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1089ブログ

たくさんの塔を造る


本館14室 特集「塔と厨子(ずし)」の展示風景

先日の1089ブログ「舎利を祀(まつ)る塔」でも書いたように、釈迦(しゃか)は死後に荼毘(だび)に付され、遺骨は釈迦を慕う人々に分け与えられ、「舎利」と呼ばれて八つの塔に祀られました。2,400年(一説には2,500年)ほど昔のことです。

今から2,200年ほど前、古代インドのマウリヤ朝の第3代の王となり、インドに統一国家を建設したアショーカ王(前268~232)は、仏教による国造りを進め、舎利を祀る八つの塔のうち七つの塔を開いて新たに塔を建立(こんりゅう)したと伝わります。その数何と八万四千。釈迦の涅槃(ねはん)の地であるクシナガラをはじめサーンチーやバールフットに遺(のこ)るストゥーパは、このアショーカ王の建立、増改築によるものとされています。
「八万四千」というのは、インドで大きな数を表す際の数字ですので、本当にこの数が作られたかは定かではありませんが、この圧倒的な数の作善行(さぜんぎょう)は、後世にも大きなインパクトと影響を与えました。中国・五代の呉越国(ごえつこく)王・銭弘俶(せんこうしゅく、929~988)は、このアショーカ王(中国では阿育王(あいくおう))の故事に倣って八万四千基の塔を造り、各地に配布したと伝えられています。日本へも海を越えて500基がもたらされたとされており、福岡・誓願寺(せいがんじ)に伝わるものや和歌山・那智山経塚(なちさんきょうづか)から出土したもの(図1)が知られています。


(図1)銭弘俶八万四千塔(せんこうしゅくはちまんよんせんとう )
中国・五代時代・10世紀 
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山出土 
北又留四郎氏他2名寄贈


また、現存作例はありませんが、日本でも阿育王の故事は重要視され、白河院(1053~1129)や後鳥羽院(1180~1239)が、五寸(約15センチメートル)の大きさの八万四千塔を造立(ぞうりゅう)したことが記録に残されています。
こうしたたくさんの塔を造る作善は江戸時代まで続いており、京都・仁和寺(にんなじ)でも八万四千塔の造立が行われたようです。当館蔵の焼き物の「八万四千塔(はちまんよんせんとう)」(図2)は、基台裏の銘文(図3~図6)から、その3,333番目として焼かれたことがわかります。また、奈良国立博物館には、仙洞御所(せんとうごしょ、光格天皇、1771~1840か)の御願によって作られた、天保十年(1839)の紀年銘を有する焼き物の八万四千塔が所蔵されています。


(図2)八万四千塔 道八 江戸時代・19世紀

 

八万四千塔の基台裏(図3)
八万四千塔の基台裏(図4)

 

八万四千塔の基台裏(図5)
八万四千塔の基台裏(図6)

 

ところで、たくさんの塔が造られた事例としては、称徳天皇(718~770)による「百万塔(ひゃくまんとう)」(図7)の造立が挙げられます。
藤原仲麻呂の乱(764年)によって多くの血が流れたことを受けて、その鎮魂と滅罪のため、『無垢浄光大陀羅尼経(むくじょうこうだいだらにきょう)』の教えに基づき、世界最古級の印刷物とされる陀羅尼を納めた塔が百万基造立され、奈良及びその周辺の10の寺院に10万基ずつ納められました。
現在はそのうち、奈良・法隆寺に納められたものが、法隆寺に遺る4万基余りをはじめ各地に所蔵されています。法隆寺にだけ遺った理由は定かではありませんが、法隆寺には奈良時代の「鋸(のこぎり)」(図8)や「鎌」(図9)のような道具類も近代まで伝わっており、ものを大切に保管する習わしがあったのかもしれません。


(図7)百万塔 奈良時代・宝亀元年(770)
画像左端(H-1183)は川住三郎氏寄贈

(図8)重要文化財 鋸 奈良時代・8世紀
法隆寺宝物館第4室「木・漆工-武器・武具」にて展示
(図9)重要文化財 鎌 奈良時代・8世紀
法隆寺宝物館第4室「木・漆工-武器・武具」にて展示

 

王侯貴族のような権力者は、経済力や権力で多くの作善を行うことができましたが、いつの時代も何かをなすにはお金の問題がつきまといます。
「お金はないけどたくさんの塔を造って善行を積みたい」ということで作られたのが、土で造られた塔「泥塔経(でいとうきょう)」(図10)です。型抜きで作った塔形に『法華経(ほけきょう)』の経文(きょうもん)の一文字と地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の種子(しゅじ)、カを表したもので、鳥取県の智積寺(ちしゃくじ)経塚から出土したものが各地に多数伝わっています。『法華経』はおよそ7万字ですので、それだけの数が作られたのかもしれません。

(図10)泥塔経 鳥取県東伯郡琴浦町智積寺 智積寺経塚出土 室町時代・15世紀 道祖尾萬次氏寄贈

この他、1089ブログ「舎利を祀る塔」でも紹介した「穀塔(もみとう)」(図11)も、多くの人が仏縁を結びやすいように、木と籾(もみ)とで作られたもので、奈良・室生寺(むろうじ)や奈良・元興寺にも多くの籾塔が伝わっています。


(図11)穀塔 鎌倉時代・13~14世紀 植原銃郎氏寄贈


『法華経』の「方便品(ほうべんぼん)」には「どんな塔を造ることも悟りに繋がる」と説かれています。そしてそれらは多い方がより功徳(くどく)も大きいと考えられました。そうした教えやアショーカ王の「八万四千」の故事などによって、想像を絶するような多くの塔が造られ、供養(くよう)されたのです。

ところで、それらの塔はどこに行ってしまったのでしょうか。法隆寺に遺る百万塔(それでも半分以上は消滅?)を除くと、これほどたくさん造られた塔もほとんどが失われてしまったことに気付きます。
改めて、現在我々が、こうした先人の善行を目の当たりにできる奇跡を、思わずにはいられません。

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 清水健(工芸室) at 2024年02月21日 (水)

 

見て触って学べる! 特集「親と子のギャラリ― 中尊寺のかざり」

建立900年 特別展「中尊寺金色堂」(2024年1月23日(火)~4月14日(日))と足並みをそろえて、特集「親と子のギャラリ― 中尊寺のかざり」(2024年1月23日(火) ~ 3月3日(日))が本館特別2室ではじまりました。
この特集は、子どもから大人までを対象に美術作品やそのつくり方に興味や関心を深めることを目的にしています。
今回は特別展にあわせ「中尊寺のかざり」をテーマにしました。
 
金色に光り輝く美しさで著名な中尊寺金色堂は「光堂」、「皆金色」とも形容されますが、その輝きに彩りを与えているのが、螺鈿(らでん)や金工の技法(つくり方)です。
今回の展示では、中尊寺に伝来する荘厳具(しょうごんぐ)や仏具を対象に螺鈿と金工のつくり方に注目して展示を構成しています。
 
展示品は復元模造品と制作工程見本が占めています。その意図は復元模造品や、制作工程見本だからこそわかることがたくさんあるからです。
復元模造品は制作にあたって制作対象と同じ材料や同じ技法で復元することによって、制作対象そのものを深く知ることができます。
また多くの調査分析、検討を踏まえて作られた復元模造品は制作当初の様子をよく表しています。
さらに制作工程見本は、制作にあたって使用される材料や道具、技法を時系列にそってより詳しく知ることができる利点があります。
 

螺鈿八角須弥壇(模造)
小西美術工藝社制作 平成4年(1992)
原品:平安時代・12世紀 木製漆塗 岩手・中尊寺大長寿院所蔵
*須弥壇の側面には、蓮の花にのる迦陵頻伽、その周りを飾る雀や孔雀などが、金工や螺鈿の技術(つくり方)で表現されています。

螺鈿工程見本
小西美術工藝社制作 平成4年(1992)
原品:平安時代・12世紀 木製漆塗 岩手・中尊寺大長寿院所蔵
*丹精込めて作られた様子は工程数にも表れています。
今回の展示に合わせて新たに中尊寺金色堂の須弥壇を飾る孔雀の制作工程見本とハンズオンを作成しました。
実寸大の孔雀の制作工程見本は、制作道具と一緒に展示しています。
また孔雀を留める敷板の大きさは須弥壇の区画と同じ大きさに揃えたので、須弥壇の大きさを想像しながらご覧いただければと思います。
 

中尊寺金色堂内観

今回の制作対象となった中央壇の格狭間に飾られた孔雀(赤枠拡大図)
展示風景
*材料の銅から完成まで8工程で孔雀の制作工程を展示しています
 
また中尊寺と同時代の獅子螺鈿鞍を例にあげ、「漆の飾り 螺鈿」というタイトルで螺鈿のつくり方(制作工程)を示す動画と触察ツールを作成しました。
動画は手話入り日本語版と英語版を上映し、触察ツールは日本語と英語に加えて点字でも解説を用意しています。
制作が進むにつれて現れる獅子の姿とともに輝きをましていく螺鈿、見て触れてお楽しみいただければと思います。 
 
重要文化財 獅子螺鈿鞍 平安~鎌倉時代・12~13世紀 嘉納治五郎氏寄贈 東京国立博物館蔵


動画「漆の飾り 螺鈿」
 
触察ツール「漆のかざり 螺鈿」
 
この展示を楽しむために、仏さまを飾るもよう探しのリーフレットを用意しました。
もようの役割や意味を学びながら、この特集展示や特別展「中尊寺金色堂」はもちろんのこと、本館1階11室の彫刻や2階1室・3室の仏教の美術の展示をご覧になる際にもご活用いただければと思います。
 
 

リーフレット「仏さまをかざるものたち」

この特集の意図は多くの方が中尊寺のかざりに興味や関心をもつきっかけをつくること。
オンラインでも一部楽しめますが、ぜひ会場で体感いただければと思います。
本特集の会期は特別展より1か月短い3月3日(日)までです。みなさん、お見逃しのないように。
 

カテゴリ:教育普及特集・特別公開工芸「中尊寺金色堂」

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posted by 品川 欣也(教育普及室) at 2024年02月16日 (金)

 

舎利を祀る塔

2月15日は何の日でしょう。バレンタイン・デーの次の日?
かつて多くの男子が落涙した日かもしれませんが、大昔違う涙の流れた日です。
それは仏教を開いた釈迦の命日。

今からおよそ2,400年前(一説に2,500年前)に、インドのクシナガラというところのガンジス川の支流の畔、沙羅双樹(さらそうじゅ)の間で、北を枕にして人間・ゴータマ・シッダールタは80年の生涯を閉じました。その様子は「仏涅槃図(ぶつねはんず)」(図1)に描き継がれており、釈迦の死を悼んで泣き咽(むせ)ぶ弟子や信徒、動物の姿が描かれています。旧暦の15日のことなので、空には満月が輝き、皓々(こうこう)と釈迦の亡骸を照らしています。その後釈迦は荼毘(だび)に付されました。


(図1)重要文化財 仏涅槃図(ぶつねはんず) 
平安時代・12世紀
本館3室「仏教の美術―平安~室町」にて2月18日(日)まで展示


因みに、釈迦の死は多くの物語を伴っており、金色の棺に納められ、天から死を悼んで降りてきた母・摩耶夫人(まやぶにん)に対し、甦って説法をした話(金棺出現)や、火葬後に残った遺骨を、釈迦を慕う八つの部族が分け合って塔に祀(まつ)ったという話(分舎利)などが知られています。金色の棺に北枕というと、現在本館1階特別5室で開催中の特別展「中尊寺金色堂」にて展示されている藤原清衡(ふじわらのきよひら、1056~1128)の「金箔押木棺(きんぱくおしもっかん)」(重要文化財)の事例を思い出します。金色に輝く棺(図2)。何か関係があるのでしょうか。



(図2)重要文化財 金箔押木棺 
平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
建立900年 特別展「中尊寺金色堂」(~4月14日(日))にて展示

それはさておき、先に述べたように、釈迦の遺骨は舎利と呼ばれて大切にされ、信徒によって分けられ、塔に祀られたとされています。舎利というと、お寿司のお米の部分が思い浮かぶかもしれませんが、形が似ていることに加え、お米が一粒一粒に至るまで大切にされたことから、そう呼ばれるようになったのではないでしょうか。

舎利を祀る塔は、インドに端を発し、中央アジア、中国、朝鮮半島を経て、飛鳥時代には日本に伝わりました。
『日本書紀』には、敏達天皇十三年(584)に渡来人の司馬達等(しばたっと)が食器の中に舎利を発見し、これを献上された蘇我馬子(そがのうまこ、?~626)が塔を建立(こんりゅう)して祀ったことが記されています。
私も子供の頃にご飯を食べていて、石のようなものに出くわしたことがありますが、捨ててしまいました。今思えばあれは舎利だったのかもしれません。残念。
その後蘇我馬子によって建立された法興寺(飛鳥寺)にも百済(くだら)からもたらされた舎利が塔の心礎に納められました。この辺りが我が国の舎利信仰の始まりです。

舎利は司馬達等のように急に出現することもありましたが、インドが本場なので、より本場に近いところで入手されたものが由緒あるものとしてありがたがられました。
高名なのは、戒律の作法を伝えた中国の僧・鑑真(がんじん)和上(687~763)がもたらした奈良・唐招提寺の舎利3,000粒と、弘法大師空海(774~835)が、大同元年(806)に唐から帰国した際にもたらした京都・東寺の舎利80粒です。
いずれも中国直伝の品で、インド(天竺)がどうしたら行けるのかわからないような遙かな憧れでしかなかった時代に、由緒正しい舎利として革命的に尊崇されたことと思われます。唐招提寺の舎利は金亀舎利塔(きんきしゃりとう)に、東寺の舎利は金銅舎利塔(こんどうしゃりとう)に、今も大切に祀られています。

鎌倉時代に入ると、平安時代の末に源平合戦の煽(あお)りで焦土と化した奈良で寺院の復興が本格化し、それとともに仏教の原点である釈迦に回帰しようという考えが盛んになりました。そのため舎利が尊崇され、これを安置する多くの舎利容器が作られ、礼拝(らいはい)されるようになりました。現在多くの作例が残るのは、鎌倉時代以降になります。そして舎利への信仰はその後も続き、江戸時代に至るまで多くの舎利容器が作られています。

そうした中で、舎利を塔に納める作法は、その後小さな塔を作ってそこに納めたり、塔自体を舎利に見立てて礼拝するようになっていったようです。
本館14室で開催中の特集「塔と厨子(ずし)」(1月16日(火)~2月25日(日))にはそうした舎利を祀る塔を展示しています。

薬師寺に伝わる「金銅舎利塔(こんどうしゃりとう)」(図3)は江戸時代の作で、宝塔の中に舎利を納めた火焔宝珠形(かえんほうじゅがた)の容器を納めています。塔と舎利との関係性を伝える一例です。なお、この舎利塔には扉に四天王を描いた厨子が伴っていて、舎利=釈迦を仏教の守護神がしっかりと護るように作られています。


(図3)金銅舎利塔 
江戸時代・17世紀 奈良・薬師寺蔵


塔の中でも、平安時代の後半に密教の教えによって創造された五輪塔(世界を構成する五大要素である地・水・火・風・空を形にしたもの)は多くの遺例があります。五輪塔形舎利容器では、下から2段目の円い水輪に舎利を納めるものが多く作られました。「金銅装水晶五輪塔形舎利容器(こんどうそうすいしょうごりんとうがたしゃりようき)」(図4)では、水晶製の容器の中に舎利が納められているのが見えます。


(図4)金銅装水晶五輪塔形舎利容器 
室町時代・15世紀


また「水晶五輪塔(すいしょうごりんとう)」(図5)は高さ4センチメートルほどの小さな塔ですが、水輪に舎利が納められるようになっています。八角形のこうした小塔は、真言宗の一派である真言律宗を開いた奈良・西大寺の僧・叡尊(えいそん、1201~90)の教えが反映した可能性が指摘されています。


(図5)水晶五輪塔 
静岡県沼津市本出土 鎌倉時代・13世紀


密教の祈祷に用いられる五種鈴(独鈷鈴、三鈷鈴、五鈷鈴、宝珠鈴、宝塔鈴の5点)という組の法具があります。その中でも中心的な役割をなす宝塔鈴には舎利が納められることがありました。「金銅塔鈴(こんどうとうれい)」(図6・7)はそうした一例で、先端の塔の部分が外れるようになっています。ここに舎利を納めて祈祷を行ったと考えられます。

 

(図6)金銅塔鈴 
鎌倉時代・13世紀(E-19885)
(図7)金銅塔鈴(E-19885) 
塔を外した姿

 

少し変わったところでは、密教で用いられた能作生塔(のうさしょうとう)があります。中世日本の密教では、願いを叶える不思議な力を持つ玉である宝珠(ほうじゅ)と舎利とが同じものであると考えられたため、宝珠を通じて舎利が信仰されました。能作生珠という香木などを漆で練って作った魔法の玉を納めた能作生塔の代表的な遺例である奈良・長福寺の国宝「金銅能作生塔(こんどうのうさしょうとう)」(図8)は、インドで舎利容器として用いられたという水瓶(すいびょう)の形をしています。
真ん中の円い部分が上下に開閉できるようになっていて、ここに魔法の玉(これは絶対に見てはならない!)を入れて礼拝したと考えられます。上端には宝珠があしらわれ、一層神秘な趣を掻き立てています。


(図8)国宝 金銅能作生塔 
鎌倉時代・13世紀 奈良・長福寺蔵


能作生塔のような特殊なものがある一方、籾塔(もみとう)といって、木製の小塔に籾を入れて祀った塔もあります。作るのに手間や費用がかからないので、庶民も含めて大量に作られ、お寺の堂内などに安置されました。「穀塔(もみとう)」(図9)はその一例で、底の裏に籾が入れられるようになっています。籾は脱穀する前の殻の付いたお米のこと。お米を舎利ということと、こんなところで結びついているのかもしれません。


(図9)穀塔 
鎌倉時代・13~14世紀 植原銃郎氏寄贈


さて、舎利塔は日本だけでもかなりたくさん作られていますが、舎利はそんなにたくさんあったのでしょうか。
これは難しい問題ですが、例えば東寺の舎利は、数えてみると知らないうちに増えている(減っている)ことが『東宝記』という南北朝時代の東寺の歴史を記した書物に書いてあります。世の中が平和だと舎利は増えるのだとか。
舎利がどんどん増えるような世の中が続けばいいのにと改めて思いました。


本館14室 特集「塔と厨子(ずし)」の展示風景

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 清水健(工芸室) at 2024年02月14日 (水)

 

迦陵頻伽と孔雀と宝相華

コロナ禍の真っ最中、身内に不幸があり、やむなく中部地方の郡部にある実家に帰省しました。セレモニーが終わると親類もそそくさと帰途につき、どこか出掛けるような状況でもなく(ちょっと当時を思い出してみて下さい)、ずっと庭を眺めていました。初春のことで梅が咲いており、鳥が飛んでいます。いい年齢になったせいか、花鳥画というのはこういう世界を描こうとしたのだなと思いました。

その花鳥画は、花が咲き鳥が歌う浄土を描こうとしたのではないかと思います。四季の明確な東アジアには、四季折々の花に鳥を合わせた四季花鳥図というものがありますが、浄土は四季が揃っているともいわれており、浄土を表したとする解釈も頷けます。あるいは、仏教的な浄土は、仏教の興ったのはインドですから、熱帯の色鮮やかな花々と極彩色の鳥のイメージが思い浮かびます。いずれにしろ、花と鳥は、風物でもありますが、楽園のイメージを強く喚起するものといえます。
 
その浄土のうち、最も高名な阿弥陀如来の住する西方・極楽浄土を顕したとされるのが、中尊寺金色堂です。金色堂の荘厳(しょうごん)には迦陵頻伽(かりょうびんが)と孔雀(くじゃく)と宝相華(ほうそうげ)が溢れています。それはなぜでしょうか。
 
図1 国宝 金銅迦陵頻伽文華鬘 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
建立900年 特別展「中尊寺金色堂」通期展示(2024年4月14日(日)まで) 
 
図2 国宝 迦陵頻伽文露盤羽目板 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺大長寿院蔵
建立900年 特別展「中尊寺金色堂」通期展示(2024年4月14日(日)まで)
 
迦陵頻伽は上半身が人、下半身が鳥という空想上の生き物で、極楽浄土に住み、妙音を発して鳴くといわれています。現存遺っているものでは、金色堂で使われたと伝わる金銅華鬘(こんどうけまん)【図1】に羽を広げて佇(たたず)む優美な姿を見ることができます。また、金色堂の屋根の上にある方形の露盤(ろばん)に使われていたともいわれる羽目板(はめいた)【図2】にも、その姿があります。迦陵頻伽はインドで創出されたと考えられ、中央アジア、中国、朝鮮半島を通じて日本へも奈良時代には伝えられていました。その姿は正倉院宝物や極楽浄土を描いた当麻曼荼羅(たいままんだら)【図3・4・7は江戸時代の模写】にも描かれています。
 
 
図3 当麻曼荼羅図 神田宗庭隆信筆 江戸時代・天保7年(1836)
下野三悦坊伝来 喜多川儀久氏寄贈 東京国立博物館蔵
※本作品は展示しておりません 
 
図4 図3当麻曼荼羅図に描かれた迦陵頻伽
 
迦陵頻伽はさすがに実在しませんが、孔雀は実際にインドや東南アジアに生息する鳥で、尾羽を覆う上尾筒(じょうびとう)を扇形に開いた様が特に美しく印象的です。孔雀も迦陵頻伽と同じく、極楽浄土について述べた『阿弥陀経』という経典に、極楽に住む鳥として記されています。孔雀も妙音を発するとされ、まさに「鳥は歌う」が極楽の要素として重要であったと考えられます。孔雀は金色堂の須弥壇(しゅみだん)の格狭間(こうざま)【図5】にそれぞれ配置されており、また法要の最中に打って鳴らす道具である磬(けい)【図6】や僧侶(そうりょ)の座る礼盤(らいばん)にも表されています。先に述べた露盤の羽目板も、4面のうち正面と思われる1面は迦陵頻伽ですが、残りの3面は孔雀が表されています。孔雀も奈良時代には日本に伝えられており、正倉院宝物の刺繡の幡(ばん)や当麻曼荼羅【図3・7】にも登場します。孔雀は藤原道長(966~1027)が飼っていたという記事が、日記である『御堂関白記(みどうかんぱくき)』にあり、日本美術では象などに比べると遥かにリアルに表されています。
 
図5 金色堂中央壇格狭間の孔雀
 
図6 国宝 磬架・金銅孔雀文磬のうち金銅孔雀文磬 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
建立900年 特別展「中尊寺金色堂」後期展示(展示期間:2024年3月5日(火)~4月14日(日))
 
図7 図3当麻曼荼羅図に描かれた孔雀
 
宝相華は、牡丹などをベースにして想像された空想上の花です。中国で唐代に成立した豪華な花文様である唐花文様(からはなもんよう)を仏教化したもので、主に唐草(からくさ)と組み合わせられて用いられました。金銅華鬘【図1】の地に透かし彫りで表されているのが宝相華唐草です。礼盤の金具や螺鈿平塵案(らでんへいじんあん)の金具【図8、螺鈿の宝相華は残念ながら剥落】、そして須弥壇の格狭間の孔雀の傍(かたわ)らにも珍しい株立ちの宝相華【図5】が表されています。さらに全体を見渡すと、須弥壇の上から下まで、それから四方に立つ柱は、螺鈿や蒔絵(まきえ)の宝相華で隙間もないほどに荘厳されており【図9】、果ては仏像の光背(こうはい)、台座、天蓋(てんがい)に至るまでもが宝相華に覆われており、花が咲き乱れる様子が表現されています。極楽を観想(心に思い浮かべること)する方法を説く『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には、七つの宝石(瑠璃・玻璃・瑪瑙・硨磲(しゃこ)・真珠・珊瑚・琥珀の七宝)から成る花や実をつけた光り輝く巨大な宝樹について述べられており、『阿弥陀経』にもこのような宝樹や、青・赤・黄・白、そしてこれらが混じった色の巨大な蓮華が池に咲く様子が説かれています。「花は咲き」も極楽の構成要素として大変重要であったといえるでしょう。
 
図8 国宝 螺鈿平塵案 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
建立900年 特別展「中尊寺金色堂」後期展示(展示期間:2024年3月5日(火)~4月14日(日)) 
 
図9 中尊寺金色堂中央壇
 
このように、極楽浄土の教主である阿弥陀如来を主尊とする金色堂は、間違いなく花が咲き鳥が歌う極楽浄土を再現したものといえるでしょう。光堂(ひかりどう)とも呼ばれる金色堂の荘厳は、無量光仏(むりょうこうぶつ)(限りない光の仏)とも呼ばれる阿弥陀の光を象徴しているといえるのです。
 
ところで、当麻曼荼羅では、上空に迦陵頻伽が飛び、地上の蓮池の畔(ほとり)に孔雀が描かれていました。金色堂でも迦陵頻伽は長押(なげし)などに懸ける華鬘に、孔雀は須弥壇や礼盤などの下の方に配置されています。孔雀は高くは飛べない鳥です。そうした属性が意匠として使われる際にも考慮されているのかもしれません。 
 
ぜひ、建立900年 特別展「中尊寺金色堂」に足をお運びいただき、金色堂の荘厳にあしらわれた迦陵頻伽や孔雀、宝相華を探してみてください。
 

カテゴリ:工芸「中尊寺金色堂」

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posted by 清水健(工芸室) at 2024年02月09日 (金)

 

金色堂の仏像(2)

いよいよ開幕いたしました、建立900年 特別展「中尊寺金色堂」
そのみどころから、前回に引き続き国宝仏像11体について、今回は阿弥陀三尊像をご紹介いたしましょう。
 
国宝 阿弥陀三尊像(左から:勢至菩薩立像、阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像) 展示風景
平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
 
金色堂中央壇の中心に安置される阿弥陀三尊像は、いわば金色堂のご本尊です。嫌味や誇張のない円満な姿で、ふっくらとしたやわらかい表情が特徴です。
制作者の名は残念ながら知られませんが、当時の一流仏師の作と見てよいでしょう。平安時代後期より仏像の世界を席巻した大仏師定朝の系譜を正統に受け継いだ仏師の作と見られます。
 
とは言え、その魅力は単に京都の仏像に引けを取らないというだけにとどまりません。
阿弥陀如来像に注目してみましょう。
円満なお顔のはち切れんばかりのプリッとした頬の表現は、鎌倉時代の仏像様式を先取りしたかのようです。
 
阿弥陀如来坐像(部分)
 
背面にまわってみましょう。後頭部の螺髪(らほつ)の刻み方は、左右に振り分けるようにあらわします。
パンチパーマのセンター分けとでも呼ぶべき(?)、この螺髪のあらわし方は、実は鎌倉時代以降に流行するのです。
 
 
阿弥陀如来坐像背面(部分)
 
もうひとつ、右肩にかかる袈裟の表現をご覧ください。隙間が見えます。
つまり、衣を別材で造って貼り付けているのです。こうした表現手法が平安時代に全く見られないわけではありませんが、例えば仏像を裸に造って実際に衣を着せるような表現は鎌倉時代以降に流行します。この衣の一部を別材製とするのもこうした表現の先取りと言ってよいでしょう。
 
阿弥陀如来坐像(部分)
 
このように、阿弥陀如来像には当時の最先端を行く表現が用いられている可能性があります。
なぜでしょうか。
 
おそらく、当時の京(みやこ)の貴族文化が前例主義にとらわれていたのに対し、奥州藤原氏は京の文化を巧みに取り入れながらも前例に縛られることなく良いものを積極的に受け入れる先進性と柔軟性を持ち合わせていたのではないかと考えられます。そして、これこそが平泉の仏教文化の真骨頂だと思うのです。
 
ところで、このようにちょっとムチムチとした阿弥陀三尊像の姿は、前回ご紹介した地蔵像の頭部を小さくつくるプロポーションや胸を平板にあらわすスリムな体形と、二天像のやはり頭部を小さくつくり激しい動きを示す姿とは一線を画します。これは制作年代の違いと考えられます。
 
金色堂中央壇諸仏展示風景
 
また、地蔵像と二天像がカツラ材製であるのに対して、阿弥陀三尊像はヒバないしはヒノキと見られる針葉樹材製です。素材の点からも今の中央壇諸仏はもともとセットではなかった、寄せ集めなのではないかと考えられます。
 
金色堂内には3基の須弥壇が設置され、それぞれに11体ずつ計33体の仏像が安置されています。各壇の11体の構成は共通していて、阿弥陀三尊像(3体)・六地蔵像(6体)・二天像(2体)です。実は、これらの仏像は長い歴史の中でその安置される壇を移動している可能性が高いことがわかっています。
 
その移動が意図的なものか、あるいは混乱による偶然のものなのか定かではありませんが、残された仏像の造形表現や素材・構造を検討・分類することで、それぞれの仏像の原位置を推定できるようになっています。
その詳細は本展会場に掲示しているパネルもしくは図録をご覧いただくことにして結論を申し上げると、阿弥陀三尊像は元々中央壇に安置されていた仏像と考えられます。つまり、藤原清衡(きよひら)が夢見た極楽浄土の阿弥陀三尊像として造像されたとみられるのです。
 
(手前)国宝 阿弥陀三尊像 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
(奥)重要文化財 金箔押木棺 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
 
そして、制作年代が異なる可能性を指摘した六地蔵像と二天像は、阿弥陀三尊像より後の時代、おそらく二代基衡(もとひら)の壇に安置されていた像と考えられます。その壇の中心には、現在西北壇に安置されている阿弥陀如来像が坐していたと推定できます。
 
阿弥陀三尊像は金色堂上棟の天治元年(1124)から清衡の没した大治三年(1128)頃の制作と考えられます。
これに対して六地蔵像と二天像が基衡壇に安置されていたとするならば、その制作年は基衡の没した保元二年(1157)頃と推定されます。その差は約30年です。
是非その年代観を会場で体感してください。
 
これまでに中尊寺金色堂を訪れた経験のある方もたくさんいらっしゃることでしょう。その際、ガラス越しで少し遠くにご覧いただいた仏像たちのお顔はわかりましたか?
金色堂の輝きに目を奪われ、おそらくはっきりとはわからなかったのではないでしょうか。
本展で間近に国宝仏像をご覧いただくことで、きっと身近に感じ、今回それぞれの個体識別ができるようになるのではないかと考えています。
 
阿弥陀如来坐像と金箔押木棺
 
スポーツ観戦や観劇をされる方にはご理解いただけるのではないかと思いますが、選手や俳優の顔やしぐさを知っていれば、球場や劇場で豆粒ほどにしか見えない選手や俳優でも、ちゃんと識別して見えていますよね。あ、砂かぶりのいい席でご覧いただいている方々でなくともという話です。
仏像もそれと同じことです。やはり展覧会だけで満足せずに、本来あるべき姿、つまり金色堂に安置されている仏像をご覧いただきたいのです。
今回、本展で仏像を間近にご覧いただき親しむことで、次に金色堂を訪れた際にも「東博で会ったあのアゴの上がったお地蔵さんだ!」と認識できるようになる、そんな展覧会になればいいなと願っております。
 

カテゴリ:彫刻「中尊寺金色堂」

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posted by 児島大輔(東洋室主任研究員) at 2024年02月08日 (木)