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生贄(いけにえ)とは何か?

特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」を担当している学芸研究部長の河野一隆です。
 
メソアメリカ文明と向き合う重要な要素の一つに、人身供犠(じんしんくぎ)、いわゆる生贄があります(図1)。
現代のヒューマニズムの観点からすると、眉をひそめてしまう習慣ですが、当時の人々にとっては、社会の安寧秩序を保持するために、神々だけでなく自らをも犠牲にしなければならないという、利他精神に支えられた儀式でした。
 
図1 アステカの生贄儀礼(マリャベッキ絵文書)
特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」図録より
 
神と人間とが協力して初めて成し遂げられるモニュメントの造営には、人身供犠が付きものです。それはメキシコ以外の文明でも例外ではありません。
たとえば、メソポタミア文明のウルの王墓では、調査によって人身供犠の儀式が最も詳細に解明されています。
 
図2 メソポタミア・ウルの王墓での殉葬場面(復元)
ウーリー(瀬田貞二・大塚勇三訳).『ウル』.みすず書房,1958年 より
 
図2の発掘者レナード・ウーリーの復元によれば、棺に入った王が墓室内に安置された後、戦車、人々や動物たちは斜めのスロープを下りて地下へ向かいます。兵士・楽師たちはそれぞれ手に自らの道具を携えて整列し、めいめいが陶器製の小さな盃を手にしていました。その中に入っていたのは毒薬です。儀式が最高潮に達すると、それぞれが盃をあおり、静かに墓の中に崩れ落ちます。そして、すべての儀式が終わると、土で埋め立てられ、王と死出の旅路を共にするのです。メソアメリカ文明同様、メソポタミア文明でも神に自身を捧げる行為はたいへん名誉なことでした。
また、歴史の父、ギリシャのヘロドトスも、黒海沿岸のスキタイ王の埋葬について記録しています。死せる王と共に殉死させられたのは、料理番、馬丁(ばてい)、侍従、馬などでした。さらに、1年後には最も王に親しく仕えた侍臣50名が選出され、馬に乗せた状態で王墓の周りに立て並べられました。
 
それでは、殉死者のすべてが望んで殉死したかというと、そういうわけでもないようです。
たとえば、『日本書紀』には、垂仁天皇(すいにんてんのう)の皇后・日葉酢媛(ひばすひめ)の死に際し、生きたまま墓の周囲に立てられた人間や馬の代わりに埴輪を代用することを豪族の野見宿祢(のみのすくね)が進言したという埴輪の起源説話が記録されています(図3)。
 
図3 埴輪 盛装の男子
群馬県太田市 四ツ塚古墳出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵
(注)現在展示していません
 
形象埴輪の起源が、この説話の通りでないことは、現代の日本考古学が証明していますが、神に捧げる対象が生身の人間や動物から仮器(模造品)に移行したことは重要です。この現象は、日本だけでなく世界各地の王墓でも知られているからです。
その代表例が、秦始皇帝陵(しんしこうていりょう)に付属する兵馬俑坑(へいばようこう)です。地下宮殿を守護する写実的に造形された衛兵たちは、それ以前の殷代の王墓で生贄を土壙(どこう)に投げ込んで神に捧げていた段階よりは、はるかに進化した社会のように見えなくもありません。
 
しかし、そうとばかりも言い切れないと私は思います。
 
神への捧げものが、なぜ実物から代用品へと移り変わるのでしょうか?
それは、決して社会における神の地位が低下したからではなく、反対に王墓の被葬者である王自身が神格化したからだと考えます。つまり、王も殉死者もさらには八百万の神々さえも、自らを犠牲にしなければ維持できなかった社会から、王が神となり、自身に奉仕することが社会秩序を安定させるための手段だと見なされた社会への移行です。エジプトのウシャブティなどはまさにこの典型例といえるでしょう。王に権力が集中するためには、王への奉仕者は、その役割がはっきりと分化していなければなりませんでした。時代が下るにつれて、マヤの土偶のように人物の造形描写がよりリアルなものへと変わってくるのはこのためです。
 
人身供犠の消滅は、現代の私たちにとっては喜ぶべきことのように見えます。しかし、当時の人々にとっては、王が神と肩を並べた絶対的存在として社会に君臨し、自らのむき出しの権力をいっそう強め、人民を抑圧し搾取するようになったと捉えられたのかもしれません。かくして、王墓や装飾墓などの「見せる埋葬」が、ますます鮮明になってくる時代が到来します。

カテゴリ:「古代メキシコ」

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posted by 河野一隆(学芸研究部長) at 2023年08月17日 (木)