書を見るのはとても楽しいです。
私は、書道教室に通ってもぜんぜん楽しめずに上手にならなかった、ごく普通の日本人です。
それが、いつのまにか書の魅力に取り憑かれ、書(字)を見て感激したり、癒されたりしています。
みなさんも、親しい人の字ならば、だれの字なのかわかるでしょう。
また、魅力的な手書きの字に、思わず惹きつけられませんか?
より多くのみなさんに書を見る楽しさを知ってもらいたい、という願いを込めて、この「書を楽しむ」シリーズをはじめます。
第1回目は、書の作品から、自分の名前を探してみましょう。
トーハクの総合文化展(平常展)では主に、本館の1室、3室、8室に日本の書の作品が展示されています。
自分の名前が見つかる確率が高いのは、1室から3室の最初に展示されている古写経です。
(左右ともに)紺紙金字無量義経(平基親願経)(部分) 平安時代・治承2年(1178) (~2011年10月30日(日)展示 )
小林さん、大崎さん、王子さん、長井さん。
みつかりましたか?
8室では個性的な書風の字が見つかるかもしれません。
(左右ともに)和歌屏風(部分) 近衛信尹筆 安土桃山時代・17世紀(~2011年11月6日(日)展示)
玉田さん、露崎さん いかがですか?
3室の「関戸本和漢朗詠集切」の中に、私の名前、「えみ」の「み」をたくさん見つけました。
(左右および以下画像3枚全て)関戸本和漢朗詠集切(部分) 源兼行筆 平安時代・11世紀
(~2011年10月30日(日)展示 )
でも、この「み」はもう一つです。
次の「み」は、小さめです。
この「み」が、カッコいいです!スッキリした形が私の好みです。
この1枚の中に、いろいろな「み」があります。
ときには小さく、ときにはイマヒトツでも、全体として見たときのバランスがいいです。
この作品はとくに『和漢朗詠集』なので、「和歌」(仮名)も「漢詩」(漢字)もありますが、その仮名と漢字の「調和が美しい」と解説にもよく書かれます。
この「調和」(バランス)の意味がじつはよくわかりませんでした…。
「調和」については、また別の回に考えましょう。
今回は、自分の名前を探してみました。
いい!と思った自分の名前の文字があったら、次に書くときに使ってみましょう。
さいごに必ず、作品の名称と解説の確認も忘れずに。
「関戸本和漢朗詠集切」は、平安時代に源兼行(活動確認期:1023~74)が書いたもので、愛知の関戸家が持っていたため「関戸本」と呼ばれます。
2011年10月30日(日)まで、本館3室(宮廷の美術)で展示しています。
ぜひ見てください。
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posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2011年10月15日 (土)
台東区立書道博物館の連携企画「呉昌碩の書・画・印」(~2011年11月6日(日))をより深くお楽しみいただくための連載企画をお届けします。
今日は第4回目です。
50代を迎えた呉昌碩は、蘇州と44歳時に活動の拠点を設けた上海とを往来する日々を送っていました。光緒20年(1894)51歳時に起こった日清戦争に際しては、呉大澂の幕僚として従軍、この時に見た山川風物は後の呉昌碩の技芸に裨益するところがあったと言われています。また、同25年(1899)56歳には、同郷の丁葆元(蘭蓀)の推挙により、江蘇省安東県令の職を得ます。ただ、職務の内容や環境は呉昌碩には合わなかったようで、着任後1ヶ月ほどで辞職、その後は基本的に、売芸によって生計を立てることに専念しました。
この時期の書画は模索段階、あるいは徐々に自身の作風を築き始める過渡的段階にあったことがわかります。篆書の書跡においては、なお模索の様子が色濃く、49歳時の「篆書毛詩四屏」(東京国立博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示)は、筆遣いや字形のまとめ方など、「清純」とも評される楊沂孫(1812?~1881)の書風に倣う様子が見て取れます。また、54歳時の「集石鼓字聯」(東京国立博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)、57歳時の「臨石鼓文扇面」(台東区立書道博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)は「石鼓文」原本からの変形がさほどなく、比較的忠実に書写されています。これら3作品には、古典または先人の書をもとにした、模索段階における謹厳さが窺えます。篆書は50代後半以降、徐々に自身の書風を築き始めます。
臨石鼓文扇面(部分) 呉昌碩筆 清時代・光緒26年(1900) 57歳 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館
(台東区立書道博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)
52歳時、楊峴の室(遅鴻軒)で書写された、「牡丹図」(東京国立博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)の行草書による賛は、明末清初期に活躍した王鐸(1592~1652)の書風に通じるところがある一方、後年の書に顕著な、左右に振幅させる筆遣いや粘り強い線質が見られるようにもなります。この時期、行草書においては、徐々に独自の書風を築き始める過渡的段階にあったことが推察されます。
(左)牡丹図 呉昌碩筆 清時代・光緒21年(1895) 52歳 青山杉雨氏寄贈 東京国立博物館、(右)賛の拡大図
(東京国立博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)
また、同時期の絵画を見ると、楊峴の賛(清時代・光緒22年(1896)、呉昌碩53歳時)を持つ「墨竹図」(東京国立博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示)においては未だ呉昌碩独自の様式が明らかではないものの、57歳時の「擬大梅山民梅花図巻」(台東区立書道博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示)、59歳時の「墨葡萄図」(東京国立博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示)では墨線や構図を自在にし、金石味を生かした独自の作風が形成し始められたことがわかります。
(左)墨竹図 呉昌碩筆 清時代・19世紀 東京国立博物館
(東京国立博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示)
(右)墨葡萄図 呉昌碩筆 清時代・光緒28年(1902) 59歳 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館
(東京国立博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示)
ところで、50代の呉昌碩を交遊の面から見ると、師友との死別という大きな出来事があったことがわかります。53歳のとき、師と仰ぎ詩文や書法を学んだ楊峴(1819~1896)、そして書画を介して知己の間柄であった任伯年(1840~1896)が、更に59歳のとき、金石資料の閲覧などにおいて知遇を得た呉大澂(1835~1902)が相次いでこの世を去ります。三者の存在は呉昌碩にとって、技芸のみならず精神や人格の形成にまで深くかかわったものと思われます。この時期に見られる書画の作風変化は、彼らとの別れで揺れ動く呉昌碩の心情も少なからず影響しているのかもしれません。
なお、往時の三者との交遊を窺うことができる作品として以下のものを展示しています。
【 楊峴 】
呉昌碩「牡丹図」(東京国立博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)
呉昌碩「墨竹図」(東京国立博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示。今後の展示予定は未定)
任伯年「酸寒尉像」(東京国立博物館および台東区立書道博物館ともに2011年11月6日(日)までパネル展示)
呉大澂「古柏図」(東京国立博物館本館特別1室にて2011年10月16日(日)まで展示)
【任伯年】
任伯年「酸寒尉像」(東京国立博物館および台東区立書道博物館ともに2011年11月6日(日)までパネル展示)
任伯年「蕉蔭納涼図」(東京国立博物館および台東区立書道博物館ともに2011年11月6日(日)までパネル展示)
【呉大澂】
呉大澂「古柏図」(東京国立博物館本館特別1室にて2011年10月16日(日)まで展示)
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posted by 六人部克典(台東区立書道博物館) at 2011年10月13日 (木)
博物館に足を運ぶ方々の中には、作品の迫力を間近に感じたい、と思っていらっしゃる方も多いと思います。
教科書やテレビで見たことのあるあの作品に会いたい、という強い思い。
もしかしたらそのライブ感はコンサートのライブ感と一致するのではないか、と今回ご報告させていただくコンサートで思いました。
亀渕友香とVOJAによるコンサート(2011年10月2日(日)開催)
みなさんご存知のとおり、亀渕友香さんはゴスペルシンガーの第一人者であり、BIG MAMA YUKAと呼ばれています。
彼女が1993年に結成したのがゴスペルコーラスグループ「The Voice of Japan」 VOJAです。
今回は「愛と平和をゴスペルにこめて」をテーマに感動的なコンサートが開かれました。
亀渕友香さん
総勢40人近いVOJAのメンバー。
広い平成館のラウンジは300名近いお客様とVOJAのメンバーで埋め尽くされました。
歌声が会場を包み込みます
そしてその熱気の中、ゴスペルのパワフルな歌声が響き渡ります。
亀渕さんとVOJAの皆さんの歌声は音を楽しむという音楽本来の意味を体現しているようでした。
司会者もお客様も
もはやスタンダードナンバーとなった「Amazing Grace」をはじめ、映画「天使にラブソング」でも歌われた「Hail Holy Queen」やVOJAの定番ソングでもある「きずな」、そしてさだまさし氏の「いのちの理由」など12曲を歌い上げ、フィナーレではスタンディングオベーションがおこるほどでした。
一体となって、フィナーレ!
実は亀渕さんとVOJAの皆さんは、昨年、浄土宗の総本山、京都・知恩院に「いのちの理由」を奉納してきたばかり。
当館で開催される特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」(2011年10月25日(火)~12月4日(日))には、知恩院からも貴重な作品が出品されます。亀渕さんも、その縁の深さを感じていらっしゃいました。
みなさんも間近で迫力のある音を感じられる博物館の感動のライブはいかがでしょうか。
次回コンサートは「千葉純子によるトリオコンサート」(2011年12月11日(日)開催予定)です。
チャイコフスキーを中心としたクリスマス時期にふさわしい内容でお贈りいたします。
是非お楽しみに。
カテゴリ:催し物
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posted by 樋口理央(総務課) at 2011年10月09日 (日)
呉昌碩の書・画・印 その3 「40代の呉昌碩 ―模索と葛藤― 」
台東区立書道博物館の連携企画「呉昌碩の書・画・印」(~2011年11月6日(日))をより深くお楽しみいただくための連載企画をお届けします。
今日は第3回目です。
光緒13年(1887)、呉昌碩は44歳のとき、それまで活動の中心としていた蘇州・杭州から、上海へと移り住みます。この時期は上海県丞(しゃんはいけんじょう)の官職を買い、生活の糧にしていたようです。一方、篆刻に励み、『削觚廬印存』(光緒9年(1883)~)には、この40代頃から50代までの篆刻作品が収められています。
40代の呉昌碩の書画作品を見ると、いまだ呉昌碩らしさは見られず、その作風を模索していることがわかります。これらの独自の画風を確立する以前の作品は、いわゆる若描と呼ばれ、贋作が作られやすい時期でもありました。しかし、「桂花図」(光緒14年(1888)、45歳)、「墨梅図」(光緒14年(1888)、45歳)や「籠菊図」(光緒15年(1889)、46歳)を見てみると、いずれも50代以降の作品にはみられないみずみずしい個性と、共通する模索の跡を見ることができます。
おそらくこの時期、呉昌碩が絵画創作の規範としていたのは、清末以来の伝統的な花卉画であったのでしょう。張熊「花卉図」は、輪郭を使わない没骨で描いた花弁の表現や構図など全体の画趣がよく似ています。張熊(1803~1886)は、呉昌碩の生地・安吉にも近い秀水(浙江省嘉興)の人で、青年時代から上海で活躍していました。
(左)呉昌碩「籠菊図」(光緒15年(1889)、46歳、青山慶示氏寄贈 東京国立博物館)
(2011年10月12日(水)~11月6日(日)まで平成館企画展示室にて展示)
(右)張熊「花卉図」(咸豊2年(1852)、東京国立博物館)
(展示予定は未定)
清末にはこのような、清雅な色彩を使った花卉画が流行していました。陳鴻寿「花卉図」(嘉慶17年(1812)、東京国立博物館)はその代表作で、すっきりとした画面構成と清楚な色遣いも、「桂花図」(光緒14年(1888)、45歳)と類似するものです。この時期の落款の位置も規則に沿ってきっちりと入っています。
(左)陳鴻寿「花卉図」(嘉慶17年(1812)、東京国立博物館)
(展示予定は未定)
(右)呉昌碩「桂花図」(光緒14年(1888)、45歳、東京国立博物館)
(~2011年10月10日(月)まで本館 特別1室にて展示)
しかしおそらく呉昌碩自身、このような伝統花卉画に不満を感じていたに違いありません。ここで終っていたら、呉昌碩の絵画には現在のような名声は与えられなかったでしょう。呉昌碩は「50歳にして初めて画を学んだ」と言っています。中国では書画一致という考えがあり、書法の筆線を用いて絵画を描くことが尊ばれていました。光緒20年(1894)、俊卿と名を改めた呉昌碩は50代を迎え、自らの書の線を使う新しい絵画世界を、いよいよ生み出していくことになります。40代は同時代までに流行していた花卉画をしっかりと咀嚼した時期と言えるでしょう。
その一方で、その後の人生に大きな影響を与えることとなる友人たちと知り合ったのも40代でした。「古柏図」は、40代で知り合った金石学者呉大澂の古柏図に、呉昌碩が師として接した楊峴(ようけん)、兪樾(ゆえつ)らの跋を伴った作品です。詩塘には呉昌碩が題を施し、光緒16年(1890)、47歳にあたります。
呉大澂「古柏図」(呉昌碩題、光緒16年(1890)、47歳、東京国立博物館)
(~2011年10月16日(日)まで本館 特別1室にて展示)
本館の特別1室「中国書画」では、10月16日(日)まで、本図をはじめ、呉昌碩芸術に至る金石の流れを築いた包世臣、呉熙載、鄧石如の作品や、大先輩にあたる趙之謙、同時代の上海の画家である銭慧安、蒲華、弟子の王一亭の作品などを展示しています。あわせてご高覧いただければ幸いです。
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posted by 塚本麿充(東洋室) at 2011年10月05日 (水)
東京国立博物館としてはちょっと毛色の変わった、陶片のみの展示をいたします。
「せともののかけら」に心惹かれるのは何故でしょうか?
遺跡から出土する陶片は、産地や製作技法、製作時期や流通経路などを研究するために欠くことのできない資料です。
そればかりでなく、陶磁器は化学的に安定して堅牢な性質であるため、土中でも朽ち果てることなく、当初の色や輝きを保ちます。
東南アジアでは、はるばる海を越えて運ばれてきた磁器が割れたのちも、アクセサリーなどに加工することが行われています。
陶片は見る者の想像力に訴えかけます。
私たちがよく知っている器種の一部であることもあれば、未知の陶磁器の一部位であることもあります。
窯址に打ち捨てられた小さな陶片が、逆に今日残されているモノの意味を問いかけてくるのです。
このたびご紹介する米内山庸夫氏採集の南宋官窯址出土陶片は、謎に満ちた南宋官窯の実像解明に大きな役割を果たしました。
南宋官窯址出土陶片 南宋官窯 中国 浙江省杭州市郊壇下官窯址出土 南宋時代・12~13世紀
水町和三郎氏採集の唐津焼の陶片は、唐津焼の歴史をめぐってかつて大論争を引き起こしました。
道園窯址出土陶片(肥前窯址出土陶片のうち) 唐津 伊万里市松浦町提川字道園出土 安土桃山~江戸時代・16~17世紀
蜷川第一氏らによって採集された御室窯址出土陶片は、野々村仁清の作陶活動の知られざる一面に光を当てました。
御室窯址出土陶片 御室窯 京都府京都市右京区御室竪町出土 江戸時代・17世紀
小さな陶片が語る歴史の実像に、是非耳を傾けてみてください。
特集陳列「陶片の美」は2011年12月4日(日)まで。
本館14室でご覧いただけます。
カテゴリ:研究員のイチオシ
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posted by 今井敦(博物館教育課長) at 2011年10月03日 (月)