特集「焼き締め茶陶の美―備前・信楽・伊賀・丹波―」鑑賞のススメ
こんにちは。研究員の横山です。
現在本館14室で展示中の特集「焼き締め茶陶の美」、もう御覧いただけましたでしょうか。
9月の半ばに展示替えをし、秋の訪れとともに、ひとつ前の特集「やちむん―沖縄のやきもの」から展示室の雰囲気が一変しました。
さて、「焼き締め」と聞いて、皆さんどんなイメージを持たれるでしょうか。
土もの、茶色、ゴツゴツ、ざらざらとした表面…
簡単に「焼き締め」の概要、しくみをご説明しますと、焼き締めは、釉(うわぐすり)を掛けずに高温で焼かれるやきものです。
ここでいう「高温」とは、陶磁器の世界でいう「高い温度」ですので、窯のなかで焼かれる、およそ1200~1300度ということになります。
焼き締めの土には、高温になっても焼き崩れることのない「耐火度の高い」土が用いられます。
耐火度の高い土のなかには、高温で焼かれることで成分が液状となるもの(珪石や長石など)が含まれており、これらが他の細かい粒子を焼き付けて全体を強く硬くします。
まさに、「焼き締まる」わけです。
こうして、生地はガラス質の釉薬で覆われなくとも、水を通すことのない堅牢なものとなります。
日本では、中世から備前(岡山)、信楽(滋賀)、丹波(兵庫)、越前(福井)、常滑(愛知)といった窯でこうした焼き締めが作られてきました。
今回の特集では、焼き締めのなかでも「茶陶」(茶の湯の器)にスポットを当て、それらをつくりだしてきた備前、信楽、伊賀、丹波の作品をご紹介しています。
焼き締め茶陶は、茶の湯の歴史にとってとても重要です。
なぜなら、焼き締め茶陶の登場が、すなわち和もの(国内産)茶陶の登場となるからです。
室町時代後期に「侘び茶」が広まるようになると、それまで唐物(中国産)を第一としていた価値観は変化していきます。
「心にかなう」ものを選ぶことに重きを置いた「侘び数寄(すき)」の茶では、華やかな茶碗ではなく、あえて粗相な器に目を向け、取り上げていきました。
最初に茶席に登場する焼き締め茶陶は、「見立て」の器です。
穀物を入れる壺など、もともとあった日用の雑器を水指や花入に転用したものでした。
![]() ![]() 鬼桶水指 信楽 室町時代・16世紀
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![]() ![]() 種壺形水指 備前 室町~安土桃山時代・16世紀
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やがて、安土桃山時代から江戸時代の初めにかけて、茶の湯が隆盛をきわめあちこちで茶会が開かれるようになると、創意性をもった器が登場します。
![]() ![]() 扁壺形花入 備前 江戸時代・17世紀 松永安左エ門氏寄贈
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![]() ![]() 耳付花入 伊賀 江戸時代・17世紀
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展示室では、作品を通じて「見立ての器」から「創造の器」まで、変遷や違いをよく感じていただけるのではないかと思います。
本館13室「陶磁」や本館4室「茶の美術」などで複数の作品を展示する機会はこれまでにもありましたが、東京国立博物館所蔵の焼き締めがここまで一堂に会することは珍しく、なかなかの見ごたえです。
実は展示前、「焼き締めばかりがずらりと並んだらどうなるだろう、地味な感じになるかしら」と個人的に少し気がかりだったのですが、結果はむしろ逆でした。
今回のように並ぶことで、それぞれの作品が「個性」をより強調しているように感じられ、個別にみていた時とはまた違った印象がしています。作品数が一番多いのは備前窯のものですが、同じ備前でも焼き上がりの色合いに幅があり、器種も多岐にわたっていることがあらためて感じられます。
さあいざ、展示室へ!
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ギャラリートークなどでいつもお伝えしているのですが、ぜひ「いろいろな角度」からご覧ください。
(あくまでほかの鑑賞者の方の邪魔にならない範囲で。どうぞ可能な限りぐるぐると!)
特に、焼き締めについては、窯のなかでの炎のあたり方によって、ひとつの器のなかでも異なった焼き上がり、表情を見ることができます。「火表(炎が直接当たった面)」「火裏(炎が直面しなかった面)」というような表現もあります。
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展示室では「おや?」「いつもと何か違う?」と思われる方もいるかもしれません。
今回は、茶陶としての姿をお伝えすることに重きを置き、水指には蓋をつけて展示しました。
![]() ![]() 袋形水指 信楽 江戸時代・17世紀 広田松繁氏寄贈
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特集 焼き締め茶陶の美―備前・信楽・伊賀・丹波― 本館 14室 2019年9月18日(水)~ 2019年12月8日(日) |
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posted by 横山梓(保存修復課研究員) at 2019年10月29日 (火)
現在、本館特別1室で、特集「平安時代の書の美―春敬の眼―」を開催しています。春敬の眼、としましたが、飯島春敬(いいじましゅんけい、1906~96)の視点から、平安時代の書をご紹介するものです。春敬は、書家であり、古筆研究家であり、コレクターでもありました。その古筆研究は、現在の研究の基礎を形作っています。今回の展示は、春敬の研究からテーマを設定しました。
テーマ(1)は、「伝紀貫之筆 高野切の研究」です。
和漢朗詠集断簡(関戸本) 源兼行筆 平安時代・11世紀
これは、「高野切」(こうやぎれ)の筆者による別の作品です。「高野切」は、『古今和歌集』(こきんわかしゅう)を書写した現存最古の写本で、仮名の基本といえる作品です。伝紀貫之(きのつらゆき)筆とされますが、実際は、第一種、第二種、第三種と呼ぶ三人の筆者によって寄合書き(よりあいがき、分担して揮毫)されています。春敬は、第二種筆者が源兼行(みなもとのかねゆき、~一〇二三~七四~)であるということを、書風から研究しはじめました。その後、兼行の書状の発見により、「高野切」第二種が源兼行筆であり、「高野切」は平安時代・11世紀中ごろに制作されたことが現在は定説となっています。三人の筆者は当時活躍していたため、ほかの書もたくさん残しています。
次に、テーマ(2)は、「十巻本歌合、二十巻本歌合の研究」です。
歌合(うたあわせ)とは、左右に分かれて、左の和歌と右の和歌で競い合う催しで、平安時代の貴族の間でさかんに行われました。また、平安貴族は、歌合の記録の編纂をしました。それが、「十巻本歌合」、「二十巻本歌合」という歌合集成です。
十巻本、二十巻本はともに草稿本(そうこうぼん)で、清書本(せいしょぼん)ではありません。芸術性に欠けるためなのか、また、筆者が10人以上にわたるためなのか、なかなか書の研究が進みませんでした。そんな中、一念発起したのが飯島春敬でした。春敬は、この歌合集成の研究を行うにあたって、「命がけで努力」し、「悲壮な覚悟でこの研究に立ち向かった」と記しています。
そして、テーマ(3)は、「小野道風、藤原佐理、藤原行成の研究」です。
重要文化財 書状 藤原行成筆 平安時代・寛仁4年(1020)
平安時代の中期に、「三跡」(さんせき)と呼ばれる三人の能書(のうしょ、書の巧みな人)が活躍しました。その三人が、小野道風(おののとうふう、894〜966)、藤原佐理(ふじわらのさり、944〜998)、藤原行成(ふじわらのこうぜい、972〜1027)です。写真は、行成直筆の現存唯一の書状です。春敬は、道風、佐理、行成それぞれの書の研究をし、「日本の書道は、三筆時代に大きな飛躍があったが、真にその国民性を発揮したのは、三跡の時代である」と述べました。
さいごに、そのほかの春敬の研究として、「源氏物語絵巻詞書」(げんじものがたりえまきことばがき)などの珠玉の春敬コレクションや当館所蔵の古筆を、のぞきケースで近づいて御覧いただけます。春敬やその後の研究を確認しながら、平安時代の書の美をお楽しみください。
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posted by 恵美千鶴子(東京国立博物館百五十年史編纂室長) at 2019年10月10日 (木)
親と子のギャラリー「日本のよろい!」(9月23日(月・祝)まで)は、もうご覧になりましたか?
江戸時代以前に作られたよろいと、現代につくられたよろいの製作見本を展示し、よろいを形作る「材料」「技術」「美意識」について紹介しています。
親と子のギャラリー「日本のよろい!」展示風景
親と子のギャラリーを見た後は、日本文化体験「日本のよろい!」(9月1日(日)まで)も併せてご覧ください。
よろいにさわれるハンズオン体験で、よろいのひみつに迫ったり、よろいをつけた武士を描いた屏風のレプリカを見て、その使われ方やデザイン性について学ぶことができます。
ハンズオン体験のコーナー
会期中の金曜・土曜には、「よろい着用体験」ができます。
どんな風に着るのでしょうか?
それでは、よろいの着方について簡単にご紹介します。
現代につくられた、サイズの異なる4種類のよろいがあります。そのなかから、身長にあったサイズの甲冑を服のうえから着ていきます。
今回は、徳川家康の側近である榊原康政所用「黒糸威二枚胴具足」(重要文化財。当館蔵)をモデルにしたよろい(下画像 一番左)を着ていきます。
上からよろいを着るので、こんな感じのパンツスタイルがおすすめです。(貸出用のジャージも用意しています。)
(※よろいを着る順番は色々な方法があります。)
1、籠手(こて)
左手、右手の順につけます。これだけでなんだかちょっと強くなった気分です。
2、佩楯(はいだて)
大腿部から膝までを守ります。布地に小札(こざね。鉄や革でできた縦長のカードのような部品)などが取り付けられていて、エプロンのような感じで腰につけます。強度と可動性を両立させたデザインです。
3、脛当(すねあて)
文字どおり、脛を守ります。実はこれ、右足用と左足用と決まっているんです。
内側にだけ革が張ってあります。これは馬に乗るときに、自分の足をかける鐙(あぶみ)や、馬のお腹を傷つけないようにするため。
優しい! 強さとは、優しさのことですね!
画像だとわかりづらいのですが、よく見ると内側にだけ革が張ってあります。
4、胴(どう)
胴の脇を開き、身につけます。重みがグッと肩にかかります。
胴の脇がパカッと開く構造になっています。
重みが一気に体に来ました!笑っちゃいます。
表情もなんとなくりりしくなりますね。
ちなみに、胴の背中には味方の旗を差すためのパーツがついています。戦場で敵味方を識別するための目印として差したのだそうです。細かい仕事がなされています。
5、兜(かぶと)
この兜、1枚の鉄板を曲げているわけではなく、複数枚でひとつの兜を形成しています。兜に筋がついていますが、バラバラのパーツがその筋ごとに繋ぎ合わさっているのだそう。とても高い技術が結集しているのです。
前立(まえたて)のデザインは、不動明王が持っている三鈷柄剣(さんこづかけん)がモチーフになっています。これは、「不動明王の力が自分に宿るように」という思いが込められているとのこと。
これで完成です!
このよろいの総重量は10kgほど。ずっしり感じます。これを着て戦いに挑んだかと思うと、結構しんどいです。が、今で言う「勝負服」だけあって、気分があがるというか、やる気が湧き上がってくるような感覚になりました。
小道具として、軍配、采配、太刀などをご用意していますので、これでサムライスイッチONです!
ここでは写真撮影が可能ですので、ぜひ記念にどうぞ!
※通常はトーハクくんはいません
実施日 8月31日(土)までの金曜・土曜
時 間 11:00~16:30(受付10:50~16:00)
定 員 各日22名(1人につき1回1種類のみ。着用時間:約10分)
参加費 1,000円(高校生を除く18歳以上70歳未満の方は、別途観覧料が必要です)
※当日受付。事前申込はできません。
※先着順。定員に達した場合、16:00前でも受付を終了します。人気なので、受付はどうぞお早めに。
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posted by 小島佳(広報室) at 2019年08月21日 (水)
6月25日(火)より、本館14室にて特集「やちむんー沖縄のやきもの」が始まりました。
この特集は、明治18年(1885)に沖縄県から購入した壺屋焼を中心に、約20件の収蔵品を紹介するものです。
いまから○△年前、卒論のテーマ探しに追われた学生の私は、図書館で「運命の本」と出会いました。
濱田庄司の『沖縄の陶器』です。
いわゆる「民藝運動」や、やきものの歴史も知らなかった20歳の私のまっさらな眼に飛び込んできたのが、沖縄県那覇市壺屋で焼かれた「壺屋焼」でした。
その力強さとのびやかさにすっかり魅了され、自分なりに考えて「なぜ壺屋で白いやきものが焼かれたのか」という疑問を得たことが、陶磁器研究の出発点となりました。
その後、東京国立博物館に着任して、初めて寄贈を受けたのもじつは壺屋焼でした。
ジシガーミ(厨子甕) 沖縄本島 壺屋焼 第2尚氏時代・18~19世紀 堤里志氏寄贈
こんなご縁がありながら、厖大(ぼうだい)で難解な中国や日本の陶磁器に日々立ち向かうなかで、壺屋焼について考える時間も機会も失っていました。
一方、トーハクは2010年代に入ると本館の展示体系に変化がありました。
その一つが「アイヌと琉球」の展示です。
平成26年度(2014)から単発の特集ではなく、リニューアルした本館16室において常設展示が始まったのです。
本館16室の風景
この流れのなか、考古担当の研究員を中心に琉球資料の見直しが行われ、長く展示に活用されることがなかった作品も日の目を見ることになりました。
収蔵庫に眠っていた壺屋焼のなかには、収蔵時からと推測される古いキズや割れがあるものがありました。
また、壺屋焼と認識されてきた作品に中国清朝の磁器が含まれていたことも新たに判明しました。
蓋マカイ(粉彩鹿鶴文蓋付碗・五彩吉祥文字文蓋付碗) 中国 景徳鎮窯 清時代・19世紀
「道光年製」「咸豊年製」銘が施された貴重な作例。直接中国と交流のあった琉球王朝ならではの伝世品です。
詳細はMUSEUM680号をご参照ください。
今回の特集は、修理を経て、トーハクの壺屋焼をまとまって紹介する初の展観となります。
あらためて作品を見てみると、新しい疑問が湧いてきます。
他の壺屋焼にはあまりみられない素地(化粧をしていない真っ白い胎)であったり、珍しい装飾が施されていたりするのです。
チューカー(色絵梅竹文水注) 沖縄本島 壺屋焼 第2尚氏時代・18世紀末~19世紀
マカイ(緑釉蓮葉文鉢) 沖縄本島 壺屋焼 第2尚氏時代・18世紀末~19世紀
明治18年に購入され、当館に収められた壺屋焼は、いったいいつどのような背景で焼かれたものなのか、残念ながら詳細は今のところわかっていません。
しかし作行きをみる限り、世に伝わる壺屋焼や首里城から出土した資料と比べても、きわめて特殊な一群であることは確かなようです。そして、戦争という悲劇を免れて今日に残る貴重な一群でもあります。
かつて私が学生なりに考えた「なぜ白いやきものが焼かれたのか?」という問題然り、壺屋焼の展開にはまだわからないことが多く残されています。
中国や東南アジアのやきもの、さらに薩摩焼や伊万里焼など日本のやきものの影響を受けて、独自に花ひらいた沖縄の壺屋焼。トーハクの作品に光を当て、研究の一助となるようにこれからも努めたいと思います。
![]() ![]() 本館14室 特集展示の様子 |
特集「 やちむん―沖縄のやきもの」 本館14室 2019年6月25日(火)~9月16日(月・祝) |
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posted by 三笠景子(特別展室) at 2019年06月25日 (火)
・・・ほっ! これは、チャンスだほ。
ほほーい! ぼくトーハクくん。いま本館14室の特集「密教彫刻の世界」を見にきてるんだほ。
西木研究員がブログで予告してた特集を、ぼくが紹介しちゃえって展示室に来ちゃったほ。
ほー、密教彫刻がたくさん並んでるほ。腕がたくさん、お顔がいっぱい。おっ、こっちのは怒ってるほ?
なんだかちょっと変わった形の仏像ばっかりほ。
特集「密教彫刻の世界」展示会場の様子
(チラッ)
ほー、こっちはえーっと・・・
うーん、広報大使としてがんばろーと思ったけど、作品のことがよくわかんないほ。
やはり西木研究員と一緒にくれば良かったほ。
あれートーハクくん、ここで何してるの?
ほほーい、西木研究員(嬉)!
特集「密教彫刻の世界」を紹介しようと思ったんだけど、一人じゃ無理だったほ。
紹介してくれるのかい。嬉しいな。わかんないことがあったら何でも聞いて。
ありがほー。早速だけど、密教ってなんだほ?
うん、そっからだと思ったよ。
密教は秘密仏教の略で、特別展「国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅」で紹介されている空海が説いた仏教のことだよ。
秘密じゃない、いうなら普通の仏教のことを顕教というけど、空海はこの顕教と対比させて、自分が中国で勉強してきた仏教のことを秘密の教え、“密教”と言っていたんだ。
じゃ、密教は空海さんが日本に広めた仏教、って覚えればいいんだほ。
おー、さすがはトーハクくん。それがね・・・
ほ?
この特集でみなさんにご覧になっていただきたいのは、まさにそこなんだ。
密教=空海、それだけ? ってことさ。
つまり・・・
密教は、ヒンドゥー教が主流のインドの地で、5世紀ごろから始まった仏教なんだよ。
その歴史は5世紀から12世紀ごろまで、経典が書かれた時期の違いから初期、中期、後期に大きく分けることができて、空海の密教は中期密教にあたるんだ。
この中期密教がいわゆる日本の密教イメージなんだけど、本当はその前にも後にも密教がある。この特集ではそこを紹介したくて、全部ひっくるめた密教を感じてほしいと思って企画したんだよ。
ほー確かに。東寺展の仏像曼荼羅は作品リストをみると9世紀の作品が多いほ。つまり中期ってことだほ。
そう。でもね、この十一面観音菩薩立像を見てほしいんだけど、これは中期密教以前に中国で作られ、7世紀にはすでに日本に伝わっていたものらしい。日本に現存する密教彫刻では一番古い仏像だよ。
重要文化財 十一面観音菩薩立像 中国奈良・多武峯伝来 唐時代・7世紀
7世紀っていったら、鐘が鳴るなり法隆寺の時代?
そうそう。東寺の仏像も制作されたのは平安、鎌倉時代だけど、形自体はもっと早い時期に伝わっていたわけ。ただ、当時の人はこれが密教の教えのものだとは認識してなかった。
昔を振り返ってみたら、これも密教だったのか、ってこと?
そうだよ。この展示室の仏像でざっというと、十一面観音、不空羂索観音、如意輪観音、千手観音、これらは初期密教の教えにある仏様。
密教といえる所以は、頭がたくさんあったり、腕が何本もあったり、千手観音なんて手が千本。こういう通常の人体と異なる表現をしていることがもう、密教の仏様の特徴なんだよ。
如意輪観音菩薩坐像 鎌倉時代・13世紀
千手観音菩薩坐像 南北朝時代・14世紀
そっか、ちょっと変わった形の仏像だなって思ったのはつまり、密教の世界を体感しちゃってたってことだほ。
そうだよ。さすがだね、トーハクくん。
もう何年も広報大使やってるんだほ。
ところで西木研究員、空海さんはこの初期密教の仏像を見て、“おー、これは密教だ”って分かったのかほ?
うーん、分からなかったと思う。空海は当時、中国からすでに日本に入ってきた密教経典を読んで、これをちゃんと本場で勉強したいという決意で中国に渡ったといわれているんだ。
そして空海は中国で勉強して思いを強くしたんだね。これは密教として日本に持ち帰ろうって。
そーなんだほ。それで、時代的にそれが中期密教だってのは大体わかったほ。
じゃあ、初期密教と中期密教の経典だと何がちがうんだほ?
大日如来、不動明王、愛染明王、この辺が全部、中期密教の経典になって新しく出てくる仏様だよ。
この時代の密教では、大日如来が中心。大日如来がすべての仏、世界そのものを生んだ源にある、そういう考えなんだ。
重要文化財 大日如来坐像 平安時代・11~12世紀
重要文化財 愛染明王坐像 鎌倉時代・13世紀
でもなんか、この展示室には名前が漢字じゃないカタカナの仏像もあるほ。
うーん、やはりさすがだねトーハクくん。話が進めやすいよ。
初期密教、中期密教ときて残るのは・・・
後期密教!
インドでは、空海が勉強した時点の密教よりもさらに先に進んだ、発展していった密教があって、カタカナの仏像たちはまさに後期密教の代表なんだ。
いうなれば、われわれ日本人が知らない密教の到達点といえる存在だね。
ぜんぜん見たことない形の仏像だから、ちょっとびっくりしたほ。
そうだよね。後期密教はインドやネパール、チベットで発展したんだけど、清時代の中国でも盛んに信仰されたんだ。ところが、日本にもこの後期密教は断片的に入ってきてたけど、一切目にしてはいけない秘義として隠され、排除もされてきた。つまり受け入れられなかったんだね。
なんでだほ?
後期密教の仏像には初期密教、中期密教にはない強烈な特徴があるからかな。
おっ? いったいなんだほ?
インド風さ。
インドふう?
そう。一番わかりやすいのが、頭がたくさんあったり、腕が何本もあったりという異形の姿、人とは異なるその形だよ。
それは、初期密教も中期密教もそうだほ。
後期密教の仏像は本当にインドっぽい、インパクトのあるビジュアルが特徴で、これが密教彫刻の一番の魅力といってもいいくらい。
密教はそもそもインド起源の宗教なので、インド風ていうのがすごく大事なんだ。
インド風が濃厚って、例えばどんなことだほ?
さっき見せた初期密教の十一面観音菩薩立像は、本面(正面の顔)以外の顔が小さくて飾りみたいになってる。本面の上に頭上面がくるっと配置されてるの対し、一方、後期密教の八臂十一面観音菩薩立像を見てみると、頭上面はもっと大きい顔だし、上に積み上げていく造形でしょ。
十一面観音菩薩立像の頭上面
八臂十一面観音菩薩立像 中国 清時代・17~18世紀、頭上面
トーテムポール見たいだほ。
3面づつ3段だよ。見るからに、うぉーって形をしてる。
日本人からすると顔がどんどん上に重なっているの、すごい違和感があると思うよね。
うぉー
どうした、トーハクくん。
西木研究員、このバジャバジャなんとかってのはもう、怪獣にしかみえないほ。
ヴァジュラバイラヴァ父母仏立像 中国 清時代・17~18世紀 東ふさ子氏寄贈
ヴァジュラバイラヴァ父母仏立像だよ。これは男性の仏ヴァジュラバイラヴァと奥さんである女性の仏が抱き合ってる姿なんだ。
少し話したけど、中期密教では大日如来がほかの仏さまを生みだす存在だったよね。
後期密教ではもっと現実的な考え方になって、大日如来が仏様を生むとか抽象的な感覚で説いていたのも、本来は男女の営みがないと生まれないじゃないかっていう話に変わっていったんだ。
??
子どもがいるところには、お父さんとお母さんがいるでしょ、ってこと。
経典の主役になる本尊(男性の仏)とあわせて、その配偶者が想像されるようになり、両者セットで信仰されるようになった。それがこんどは、経典に出てくるほかの仏様たちが生まれてくるのを表現するために抱き合っている形になって、この抱き合った姿こそが最強の姿だとして信仰されていく。
これには、当時インドで爆発的な人気を誇った女神信仰の影響もあったみたい。
ふーん。ってことはインドやチベットの人みんな、この密教界最強の仏像を崇拝したのかほ?
ううん。それがそうじゃなくって、決して一般的なわけではなかったんだよ。
やっぱり、きわどい表現だということで、普通の人が立ち入れるエリアには安置されなくて、あるいは安置されても腰から下に布をかけられて結合部分が見えないようにしてあったんだ。
配慮されてたんだほ。
そう、秘仏だったんだね。ただ、限られた僧侶とかには、こういうもののほうが力があると信仰されていた。
力がある?
力があるんだよ。
トーハクくん、怪獣みたいっていったよね。ヴァジュラバイラヴァのこの顔は水牛で、この水牛はヒンドゥー教の死神ヤマの象徴なんだ。
ヴァジュラバイラヴァ父母仏立像の顔
西木研究員のブログに書いてあったほ。東寺展の大威徳明王騎牛像の水牛も確か・・・
そ、どっちも同じ死神ヤマを象徴したものだよ。水牛に乗っかっちゃったのが大威徳明王騎牛像、いっそ顔にしちゃえってのがヴァジュラバイラヴァだね。
結局、ヒンドゥー教よりも優れていることを広めるために、こうやって相手の概念を使わないと説明できなかったわけだ。
ヴァジュラヴァイラヴァはさらに奥さんも参戦したってわけなんだほ。
このチャクラサンヴァラ父母仏立像の足元もぜひ見てほしいなぁ、トーハクくん。
こっちは、ヒンドゥー教のシヴァ神夫婦を踏んでいる。
チャクラサンヴァラ父母仏立像 中国・チベットまたはネパール 15~16世紀 服部七兵衛氏寄贈
ヒンドゥー教のシヴァを踏んづけているってことで、ヒンドゥー教より優れた仏教だというのを表現したほ?
分かってきたね。
ヒンドゥー教の影響をうけて密教ができた、あるいはヒンドゥー教に対抗して密教ができた。
ここに皮肉があって、インドではヒンドゥー教のほうが圧倒的だったのは火を見るよりあきらかなのに、対抗してても結局その表現を借りないと、密教の優位性を説明できない。
けど、その時点でもう優位性がないってことになっちゃう。
この特集に展示してある仏像はすべて、そういう概念のもとに生まれた仏像なんだよ。
なんか密教の背景をちょっと知っただけで、もっとじっくり見たくなってきたほ。
西木研究員、抱き合ってる姿が最強ってことは、5歳のぼくが言うのもなんだけど、愛が最強かほ?
愛、ラブ、・・・(ふふっ)どうだろう。それについては秋にでもまた、お話ししたいね。
さあトーハクくん、広報大使として締めくくりの時間だよ。
ほほーい! 特集「密教彫刻の世界」は本館14室で6月23日(日)まで開催だほ。
初期密教は日本現存最古の十一面観音菩薩立像、中期密教の大日如来坐像、後期密教ならではのバジャバジャ父母仏立像(ヴァジュラバイラヴァね)などなど、まさに密教彫刻の世界が満載!
東寺展を見る前でも後でも、ちょーオススメだほ。
みなさんのご来館を、お待ちしてまーす!
カテゴリ:研究員のイチオシ、彫刻、特集・特別公開、トーハクくん&ユリノキちゃん
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posted by トーハクくん at 2019年05月17日 (金)