特集「西日本の埴輪 -畿内・大王陵古墳の周辺-」の見方4-トピック編-
本特集「西日本の埴輪-畿内・大王陵古墳の周辺」(2014年9月9日(火)~12月7日(日):平成館考古展示室)も、あと2週間足らずとなりました。
平成26年度考古相互貸借事業で、大阪府立近つ飛鳥博物館から拝借した畿内地方中枢部・古市古墳群の円筒埴輪や動物・人物埴輪を軸に、展示テーマを構成(第1回)しています。
左:前半期の埴輪、右:後半期の埴輪
これまで、埴輪のカタチやその移り変わりを規定する製作技術の“秘密”(第2回)と、人物・動物埴輪の登場を背景にした(?)形象埴輪のドラスティックな造形の変化(第3回)についてお話ししてきました。
いわばミクロとマクロの視点で、今回の特集展示をご覧頂くにあたって、全体構成を読み取るために必要なキーポイントをご紹介したものです。
もちろん、(埴輪だけではありませんが)作品(考古資料)の“なりたち”(製作過程)を明らかにすることは、考古学の基本中の基本です。
(かなり長い・・・ジミな作業を要しますが)その特徴を的確に捉え、構造を掴む優れた方法で、対象の本質に迫る“王道”でもあります。
ときに「製作者の意図」さえも、(おぼろげながらも・・・)明らかになる場合があります。
ところで、今回の個々の展示品の中には、やはり普段なかなかお目に掛けることができない、ウッカリ見落としてしまいそうな見どころがまだたくさんあります。
そこで、常設展示品も含めた展示品の中から、是非注目して頂きたい幾つかつかのポイント(=オススメ・・・)を絞ってご紹介します。
さっそく、中央に(ド~ンと)展示された3本の大型円筒埴輪に注目して頂きましょう。
円筒埴輪・盾形埴輪(大阪府土師の里遺跡出土)大阪府近つ飛鳥博物館蔵
第2回でもご紹介しましたように、雄大な規模の割には(失礼・・・)均整の取れたシルエットと、リズミカル(≒等間隔!)に繰り返される均質な突帯の特徴から製作者の高い技術が窺えます。
ややもすると、その“巨大さ”ばかりに目を奪われがちですが、胴部に繊細な(?)線刻文様が施されていることにお気づきになった方も多いかと思います。
最初は、中央のもっとも高い大型円筒埴輪です。
(左) 円筒埴輪 大阪府藤井寺市 土師の里遺跡出土 古墳時代・5世紀 大阪府近つ飛鳥博物館蔵
(右) 線刻文様(直弧文:同左部分)
この円筒埴輪には、正面に二つの円形の透孔があります。
下段透孔の下方の、2本の突帯を挟んでやや左側に、不思議な文様が刻まれています。
少々変形していますが・・・、多数の円弧を複雑に組み合わせた線刻文様で、「直弧文」とよばれています。
日本列島にしか見られない、独自に発達した呪術的な幾何学的文様として有名です。
名前の由来は、本来は直線と弧線を組み合わせた文様の特徴にありますが、その起源には多くの説があります。
その一つは、特集展示ケースの向かい側にある低い独立ケースに入った、これまた実に不思議な石造物(謎の物体?・・・)を覆う文様です。
展示室見取図
(左) 模造 旋帯文石 (原品=弥生時代(後期)・3世紀 岡山県楯築神社 伝世) 東京国立博物館蔵
(右) 浮彫文様 (旋帯文:同左部分)
正面(?)に人が顔だけを出している(?)ような表現があり、そのほかの部分は全体が幾何学的な文様で埋め尽くされています。
まさに緩やかに描かれた円形や直線状の帯と、巻き込む渦のように見える円形や弧線状の帯で構成されています。
弥生時代の終わり頃(2~3世紀前半)になると、瀬戸内・山陰や近畿地方などでは、墳丘墓とよばれる古墳の原型となった大規模な墳墓が築かれました。
この旋帯文石は、瀬戸内地方最大の楯築墳丘墓(岡山県倉敷市:全長約80m)から出土したとみられ、被葬者やリーダーに率いられていた集団の祖霊の姿を表現したという見解もあります。
古墳出現前夜の列島社会の激動期に、亡き首長の葬送儀礼において重要な役割を果たした“存在”を表現した石造物かもしれません。
そして、古墳時代になると「直弧文」が成立します。
(左) 鹿角製装具(柄頭直弧文)古墳時代・5~6世紀 福井県吉田郡永平寺町松岡吉野堺 二本松山古墳出土 東京国立博物館蔵 ※この作品は現在展示されていません。
(中) 直弧文鏡 古墳時代・4世紀 奈良県広陵町新山古墳出土 宮内庁蔵
(右) 埴輪 盾 古墳時代・5~6世紀 奈良県磯城郡三宅町石見出土 東京国立博物館蔵
とくに刀剣装具・石棺や装飾古墳、家形埴輪や靫・盾・大刀形埴輪などの武器武具形埴輪などに多く施されることが特徴です。
古墳時代後期(6世紀)に至るまで形骸化しつつ、さまざまな器物に施された、古墳時代を代表するといってもよい文様です。
次は、右側のやや太い大型の円筒埴輪です。
この円筒埴輪には正面に1つ円形透孔がありますが、その透孔の左側に、やはり奇妙な文様が刻まれているのがご覧頂けると思います。
(左) 円筒埴輪 大阪府藤井寺市 土師の里遺跡出土 古墳時代・5世紀 大阪府近つ飛鳥博物館蔵
(右) 線刻文様(騎馬人物像:同左 部分)
シンプルな線描ですが、どうも脚を前後に踏ん張った大型の動物に人物が乗る様子を描いているようです。
動物の胴体はかなり長いことが特徴で、おそらく騎馬人物を描いたと考えられています。
同様な例は、古墳時代後期(6世紀)の土器などに描かれた例のほか、各地の装飾古墳の装飾や横穴墓の線刻画にも数多く見られます。
立体的な造形としては、装飾須恵器の騎馬人物装飾などもあります。
(左)平瓶 古墳時代・7世紀 岡山県新見市唐殻出土 東京国立博物館蔵 ※この作品は現在展示されていません。
(中) 線刻文様 (騎馬人物像:同左 部分)
(右) 子持装飾付壺(騎馬人物装飾) 古墳時代・6世紀 岡山県赤磐市可真上出土 東京国立博物館蔵 ※この作品は現在展示されていません。
以前、馬形埴輪の解説(「動物埴輪の世界」の見方7─馬形埴輪2)でもお話しましたが、日本列島では古墳時代中期(4世紀末頃~5世紀)に馬具が古墳の副葬品として現れ、5~6世紀には広く乗馬の風習が普及したことが知られています。
金銅や銀で装飾を施された煌(キラ)びやかな馬具は、その形や色彩はもちろんのこと、徒歩による移動しか経験がなかった日本列島の人々に、憧れをもって受け容れられたことでしょう。
(左) 馬具展示コーナー(中央・模造 金銅装鞍)
(右) 埴輪 馬 古墳時代・6世紀 群馬県内出土 東京国立博物館蔵
ちょうどこの円筒埴輪が造られた頃(5世紀前半)は、馬は稀少な最先端の乗り物として、人々の羨望の眼差しを集めていた頃と考えられます。
この線刻画は、当時の人々の密やかな乗馬への憧れを映し出しているのかもしれません。
もう一つ、左側の盾形埴輪との間にある大型円筒埴輪の口縁部にもご注目ください。
円形透孔が二つある正面の口縁部やや左側に、(これまた・・・)不思議な文様が描かれています。
(左) 円筒埴輪 大阪府藤井寺市 土師の里遺跡出土 古墳時代・5世紀 大阪府近つ飛鳥博物館蔵
(右) 線刻文様(同左 部分)
鋭い鉤状の三つの突起をもち、緩やかに丸みのある円弧で文様が描かれています。
残念ながら何を表したものかは判りませんが、二重線で表されることから、やや厚みのあるモデルを想像することも出来そうです。
このような鉤状の突起をもつ造形は、弥生~古墳時代の青銅器や貝製腕輪などに例があります。
弥生時代以来、繰り返し副葬品として貴人の装身具や宝器に登場しています。
(左) 貝釧(スイジガイ製) 古墳時代・4世紀 静岡県磐田市新貝 松林山古墳出土 東京国立博物館蔵
(右) 重要文化財 巴形銅器 古墳時代・4世紀 奈良県天理市櫟本町東大寺山北高塚 東大寺山古墳出土 東京国立博物館蔵
いずれも貴重な宝器として取り扱われたことがうかがえ、日本列島の人々にとって重要な意味をもっていたと考えられています。
また、沖縄県地方の南海産貝殻、あるいはそれをモデルにしていたとみられ、遠隔地から運ばれた稀少な素材であることから特別な存在であったことも注意されます。
さて、これらの埴輪に施した文様にはどのような意味があったのでしょうか?。製作者が何らかの意図を込めて描いた可能性は、十分に想像できますね。
実はこれらの大型円筒埴輪は、第2回でも紹介されたように、埋葬専用の円筒棺として製作されたものなのです。
埴輪製の円筒棺は、古墳時代の初めからしばしば製作されています。
とくに、古市古墳群周辺では100基を超える発掘例があり、ほかに大阪府百舌鳥古墳群や奈良県佐紀古墳群・馬見古墳群も密集する地域として知られています。
瀬戸内に面する兵庫県最大の前方後円墳・五色塚古墳(全長194m)の周辺では古くから多数発見されていて有名ですが、各地方で最大級の古墳でもしばしば見つかっています。
いずれも大王陵古墳を含む大型古墳群か、またはそれに匹敵する古墳が築造された地域と見事に一致しており注目されます。
このような地域では多数の埴輪が断続的に製作され、大勢の人々が従事していたことでしょう。
もちろん、その作業を統括・指導し、製品の水準を保ったリーダーの存在を想定することができます。
また、彼らは埴輪造りの他、巨大な古墳造りのための測量や土木技術をもった特別な人物であった可能性も高いと考えられています。
このような“特大”の円筒棺は、このような人物のために製作され、またそれを使用することはほかの人々ではまねできない、いわば“特権”のようなものであったのかもしれません。
展示全景
これらの円筒棺には、首長の葬送儀礼で用いられる副葬品と共通するような、呪術的や新来の憧れの存在を示す文様が刻まれていました。
少なくとも、これらの文様を描いた人々は畿内地方中枢の古市古墳群において、大王陵古墳の築造や埴輪製作に携わった可能性は非常に高いと想定することができます。
彼らは古墳を築造するような社会的立場ではなかったのかもしれません。
しかし、このような“大仕事”に従事したリーダーやその一族たちの、いわば王権を支えた「技術」に対する誇りが如何ばかりであったのかは、容易に想像することができますね。
これらの円筒棺の完成度と文様に、その自信と自負がうかがえるような気がしますが、如何でしょうか。
今一度、じっくり彼ら(製作者)の“声”に耳を傾けて頂ければ幸いです。
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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2014年11月25日 (火)
「日本国宝展」(2014年10月15日(水)~12月7日(日) 平成館)には、たくさんの方々にご来館いただき、ありがとうございます。
展示作品の中でも注目を集めている、「国宝 元興寺極楽坊五重小塔」(奈良・元興寺蔵)。今回の国宝展に出品される全119件のうち、唯一建造物の国宝です(他はすべて美術工芸品)。この巨大な小塔(というのも変な言い方ですが)が本展覧会に出品されるまでには、いくつかの超えるべきハードルがありました。いかにして五重小塔は東京国立博物館にやってきたのか。そのものがたりを、これからお話したいと思います。
その前に、少々こみいっていますが、五重小塔の国宝指定の歴史を振り返ってみましょう。
この五重小塔が初めて指定文化財となったのは、明治34年(1901)のことでした。同年8月2日付の官報告示には、「古社寺保存法」により「木造五重塔(伝元興寺塔雛形(ひながた))を「国宝ノ資格アルモノト定ム」としています。「古社寺保存法」は明治30年に施行された、文化財保護のための法律です。国宝、重要文化財の別はなく、指定区分はすべて国宝でした。いわゆる「旧国宝」と呼ばれる一群です。なおこの時の種別は建造物ではなく、絵画、彫刻、工芸など美術工芸品の中に列しており、種類は「建築雛形」となっています。旧国宝は昭和25年(1950)の「文化財保護法」により、いったんすべて「重要文化財」となり、その中からより価値高いものが、改めて「国宝」に指定されることとなりました。最初のころは「新国宝」とよばれることもあったそうです。そして五重小塔も昭和27年(1952)3月29日、改めて建造物として「元興寺極楽坊五重小塔」の名称で国宝に指定されることとなったのです。
昨年2013年の春、日本国宝展ワーキンググループが、共催者をまじえ展示作品の検討を行っていた時のこと。グループの田良島(当館調査研究課長)が、「美術工芸品だけでなく、建造物の国宝というのはどうだろうか?」との言葉を発したのがきっかけとなり、元興寺の五重小塔が候補として浮かび上がります。しかし小塔とはいえ高さ5.5メートルの本格的な建築構造物。動かすことなどできるのか、その時点ではまったく半信半疑でした。調べを進めると、この五重小塔は明治40年~昭和40年(1907-65)までは奈良国立博物館に寄託展示されていたこと、昭和42年1月~43年9月までの21か月間で、国庫補助事業として本格解体修理が実施されたこと、昭和51年(1976)には、京都国立博物館の「日本国宝展」に出品されていたことなどが判明したのです。「これはいけるのでは?」ワーキングと共催者の間には、出品を前向きに進めていこうという機運が次第に高まっていきました。
とはいえ、当然のことながら所蔵者のご意向が最も重要です。夏まっ盛りの8月8日、共催者の方々とともに、元興寺の辻村泰善(つじむらたいぜん)住職を訪ねました。今回の日本国宝展が祈りと信仰をテーマとしていること、元興寺の五重小塔はそのテーマにふさわしく、また美術工芸品だけでなく本格的な建造物の国宝指定品を展示することで、展覧会の奥深さをお伝えしたいことなどをお話させていただきました。元興寺には「公益財団法人元興寺文化財研究所」があり、多くのスタッフによって、国宝や重要文化財を含む日本全国の文化財の保存修理や調査研究が行われています。辻村住職はその理事長を務めてもおられます。永い歴史を有し世界遺産「古都奈良の文化財」のひとつにも数えられる元興寺のご住職であるとともに、文化財の重要性と保存にも深く通じておられるからこそ、展覧会の趣旨とご出品の意義を積極的にご理解いただけたのだと思います。このことは私たちにとって、大きな幸運でありました。これ以降、文化財研究所の研究員の方と、具体的にどのように進めていくかの検討が繰り返されることとなりました。
解体作業は、奈良や京都はもちろん全国の社寺の解体修理や建造を行っている(株)瀧川寺社建築にお願いするということになりました。ここに大きな幸運その2が。瀧川伸社長のお父上の昭雄氏は、なんと昭和42~43年の解体修理の際、奈良県教育委員会文化財保存事務所の技能員として関わっておられ、当時のことをよくご存じであったのです。
一方で国宝の建造物を展覧会に出品するということに対し、奈良市や奈良県の教育委員会の文化財保護担当、そして国(文化庁)の建造物担当にも、ご理解をいただかなければなりません。関係者と協議を進め、国に対して「国宝の現状変更」を申請するということになりました。小塔といえど建造物の国宝。建造物は美術工芸品と違って「不動産」であるため、展覧会に出品するという行為が現状変更に当たるという考え方です。担当者とのやりとりを繰り返し、解体、梱包、輸送、展示の計画書やタイムテーブル、画像などを揃えて書類を整え、元興寺から奈良市、奈良県を経由し文化庁に申請書類が提出されました。この案件が国の審議会に諮られ、今年3月15日文部科学大臣への答申で、日本国宝展の出品にかかる現状変更が許可されたのです。関係者一同ひとまずホッとするも、本当の仕事はこれからです。
瀧川寺社建築による解体
展示に先立ち、今年の4月6日~11日の日程で、解体の予行演習を兼ねた状態調査と彩色の剥落止め処置が行われました。解体を行うのは、瀧川寺社建築の若き宮大工さんたち。私もかつて文化庁の調査官として、国宝や重要文化財の修理に関わり、いろんな技術者や職人の方をみてきましたが、宮大工さんとの仕事は初めてのこと。そのキビキビした動きや段取りのうまさに、舌を巻くといった感じ。しかもイケメンぞろいなのです!瀧川社長はたいへんに明るく、人を笑かそうとするサービス精神にあふれた方なのですが、職人を惹きつけ、名工に育てていく人徳と裁量を強く感じました。一方で彩色の剥落止めは、全国の文化財保存修復を手がける元興寺文化財研究所の、まさに本領発揮といったところ。湯せんでといたニカワを、彩色の浮いた部分に、筆で丁寧に差していきます。同時にホコリを払い、クリーニングを行いました。
彩色の剥落止め、クリーニング(元興寺文化財研究所)
昭和修理の際の修理報告書などによって、すでに予想されていたことではありますが、五重小塔は頂部の相輪(そうりん)、心柱(しんばしら)、5~1層と、大きく7つのパーツに解体でき、それらのパーツは釘などで緊結されていない(つまり置き重ねてあるだけ)ことが、改めて確認されました。これは奈良時代など古い建造物の特色でもあります。とはいえ「国宝」。常に張りつめた緊張の中、慎重の上にも慎重を期して、作業は行われました。
(左)5層、4層 (右)5層、4層を外したところ 中央に心柱が立つ
展覧会開幕を控えた9月末、ふたたび足場が組まれ、瀧川寺社建築のイケメン集団によって解体が始まります。解体された部材は厳重に梱包され、輸送トラックによって東京まで搬送されます。そしてここでも研究所の誇るハイテク文化財輸送専用車、「シバラ」1号、2号が大活躍です。文化財を安全に運ぶためには、温湿度管理や振動を抑える仕様の輸送車が不可欠。(ちなみにシバラとは、観音菩薩(観自在菩薩・観世音菩薩)のサンスクリット語、アバロキテシバラからとったもので、妙(たえ)なる観察 妙なる音声という意味)修理と輸送、元興寺文化財研究所の存在は、まことに大きな幸運その3でありました。
(左)元興寺収蔵庫で再び解体 左が瀧川伸社長 (右)平成館での組み上げ
輸送後、平成館の特別展会場には再び足場が組まれ、免震台の上に五重小塔が組まれていきます。足場の設置から解体に約4日、組み上げにまた4日。作品や資材の運搬、会場の養生、後かたづけを含め、元興寺での解体から平成館での設置に、ほぼ2週間を要したことになります。この会場で展示された作品としては、これまでで最大級のものの一つではないでしょうか。その威容に見とれてしまいます。
平成館での五重小塔展示作業の様子
国宝 元興寺極楽坊五重小塔を日本国宝展に展示するにあたっては、これまで見たように、いくつかの大きな幸運がありました。しかしやはり、元興寺様はじめ多くの方々のご理解とご協力の上に出品がかなったことを忘れてはなりません。会期を無事に終え、元興寺様にきちんとお返しするまで、気を抜かずに務めたいと思っています。
瀧川寺社建築のみなさんと
(後列中央より右に)瀧川伸社長、雨森久晃元興寺文化財研究所研究員、田中泉奈良県文化財保護課調整員、筆者
(前列左)金井裕子当館特別展室研究員
カテゴリ:研究員のイチオシ、2014年度の特別展
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posted by 伊藤信二(広報室長) at 2014年11月21日 (金)
「日本国宝展」(2014年10月15日(水)~12月7日(日)、平成館特別展示室)は、
11月18日(火)午後に20万人目のお客様をお迎えしました。
多くのお客様にご来場いただきましたこと、心より御礼申し上げます。
20万人目のお客様は、東京都文京区よりお越しの伊藤悦子さんです。
伊藤さんには、東京国立博物館長 銭谷眞美より、記念品として展覧会図録と、
「縄文のビーナス」ぬいぐるみなどの展覧会グッズを贈呈しました。
「日本国宝展」20万人セレモニー
伊藤さん(中)と館長の銭谷眞美(右)
11月18日(火)東京国立博物館 平成館エントランスにて
伊藤さんは妹さんとお二人で、日本国宝展においでになりました。
本日より11月30日(日)まで展示の「金印」(福岡市博物館蔵)、またポスターでもおなじみの「善財童子立像」(奈良・安倍文殊院蔵)に会うことを、楽しみにしておられたそうです。
また、24年前に当館で行われた「日本国宝展」にも来てくださったとのこと。
1990年(平成2年)、当館として2回目の日本国宝展。 当時はまだ平成館は建設されておらず、本館で開催されました。伊藤さんは当時の図録を繰りながら、今回はまた違った作品も出ているのだなあと、再びお運びくださったのでした!
そうです。24年の間には、新しい国宝も指定されています。
新たな国宝との幸せな出会いがありますように。
いよいよ本日から「金印」が公開。そして11月21日(金)~12月7日(日)までは、国宝の「土偶」全5体が集結します。
年の瀬とともに、日本国宝展もファイナルカウントダウンを迎えようとしています。
カテゴリ:news、2014年度の特別展
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posted by 伊藤信二(広報室長) at 2014年11月18日 (火)
ほー。ぼくトーハクくん。
あれ? トーハクくん、「ほほーい!」じゃないの? なんだか元気ないわね。
うん、なんかさ。燃え尽き症候群ってやつかな。いま、東洋館の「博物館でアジアの旅」の思い出に浸ってたところなんだほ。
この秋、東京国立博物館では、「アジアフェス in トーハク」と題して、東洋美術を楽しむ特別企画を開催中。
総合文化展「博物館でアジアの旅」2014年9月30日(火) ~ 10月13日(月・祝)
2014年日中韓国立博物館合同企画特別展「東アジアの華 陶磁名品展」2014年9月20日(土) ~ 11月24日(月・休)
確かに、楽しかったわねー、「博物館でアジアの旅」。なんといっても衣装体験!
わたし、韓国の王妃様になったのよ。そういえば、トーハクくん、あのとき撮ってくれた写真、まだもらってないわよ。
衣装体験
あれ? そうだったかほー?
トーハクくんはどの企画が面白かった?
そりゃ、やっぱり、屋台だほ。
夜間開館日のアジアン屋台
そ、そこ? トーハクくん、全屋台制覇するってはりきってたものね。確かにおいしかったし、食は大切な文化。アジアフェスが大いに盛り上がったわね。ほかには?
研究員さんたちのスペシャルトークが熱かったほ。コスプレ研究員も登場したんだほ。
民族衣装で解説する小泉研究員
そうそう、ほとんど毎日、いろんなテーマのいろんなお話が聞けたのよね。いつもは、ひとつの展示室、ひとつの作品についてのお話が多いけど、アジアフェスのツアーでは、エジプト、インド、中国、日本、いろんな展示室を行ったりきたり。
中国の漢時代の緑釉犬とボクの仲間の埴輪犬を比べるツアーもあったんだほ。
そういえば、緑釉犬、最近ちょっと人気が出てきて、いい気になってるんだほ!
緑釉犬(左)と埴輪犬(右)
え? トーハクくん、なに張り合ってるの?
だって、比べられちゃったんだほ。
いやだ。研究員さんはそんな意味で比べたわけじゃないわ。比べてみるとはじめてわかることもあるのよ。
いろんな文化が出会ったり、交わったり、そして新しい文化が生まれる様子がわかることもあるわ。
そういえば、夜の博物館にたくさんの子どもが来てくれた日もあったほ。
ワークショップ「親子でぶつぞう探検 in ナイト・ミュージアム」ね。
ナイト・ミュージアムなんて、別にふつーなのに、みんな大喜びだったほ。
トーハクくんにはふつーでも子どもたちには特別なことなのよ。そうそう、早朝の展示室で仏像とヨガ体験も朝活女子にはたまらない企画だったわ。
トーハクくんも、たまには早起きして体を動かしたほうがいいわよ。
ほっといてほしいんだほ! ぼくはダンスで鍛えてるから、いいんだほ。
うんうん、その調子。トーハクくん、元気でてきたわね。
アジアフェスはまだまだ開催中よ! 特別展「東アジアの華 陶磁名品展」( 11月24日(月・休)まで本館特別5室で開催中)を盛り上げていきましょう!
3つの国の文化に陶磁の名品を通して親しむ企画よ。日本国宝展とともに、ぜひみなさまご来場くださいませ。
特別展「東アジアの華 陶磁名品展」の見どころを紹介するブログはこちら
博物館でアジアの旅が、どんな風に盛りあがったか?
詳細報告はこちら(PDF:781KB)
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posted by 小林牧(博物館教育課長) at 2014年11月17日 (月)
日ごとに寒さが増していますが、「日本国宝展」の会場はケースの前に人垣や人溜りができ、
それを感じさせない熱気にあふれています。
今回の展覧会では考古遺物の多くが第2章「神を信じる」にて展示されています。
この第2章では仏教とともに日本の信仰の礎となっている神道、
そしてこれらに先立つ祈りやまつりに関わる作品をご紹介しています。
展示室は奥へ進むに従って時代を遡る展示順となっており、
手前から、カミから神へと信仰が体系化されていく様子をよく表す
沖ノ島祭祀遺跡出土品から始まり、藤ノ木古墳出土の金銅製鞍金具、
平原遺跡出土の内行花文鏡、加茂岩倉遺跡の絵画銅鐸へと続きます。
そして展示室の一番奥では、まさに祈りのかたちの原型である縄文時代の女神たちが
みなさんをお待ちしています。
「合掌土偶」(左)と「縄文のビーナス」(右)
国宝 土偶(合掌土偶) 国宝 土偶(縄文のビーナス)
縄文時代(後期)・前2000~前1000年 縄文時代(中期)・前3000~前2000年
青森県八戸市風張1遺跡出土 長野県茅野市棚畑遺跡出土
八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館蔵 茅野市蔵 尖石縄文考古館保管
縄文時代の土偶はこれまで2万点ほど発見されていますが、国宝の土偶はたったの5点。
その国宝土偶が11月21日(金)~12月7日(日)の期間に、勢ぞろいします。
縄文時代の出土品として初めて国宝に指定された「縄文のビーナス」、
ほぼ形が残っている土偶では日本最大の「縄文の女神」、祈りの姿そのものともいえる「合掌土偶」、
北海道唯一の国宝「中空土偶」、そして今年指定されたばかりの国宝「仮面の女神」。
国宝 土偶(縄文の女神)
縄文時代(中期)・前3000~前2000年
山形県舟形町西ノ前遺跡出土
山形県蔵 山形県立博物館保管
展示期間:11月21日(金)~12月7日(日)
国宝 土偶(仮面の女神)
縄文時代(後期)・前2000~前1000年
長野県茅野市中ッ原遺跡出土
茅野市蔵 尖石縄文考古館保管
展示期間:11月21日(金)~12月7日(日)
国宝 土偶(中空土偶)
縄文時代(後期)・前2000~前1000年
北海道函館市著保内野遺跡出土
函館市蔵
展示期間:11月21日(金)~12月7日(日)
これら国宝土偶は個性的な姿かたちや愛らしい表情も魅力的ですが、
縄文時代の人びとが祈りのかたちをも私たちに伝えてくれるものでもあります。
考古遺物は他の分野の作品と比べて、言葉少なではにかみやです。ぜひ歩み寄ってじっくりとご覧ください。
カテゴリ:研究員のイチオシ、2014年度の特別展
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posted by 品川欣也(考古室主任研究員) at 2014年11月15日 (土)