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1089ブログ

ひいな遊び―立雛(たちびな)を作ろう!―

あかりをつけましょ ぼんぼりに~
お花をあげましょ 桃の花~♪

去る2月20日(土)、トーハクではファミリーワークショップ「ひいな遊び―立雛を作ろう!―」が開かれました。雛祭りを前にして、自分オリジナルの立雛を作ってみようという企画です。午前中は親子を対象に、午後は大人だけを対象にして2回開催致しました。
おひなさまというと、初節句にお店で買ってくるイメージですが、江戸から明治にかけては紙や織物で立雛を作ることが女の子の間で行われていました。自分より年少の子供に遊び道具としてお人形を作り与えることは、お裁縫の稽古にもなったことでしょう。
そもそも雛祭りの源流のひとつは、平安貴族の子どもたちが行った「ひいな遊び」に遡ります。これはミニチュアの建物や家具、そして人形を使ったオママゴトであったと考えられます。やがて時代はくだり、江戸時代の初期になると男雛・女雛のおひなさまを女の子のため3月3日に飾る風習が生まれます。
初期のおひなさまは立雛とよばれる男女一対の紙人形で、今回モデルとした「古式立雛」(江戸時代・17~18世紀)もその一つです。ペラペラの薄い作りで立たせることが難しく、手に持って遊ぶ「ひいな遊び」の流れを受けたものでした。素朴な人形であるだけに、遊びを通じた人形と子どもの本来的なありかたを伝えています。


古式立雛   江戸時代・17~18世紀
特集「おひなさまと日本の人形」(2016年3月1日(火)~4月10日(日)、本館14室)にて展示

ワークショップは好きな色の厚紙を選んでもらうところから始まりました。この厚紙に3種類の版をつかって模様を摺り、切ったり折ったりして胴体を作っていきます。

好きな色の厚紙を選ぶ


教育普及室の室員とボランティアさんをスタッフとして、立雛製作を事前練習した成果をアドバイスに活かしつつ、みなさんおしゃべりも楽しみながらワイワイ製作しました。

ワークショップの様子


胴体製作で特に難しいのが男雛の袴作り。スーツにビシッと入った折目はカッコイイものですが、同じように袴にも折目を入れ、男らしさを演出します。袴の折り方は言葉で説明しづらく、みなさん見本をみながら悪戦苦闘でした。
そして何といっても一番の難関は頭(かしら)作りです。今回のワークショップでは120度の熱で焼き固める粘土を使ったのですが、焼くのに30分かかるため、頭の形は10分ほどで仕上げて頂きました。講師の私に急き立てられながら、大焦りでの製作です。
そして頭の色塗り。あらかじめ白色で下地を塗った上から、髪や目鼻を描いていきます。お顔を描くのは一発勝負であるなか、「お人形は顔が命!」とプレッシャーをかけられ、これも10分ほどで仕上げていただきました。なにせ2時間のワークショップで模様の刷りから胴体の組み立て、頭作りまでするから大変です。

男雛の袴作り


最後に完成した立雛を緋毛氈のうえに一同に並べて鑑賞会。同じ方法で作ったお人形ですが、色の組み合わせや表情に強く個性があらわれ、世界にひとつの可愛らしい立雛が生まれました。みなさんとても楽しそうに製作を進められ、企画した側としても大満足のワークショップでした。

みなさんの作品


後片付けも終わり、早速できあがった立雛を小さな自宅に持って帰って、神棚の前に飾ってみました。気の強そうな女雛は妻に似ているような・・・、といって怒られた私です。もうすぐ雛祭りですね~♪

自宅に飾った立雛



*東京国立博物館本館14室では3月1日(火)ら4月10日(日)の会期で特集「おひなさまと日本の人形」が開かれます。また今回、展示に合わせ『東京国立博物館セレクション おひなさまと日本の人形』が出版されました。みなさまのご来場を心よりお待ち申し上げます。
 

おひなさまと日本の人形
東京国立博物館セレクション 「おひなさまと日本の人形」
三田覚之著
発行:東京国立博物館
定価:1200円(税別)
東京国立博物館ミュージアムショップで販売中
 

カテゴリ:研究員のイチオシ教育普及特集・特別公開

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posted by 三田覚之(教育普及室・工芸室研究員) at 2016年02月24日 (水)

 

寄贈された「中国史跡写真」

東京国立博物館には、歴史的な価値の高い写真のコレクションがいくつもあります。
徳川家が去った後の江戸城の最後の姿を写した「旧江戸城写真帖」、近代日本最初の文化財調査の記録「壬申検査写真」、文化財保護の基礎を築いた「臨時全国宝物取調写真」、北京・紫禁城の深奥を捉えた「北京城写真帖」などです。

このような当館の古写真コレクションに、新たに貴重な一群が加わりました。それが今回特集で展示中の「中国史跡写真」(2016年1月2日(土)~ 2016年2月28日(日)、本館15室)です。写真カードで約4500枚にのぼるこの写真は、関野貞(1867~1935)と竹島卓一(1902~1992)という二人の東洋建築史学者の長年にわたる調査の成果です。

関野は東洋建築史研究を代表する学者の一人で、若い頃は奈良で古寺の調査と修理に従事するとともに、平城宮跡の位置を確定しました。東京帝国大学教授となった明治時代の後半からは朝鮮半島と中国大陸を踏査し、各地の古建築や史跡の意義を明らかにしました。関野が東大を退官した後、新設された研究機関、東方文化学院東京研究所の事業として構想したのが、中国歴代王朝の皇帝陵と遼・金王朝時代の建築の調査です。昭和5年(1930)に始まった関野の調査に助手として随行したのが竹島でした。二人は江南から調査を始めて北上し華北に至りますが、昭和10年に関野は急逝しました。その遺志を受けた竹島が調査を継続しますが、昭和12年には応召して戦地に赴くこととなり、調査は中絶します。
主に竹島が撮影した史跡・建築の写真は研究書『熱河』『遼金時代の建築と其仏像』の素材となるとともに、原板と焼付の一式が東方文化学院に納められました。しかし竹島は納入した写真以外に自分で撮っていたものも含めて、第二次大戦後も一人で焼付写真の整理を続けていました。竹島は戦後、名古屋工業大学教授として教壇に立つかたわら、東洋古建築に関する学識を見込まれて、火災で損傷した法隆寺金堂の保存工事事務所長を務め、その再建に尽力しました。また若い頃から研究していた宋代の建築書『営造法式』の研究によって、昭和48年には学士院賞・恩賜賞を授賞しています。

杭州霊隠寺大殿前東塔 明成祖長陵 石人
左:霊隠寺大殿前東塔  大正7年(1918) 竹島卓一氏寄贈
右:明成祖長陵 石人
(文臣)  竹島卓一撮影  昭和6年(1931) 竹島卓一氏寄贈


竹島が整理を続けていた写真はその没後、ご息女が手元に留めて、やはりこつこつと目録を作っておられました。そしてご息女がたまたま当館で、関紀子(当館アソシエイトフェロー)が担当した古写真の特集陳列「清朝末期の光景」(2010年)をごらんになったことから、私たちとのご縁ができたのです。寄贈を受けた写真については、東方文化学院の資料を引き継いだ東京大学東洋文化研究所の平勢隆郎教授のご理解によって、東大所蔵分の写真との突合せとそれに基いた学術的な目録の刊行を果たすことができました。『東方文化学院旧蔵建築写真目録』(2014年)と『東京国立博物館旧蔵「中国史跡写真」目録』(2015年、いずれも東京大学東洋文化研究所から刊行)の2冊です。細かい確認点の多い調査には関と三輪紫都香(当館アソシエイトフェロー)が従事しましたが、竹島家二代にわたる整理がなければ、このように短い期間で成果をまとめることはできなかったでしょう。

今回の展示で紹介した写真は、「中国史跡写真」のごく一部です。関野が最初に撮影した写真は大正7年(1918)のものですから、およそ100年を経て皆さんの前に姿を見せたことになります。私たちも写真の保存と整理に尽くされた方々に常に思いを馳せながら、その継承と公開を図ってゆきたいと思います。(文中敬称略)
 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 田良島哲(博物館情報課長) at 2016年02月09日 (火)

 

特集「顔真卿と唐時代の書」の見どころ(3)

東博&書道博の「顔真卿と唐時代の書」(東洋館8室、1月31日(日)まで)も、残すところ数日となってきました。日本国内はもちろん、海外の雑誌にもこの連携企画は取り上げられ、唐時代の書の奥深さと、人気の高さを実感しています。

3000年に及ぶ中国の書の歴史上、王羲之(おうぎし)が活躍した東晋時代と、欧陽詢(おうようじゅん)・虞世南(ぐせいなん)・褚遂良(ちょすいりょう)・顔真卿(がんしんけい)の四大家が活躍した唐時代においては、書法が最高潮に到達しました。一口に四大家と言っても、それぞれに書風は異なり、よくもまぁこれほど高いレベルで、趣の異なる書が完成したものです。

欧陽詢も虞世南も、もとは南朝の陳に生まれました。しかし、欧陽詢の代表作「九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)」(632年)は、北朝の流れを汲む隋様式を受け継いで、研ぎ澄まされた造形を誇っています。隋の「美人董氏墓誌銘(びじんとうしぼしめい)」(597年)は、すでにかなり洗練されていました。欧陽詢はこれをもう一押し、更に磨きをかけたのです。では、欧陽詢はどのような観点から磨きをかけたのでしょうか?・・・答えは、文字の組み立て方。

九成宮醴泉銘、美人董氏墓誌銘
(左)九成宮醴泉銘 欧陽詢筆 唐時代・貞観6年(632)  台東区立書道博物館蔵
台東区立書道博物館で1月31日(日)まで展示
(中)九成宮醴泉銘 欧陽詢筆 唐時代・貞観6年(632)  個人蔵
東京国立博物館で1月31日(日)まで展示
(右)美人董氏墓誌銘 隋時代・開皇17年(597) 台東区立書道博物館蔵
台東区立書道博物館で1月31日(日)まで展示


欧陽詢は文字を書くにあたって、どの部分を主とし、どの部分を従とするのか、どこを軽くしどこを重くするのか、全体の字姿をイメージしてから、筆をおろしました。そして、この考えを突き詰めて、36のルールに帰納させたのです。この36のルールを学べば、誰でも手っ取り早く、さしあたって美しい文字が書けるようになります。 書き方のノウハウを公式化しちゃうなんて、さすがです、欧陽詢!


これに対し虞世南の代表作 「孔子廟堂碑(こうしびょうどうひ)」(628~630頃)は、王羲之の7代目の孫・智永に書を学んだだけあって、一見すると穏やかな用筆でありながら、力を内にこめた表現になっています。もちろん、隋の「蘇慈墓誌銘」(そじぼしめい)」(603年)などの美しさを継承し、その上に立脚しているわけですが、虞世南の書き方のポイントは何だったのでしょうか?・・・答えは、響きです。

孔子廟堂碑、蘇慈墓誌銘
(左)孔子廟堂碑 虞世南筆 唐時代・628~630頃 台東区立書道博物館蔵
台東区立書道博物館で1月31日(日)まで展示
(右)蘇慈墓誌銘 隋時代・仁寿3年(603)
 台東区立書道博物館蔵
台東区立書道博物館で1月31日(日)まで展示


東晋の王羲之は、何気ない書きぶりの中に、豊かな表情を盛り込みました。つまり、文字の形も大切ですが、実際の書を見ると、筆の勢いや墨色の諧調などが微妙にからみあい、形以上に文字がオーラを発しているのです。現代風に言うなら、写真に撮った時に失われる要素を大切にした、というところでしょうか。虞世南はこの考えを推し進め、文字の組み立て方や筆の用い方に留意するだけでなく、文字に自分の心もちを盛り込む表現をめざしたのです。見方によっては欧陽詢の上を行くスタンス、みごとです、虞世南!


唐の初代皇帝の高祖や第2代皇帝の太宗は、正当な伝統を受け継ぐ江南の文化に、いかに対峙するかが大きな問題でした。太宗が王羲之を熱愛し、蘭亭序に固執したのも、それなりの理由があったのです。太宗の善政によって貞観の治が導かれ、天下泰平の日々が続き、素晴らしい名筆がうまれました。あっぱれです、太宗皇帝!


やがて褚遂良、そして顔真卿らが活躍し、歴史に残る黄金期を形成していった唐時代の名筆の数々をお楽しみください。

孟法師碑、千福寺多宝塔碑、顔氏家廟碑
(左)孟法師碑(もうほうしひ) 褚遂良筆 唐時代・貞観16年(642)、三井記念美術館蔵
東京国立博物館で1月31日(日)まで展示
(中)千福寺多宝塔碑(せんぷくじたほうとうひ) 顔真卿筆 唐時代・天宝11年(752) 東京国立博物館蔵
東京国立博物館で1月31日(日)まで展示
(右)顔氏家廟碑(がんしかびょうひ) 顔真卿筆 唐時代・建中元年(780) 台東区立書道博物館蔵
台東区立書道博物館で1月31日(日)まで展示


 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 富田淳(学芸企画課長) at 2016年01月20日 (水)

 

ほほ笑みのお猿 山雪の猿猴図

なんとも愛くるしいおサルさん。ニッコリほほ笑んだ顔がたまりませんね。
2016年1月2日開幕の特集「博物館に初もうで 猿の楽園」で本格デビューした「当館秘蔵のアイドル」です。

猿猴図 猿猴図(部分)
猿猴図(えんこうず) 狩野山雪(かのうさんせつ)筆
江戸時代・17世紀


2015年7月16日付の1089ブログに、私は「応挙の子犬に胸キュン!」と題して当館所蔵の愛らしい子犬の絵をとりあげ、「無邪気に遊ぶ姿はカワイさ全開!当館のアイドル、ナンバー1(犬だけにワン!)」と書きました。

「犬」の次は「猿」。負けないくらいに、かわいい絵ですね。このおサルさんと応挙の子犬が出会ったら、きっとすぐ仲良しになって、いつまでも楽しく遊びつづけるのではないでしょうか。「犬猿の仲」なんていいますが、この子らに限っては違うようです。

じつは、このおサルさん「猿猴図」は、2013年の春、京都国立博物館で私が企画担当した「狩野山楽・山雪」展のなかで、狩野山雪の魅力的な作品として紹介した作品でもあります。狩野山雪(1590~1651)は、今から400年前、江戸初期に活躍した京都の狩野派の画家。個性的な画風が高く評価される注目の画家です。ニューヨークのメトロポリタン美術館の「老梅図襖」や重要文化財の「雪汀水禽図屏風」をはじめ数々の魅力あふれる作品をのこしました。

「猿猴図」の話に戻りましょう。描かれているのは、柏の樹の幹に腰掛け、水に映る月をとろうとする手長猿。長く垂らした右腕の下には、くるくると水面の渦巻きが描かれています。じつはこの絵、猿猴捉月(えんこうそくげつ)すなわち、猿が水中に映った月を取ろうとして溺死したという、仏教の摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)の故事から、身のほどをわきまえず、能力以上の事を試みて失敗することのたとえとなった話が主題なのです。

猿猴図(水面部分)

でも、そんな皮肉な意味はどうでもよいと思えるほど、猿の表情は、とても愛くるしいものです。この種、手長猿の絵は、中国南宋時代末から元時代初(13世紀)の牧溪筆「観音・猿鶴図」三幅対(京都・大徳寺蔵、国宝)に描かれた母子猿が源流にあり、それを学んだ長谷川等伯をはじめ多くの日本の画家たちによって描かれました。けれども、これほど愛くるしい猿図があったでしょうか。元々、牧溪の猿図には、枯木にとまり寒さに耐えて身を寄せ合う母子、という厳しい意味があったのですが、山雪のこの絵には、そんな暗さは微塵もありません。

かわいいだけではありません。猿のふわふわとした毛並み(これもかわいさの要因ですが)の描き方に注目すると、淡い墨および中位の濃さの墨が和紙に浸透していくのを絶妙にコントロールし、そこに生まれたにじみによって、密集する毛のふくらみを見事に表わしています。そして、墨の微妙な濃淡のむらむら、わずかにみえる筆の勢いによって、胴と右膝、長く伸ばした左脚の自然なつながりが的確に映し出されています。最も濃い墨で描かれるのは、顔の真ん中にあつまる目鼻口と両耳、手足の指。手足の描写は、意外にリアルです。

猿猴図(部分) 手足の描写

画面構成をみてみましょう。柏の大きな葉から枝を通って幹に腰掛ける猿の身体、そしてわずかに湾曲しながら垂れる長い右腕、その先に水面の渦巻き、という具合に私たちの眼は、逆S字の動線に沿って上から下へとスムーズに導かれます。猿の頭部と膝は、単純化された楕円形。渦巻きも含めて、同じ形がシンクロし軽快なリズムを刻んでいます。対象を、ある種、幾何学的な形へと単純化し画面を構成している点は、山雪らしさの表われなのです。

猿猴図 

簡略ながらも、絶妙なテクニックによって描き出された猿。かわいくて、うまい。いや、かわいさは高度な技術に支えられているというべきでしょう。実力派山雪の面目躍如といってよい絵。こんな素敵な絵が、400年も前に描かれていたのです。

詳細については省きますが、山雪の生涯は順風とはいえず、むしろ苦労の連続でした。このため、これまでの研究では、厳しさや苦しみ、哀しみといったものを、山雪の絵のなかに見出そうとしがちでした。けれども、こんな明るく幸せそうな絵があったのです。本当に、ほっとする。まさに癒し系の絵画。厳しさだけの山雪イメージは、もはや修正されるべきでしょう。

なお、この作品は、旧東海道の原宿(現在の静岡県沼津市)の名家、植松家に伝来していました(1978年に同家より東京国立博物館に寄贈)。そして箱書および植松季英自筆の由来書から、季英が天明2年(1782)に京に上った際、京都・妙心寺の塔頭、海福院の住職である斯経禅師より譲りうけた経緯が判明します。

植松季英は植松家第六代の蘭渓のことで、名園として知られた「帯笑園」の園主。池大雅・円山応挙・皆川淇園ら京の画家・文人たちと親しく交わり、子の季興を応挙に入門させ、季興は応令と号しました。斯経慧梁は、白隠の法を継いだ禅僧で、妙心寺の塔頭、海福院の第二代住職。原の白隠に参禅する際には植松家に投宿するほど親しい交流があったといいます。

由来書によると、この絵は元々、京都・妙心寺塔頭の海福院にあったのでした。妙心寺は、山雪ととくにゆかりの深い天球院・天祥院などの塔頭のある寺でしたので、山雪の絵が海福院にもたらされることは充分あり得たでしょう。

すばらしい水墨の技術を駆使して描き出された、すぐれて可愛い猿の絵、この満面の笑顔に会いに来ませんか? そうすればきっと、幸せな気持ちになれるはずです。展示は2016年1月31日まで。どうかお見逃しのないように。


博物館に初もうで 猿の楽園」2016年1月2日(土)~1月31日(日) 本館特別1室・特別2室
トーハクの猿ベスト12」1月31日(日) まで投票受付中!
 

カテゴリ:研究員のイチオシ博物館に初もうで特集・特別公開

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posted by 山下善也(絵画・彫刻室主任研究員) at 2016年01月08日 (金)

 

特集「顔真卿と唐時代の書」の見どころ(2)

このたびの東博&書道博の連携企画では、ブログも連携!怒涛の3連発で唐時代の書を一気に盛り上げたいと思います。先発の六人部投手には、展覧会の全体像を語ってもらいました。中継ぎの私はピンポイントで、東アジアの中でも最も美しい唐時代の肉筆に触れたいと思います。

唐時代における伝世の肉筆は、数えるほどしか残されていません。しかし20世紀初頭、イギリス、フランス、ロシア、日本などの探検隊によって、5~10世紀に至る肉筆写本が敦煌莫高窟の第17窟から大量に発見されました。
その敦煌写本の中に、7世紀後半のごく限られた時期に書かれた「長安宮廷写経」と称される写経があります。それは唐の高宗の時代、咸亨2年(671)から儀鳳2年(677)にかけて書写されたもので、筆致、紙、墨、どれをとっても非の打ちどころのない、実に見事な写経です。現在、奥書きに年号を持つ長安宮廷写経として、国外では大英図書館所蔵のスタインコレクションに17件、フランス国立図書館所蔵のペリオコレクションに2件、北京図書館に2件、そして国内では三井記念美術館に2件、京都国立博物館に1件の、都合24件が確認されていますが、おそらく現存する敦煌文書を調べても30件ほどしか存在しない、大変貴重な写経です。

長安宮廷写経の料紙は薄くて丈夫、そして滑らかです。紙の厚さ…いや、薄さでしょうか、約0.01mmで、漉きむらがほとんどありません。仔細に見ると、簀目の数も他の写経の紙に比べて本数が多く、手の込んだ極上の麻紙であることがわかります。写経を巻くときには、パリパリッと、張りのある心地よい紙音がします。また5世紀から10世紀の写本は、1紙の長さが約35~55cmとばらつきがあり、1紙に書かれている行数も約20~40行と幅がありますが、長安宮廷写経は、1紙の長さがどれも47cm前後、1紙に書かれている行数はすべて31行という、特別な書式をとっています。
そして、なんといっても長安宮廷写経の魅力は、その完璧なまでのプロポーションを持つ字姿です。書写した写経生は、皇帝が設けた書法教授の場である弘文館で学んだ超エリートたちでした。その筆致は麗しく雅であり、伸びやかさと艶やかさとが兼ね備わった張りのある褚遂良の特徴も盛り込まれ、美しさを追求した唐時代の楷書表現が極限にまで達していることがうかがえます。

(左)妙法蓮華経巻第二、(右)妙法蓮華経巻第三残巻
(左)妙法蓮華経巻第二 唐時代・上元2年(675)   三井記念美術館蔵
東京国立博物館で12月23日(水・祝) まで展示
(右)妙法蓮華経巻第三残巻 唐時代・上元2年(675)   京都国立博物館蔵
台東区立書道博物館で12月27日(日) まで展示



高宗に次いで則天武后の時代もまた、長安宮廷写経の水準を保つ見事な書きぶりです。則天武后が制定した、則天文字とよばれる特異な文字がところどころに使われています。長安宮廷写経とともに、唐の文化の華やかさを存分に盛り込んだ、中国書法史における最高レベルの肉筆資料といえるでしょう。

(左)則天武后時写経残巻、(右)重要文化財  大方広仏華厳経巻第八
(左)則天武后時写経残巻 唐時代・8世紀 台東区立書道博物館蔵
台東区立書道博物館で12月27日(日) まで展示
(右)重要文化財  大方広仏華厳経巻第八 唐時代・8世紀 京都国立博物館蔵
東京国立博物館で1月2日(土) ~31日(日) まで展示



これほどの美しい写経、実は南朝の陳時代にその兆しがありました。ペリオコレクションにある陳時代の写経は、やさしいやわらかさが特徴で、高貴な雰囲気を醸し出しています。しかし、宮廷写経のような張りのある艶やかさが生まれたのは、やはり南北融合があったからでしょう。南朝と北朝それぞれの美しさがうまくブレンドされたことによって、宮廷写経の美は最高潮に達したのです。

さて、「顔真卿と唐時代の書」連携ブログ3連発、フィナーレを飾る抑え投手は一体誰なのか!? 乞うご期待っ!

 

関連事業
【東京国立博物館】
・連携講演会「顔真卿と唐時代の書 ものがたり
2016年1月16日(土) 13:30~15:00 平成館大講堂

【台東区立書道博物館】
・ギャラリートーク「顔真卿と唐時代の書」
・ワークショップ「美しい楷書に挑戦!」
詳細は台東区立書道博物館ウェブサイト

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 鍋島稲子(台東区立書道博物館主任研究員) at 2015年12月22日 (火)