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1089ブログ

中国書画精華―日本における受容と発展―

過ごしやすい季節となりました。少々気は早いですが、新米に紅葉、博物館と、この時期ほど日本を感じられる季節はないのではないでしょうか。

約1か月間のお休みをいただき、展示環境の調整を行っておりました東洋館8室。現在は、特集「中国書画精華―日本における受容と発展―」(~2015年11月29日(日)、一部展示替えあり)を開催中。文化交流をテーマにした「博物館でアジアの旅」(~2015年10月12日(月・祝))の筆墨ツアー(10月9日(金) 11:00~)にもなっています。
本場の中国でもなかなか見られない書画の名品が一堂に会するこの企画は、東洋館8室の秋の風物詩となりました。今年は日本における受容と発展に注目しながら、中国書画の尽きせぬ魅力をご紹介します。

展示風景

本展の見どころの一つに、禅宗僧侶の書「墨跡」があります。平安時代末以降、南宋・元に渡った日本の禅僧は参学修行の証として、頂相や袈裟など様々なものを請来しました。そのなかには臨済宗楊岐派の高僧の書が多くみられ、また幕府の招聘を受けて来日した中国僧も多くの書を残しました。
もとは墨で書かれた筆跡を指す墨跡という言葉は、日本において、中国からもたらされた禅僧の書、更には日本の禅僧の書をも含めて、独特の意味合いをもつようになり、禅林のみならず将軍家、貴族、町衆らの間でも珍重されていきました。そこには、南北朝時代に五山の禅僧により詩文書画の応酬など文芸活動が活発に行われたこと、そして、室町時代以降の茶の湯の普及と展開、すなわち茶室の床飾りとしての墨跡鑑賞の流行が背景にあります。中国禅僧の書は、母国では見られない鑑賞法のもとに新たな意味づけがなされて、受容されていきました。

重要文化財 禅院額字「釈迦宝殿」 無準師範筆 

国宝 禅院額字「旃檀林」 張即之筆
上:重要文化財 禅院額字「釈迦宝殿」 無準師範筆 
南宋時代・13世紀 京都・東福寺伝来 東京国立博物館蔵(梅原龍三郎氏寄贈)
下:国宝 禅院額字「旃檀林」 張即之筆
南宋時代・13世紀 京都・東福寺蔵

ともに博多・承天寺の創建(1242)に際して、無準師範が弟子で同寺開山の円爾弁円に送ったとされる額字(懸額の書)。これらの額字・牌字(看板の書)には、2種類の書風が認められ、無準のほか南宋の能書家、張即之筆と伝承されるものがあります。張即之は無準門や大慧派の禅僧と広く交流し、南宋禅林では張の書風が流行したと言われます。円爾の請来品や、張風の書をよくした渡来僧を介して、張即之の書法は墨跡とともに日本で受容されることとなりました。


もう一つの見どころは、足利将軍家のコレクション「東山御物」に収められた南宋を主とする中国絵画です。東山御物は、すでに三代将軍義満(在位1368~1394)の頃にその中核が築かれ、六代将軍義教(在位1428~1441)の代に最も充実するところとなった唐物コレクションです。会所を鑑賞の場として、将軍と近侍する同朋衆により座敷飾りの取り合わせが考えられ、時に天皇の御成などに際しても、選りすぐりの逸品で各室が最上の空間に飾られました。東山御物中の唐絵には、鑑蔵印等を工夫して異なる作品を対に仕立てたものや、大幅・巻子を切断したものなどがあり、将軍・同朋衆が自らの美意識のもとで極めて積極的な鑑賞を行っていたことが窺えます。

梁楷の三幅対
中:国宝 出山釈迦図 梁楷筆 南宋時代・13世紀
東京国立博物館蔵 ※10月27日(火)から展示
左:
国宝 雪景山水図 梁楷筆 南宋時代・13世紀
東京国立博物館蔵 ※10月27日(火)から展示
右:
国宝 雪景山水図 伝梁楷筆 南宋時代~元時代・13~14世紀
東京国立博物館蔵 ※修理中のため、本展では出品されません
もとは別物として伝来したものを、中幅に「出山釈迦図」、左右幅に2種の「雪景山水図」を配する三幅対に仕立てて、東山御物として鑑賞されました。



御物御画目録
御物御画目録 伝能阿弥筆 室町時代・15世紀 東京国立博物館蔵
同朋衆の能阿弥が、東山御物中の唐絵を、料紙の種類や画面の大きさ・対幅の形式で分類し、画題・画家を記録した『御物御画目録』の写本。収録されるすべてが宋・元の絵画で、上掲の3幅対は「出山釈迦 脇山水 梁楷」(の部分)に相当します。


このほか、近代以降に伝来したいわゆる「新渡り」の書画も見逃せません。中国で正統とされ、これまで日本人が決して目にすることのできなかった宋から清に至る本格的な書画は、日清修好条規の締結(調印1871)を契機とした日中間の文化的交流や、義和団事件(1900)・辛亥革命(1911)をきっかけとした中国文物の流出を背景として、明治時代以降、日本に少なからずもたらされました。戦後、当館にご寄贈いただいた高島菊次郎(1875~1969)や青山杉雨(1912~1993)のコレクションなどには、中国伝統の文人趣味が反映され、彼らの熱意ある収集活動がなければ、今日、これほどまでに中国書画を身近に感じることはできなかったでしょう。

行草書十詩五札巻

雑画冊 陳鴻寿筆 清時代・嘉慶22年(1817)

上:行草書十詩五札巻 鮮于枢筆 元時代・13世紀 東京国立博物館蔵(高島菊次郎氏寄贈)
下:雑画冊 陳鴻寿筆 清時代・嘉慶22年(1817) 東京国立博物館蔵(青山慶示氏寄贈) ※10月25日(日)まで展示


日本にもたらされた中国書画は、それまでとは異なる価値基準のもとに、新たな鑑賞法や意味が見出され、大切に伝えられてきました。日本における中国書画をめぐる文化に、少しでも触れていただければ幸いです。

 

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡博物館でアジアの旅

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posted by 六人部克典(登録室アソシエイトフェロー) at 2015年10月02日 (金)

 

東洋の白磁の起源―中国・6世紀の鉛釉陶と白磁

東洋館5室にて開催中の特集「東洋の白磁―白をもとめ、白を生かす」(12月23日(水・祝)まで)。
東京国立博物館では「描くやきもの―奔放なる鉄絵の世界(東洋の鉄絵)」(2007年)、「東洋の青磁」(2012年)と、中国、朝鮮、日本、東南アジアのやきものを一堂に集めて、その魅力を紹介する特集を企画してきました。今回の特集は「東洋のやきもの」特集第3弾です。

白磁はやきものの国、中国で生まれました。

その白い胎土は硬く焼き締まり、水をほとんど通しません。清潔感があってどんな料理にも合い、使いやすさからいまや私たちの日常の食卓に欠かすことのできないうつわです。また、ガラスのように薄く軽く、光を受けて輝く姿は、華やかな饗応の場でも見劣りすることはありません。そして青花や五彩といった色彩豊かな磁器の礎であることは言うまでもありません。

うつわの王ともいうべき白磁を白磁たらしめるもの、それは透明釉(とうめいゆう)と真っ白な胎土(たいど)です。

釉は、土をかためてうつわをつくり、高火度で焼き締めた際、燃料の灰がうつわに降りかかって偶然に生じたと考えられています。それははるか昔、商(しょう)(殷(いん))王朝の時代のこと。当時の釉はムラがあり、鉄分や不純物を含んで全体に緑色や茶色を帯びていました。水を通さず、素地をより清潔で堅牢なものにし、さらにガラスのように表面をつややかに美しくみせるという役目にはまだまだ未熟なものでありました。

精製された白い胎土に、不純物をできるだけ取り除いた釉が掛かった白いやきものが登場したのは、それから2000年も経った6世紀頃のことです。このときつくられたのは、白い素地に低火度釉の鉛釉(なまりぐすり)の透明釉を掛けた鉛釉陶と、白い素地に高火度釉の透明釉を掛けた白磁、この2種類に大きく分けることができます。

2010年(平成22)に開催された夏季特別展「誕生!中国文明」を皆様覚えていらっしゃるでしょうか。夏(か)王朝誕生の地であり、商(殷)が拠点を置き、以降東周(とうしゅう)、後漢(ごかん)、魏(ぎ、三国時代)、西晋(せいしん)、北魏(ほくぎ)と歴代の王朝が都を構えた歴史上きわめて重要な地として知られる中国・河南(かなん)の出土遺物を集めた展覧会でした。

展覧会が開かれる前年、同僚の研究員らとともに私ははじめて河南省を訪ねました。中国陶磁を専門にする私の担当は、鄭州(ていしゅう)と洛陽(らくよう)で唐三彩を調査すること。とくに洛陽は唐時代、長安(西安)にならび栄えた都市。唐の貴人墓からは三彩が大量に出土し、程近い鞏義(きょうぎ)では窯址も見つかっています。まさに唐三彩の中心地に降り立ったのでした。

しかし、三彩や五彩のように華やかに彩られたやきものよりも、白や黒、青といった単色のやきものにどうしても惹かれてしまう私(専門は青磁です)。鄭州にある河南博物院の展示室のなかでもっと面白いものはないかとぶらぶら歩いていたところ、ある一画に目を奪われました。北斉(ほくせい、550~577)の高官、范粹(はんすい)の墓(安陽市)から出土した鉛釉の白いやきものと、隋(ずい、581~61)の官吏であった張盛(ちょうせい)の墓(安陽市)から出土した白磁です。

張盛墓出土女子俑
張盛墓出土女子俑(中国・河南博物院にて。本特集には展示されていません)
張盛墓からは、特別展「誕生!中国文明」に出品された白磁鎮墓獣(ちんぼじゅう)・武人俑のほかに100件近くの動物や人物の俑が出土しました。こちらの加彩の女子俑の手には香炉や盤、茶碗のようなさまざまなうつわが見え、当時の上流階級者のゆたかな生活の様子をうかがうことができます

張盛墓出土明器
張盛墓出土品(中国・河南博物院にて。本特集には展示されていません
張盛墓からは大量の俑に加え、壺や瓶、灯、碗のほか、井戸やかまど、倉などのミニチュアもたくさん見つかりました。この画像にみるうつわはみな白い素地にやや緑色を帯びた高火度の透明釉が掛かっており、中国では「青瓷(せいじ)」と報告されていますが、この釉が精製されてより透明に近づくとまさに白磁とよぶべきものです


范粹墓出土三彩三耳壺
范粹墓出土三彩三耳壺(中国・河南博物院にて。本特集には展示されていません
この作品は
特別展「誕生!中国文明」に出品されたもの。胎土は白いですが、胴部の途中まで白土で化粧をし、鉛釉の透明釉を掛け、さらに肩から緑釉を細く流し掛けています

これらは大量の副葬品で注目を集めただけでなく、中国白磁の展開を知るための「教科書」のような、研究者にとっては憧れの存在。なぜならば6世紀、北斉や隋の高貴な人々に強くもとめられた「白い」やきものは、その後中国陶磁が造形・装飾ともに大きく進化し、人々の生活にひろく浸透してゆく直接的な祖であり、基盤になったといえるものです。その象徴が范粹と張盛、二人の墓の出土品なのです。

今回の特集では、北斉、6世紀の白釉陶が3点出品されています(常盤山文庫(ときわやまぶんこ)所蔵 白釉突起文杯・三彩瓶・三彩四耳壺)。三彩の2点は化粧をしておりませんが、范粹墓出土の三彩三耳壺によく似ていることがわかります。緑や黄、藍などの色釉を掛けて彩る三彩は、白い素地にこそ映えるもの。これらは、唐三彩の前段階の三彩と位置づけることができます。

三彩瓶・三彩四耳壺・白磁四耳壺
(左) 白磁四耳壺  中国 唐時代・7世紀 個人蔵
(中) 三彩四耳壺 中国 北斉時代・6世紀   常盤山文庫蔵
(右) 三彩壺 中国 北斉時代・6世紀   常盤山文庫蔵

奥にならぶのは、個人蔵の白磁四耳壺。7世紀に位置づけられるもので、白く硬い胎にやや緑色を帯びた高火度焼成の釉が掛かっています。こちらは前述の張盛墓から出土した「青瓷」に雰囲気がよく似ています。鉛釉の白いやきものと白磁、展示室で見比べてみてください


これらのほかにも、展示では唐、宋、元時代の白いやきもの、ベトナム・日本・朝鮮の白いやきものなど、表情ゆたかな白いうつわをたくさん集めました。「博物館でアジアの旅」(9月29日(火)~10月12日(月・祝))の機会に、中国にはじまる白磁技術の伝播をたどりながら、それぞれ異なる見どころをぜひ見つけてお楽しみいただきたいと思います。



参考文献:拙稿「白い器を求めて―河南における白磁の展開―」『誕生!中国文明』展覧会図録、『常盤山文庫中国陶磁研究会 会報3 北斉の陶磁』2010

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開博物館でアジアの旅

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posted by 三笠景子(東洋室研究員) at 2015年09月28日 (月)

 

春日の神々に出会う

いま、本館の特別1室では、「春日権現験記絵模本Ⅱ―神々の姿―」と題する特集を行なっています(10月12日(月・祝)まで)。
この特集は、奈良市に鎮座する春日大社に祀られる神々の利益と霊験を描く春日権現験記絵模本の魅力とともに、春日信仰の諸相を様々な角度からご紹介する2回目の試みです。昨年は「美しき春日野の風景」をテーマに、描かれた聖地・春日野の風景や、美しい朱塗りの社殿などから、春日の神々への多様な信仰をご紹介しました。今回は「神々の姿」をテーマとしていますが、展示場面を見ていく前に、この絵巻模本についてご紹介しておきましょう。

今回展示している春日権現験記絵模本の原本=春日権現験記絵は、三の丸尚蔵館が所蔵する全20巻の絵巻です。鎌倉時代の後期、時の左大臣西園寺公衡の発願により、高階隆兼という宮廷絵所絵師によって描かれました。通常紙に描かれることの多い絵巻としては異例の絹に描かれおり、数ある絵巻作品の中でも最高峰の一つに数えられています。
江戸時代の半ば頃になると、こうした貴重な絵巻の模本を作ろうという動きが活発化してきます。今回展示しているのは、紀州(和歌山)藩主徳川治宝の発案により、林康足、原在明、浮田一蕙、冷泉為恭、岩瀬広隆といった復古やまと絵師たちによって写されました。模写にあたっては大変な苦労があったことが、附属の目録に記されています。

 春日権現験記絵(模本)目録 長澤伴雄筆
春日権現験記絵(模本) 目録 長澤伴雄筆 江戸時代・弘化2年(1845)
模写プロジェクトを任された長澤伴雄が、模写の経緯を記しています。様々な苦労を経て完成した際の興奮がほとばしります。


さて、話を今回のテーマ「神々の姿」に戻しましょう。
この絵巻では、春日の神々は様々な姿で人の前に姿を現わしています。とりわけ多いのが人の姿。春日社の主な祭神は、本殿に祀られる武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)とともに、若宮(わかみや)をあわせた五柱の神です。武甕槌命、経津主命、天児屋根命は男神であるため束帯姿で、比売神は女神であるため女性の姿で、また若宮は御子神とされるため童子の姿で人びとの前に顕現しています。

春日権現験記絵(模本)巻第10
春日権現験記絵(模本)巻第十
樹上で舞を舞う束帯姿の春日明神。

春日権現験記絵(模本)巻第十
春日権現験記絵(模本)巻第十
雲に乗る女性姿の春日明神。

春日権現験記絵(模本)巻第十四  冷泉為恭他模  江戸時代・弘化2年(1845)
春日権現験記絵(模本)巻第十四

老僧の膝の上に乗る童形の春日明神。


こうした人の姿とともに、仏の姿でも顕現する場面もあります。日本の神とは、仏が仮の姿で現われたとする「本地垂迹説」という考え方がその背景にあります。

春日権現験記絵(模本)巻第十一
春日権現験記絵(模本)巻第十一
春日三宮が地蔵菩薩の姿で現われたところ。



さて、こうした様々な姿で人びとの前に現われる春日の神々ですが、場面を追っていくといくつか特徴的な点が見えてきます。その一つが、いくつかの例外を除き神の顔を描いていない点です。後ろ向きに描かれる場合はもとより、時に霞や樹木、建物を不自然なまでに配し、神の顔を描かないことに配慮しています。ここには、神の姿を顕わに描くことに対するはばかりがあったと考えられています。

春日権現験記絵(模本)巻第七
春日権現験記絵(模本)巻第七
画面には春日の二柱の神が描かれていますが、見つけられますか?樹木によってそのお顔が隠されています。



もう一つの特徴が、人が神に出会うタイミングが夢の中だということです。昼日中に堂々と、神が人の前にその姿を現わすことはほとんどありません。漆黒の夜の闇の中にこそ、人が神と出会う舞台が用意されていると言うことができます。

春日権現験記絵(模本)巻第十五
春日権現験記絵(模本)巻第十五
伊勢の斎宮の前に現われた春日明神。みなぐっすりと眠っています。


こうした夢以外の、神と出会う重要な場面は人が死に直面した時です。この絵巻では臨終の場面で神に出会う話や、いったん地獄に堕ちた人間が春日明神のおはからいによって救済された話なども描かれています。

春日権現験記絵(模本)巻第六
春日権現験記絵(模本)巻第六
春日明神のおかげで地獄行きを逃れた男。春日明神の案内でこれから地獄ツアーに向かいます。


そして、神々に出会うために何よりも重要なのは、春日の神々への深い崇敬の念です。この絵巻を見た人びとも、神との縁を結ぶため、敬神の思いを新たにしたことでしょう。
今回の展示では、春日の神々の描かれた場面を特に選んで展示するとともに、神と仏が一体化した信仰形態を示す画像も展示しています。

春日本地仏曼荼羅
春日本地仏曼荼羅 鎌倉時代・13世紀(2015年9月23日(水・祝)まで展示)
春日野の景観とともに、春日の神々の本来の姿であるとされる仏(本地仏)の姿を描きます。


神々の姿は本来目に見えないものとされます。ですが、どうしても「見たい」という人びとの強い思いによって「神々の姿」は画像として表わされました。
幕末やまと絵師たちの画技とあわせ、多様な「神々の姿」をご覧になりに、是非とも展示室にお運び下さい。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 土屋貴裕(平常展調整室主任研究員) at 2015年09月11日 (金)

 

親子でエジプト探検 in ナイト・ミュージアム

2015年8月22日(土)、ファミリーワークショップ「親子でエジプト探検 in ナイト・ミュージアム」が行われました。
家族連れ19組、52名の皆さんが参加されました。

このワークショップは、東洋館2階3室で行われている特集、親と子のギャラリー「ミイラとエジプトの神々」と、ミュージアムシアターで上演している「東博のミイラ デジタル解剖室へようこそ」に関連して行われました。

閉館時間の6時から始まったワークショップ。
東洋館のミュージアムシアターに、夕方から続々と親子連れの皆さんが集まり始めました。
シアターにて

まずはごあいさつ。
エジプトの壁画の研究を長年されている村治笙子先生と、探検隊ふうのいでたちの研究員(私です)が今日の案内役となります。
ごあいさつ

本日、ナイト・ミュージアムを探検するにあたり、参加者の皆さんのミッションは「古代エジプトの人たちの死生観について知ること」「ミイラについてくわしく知ること」です。

それでは展示室に出発!

…と思ったら、展示室のシャッターが閉まっていたので、すぐに警備スタッフの方に、開けていただきました。

…が!なんとシャッターの向こうの展示室が真っ暗です!
暗い展示室をのぞこうしたら、参加者のお一人が、「今日は探検だと思ったから」とヘッドライトを持参されていました。
準備万端、すばらしいです。
探検隊長(私です)のヘッドライトは、電池切れでした…。
展示室へ

無事に電気もついて、展示室に入ることができました。
3室の親と子のギャラリー「ミイラとエジプトの神々」では、まずいろいろな動物さがしをしました。
展示室

ネコ、ライオン、ヤマイヌ、トキ、ハヤブサ、カバなど、さまざまな動物が展示室に隠れていました。
村治先生によると、これらは、古代エジプトで信仰されていた神さまが、動物たちの姿で表わされているものなのだそうです。
動物たちは、人間にはない素晴らしい能力を備えた神聖な存在だったのですね。
神さまたちは「芸術」「知恵」「豊穣」「子宝」など、それぞれの守備範囲があり、その力を動物の姿であらわしたようです。

展示室にて解説

次はミイラのお話です。
参加者全員でミイラを取り囲みながら、観察して気がついた点を子どもたちが教えてくれました。
顔がまっくろ、髪の毛がない、布が巻かれている、いれものがまっくろだけど、字が書かれている!など、いろいろな意見が出ました。
村治先生からも、くわしくお話をしていただきました。

古代エジプトでは、死後の世界でも、永遠の命を授かり、生前と同じような暮らしを送ることが理想とされました。
そのために魂が戻る先として、体をミイラにして永遠に保存しようとしたのだそうです。

ミイラをみる子どもたち

このミイラ、パシェリエンプタハさんという男性なのですが、この日は50人以上の参加者の皆さんに取り囲まれて、かなり賑やかでうれしかったのではないでしょうか。

このあと、子どもたちは「古代エジプトでは、死んだらどうなる?」というワークシートに挑戦しました。
ワークシート

4つのミステリーを解いたワークシートを機械にかざすと、ミイラがあらわれ「最後の暗号」を教えてくれるというもの。
あちこちで、「おぉー!」という驚きの声が上がっていました。

そして最後に、ミュージアムシアターに戻り、
スクリーンの上でミイラについて詳しく説明された映像を見ます。
ここで探検隊にかわって村治先生と共に皆さんを案内してくださるナビゲーターは、八木ファラ夫さんです。
再登場された村治先生は、なんとエジプトの王妃のようないでたちです!

村治先生と八木ファラ夫さん

ファラ夫さんが映像を操作し、パシェリエンプタハのミイラをCTスキャナーで撮影してわかったことを教えてくれました。

ミイラ映像の解説


また、展示室で見たときにはまっくろに見えたカルトナージュ棺にはどんなもようが、どんな色で描かれていたのかも映像で再現されました。
展示室で見るのとは全くちがったその色鮮やかな様子に、驚いた方も多かったようです。

棺にはほかに、ヒエログリフという絵文字でさまざまな情報が書かれており、それも村治先生が解読してくれました。
「パシェリエンプタハさんに、神さまから供物と食料が与えられますように」
という内容で、彼が死後の世界で永遠に生きるために、のこされた人たちが願いをこめてこのミイラを作ったことがうかがえます。

今日のワークショップでは、古代エジプトの人たちが、死ぬことをどれだけ重く、大切に考えていたのかがよく分かりました。
死んだ人のためにお墓を建てたり、お墓参りに行く私たち日本人と、共通するところもあるような気がしますね。

夜8時までのワークショップでしたが、参加者の皆さん、目を輝かせながら最後まで楽しんでくださいました。

参加者

ナイト・ミュージアムは、また内容を変えていつかぜひ行いたいと思っています。
お楽しみに!



  親と子のギャラリー「ミイラとエジプトの神々」(東洋館3室)は、9月13日(日)まで、
VR作品「東博のミイラ デジタル解剖室へようこそ」(東洋館ミュージアムシアター)は、10月12日(月・祝)まで開催中です。
 

カテゴリ:教育普及特集・特別公開

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posted by 藤田千織(教育普及室主任研究員) at 2015年09月03日 (木)

 

後水尾院ってどんな人? 特集「後水尾院と江戸初期のやまと絵」

出版企画室の遠藤楽子です。暑いですね。みなさん夏休みの宿題は終わりましたか。
8月11日(火)から9月23日(水・祝)まで本館特別2室で行なわれる特集「後水尾院と江戸初期のやまと絵」を担当しています。展示作業をしていたところ、ユリノキちゃんが原稿の取立てにやってきました。

ユリノキちゃん
もとこさん、原稿はまだかしら?

みなさん、後水尾院はご存じですか。後水尾天皇と書かれることもあります。いけばながお好きな方は、よく立花の会を開いたということをご存知かもしれません。京都でお寺めぐりをする方なども、お寺の縁起などで名前を見かけたことがあるのではないでしょうか。後水尾院にはたくさんの皇子・皇女があり(早く亡くなった子どもを除いても26人はいたそうです)、門跡寺院の主となったり、お寺を開創したりしています。また、きものや琳派の絵がお好きな方は、尾形光琳の実家の呉服屋であった雁金屋が「東福門院」の御用達だったという話をお聞きになったことがあるかもしれません。その東福門院というのは後水尾院の中宮、つまりきさきです。徳川秀忠の娘で、家光の妹でした。江戸から京都の御所へ輿入れする様子はそのころの京都を描いた屏風絵などに華やかに表されて、江戸幕府の存在を京都の人々に強くアピールしました。東福門院は、徳川家の強大な経済力を背景に、後水尾院を支えたといいます。このように、後水尾院の話題を始めようとすると、それぞれの方向に果てしなくお話が広がっていきます。


立花図屏風 筆者不詳 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵
立花図屏風は六曲一双のうち一隻の展示です。


三夕図
三夕図 土佐光起筆 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵
暦の上では秋、にちなんで「三夕図」。ユリノキちゃんが見ているのは藤原定家です。

十二ケ月歌意図巻 下巻
十二ケ月歌意図巻 下巻  土佐光起筆  江戸時代・寛文4年~8年(1664~68) 東京国立博物館蔵
「十二ヶ月歌意図巻」は下巻の展示です。


では、江戸時代の絵画に後水尾院はどのように関係しているのか?というところに今回は着目しました。江戸時代の朝廷は、幕府が制定した「禁中並公家諸法度」によって、実質的な権力の及ぶ範囲は学問や文化に制限されていました。そのなかで、後水尾院はもともと和歌を好み、指導も行ないました。桂離宮の主として知られる八条宮智仁親王からさずかった「古今伝授」という和歌(具体的には古今和歌集)に関する秘伝を、当時の朝廷のおかれた状況に合わせた「御所伝授」というシステムに整理したともいわれています。秘伝ということは、限られた人たちにしか伝わらないということであり、その限られた人たちが、その世界では最も尊重される存在である、ということになります。つまり、後水尾院は教養をたしなむだけでなく、権威を活かす頭脳派だったのではないか?と考えられるのです。和歌をはじめとした古典文学が学問や文化の基本であるということは、それを絵に表わしたやまと絵やその制作にも、後水尾院の影響力は及んでいたにちがいありません。


在原業平と同じポーズをしてみたユリノキちゃん

ユリノキちゃん、みなさん、続きはぜひ展示室で見てみてください。江戸時代を見る目がさらに広がっていくはず・・・です!

 
関連論文
「東京国立博物館所蔵土佐光起筆十二ヶ月花鳥図巻の制作背景について―後水尾院との関係を中心に―」
ミュージアムショップにて8月21日(金)より販売予定のMUSEUM657号に掲載されます


カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 遠藤楽子(出版企画室研究員) at 2015年08月11日 (火)