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1089ブログ

画禅室ものがたり-董其昌の光と闇-

東京国立博物館東洋館8室と台東区立書道博物館で開催中の連携企画「董其昌とその時代―明末清初の連綿趣味―」も、いよいよ終盤戦! (東京国立博物館:~2月26日(日)、台東区立書道博物館:~3月5日(日))。
1089ブログでは、本展の見どころを3回にわたってお伝えしています。第1回「明末清初の絵画の楽しみ方」、第2回「明末清初の“連綿草”の魅力」に続き、最終回では真打ち登場!!今回の主役である董其昌の人となりを4期に分け、“ものがたり調”でお届けいたします。

【第1期】受験勉強時代(幼少期~34歳)
これは、今から400年ほど前の中国・明時代のお話です。
董其昌は、嘉靖34年(1555)1月19日(新暦2月10日)、松江(しょうこう)府の上海県に生まれました。字を玄宰(げんさい)、室号を画禅室(がぜんしつ)といいます。
父は、郷里で家庭教師をしていました。息子には将来優秀な官僚になってもらいたかったのでしょう。中国の歴史書『資治通鑑(しじつがん)』の一節を毎晩、枕元で読み聞かせていました。その甲斐あって、13歳の時に童試を受けて優秀な成績をおさめ、才名は大いに高まりました。
17歳の時、1つ年下の甥である董原正(とうげんせい)と郷試を受けます。試験官は董其昌の答案を1位にしたものの、字が下手であったために、董原正がトップ、董其昌は2位に落とされました。董其昌はこの屈辱に発奮し、本格的に書を学ぶことを決意します。
18歳の時、松江の名士である莫如忠(ばくじょちゅう)の家塾に入り、息子の莫是龍(ばくしりゅう)とともに勉強します。莫是龍は書画に造詣が深く、早くから画の南北論を唱えており、その著『画説』は後に董其昌が提唱した南北二宗論(なんぼくにしゅうろん)の礎となりました。
26歳の時、明時代屈指の大収蔵家である項元汴(こうげんべん)が息子の家庭教師として董其昌を招いたことで、項元汴の書画コレクションを鑑賞する機会を得ます。コレクションには歴代の真跡が多く、それまで拓本を拠り所にしてきた董其昌は、真跡の持つスゴさに、ただただ驚くばかりでした。
項元汴の没後、董其昌は項元汴の息子に墓誌銘を依頼され、往時を偲びながら心をこめて書きました。完成したのは項元汴が亡くなって45年後、董其昌81歳の時でした。


行書項墨林墓誌銘巻
心から項元汴先生に感謝いたします
行書項墨林墓誌銘巻 董其昌筆 明時代・崇禎8年(1635)81歳 
東京国立博物館蔵(東京国立博物館で2月26日(日)まで展示)



【第2期】第1次 官僚時代(35歳~44歳)

幾度かの受験の末、34歳でようやく郷試に合格し、35歳で科挙に及第して高級官僚となります。官僚のエリートコースである翰林院に入り、そこで教官の韓世能(かんせいのう)と出会います。彼は収蔵家としても知られ、自分の書画コレクションを携えて、教習の合間に門生に披露していました。

顔真卿 自書告身帖跋  自書告身帖 顔真卿筆
韓世能先生のコレクション、襟を正して拝見
(左)顔真卿 自書告身帖跋 董其昌筆 明時代・16世紀
台東区立書道博物館蔵(台東区立書道博物館で3月5日(日)まで展示)
(右)参考:自書告身帖 顔真卿筆 唐時代・建中元年(780) 台東区立書道博物館蔵

翰林院では、書物の編修や太子の教育係、地方試験の監督などを歴任しました。この頃、董其昌の名声はすでに世間に知れ渡っていたので、収蔵家たちは鑑定をしてもらうことでコレクションに箔をつけようと、董其昌を訪ねてくるようになります。本来の仕事よりも鑑定に重きを置いていた董其昌は、そのことをとがめられます。政治が次第に腐敗していく中、各地で暴動も起き、宮殿が焼失するなど、この頃は明王朝が大きく揺らいでいた時期でもありました。董其昌は官界との軋轢に嫌気がさし、44歳で武昌に転出を命じられると、病と称して辞職します。翰林院に属していたのはわずか10年でした。


【第3期】江南時代(45歳~67歳)

45歳で郷里に帰った董其昌は、江南地方で書画に没頭する生活を送ります。中でも親友である陳継儒(ちんけいじゅ)との交遊は、最大の楽しみの1つでした。2人は歴代の書画を鑑賞し、名品を収集し、自らも書画を制作しました。鑑識にくわしい2人は、名品に跋や識語も書きつけています。
董其昌は晋・唐の書を学び、平淡を理想としながらも、一方では躍動感に満ちた連綿趣味を好みました。画は唐の王維を祖とする文人画の伝統を継承しましたが、単なる模倣ではなく、歴代の画家たちの様式を抽出し、それらの様式を用いた創造的な模倣でした。
また、評論にも傑出していました。南方に行われた文人画を尊ぶ南北二宗論は、明末以降における文人画の方向性を決定づけました。董其昌は歴代の名品に真摯に対峙し、自らの思索を深め、修練を積むことで、実作においても理論においても、偉大な功績を残しました。


行草書羅漢賛等書巻
興に乗るにつれ、ほとばしる情熱
行草書羅漢賛等書巻 董其昌筆 明時代・万暦31年(1603)49歳
東京国立博物館蔵(東京国立博物館で2月26日(日)まで展示)


62歳の時、董其昌は襲撃を受け、家を焼かれます。実はこの事件、董其昌の横暴な官僚としての報いを受けたものでした。董其昌は郷里で書画三昧の生活を送りながら、その後も幾度となく官への復帰と辞職を繰り返していました。官僚としての権力を濫用して、土地の立ち退きを迫り、高額な税金を搾取し、高利貸しで金儲けをし、脱税で蓄財して、それらを書画の収集など自らの趣味に費やしました。こうした董其昌の目に余る行為が人々の反感を買い、ついには自宅を襲撃されるに至ります。このように、現在では董其昌の闇の側面についても明らかになっています。


【第4期】第2次 官僚時代(68歳~82歳)

泰昌元年(1620)に光宗が即位した際、董其昌は翰林院時代に光宗の教育係を担当していたことが縁で、官に復帰します。しかしわずか1ヶ月で光宗が急死したため、しばらくの間、董其昌は名ばかりの官職にありました。
68歳で太常卿となり、神宗(万暦帝)と光宗(泰昌帝)の実録の編纂に従事します。董其昌による実録は、歴史的な事実を正確に踏まえて編集されるため、資料的価値のたいへん高いものでした。編纂の仕事は性に合っていたとみえ、これまでのように途中で辞することなく最後まで信念を持ってやり遂げました。
71歳で南京礼部尚書という高官を拝します。しかし宦官の魏忠賢(ぎちゅうけん)の党禍が激しくなると、72歳で辞職して郷里に帰り、歴代の名品と向き合いながら再び書画制作に没頭します。

書画合璧冊
私のヒミツの手控え帳を見よ!
書画合璧冊 董其昌筆 明時代・崇禎2年(1629)75歳
東京国立博物館蔵(台東区立書道博物館で3月5日(日)まで展示)


臨懐素自叙帖巻
形骸化した書に狂草で喝ッ!
臨懐素自叙帖巻 董其昌筆 明時代・17世紀
東京国立博物館蔵(台東区立書道博物館で3月5日(日)まで展示)


78歳から再び官に復帰しますが、数年で辞職して郷里に戻り、崇禎9年(1636)、11月11日(新暦12月8日)、董其昌は82年の生涯を閉じました。


草書書論冊
最期のチカラをふりしぼって…
草書書論冊 董其昌筆 明時代・崇禎9年(1636)82歳 
東京国立博物館蔵(東京国立博物館で2月26日(日)まで展示)



董其昌の書画に対する深い理念と理論は、清朝においても受け継がれ、康熙帝(こうきてい)や乾隆帝(けんりゅうてい)は董其昌の書画を愛好し、董書は朝野を席捲しました。やがてこの流れは日本に及び、江戸期の書画にも董其昌ブームが起こります。
董其昌の書画における数々の功績は、16世紀から17世紀にかけて文化の爛熟した時代に生まれ合わせたからこそなし得た偉業といえるでしょう。時代の申し子として翰墨(かんぼく)に耽溺し、「芸林百世の師」と称賛される董其昌は、没後380年を経た今もなお、書画の世界に大きな影響を与え続けているのです。めでたし、めでたし。
 

 

董其昌とその時代―明末清初の連綿趣味―

展覧会図録

董其昌とその時代―明末清初の連綿趣味―

編集・編集協力:台東区書道博物館、東京国立博物館
発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団
定価:900円(税込)
ミュージアムショップにて販売中
 

週刊瓦版
台東区立書道博物館では、本展のトピックスを「週刊瓦版」という形で、毎週話題を変えて無料で配布しています。トーハクと書道博物館の学芸員が順番に書いています。展覧会を楽しくみるための一助として、ぜひご活用ください。

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 鍋島稲子(台東区立書道博物館) at 2017年02月16日 (木)

 

明末清初の「連綿草」の魅力

東洋館の4階、8室で開催中の、台東区立書道博物館との連携企画「董其昌とその時代―明末清初の連綿趣味―」は、1月31日(火)から後期展に入り、会期も残すところ1か月を切りました(東京国立博物館:~2月26日(日)、台東区立書道博物館:~3月5日(日))。
陳列替えを経た両会場では、絵画を中心に新たな作品がお目見えしております。

1089ブログでは、本展の魅力を3回にわたってお伝えします。今回は、「明末清初の絵画の楽しみ方」に続く第2回目です。
ここでは、董其昌の理念を受け継ぐと言っても過言ではない、明末清初の時期に展開した「連綿草」という書のスタイルの魅力について、ご紹介しようと思います。

連綿草と言っても、楷書や行書、草書などと違って、一般的にあまり聞き慣れない言葉かと思います。
連綿草とは、筆の勢いを切らさずに複数の文字を続け書きする「連綿」を駆使した草書のことを言います。

草書五言律詩軸 草書五言律詩軸(部分拡大)
草書五言律詩軸 傅山筆 清時代・17世紀 東京国立博物館蔵
東京国立博物館で2017年2月26日(日)まで展示
(右)部分拡大


傅山筆「草書五言律詩軸」は、本展で展示する書のなかでも、ひときわ目をひく作品です。一見して、目が回ってしまうかのような、「クネクネ」「グルグル」とした、なんとも奇怪な作品だと思われるのではないでしょうか。

上下左右に筆を振幅させながら、下へ下へと息長く書き進められた線は、あたかも変幻自在に動く縄のように、次々と多様な造形の文字を生み出していきます。
それぞれの字は整った造形ばかりではなく、左右に傾いたり、縦に伸ばされたり、あるいは、つぶれて扁平になったものまで、実に様々な表情を見せます。
太さの変化していく線が湾曲、交差して一字をつくり、そうしてつくられた大きさ・形・墨量の異なる文字がこの作品を構成することで、観る者に奥行きや立体感すら覚えさせます。

筆者の傅山(1607~84)は、明朝の滅亡後に、黄冠朱衣を身に着けて諸方に流寓し、明の遺民として清朝への抵抗の意を示した人物です。
書に対しては、すぐれた人物であれば自ずと書もまた奥深いものとなるという考えを示し、技巧がもつ作意や虚飾といったものを排して、自然にありのまま書くことを主張しました。

草書五言絶句四首四屛
草書五言絶句四首四屛 傅山筆 明〜清時代・17世紀 東京国立博物館蔵(青山杉雨氏寄贈) 
東京国立博物館で2017年2月26日(日)まで展示


草書五言絶句四首四屛(部分拡大)
部分拡大

例えば「草書五言絶句四首四屛」では、奔放自在に筆を走らせ、時にいびつさをも伴う奇異な造形を生み出しています。紙面構成や墨の使い方、そして連綿の用法などを見ても、意の赴くままに書写していることが窺えます。
巧拙を超えた、大胆極まりないこの字姿には、観る者の心に迫る、筆者の精神が表れているように思われてなりません。


傅山とともに、連綿草をよくした代表格として挙げられるのが王鐸(1592~1652)です。
王鐸は明朝滅亡に際して、清への恭順を余儀なくされ、明清両朝に仕えた弐臣として、後世に厳しく非難された人物です。書に対しては、王羲之・王献之を主として、専ら『淳化閣帖』の臨摸により研鑽を積みました。
臨書は原本に近似するものから、大胆な改変を行うものまで実に幅広く、王鐸にとっての臨書が、様々な表現の実験の場であったものと思われます。「書画合璧巻」における『淳化閣帖』の臨書は、前者に相当しますが、形似に終始しない態度が窺えます。

書画合璧巻(部分) 
書画合璧巻(部分) 王鐸筆 清時代・順治6年(1649) 大阪市立美術館蔵 ※現在は展示しておりません

書画合璧巻(部分拡大)
部分拡大

王鐸の草書の魅力として、連綿の多様さが挙げられます。例えば「草書詩巻」に見られるように、連綿がただ文字をつなぐのみに止まらず、太さや長さ、曲直の具合など多様な線を駆使して、運筆に緩急をつけ、造形や紙面構成に安定と変化をもたらしています。
この多様な連綿が臨書による成果だとすれば、王鐸は古典の文字と文字の間、即ち連綿に表れる筆者の息づかいや筆意をも学びとろうとしていたことは想像に難くありません。

草書詩巻(部分)
草書詩巻(部分) 王鐸筆 明時代・永暦元年/清時代・順治4年(1647) 台東区立書道博物館蔵
台東区立書道博物館で2017年3月5日(日)まで展示

草書詩巻(部分拡大)
部分拡大


一般的に、「書は線の芸術」と言われます。連綿草の魅力は、表情豊かな文字造形もさることながら、様々な質感の線が一つの書に混在することのように思います。
本展では、王鐸や傅山をはじめ、張瑞図、黄道周、倪元璐といった、連綿草をよくした諸家の書を展示しています。彼らの書を前に、墨線を目でたどって、当時の書きぶりを追体験してみてはいかがでしょうか。

関連事業

連携講演会「董其昌とその時代―明末清初の連綿趣味―
日程  2017年2月4日(土)
時間  13:30~15:00 *開場は13:00を予定
会場  平成館 大講堂
講師  鍋島稲子(台東区立書道博物館)、富田淳(当館学芸研究部長)
定員  380名(先着順)
聴講料 無料(ただし当日の入館料が必要)

 

董其昌とその時代―明末清初の連綿趣味―

展覧会図録

董其昌とその時代―明末清初の連綿趣味―

編集・編集協力:台東区書道博物館、東京国立博物館
発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団
定価:900円(税込)
ミュージアムショップにて販売中
 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 六人部克典(登録室アソシエイトフェロー) at 2017年01月31日 (火)

 

董其昌とその時代─明末清初の絵画の楽しみ方

董其昌は、明時代も終わりに近づいた1555年、現在の上海地方に生まれました。
さほど裕福な家の出身ではありませんでしたが、勉学に励み、数え35歳で難関の科挙に合格、官僚生活をスタートします。その後は、一時的に官を退くことはありましたが、ほぼ順調にキャリアを積み上げ、南京礼部尚書の地位まで昇りつめます。
郷里では地位を活かして豪勢な生活を送り、82歳の長寿を全うしました。まずまず幸せな一生を送ったといえるのではないでしょうか。

董其昌がその名を歴史に刻んだのは、政治家としての業績よりも、書家・画家としての腕前、古今の書画に対する鑑定家・評論家としての知識・卓見によるところが大きいでしょう。
彼の遺した作品や理論は、後の書家・画家たちに広く影響を与えました。

渓山仙館図
渓山仙館図 董其昌筆 明時代・天啓3年(1623) 東京国立博物館蔵 (2017年1月29日(日)まで展示)

台東区立書道博物館との連携企画第14弾「董其昌とその時代―明末清初の連綿趣味―」では、東洋館8室(2017年2月26日(日)まで)と書道博物館(2017年3月5日(日)まで)の2会場で、董其昌と彼の生きた時代の書画を特集展示しています。
当ブログではこれから3回にわたって、この展覧会の魅力を紹介していきますが、第1回目の今回は、明末清初の絵画の楽しみ方についてお話しようと思います。
キーワードは、「古」と「奇」です。


東洋館8室展示風景
東洋館8室展示風景

董其昌のような知識人の制作する絵画において、なぜ「古」が大事であったか、これは、彼らにとっての文章を書く、という行為と比較するとわかりやすいかもしれません。
科挙の答案に始まり、皇帝への意見文、同僚・地元の名士との交流に必須の詩文、知人から頼まれる祝賀あるいは追悼の言葉など、知識人は日々多くの文章を書きます。
彼らに求められているのは、文章の中に彼らの教養を反映させることです。すなわち、この答案のこの部分は、孔子先生が述べられたあの言葉を踏まえている、あるいは、この詩のこの言葉は、李白のあの有名な句を踏まえている、といった具合です。
このために、彼らは2000年以上にわたる「古典」を猛勉強するわけです。

知識人の作る絵画は文章と同じく、作り手の優れた内面を伝えるものであるべきと考えられました。とすると、当然そこには「典拠」が散りばめられることが期待されます。
明末清初の絵画に「古の誰々に倣う」という題がしばしば見られるのは、このためです。

倣黄公望山水図
倣黄公望山水図 王鑑筆 明時代・崇禎11年(1638) 京都国立博物館蔵(2017年1月29日(日)まで展示)

ここで問題となるのは、明末という時代の特性です。
都市経済が空前の発展を遂げた16世紀後半、まちには様々なレベルの知識人が溢れていました。董其昌のように高級官僚になれるのはほんのひとにぎり、多くは自分の教養を売りに、詩人、戯曲家、編集者、評論家、そして書家あるいは画家として生活しなければなりませんでした。
知識人が需要過多となった社会の中で、彼らは、他に比べて自分の教養、内面こそが優れていると証明しなければならず、そこに古典解釈の正統性を競う苛烈な競争が生じました。

この競争の中で重視されるようになったのが、「奇」という概念です。
董其昌もしばしば作画にあたっての「奇」の重要性を説きますが、これは当時にあっては、「個性」とも解釈できる言葉で、人と同じ倣古ではだめだ、自分の独創性を表現しなければならない、という主張が成されています。

今回の展示では、このような明末の熱気の中で制作された、自分オリジナルの「奇」を競う絵画が多く並びます。ここでは、1月15日までしか見られない名品2点を紹介しましょう。

渓山絶塵図   渓山絶塵図(部分)
天目喬松図 藍瑛筆 明時代・崇禎2年(1629) 個人蔵(2017年1月15日(日)まで展示)
(右) 部分拡大


藍瑛(1585-1666)は浙江・杭州出身、様々な古典を勉強して自分なりの倣古山水画様式を確立した画家です。
「天目喬松図」は浙江省にある道教・仏教の聖山、天目山を描きます。10・11世紀の華北画壇では、このような下から湧き上がる堂々とした高山の姿が好まれました。藍瑛の天目山イメージはこれへのオマージュとも解釈できるでしょう。
一方で、山肌を走る筆線は、10世紀の江南で活躍した董源に発するとされる「荷葉皴」に近く、赤や白の鮮やかな樹葉は、6世紀のやはり南の画家、張僧繇が描いたと伝わる濃彩の青緑山水を思わせます。
剛毅・峻厳な北の画風に、温厚・甘美な南のエッセンスを取り入れたところに、藍瑛の「奇」が光っています。

渓山絶塵図   渓山絶塵図(部分)
渓山絶塵図 呉彬筆 明時代・崇禎2年(1629) 個人蔵(2017年1月15日(日)まで展示)
(右) 部分拡大


呉彬(?-1567-1617-?)は福建出身、古画に取材した怪異な風貌の人物を描いた画家として有名です。
「渓山絶塵図」では、藍瑛と同様、10・11世紀の華北画風を学んで、俗人を近づけない、まさに「絶塵」の厳しさを持つ大山を描いています。
眼を引くのは、第一に、上に聳えるだけでなく、横に伸び、垂れ下がり、ねじ曲がって絡み合う山の形です。第二には、光沢のある織り方をした絖と呼ばれる素材を活かして、そこに筆墨で明暗を付け、複雑な線描を施した山の肌合いが挙げられるでしょう。
詳しくは展覧会図録に書きましたが、造形・質感におよぶ呉彬の「奇」は、当時流行していた奇石愛好趣味からインスピレーションを得たものといわれています。空洞や突起を多く備え、複雑な文様と滑らかな肌を持った珍奇な石は、人々に幻想的な大山のイメージを抱かせるものでした。それを画面に写したのが、呉彬ということになります。

この他にも、「董其昌とその時代―明末清初の連綿趣味―」展では、明末清初の絵画の名品が並んでいます。この機会を逃さず、トーハクと書道博物館で「古」と「奇」の世界を楽しんでいただければ幸いです。

 

董其昌とその時代―明末清初の連綿趣味―

展覧会図録

董其昌とその時代―明末清初の連綿趣味―

編集・編集協力:台東区書道博物館、東京国立博物館
発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団
定価:900円(税込)
ミュージアムショップにて販売中
 

 

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posted by 植松瑞希(東洋室研究員) at 2017年01月12日 (木)

 

小林斗盦(とあん)─収蔵家としての一面─

今年のトーハクの展示も残すところ2週間余りとなりました(年内は12月23日(金・祝)まで開館)。
ということは……東洋館8室で開催中の「生誕百年記念 小林斗盦(とあん) 篆刻(てんこく)の軌跡―印の世界と中国書画コレクション―」(~12月23日)をご覧いただけるのも、残りわずかなのです。

本展は11月29日(火)から後期に突入し、展示作品も大幅に入れ替わりました。
メインの小林斗盦(1916~2007)が刻した印のほか、斗盦が収集した古印や中国書画の優品など、後期展では新たに87件がお目見えし、前期後期を通して展示されるものを含めて、現在160件以上の作品が皆さんのご来場をお待ちしております。

さて、前置きが長くなりましたが、斗盦の制作に関する展示を取り上げた前回に続き、今回は、斗盦の収蔵家としての一面を伝えるコレクションについてお伝えしようと思います。

制作に関する展示:プロローグ「篆刻家 小林斗盦」、第1部「古典との対峙」、第2部「作風の軌跡」、第4部「制作の風景」、第6部「翰墨の縁」、エピローグ「刻印の行方」
収集に関する展示:第3部「篆刻コレクション」、第5部「中国書画コレクション」

第3部「篆刻コレクション」 第5部「中国書画コレクション」
左:第3部「篆刻コレクション」、右:第5部「中国書画コレクション」

斗盦の師である篆刻家の河井荃廬(かわい せんろ、1871~1945)や古印学者の太田夢庵(おおたむあん、1881~1967)、あるいは中国文物のコレクターとして著名な林朗庵(りんろうあん、1898~1968)らが所蔵したものなど、時に旧蔵者との親密な交流を背景として入手に至った斗盦のコレクションには、篆刻書画いずれにおいても名品が少なくありません。

第3部 篆刻コレクション
斗盦が収蔵したおよそ戦国時代から南北朝時代の古印のなかでも、太田夢庵の没後に、ご令室のご厚意により譲渡された夢庵遺愛の玉印8顆が特筆されます。
斗盦はこの玉印を自身の所蔵印の中で「最高の瓌宝」として愛蔵し、夢庵への謝意を込めて、書斎の名を「懐玉印室」と命名しました。本展では、そのうちの6顆が出品されています。

秦・漢の時代に確立された官印の制度下では、玉製の印は皇帝の璽に限られ、多種ある材質のなかでもとりわけ玉は、中国古来より神聖な対象として特別視されてきました。
展示中の玉印には、緑色や淡く青色がかった白色、また珍しい黒色など、多彩な玉材が使用され、玲瓏という玉の透き通るような美しさは見る者の目を奪います。
そして、材としてだけではなく当時の文字資料としても貴重で、このような様々な時代の古印の様式を斗盦は学び、自身の篆刻の糧としたのです。

印全景、印面、印
印全景、印面、印
左:「信城侯」白文印 中国 戦国時代・前5~前3世紀 原印=個人蔵、印影=個人蔵
中:「宋嬰」白文印 中国 前漢時代・前1世紀 原印=個人蔵、印影=個人蔵
右:「程竈」白文印 中国 後漢時代・1世紀 原印=個人蔵、印影=個人蔵
上から印全景、印面、印影


また、斗盦は清時代以降の名家の刻印、例えば鄧石如(とうせきじょ)から呉昌碩(ごしょうせき)に至る鄧派と称される一派の作なども体系的に収集しました。
清時代の乾隆・嘉慶期に活躍した鄧石如(1743~1805)は、従来主流であった漢時代の古印を基調とする様式を一変させます。鄧石如の新様式は、秦・漢時代の書に素地を得た自身の篆書を印面に表現するというものでした。
これに追随した呉熙載(ごきさい、1799~1870)、徐三庚(じょさんこう、1826~1890)、趙之謙(ちょうしけん、1829~1884)、呉昌碩(1844~1927)ら鄧派の諸家の作を、斗盦は熱心に収集し、その作風を研究したのです。

印面、印影
印面、印影
左:「見大則心泰礼興則民寿」白文印 鄧石如刻 中国 清時代・18~19世紀 原印=個人蔵、印影=個人蔵
中:「三退楼寓公」白文印 呉熙載刻 中国 清時代・19世紀 原印=個人蔵
*印影は小林斗盦氏寄贈印譜『乙酉劫余継述堂印存』より展示
右:「如夢鶯華過六朝」朱文印 徐三庚刻 中国 清時代・19世紀 原印=個人蔵
*印影は小林斗盦氏寄贈印譜『似魚室印蛻』より展示
上から印面、印影


これらの印のほか、斗盦は質が高い膨大な量の古今の印譜を収蔵し、日中でも有数のコレクションを誇りました。
平成14・15年度には、コレクション中の稀覯印譜(きこういんぷ)と篆刻資料、都合423件を当館にご寄贈いただき、平成16・18・20年にはそのうちの一部を東洋館8室で特集陳列いたしました。
本展の第3部では、一部の印をそれが捺された寄贈印譜と並べて展示し、斗盦の幅広い篆刻コレクションの一端を窺います。

為五斗米折腰
画像左:「為五斗米折腰」朱文印 趙之謙刻 中国 清時代・19世紀 原印=個人蔵
画像右:趙撝叔印譜第2冊 趙之謙作 中国 中華民国時代・民国5年(1916) 東京国立博物館(小林斗盦氏寄贈)



第5部 中国書画コレクション
斗盦の中国書画コレクションの骨子は、青銅器や石碑など金石の書に魅せられた清時代以降の諸家の作品でした。
例えば、碑学派に先行して金石の書に眼を向けた揚州八怪の一人、金農(1687~1763)の書画を斗盦は熱心に収集し、一連の論考を雑誌『書品』(東洋書道協会)などに発表しました。

隷書冊
隷書冊 金農筆 中国 清時代・乾隆9年(1744)  個人蔵


倣金冬心墨梅図
倣金冬心墨梅図 小林斗盦筆 昭和23年(1948) 個人蔵 *第2部「作風の軌跡」にて展示
金農の墨梅図に倣った斗盦32歳時の作。


また、鄧石如、呉熙載、徐三庚、趙之謙、呉昌碩らの書跡は、碑学派による篆書・隷書の作風の展開をたどるうえで、あるいは諸家の書と篆刻との関係性を窺ううえで貴重な作品群で、斗盦の学究的な態度が垣間見られます。
*鄧石如、呉昌碩の書は現在展示しておりません
 

篆書漢書礼楽志安世房中歌横披
篆書漢書礼楽志安世房中歌横披 呉熙載筆 中国 清時代・19世紀 個人蔵


隷書張衡霊憲四屛
隷書張衡霊憲四屛 趙之謙筆 中国 清時代・同治7年(1868) 個人蔵


河井荃廬から譲り受け、そのため東京大空襲による焼失を免れたという呉熙載「梅花図軸」などは、斗盦が荃廬や西川寧(にしかわやすし、1902~1989)らとともに鑑賞した逸話を伝えて興味深い作品です。
斗盦は師との鑑賞を介して中国書画の眼識を一層確かなものとして、充実したコレクションを築いていったのでしょう。
第5部「中国書画コレクション」では、金石書画を愛好した先人たちへの眼差しを窺います。

梅花図軸
梅花図軸 呉熙載筆 中国 清時代・咸豊11年(1861) 個人蔵


制作に必要不可欠な篆刻や書の古典研究を行うかたわら、斗盦は自らも古典となる璽印や印譜、中国書画の収集に情熱を注ぎました。周辺分野の所産に直に触れて、常に篆刻という文化を見つめ続けたのです。


コレクションには、所蔵者の人となりや交遊などが投影されます。本展を通して、生涯を篆刻に捧げた小林斗盦の収蔵家としての一面に想いを馳せていただければ幸いです。

 

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図録
「生誕百年記念 小林斗盦 篆刻の軌跡 ―印の世界と中国書画コレクション―」
編集・発行:東京国立博物館、謙慎書道会
定価:2,500円(税込)
全298ページ(A4判変形)
 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 六人部克典(登録室アソシエイトフェロー) at 2016年12月06日 (火)

 

古典と向き合い続けた小林斗盦(とあん)の多彩な作品

東洋館8室では、「生誕百年記念 小林斗盦(とあん) 篆刻(てんこく)の軌跡―印の世界と中国書画コレクション―」(前期:2016年11月1日(火)~11月27日(日)、後期:2016年11月29日(火)~12月23日(金・祝))を開催しております。先週は、トーハクのアイドル、ユリノキちゃんが、開会式や展示会場の様子をお伝えしてくれました

本展の主な出品作は、小林斗盦(1916~2007)が制作した作品(篆刻・書画)と、収集した作品(古印・印譜・中国書画)に分かれます。そこに、制作に関わる資料などを加えて、6部とプロローグ・エピローグからなる展示構成となっています。今回は、斗盦の制作に関する展示についてご紹介しましょう。

制作に関する展示:プロローグ「篆刻家 小林斗盦」、第1部「古典との対峙」、第2部「作風の軌跡」、第4部「制作の風景」、第6部「翰墨の縁」、エピローグ「刻印の行方」
収集に関する展示:第3部「篆刻コレクション」、第5部「中国書画コレクション」

第1部「古典との対峙」 第6部「翰墨の縁」
左:第1部「古典との対峙」、右:第6部「翰墨の縁」


プロローグ 篆刻家 小林斗盦
本展は、篆刻家・小林斗盦の生涯における記念碑的な作品で幕が開けます。斗盦は昭和58年(1983)、67歳の時に「柔遠能邇」白文円印を第15回日展に出品し、この作で第40回日本藝術院賞・恩賜賞を受賞しました。
言葉は、『尚書』の一節に拠った「遠くの民を安んじ近くの民をよくする」という意味の4字句です。秦時代の円形の印の様式に、絵画的要素の強い西周から春秋戦国時代頃の金文の造形を合わせて、朱白の対比がたいへん美しい、動的で表情豊かな作に仕上げています。
斗盦はその後、実作と研究における優れた業績から、77歳で日本藝術院会員、82歳で文化功労者顕彰、88歳の時には篆刻家として初めて文化勲章を受章します。「柔遠能邇」白文円印は、当代を代表する篆刻家としての位置を確かなものとした、とても重要な作なのです。

「柔遠能邇」白文円印側款拓
    
「柔遠能邇」白文円印 小林斗盦刻 昭和58年(1983) 原印:東京・日本藝術院、印影:個人蔵
左:印影、右:側款拓



第1部 古典との対峙・第2部 作風の軌跡
91年の生涯において、斗盦は実に幅広い作風の篆刻作品を残しました。「古典を尊重模倣し、近世の名人の作品を分析咀嚼して、完璧を期す」という頑なまでに守旧的な制作観は、斗盦を、生涯にわたり篆刻とその前提となる文字や書の資料に向かわせ続け、多様な作品群を生むことになりました。
では、斗盦はどのようなものを学び、自身の篆刻作品を生み出したのでしょうか。第1部では、殷時代の甲骨文や西周時代の金文、戦国時代から南北朝時代までの璽印に、封泥や陶文、そして清時代の名家の篆刻など、作品の背景にある古典を対照させて、斗盦の多彩な作風を概観します。続く第2部では、斗盦の代表的な篆刻作品を年代順にたどり、作風の軌跡を窺います。

「独往」朱文印側款拓
「独往」朱文印 小林斗盦刻 平成11年(1999)  原印:個人蔵、印影:個人蔵
左:印影、右:側款拓


「ただひとりで行く」という意味のこの二字句を、斗盦は作風を変えて、幾度となく制作を試みています。83歳の時に第31回日展に出品したこの作品は、西周から春秋戦国時代の金文を基調としたものです。古代中国の各時代の字形の長所を合わせて、ひとつの秩序を作りだしており、斗盦の金文表現の到達点を示す作と言えます。

婦ひん卣  蓋銘拓
婦ひん卣 中国 西周時代・前10世紀 東京・台東区立書道博物館蔵
左:全景、右:蓋銘拓



「愚者之定物以疑決疑」朱文印側款拓
「愚者之定物以疑決疑」朱文印 小林斗盦刻 昭和62年(1987) 原印:個人蔵、印影:個人蔵
左:印影、右:
側款拓

71歳の時に、『荀子』解蔽の言葉を小篆で刻した作品で、清時代の趙之謙(1829~1884)の作風に倣ったものです。斗盦はこのような趙之謙風の緻密な構成の朱文多字印を得意としました。本作でも、1辺3cm余りの小さな印面に、3行合計9字が手足を伸ばしたかのような躍動感のある字形で布置されています。


第4部 制作の風景
晩年まで衰えることなく数々の名品を生み出し続けた斗盦は、昭和52年(1977)、61歳の時に、川越から東京へと拠点を移し、永田町にある高層マンションの一室に居を構え、そこを制作の場としました。自ら懐玉印室(かいぎょくいんしつ)と名づけた斗盦の書斎は、篆刻という芸術を表すかのように、決して広いとは言えない空間でありながら、そこから無限の創造は紡ぎだされたのです。
第4部では、生前に斗盦が愛用した篆刻の道具や文房具、書斎を彩った文雅な扁額など、懐玉印室という制作の風景を眺めてみます。また、メモ魔でもあった斗盦が、書斎を初めて訪れる賓客に必ず署名を求めたという芳名帳からは、幅広い交遊が窺えます。

行書「懐玉印室」扁額
行書「懐玉印室」扁額 沙孟海筆  中国  中華人民共和国・1988年 個人蔵
前期展示:~11月27日(日)


57歳の時に、師の太田夢庵遺愛の玉印8顆を譲り受けた斗盦は、その喜びから、ほどなくして懐玉印室という室号をつけました。西泠印社長を務めた沙孟海(1990~1992)によるこの扁額は、斗盦にとって、敬愛していた沙孟海との厚誼を記念する特別な意味をもった作品でもありました。本作品は、斗盦篆刻が生まれる懐玉印室という空間、また現代における日中書壇の親密な交流状況をも象徴するものと言えます。

晩年に斗盦が愛用した文具
晩年に斗盦が愛用した文具


第6部 翰墨の縁
篆刻家の作品には、ただ芸術表現に終始したものだけではなく、往々にして実用を意識して制作されたものがあります。斗盦の篆刻作品にも依頼や応酬によるものが多く含まれ、相手や用途に応じた作風が見られるとともに、政界・学界・文壇・芸苑など各界の著名人との交流の様子や斗盦作品の評価の高さが垣間見られます。
例えば、文壇では、永井荷風(1879~1959)や武者小路実篤(1885~1976)、司馬遼太郎(1923~1996)ら誰もが知る作家の印も見られます。第6部では、それらの作から斗盦が生涯に結んだ翰墨の縁を窺います。

「荷風散山」朱文印
 永井荷風からの礼状
「荷風散人」朱文印 小林斗盦刻 昭和24年(1949) 印影:個人蔵
前期展示:~11月27日(日)
上:印影、下:永井荷風からの礼状


「武者小路実篤璽」白文印
「武者小路実篤璽」白文印 小林斗盦刻 昭和48年(1973) 印影:個人蔵
前期展示:~11月27日(日)


「司馬遼太郎印」白文印
「司馬遼太郎印」白文印 小林斗盦刻 平成5年(1993) 原印、印影:大阪・司馬遼太郎記念館蔵
前期展示:~11月27日(日)



エピローグ 刻印の行方
篆刻家は、その人物や、姓名・雅号などに込められた重層的な意味に想いを馳せて、語句にふさわしい作風を考慮して印を刻します。そして人手に渡った刻印は、篆刻家の意図から離れ、所蔵者がつくる新たな場を舞台に、印影として様々な表情を見せます。
例えば書作品に押された印影はどうなのでしょうか。作品の画龍点睛となる印は、あくまでも小さく控えめな存在ながら、時として作品よりも多くの事情を雄弁に語りかけてくれます。本展の結びに、文化勲章を受章した青山杉雨(1912~1993)による書作品から、篆刻家・小林斗盦が残した刻印の行方を眺めてみましょう。

篆書「胸中丘壑」額
篆書「胸中丘壑」額 青山杉雨筆 昭和62年(1987) 東京国立博物館蔵(水谷洋氏寄贈)

青山杉雨は30歳の頃に西川寧に師事して、昭和から平成初めにかけて書道界の発展に大きく寄与した人物です。杉雨はこの作品に西川門の同輩である小林斗盦の刻印3顆、「東夷之書」朱文印(引首)、「文長寿」白文印(落款)、「囂斎」朱文印(押脚)を使用しています。書作品に押された印影は、筆者のサインであるに留まらず、書を効果的に引き立て、作品を影ながら支える存在と言え、そこには筆者の好尚が反映されます。


東夷之書」朱文印「文長寿」白文印 「囂斎」朱文印
左:「東夷之書」朱文印 小林斗盦刻 昭和61年(1986) 原印:個人蔵、印影:個人蔵
中:
「文長寿」白文印 小林斗盦刻 昭和59年(1984) 原印:個人蔵、印影:個人蔵
右:「囂斎」朱文印 小林斗盦刻 昭和48年(1973) 印影:個人蔵


生涯、古典と向き合い続け、その美しさを背景にもつ斗盦の多彩な作品を通して、篆刻という方寸の世界に繰り広げられる壮大な芸術をお楽しみいただければ幸いです。


本展図録をミュージアムショップにて販売中!

図録
「生誕百年記念 小林斗盦 篆刻の軌跡 ―印の世界と中国書画コレクション―」
編集・発行:東京国立博物館、謙慎書道会
定価:2,500円(税込)
全298ページ(A4判変形)
 


関連事業

月例講演会「小林斗盦の篆刻の世界」 
2016年11月19日(土) 13:30~15:00  平成館大講堂
定員380名(先着順)
聴講無料(ただし当日の入館料が必要)

 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 六人部克典(登録室アソシエイトフェロー) at 2016年11月10日 (木)