当研究員の山本です。
本展も残り期間が少なくなってまいりました。
このブログでは展覧会で取り上げているなかから、見逃せない2つの遺跡をご紹介しましょう。
 
まずはなんといってもテオティワカンです。
首都メキシコシティから20kmほど北東にある世界遺産にも登録されている遺跡です。
長さ3.3kmの「死者の大通り」と3つのピラミッドをもとに整然とした都市が築かれました。
本展覧会の監修である杉山三郎先生(岡山大学特任教授、アリゾナ州立大学研究教授)が長年調査に携わってこられた遺跡でもあり、今回の特別展では「死のディスク石彫」などメキシコ国立人類学博物館の有名作品をはじめ、杉山先生がピラミッドの発掘調査で発見した遺物を展示しています。
 
参考画像 2010年に発行された、テオティワカンをモチーフにしたメキシコの切手。切手の博物館、田辺龍太学芸員ご提供(切手の展示はございません)。
右上の「死のディスク石彫」、左下の「マスク」は本展展示作品。
左上の羽毛の蛇ピラミッドの「羽毛の蛇神石彫」は、本展ではピラミッドの別の場所に飾られていたものを展示。
 
 
いま、遺跡を訪れても灰色の石の世界が広がっていますが、本来は石に漆喰を塗り、その上を赤く塗っていました。
これは遠く離れたマヤ文明でも同じで、古代メキシコの建物の多くは赤い色をしていたのです。
またこうした建物の壁は色鮮やかな壁画で飾られました。
展覧会場でも、作品を通じてこうした古の遺跡の姿に思いを馳せていただくことができるでしょう。
 
羽毛の蛇神石彫
テオティワカン文明 200~250年
テオティワカン、羽毛の蛇ピラミッド出土
テオティワカン考古学ゾーン蔵
よく見ると、目のわきや口などにわずかに色が残っているのがわかります。
嵐の神の壁画
テオティワカン文明 350~550年
テオティワカン、サクアラ出土
メキシコ国立人類学博物館蔵
こうした赤色を基調として、様々な壁画が都市を飾っていました。
 

 

もうひとつご紹介したいのが、やはり世界遺産となっている、マヤ文明を代表する遺跡であるパレンケです。
パレンケはマヤ文明の都市のなかでは決して大きなものではありませんでしたが、建築や彫刻に傑作が多くマヤ文明の芸術の都とも呼ばれます。
 
参考画像 2008年に発行された、パレンケをモチーフにしたメキシコの切手。切手の博物館、田辺龍太学芸員ご提供(切手の展示はございません)
上段右の説明部分の右に、本展覧会では複製を展示している「パカル王とみられる男性頭像」、下段中央の建物が「碑文の神殿」で、その奥には赤の女王墓である13号神殿も描かれています。
上段中央の緑のマスクはパカル王のもの(本展では展示していません)。
 
 
この遺跡で見つかったのが、本展覧会の注目作品の一つである「赤の女王」墓の副葬品です。
赤の女王は、パレンケの中興の祖ともいえる偉大な王、パカル王の妃と考えられています。
赤の女王の墓は、パカル王の墓である「碑文の神殿」の隣の建物から見つかりました。
赤の女王の名は、棺の中が辰砂(しんしゃ、水銀朱)で真っ赤だったことに由来します。
 
参考画像 赤の女王の棺。辰砂の赤い色は血すなわち生命の象徴であり、また遺体を保護する効果もあったと言われます
 
 
赤の女王墓の副葬品は、石室に埋葬された状態をイメージした空間に展示しています。
会場には、このほかにも映像などで遺跡を体感できる仕掛けをいろいろと設けています。
展覧会を通じて、古代メキシコの奥深さが皆様に伝わりましたら幸いです。
 
特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」の会期は9月3日(日)まで。この機会をぜひお見逃しなく。
 

 

 

カテゴリ:「古代メキシコ」

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posted by 山本亮(考古室研究員) at 2023年08月22日 (火)

 

生贄(いけにえ)とは何か?

特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」を担当している学芸研究部長の河野一隆です。
 
メソアメリカ文明と向き合う重要な要素の一つに、人身供犠(じんしんくぎ)、いわゆる生贄があります(図1)。
現代のヒューマニズムの観点からすると、眉をひそめてしまう習慣ですが、当時の人々にとっては、社会の安寧秩序を保持するために、神々だけでなく自らをも犠牲にしなければならないという、利他精神に支えられた儀式でした。
 
図1 アステカの生贄儀礼(マリャベッキ絵文書)
特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」図録より
 
神と人間とが協力して初めて成し遂げられるモニュメントの造営には、人身供犠が付きものです。それはメキシコ以外の文明でも例外ではありません。
たとえば、メソポタミア文明のウルの王墓では、調査によって人身供犠の儀式が最も詳細に解明されています。
 
図2 メソポタミア・ウルの王墓での殉葬場面(復元)
ウーリー(瀬田貞二・大塚勇三訳).『ウル』.みすず書房,1958年 より
 
図2の発掘者レナード・ウーリーの復元によれば、棺に入った王が墓室内に安置された後、戦車、人々や動物たちは斜めのスロープを下りて地下へ向かいます。兵士・楽師たちはそれぞれ手に自らの道具を携えて整列し、めいめいが陶器製の小さな盃を手にしていました。その中に入っていたのは毒薬です。儀式が最高潮に達すると、それぞれが盃をあおり、静かに墓の中に崩れ落ちます。そして、すべての儀式が終わると、土で埋め立てられ、王と死出の旅路を共にするのです。メソアメリカ文明同様、メソポタミア文明でも神に自身を捧げる行為はたいへん名誉なことでした。
また、歴史の父、ギリシャのヘロドトスも、黒海沿岸のスキタイ王の埋葬について記録しています。死せる王と共に殉死させられたのは、料理番、馬丁(ばてい)、侍従、馬などでした。さらに、1年後には最も王に親しく仕えた侍臣50名が選出され、馬に乗せた状態で王墓の周りに立て並べられました。
 
それでは、殉死者のすべてが望んで殉死したかというと、そういうわけでもないようです。
たとえば、『日本書紀』には、垂仁天皇(すいにんてんのう)の皇后・日葉酢媛(ひばすひめ)の死に際し、生きたまま墓の周囲に立てられた人間や馬の代わりに埴輪を代用することを豪族の野見宿祢(のみのすくね)が進言したという埴輪の起源説話が記録されています(図3)。
 
図3 埴輪 盛装の男子
群馬県太田市 四ツ塚古墳出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵
(注)現在展示していません
 
形象埴輪の起源が、この説話の通りでないことは、現代の日本考古学が証明していますが、神に捧げる対象が生身の人間や動物から仮器(模造品)に移行したことは重要です。この現象は、日本だけでなく世界各地の王墓でも知られているからです。
その代表例が、秦始皇帝陵(しんしこうていりょう)に付属する兵馬俑坑(へいばようこう)です。地下宮殿を守護する写実的に造形された衛兵たちは、それ以前の殷代の王墓で生贄を土壙(どこう)に投げ込んで神に捧げていた段階よりは、はるかに進化した社会のように見えなくもありません。
 
しかし、そうとばかりも言い切れないと私は思います。
 
神への捧げものが、なぜ実物から代用品へと移り変わるのでしょうか?
それは、決して社会における神の地位が低下したからではなく、反対に王墓の被葬者である王自身が神格化したからだと考えます。つまり、王も殉死者もさらには八百万の神々さえも、自らを犠牲にしなければ維持できなかった社会から、王が神となり、自身に奉仕することが社会秩序を安定させるための手段だと見なされた社会への移行です。エジプトのウシャブティなどはまさにこの典型例といえるでしょう。王に権力が集中するためには、王への奉仕者は、その役割がはっきりと分化していなければなりませんでした。時代が下るにつれて、マヤの土偶のように人物の造形描写がよりリアルなものへと変わってくるのはこのためです。
 
人身供犠の消滅は、現代の私たちにとっては喜ぶべきことのように見えます。しかし、当時の人々にとっては、王が神と肩を並べた絶対的存在として社会に君臨し、自らのむき出しの権力をいっそう強め、人民を抑圧し搾取するようになったと捉えられたのかもしれません。かくして、王墓や装飾墓などの「見せる埋葬」が、ますます鮮明になってくる時代が到来します。

カテゴリ:「古代メキシコ」

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posted by 河野一隆(学芸研究部長) at 2023年08月17日 (木)