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正月行事のルーツは宮廷儀礼!!

博物館に初もうで」( ~1月29日(日))と連動し、江戸時代の年中行事、とりわけ正月にかかわるさまざまな風俗や行事を絵画・書跡・歴史資料・工芸品で紹介する展示「歴史資料 江戸の年中行事―新年を祝う」が、本館16室にて2月12日(日)まで開催されています。

正月に家の入口に門松を飾り羽子板で羽根つきをする。きれいな着物を着飾って外出するといった光景は、現代の日本のお正月でも普通に見られる景色ですがその起源はかなり昔に遡ることができます。門松は平安時代の宮廷儀礼である「小松引き」がルーツと考えられています。「小松引き」とは、正月初めの子の日に、外出して小さな松の木を引き抜いてくる貴族たちの遊びの一種で、この「子の日の松」を長寿祈願のため愛好する習慣から変遷したものです。現在でも「根引きの松」と呼よばれ、関西地方の家の玄関の両側に白い和紙で包み金赤の水引を掛けた根が付いたままの小松が飾られているのはその名残でしょう。

正月飾りをする永寿堂店先 と 門松売図
(左)正月飾りをする永寿堂店先 鈴木春信筆 江戸時代・18世紀
(右)門松売図 模者不詳 原本:狩野晴川院筆 江戸~明治時代・19世紀
(ともに ~2012年2月12日(日)展示 本館16室)

また正月遊びの代名詞である羽子板での羽根突きは、毬杖(ぎっちょう)という奈良時代から行われてきた宮廷の神事がもとになっています。木製の槌をつけた木製の杖を振るい、木製の毬を相手陣に打ち込む正月の宮廷神事でしたが、後に童子の遊びとなり、杖が羽子板に変化し、毬が羽に変わった遊びが江戸時代に入ると庶民の遊びとして人気となり現在の羽根突きの原型が形作られたと考えられています。

羽子板 と 合惚色の五節句・正月
(左)羽子板 江戸時代・18~19世紀
(右)合惚色の五節句・正月 喜多川歌麿筆 江戸時代・18世紀
(
ともに ~2012年2月12日(日)展示 本館16室)

今ご紹介したこれらはあくまでほんの一例ですが、季節ごとに行う日本人が今も大切にしている一年の中で行う様々なイベントである「年中行事」の大半は、実は貴族たちがその精力を傾けた宮廷儀礼や儀式にその起源を求めることができます。貴族たちにとってはそうした儀礼や儀式を滞りなくこなしていくことがいわゆる政治を行うこととイコールだったのです。

しかし時代が下り貴族が政治の表舞台から遠ざかっていくにつれて、宮廷で行われていた儀式や儀礼は庶民へと広がって行き、多くの遊びや民間での行事へと変化していきます。今では大人も子供も楽しむ正月遊びも、かつての平安貴族たちにとっては自分たちの浮沈をかけた真剣勝負の場であったことに思いをはせると何とも不思議な感じがしませんか?

カテゴリ:研究員のイチオシ博物館に初もうで

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posted by 高梨真行(書跡・歴史室、ボランティア室)) at 2012年01月09日 (月)

 

書を楽しむ 第6回「シゴウチョクショ」

書を見るのはとても楽しいです。

より多くのみなさんに書を見る楽しさを知ってもらいたい、という願いを込めて、この「書を楽しむ」シリーズ、第6回。

今回も新年「特別公開」(2012年1月2日(月)~1月15日(日))の中から、「円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書」をご紹介します。

えんちん ぞうほういん だいかしょうい ならびに ちしょうだいし しごうちょくしょ。

大師というと、有名なのは、弘法大師。
そもそも大師とは、高僧の徳を称えて朝廷から賜られる尊称で、多くの場合は死後に贈られました。
この文書は、36年前に亡くなった延暦寺第五世座主の円珍に、
「法印大和尚位」という位と、「智証大師」という諡号(おくり名)を贈ることを、
朝廷から延暦寺に伝えた勅書です。
略して、私たちは「諡号勅書」(シゴウチョクショ)と呼びます。

「諡号勅書」は、小野道風(おののとうふう、894~966)が書いたものです。


国宝 円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書  小野道風筆 平安時代・延長5年(927)
(2012年1月2日(月・休)~2月5日(日)展示)


小野道風、数え年で34歳の字です!

道風は、若いときから能書(のうしょ:書の上手な人)として頭角をあらわし、
『源氏物語』でも「今めかし」(現代風で)「をかしげ」(興味深い)と、高く評価されている人です。
和様の書の祖であり、
次につづく藤原佐理、藤原行成とあわせて、「三跡」と呼ばれます。

その道風は、中国の書聖、王羲之(303?~361?)の書を学びました。
生存中から「羲之の再生」と評されています。


「済」の字の比較
(右)諡号勅書(部分)
(左)懷仁集王聖教序(部分) 王羲之筆 唐時代・咸亨3年(672) 高島菊次郎氏寄贈 (展示予定は未定)


左は王羲之の書いた字をさまざまな文書から集めて手本とした「集字聖教序」の中の「濟」。
実際の王羲之の書には「濟」の字がなく、別の字からヘンとツクリをあわせてつくったものです。
そのため、ヘンのサンズイが大きく、やや安定感がありません。
どうでしょう、右側の道風の「濟」は?
同じようにヘンがやや大きいのは、一生懸命、羲之の字を真似て書いたからです。

とは言うものの、「諡号勅書」全体として見れば、
たっぷりと墨をふくんだ、柔らかく、少し軽快な線、
まさに、和様(わよう)、になっています。

一緒に展示している、「唐詩断簡」(右)と比べてみてましょう。

 
(左)諡号勅書一紙目
(右)重要文化財 唐詩断簡(絹地切)(部分) 小野道風筆 広田松繁氏寄贈 (2012年1月2日(月・休)~2月5日(日)展示)

どちらも道風の字なので当然ですが、「高」の字など、そっくりです。


「高」字の比較
(左)諡号勅書、(右)唐詩断簡 (ともに部分)


でも!!
また全体を見てみてください。
「諡号勅書」(左)と「唐詩断簡」(右)、雰囲気が違うと思いませんか?

「唐詩断簡」は、よく見ると、

 
(左)「紫皆」の線が細くなっています。
(右)下の方の拡大。左画像と比べて一文字が小さく書かれています。
ともに唐詩断簡 (部分)


線がとても細い文字(左の画像「紫皆」)や
スペースが足りなくなってしまったせいか、小さく書かれた文字(右の画像、一番下の字)があります。

ちょっとした違いですが、
「諡号勅書」は、整理整頓された緊張感のある書に、
「唐詩断簡」は、自由な雰囲気の書に見えます。

かたちは似ていても表現の違いで、これだけ雰囲気が変わります。
かたちと線質の両方あって、はじめて書が形成されます。
それが書の面白いところです。

道風の書を並べて比較できる機会はあまりありません!
ぜひ、そっくりの字、雰囲気の違う字を探してみてください。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ書跡

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posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2012年01月07日 (土)

 

ようこそ日本へ!「清明上河図」!後編

このブログは、「ようこそ日本へ!「清明上河図」!前編」(1月2日掲載)に続く後編です。
作品のあまりの細密なその内容に、ブログ1回では語るに足りず、前後編2回でお届けしております。
(以下、作品の掲載画像はすべて、[一級文物] 清明上河図巻(せいめいじょうかずかん)(部分)
張択端(ちょうたくたん)筆 北宋時代・12世紀 中国・故宮博物院蔵
[展示期間:2012年1月2日(月・休)~24日(火)])

おそらく「清明上河図」の細密な描写は、多くの日本のお客様にとっては、初めてのびっくり体験になるかもしれません。なにしろ、「清明上河図」が国外で展示されるのは初めてなのです。
多くの庶民の当たり前の日常が、生き生きと描かれたこの画巻は、自然と私たちの共感を生みます。おそらく作者の張択端も、皆がこうやって、画巻を眺める様子を予想して描いたに違いありません。とにもかくにも、見ていると楽しい絵なのです。


(実寸は約3センチ)
「はいはい、ごくろうさん。そこにおいてね。」よく見るとおじさん、笑顔です。


(実寸は約3センチ)
徴税の役人。「お役人さん、ちょとまけてぇな~。」「あかん、あかん。決まりは決まりや。」


(実寸は約3センチ)
占い師。人の運勢が気になる野次馬は、昔も今も一緒ですね…。


「清明上河図」は、ただの「うまい」絵というだけではなく、その画面から作者の人間への愛や、人間社会への信頼のようなものまで感じることができます。中国の伝統文化は人間の人間性を何よりも重視してきました。中国で「清明上河図」が今も圧倒的な人気を誇っているのは、このようなヒューマニズムの伝統と関係しているように思えてなりません。


(実寸は約3.5センチ)
話上手な物売り。書画のようなものを売っていいますね。実は張択端の自画像かもしれませんね。


(実寸は約3センチ)
銅銭を数える人。ちゃんと勘定あってるかな?
宋代は銅銭の時代でした。宋代史研究にも一級の史料です。


(実寸は約3センチ)
何やら楽しそうなおしゃべり・・・。


(実寸は約2,5センチ)
父母に肩車される子ども二人。「お父ちゃん、あれ買って~!」「しゃあないなぁ。」
ほのぼのとした一場面。


この画が描かれたのは約900年ほど前、12世紀の初めです。このような豊かな市民社会が成立していたことこそが、西洋に先駆けて宋代に近世が成立していたと京都学派が考える根拠ともなりました。

さて今回の特別展にあたり、故宮博物院の、そして中国の至宝である「清明上河図」を迎えるために、作品を安全に展示し、かつ見やすい特別のケースを作りました。そして図録や展示場には、細やかな表現を楽しんでいただくために、故宮博物院から写真の提供を得て、拡大写真も入れました。展示では見にくいかもしれませんが、図録では「橋の下の魚」の表現も、ばっちり楽しんでいただけます。



「清明上河図」特別展示ケースの照明実験
安全に快適に鑑賞できる展示を目指して、毎晩努力が続けられました。

 
故宮博物院での、慎重な上にも慎重な点検作業


図録の色校正。「清明上河図」のクライマックスシーンは、見開き拡大で楽しんでいただけます。


「清明上河図」には778人ぐらいの人が描かれています。「ぐらい」というのは、あまりにも表現が細かすぎて、人か人でないかがわからないところがたくさんあるからです。ちなみに私が一番好きなのは、どんぶりをかきこむ男(下)、です。


(実寸は約1,5センチ)
顔いっぱいにどんぶり!腹へってたんでしょうな~。
人間って900年前から同じですね!

しかし、この絵画が制作された背後には、徽宗朝の歴史社会的な興味深い背景がありました。おそらく徽宗の治世を喜び、皇帝と臣下たちが共に見るために描かれたのが本図なのでしょう。宋代の宮廷にはこのような絵画が必要とされていたからです。
面白いだけではなく、とっても深い「清明上河図」。今回の「清明上河図」来日のためには、本当に多くの方の努力がありました。もし故宮に行かれることがあったとしても、「清明上河図」は常には展示されておらず、中国でも次にこの作品が見られるのは何年後になるかわかりません。(ましてや、次に来日するのはいつになることか...。)
まさに、千載一遇、一期一会の機会。ぜひトーハクに足をお運びいただき、「清明上河図」の世界を楽しんでいただければ幸いです。


おすすめ!
公式ホームページでは、「清明上河図」の拡大図画をご覧いただける、「清明上河図で遊ぼう!」が公開されています。

また、TOPページ「会場ライブ」では、会場の混雑状況、入場規制等についてご案内しております。
併せてご利用ください。  

カテゴリ:研究員のイチオシ2011年度の特別展

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posted by 塚本麿充(東洋室) at 2012年01月04日 (水)

 

ようこそ日本へ!「清明上河図」!前編

清明上河図」が、はじめて中国を離れ、ここ日本で特別展「北京故宮博物院200選」(~2012年2月19日)にて公開されています。2012年1月24日(火)までの限定公開です。今回はこの魅力あふれる中国絵画史上の傑作について前後編2回に渡ってお話したいと思います。
(以下、作品の掲載画像はすべて、[一級文物] 清明上河図巻(せいめいじょうかずかん)(部分)
張択端(ちょうたくたん)筆 北宋時代・12世紀 中国・故宮博物院蔵
[展示期間:2012年1月2日(月・休)~24日(火)])

私がはじめて「清明上河図」を見たのは、1999年、建国50周年を記念して開かれた故宮博物院の大展覧会でした。当時は太和殿の西回廊が絵画展示室となっており、まだ大学院に入りたての私は、先生につれられて初めて北京に赴きました。初めての中国、初めての北京で、紫禁城の巨大な空間に驚き、行けども行けども尽きない金色の瓦に圧倒されました。
私たちの見学旅行は12日の行程で10日間毎日故宮に通い、ギャラリーで作品を見るというものでした。先生方は作品を見始めると、一つの作品の前からまったく動きません。2日も3日も同じ場所で同じ作品を見ています。何をそんなに見ているんだろう、当時の僕はそう思っていました。ところが、やはりしっかりと見ないと中国の絵画作品はよくわからないのです。


たとえば、「清明上河図」には、橋の上から下をのぞきこんでいる人々が描かれています。

赤い円で囲った辺りを見つめているようです。何があるのでしょうか?

一見すると何気なく水面をながめているようにみえますが、実はよくみると、水の中には魚が泳ぐ姿が淡墨で描かれており、人々はこの魚を見ていたのです。この時私は初めてこのことを教えてもらいましたが、ガラスケースの向こうに魚の姿が見えたとき、背筋に寒いものさえ感じました。日本の絵画とはまったく違う世界がここにあるんだ、ということがわかったからです。


淡墨で描かれた魚群


宋代は中国絵画の写実表現が最高峰に達した時代でした。宋画に“いいかげんな”描写はありません。何を見ているのか、何をしているのか、画家はすべてを計算して描いているのが、宋代絵画の特質です。「清明上河図」は、私に中国絵画の画技のすごさを教えてくれた作品でもありました。


(実寸は約5センチ)
この船の細密描写!ロープや板の一枚一枚まで描かれます。


(実寸は約2センチ)
「おいおい何してるんだぃ、ぶつかっちまうよ!」声まで聞こえてきそうな描写です。


(実寸は約2,5センチ)
船に渡された板を渡る人。いかにも、「おっとっと(汗)」って感じです。うまい!


(実寸は約3センチ)
「あれ、ちょっと上司にあっちゃったかな。まずいな…」って場面でしょうか。



私が二度目に「清明上河図」を見たのは、南京師範大学美術学院に留学中の2002年のことです。「晋唐宋元書画国宝展」と題されたこの大展覧会は、故宮、遼寧省博物館、上海博物館の名品が一堂に会した、まさに画期的大展覧会でした。この千載一遇のチャンスを逃すまいと、南京師範大学からも特別バスが出て、私を含む学生たちは大挙上海へと赴きました。この時は「清明上河図」を見るための4時間待ち、5時間待ちの行列が深夜に至るまで延々と続き、「清明上河図」が中国の人々の心に占める比重の大きさに圧倒されました。私も「清明上河図」を見たい一心で、毎朝4時から列に並んだ一人です。同じことは、2004年の遼寧省博物館でも繰り返されました。まさに、中国人の「心の絵」といってもよい作品が「清明上河図」なのです。


北京・首都空港では巨大な清明上河図が飾られています。

(後編も近日公開予定です。お楽しみに!)

カテゴリ:研究員のイチオシ2011年度の特別展

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posted by 塚本麿充(東洋室) at 2012年01月02日 (月)

 

考古展示「飛鳥時代の古墳」コーナー新設

平成館1階の考古展示室に、新たに「飛鳥時代の古墳:古墳時代Ⅴ」コーナーが新設されました(2011年12月13日(火)~)。



当館の考古資料は、先史分野(旧石器~弥生時代)や有史分野(奈良~江戸時代)に比べ、明治時代以来の収集活動によって原史分野(古墳時代)が比較的充実していました。
ところが、終末期古墳が築かれた飛鳥時代は前方後円墳が消えて副葬品が著しく減少し、考古資料が大変少ない時期です。

奈良県東大寺の正倉院でも、聖武法皇七七忌の献納品目録『国家珍宝帳』にみえる武器類は藤原仲麻呂の乱(764年)の戦闘で持ち出されてしまって(!)、とくに甲冑はまったく残っていないことは有名です。
(文献史料でも同じですが・・・)歴史の復元は、時代・時期によっては容易ではありません。

このような中で、このたび2009年(平成21年)に御寄贈頂いた大阪府河内地域の終末期古墳・塚廻(つかまり)古墳出土資料を軸に、飛鳥時代の展示を新設することができました。
歴史時代(有史分野)の展示部分との橋渡しとして、古代律令国家形成期の展示は、長年の“悲願”であったともいえます。

塚廻古墳出土品 大阪府南河内郡河南町平石 塚廻古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀 大阪・平石塚廻古墳調査会寄贈


当館の日本考古資料による展示は、以前、表慶館の8つの部屋で行われていましたが、1999年の平成館開館に合わせて、現在の本格的な日本考古の通史展示としてオープンしました。
本展示室は1150㎡の規模で、四方の長大な壁ケースに特色があります。最大の北壁ケースは約40m(日本一!)です。

1996年(平成8年)の計画段階から、この特色を活かすべく検討が重ねられた結果、旧石器時代から江戸時代までを12のテーマに分けて、日本列島の歴史的展開を描き出すことが構想されました。
如何にして、この長大なケースで飽きさせることなく歴史像の展開を見て頂けるか・・・。それには展示の構成や方法とともに、展示デザインが重要と考えられました。
そこで、文化庁が1992年にアメリカ合衆国ワシントンで開催した日本考古展を担当された米スミソニアン博物館機構の展示デザイナー:J・ゼルニックさんに、展示デザイン全般を担当して頂くことになりました。

基本的に、観覧者の正面には作品だけで、テーマパネル以外は壁面上部の中解説とケース手前のキャプション・小解説だけとし、見学・鑑賞に集中して頂けるように工夫されています。
各時代は壁色と共に、最上部のタイムラインと呼ばれる色分けで区別され、色彩でも全体の調和が保たれています。
ちなみに、今回の新コーナーも全体の中に自然な形で組み込まれていますね。当館デザイン室の矢野賀一さんの力作で、これも見所の一つです。

新コーナーは緑のタイムラインです。


さて、本コーナーのテーマである終末期古墳は、墳丘の版築工法、横口式石槨の漆喰、前室床面に敷詰めた塼(せん=煉瓦)状榛原石や緑釉の棺台、乾漆技法の夾紵棺・漆塗籠棺が特色です
随所に、当時の先端技術であった寺院建築・仏像製作などの影響が強く見られます。

緑釉棺台残片 大阪府南河内郡河南町平石 塚廻古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀 大阪・平石塚廻古墳調査会寄贈

また副葬品でも、刺繍用の金糸・銀糸、金象嵌大刀や緑秞の原料である鉛ガラス製の玉類など、終末期古墳の主な特徴が揃った姿をみることができます。
 
金糸・銀糸(左)、螺旋状金線・銀製七宝飾金具(中)、金象嵌大刀(右)
大阪府南河内郡河南町平石 塚廻古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀 大阪・平石塚廻古墳調査会寄贈



これらの急激な変化は、飛鳥時代が古代東アジアにおける激動の時代であったことと密接な関係があります。
6~7世紀の古代東アジアは、中国の隋(581年)・唐(630年)が律令を軸とした統一国家を完成し、倭(日本)は600年以降、遣隋使・遣唐使を派遣して先進文化の摂取に努めました。 
その一端は、奈良県飛鳥寺(法興寺:590年頃)・法隆寺(607年)や、各地の初期寺院の建立に表れています。

しかし、7世紀中頃には朝鮮半島の百済(660年)・高句麗(668年)が相次いで滅亡し、百済復興を目指した倭も663年に唐・新羅連合軍に破れるなど、国家存亡の危機に立たされます。以後、国際的緊張関係の中で、日本は急速に律令国家の建設を進めてゆくのです。
当時の政権の中枢に近い人々は、伝統的な古墳文化と大陸の新しい文化の融合・衝突という狭間で揺れ動いていたようです。その有様は、まさに終末期古墳という従来とはまったく異なる古墳への劇的な変化によく表れています。


展示の主役である大阪府塚廻古墳は、7世紀代の一辺約40mの大型方墳で構成される平石古墳群の最後の古墳です。
北方2㎞にある南河内郡磯長谷は「王陵の谷」(近つ飛鳥)とも呼ばれ、6~7世紀の天皇陵古墳をはじめとして、大型終末期古墳が集中する磯長谷古墳群が分布しています。
平石古墳群の被葬者も、激動の時代を勝ち抜いた古代有力豪族であったに違いありません。 

このコーナーを通じて、日本列島の古代国家成立期の中でもっとも波乱に満ちた飛鳥時代に到来した古代東アジア文化の新しい息吹を感じ取って頂ければ幸いです。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2011年12月22日 (木)