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特集陳列「動物埴輪の世界」の見方4─犬と猪・鹿の狩猟群像

今回の特集陳列「動物埴輪の世界」(平成館考古展示室、2012年7月3日(火)~10月28日(日))で、鶏・水鳥の群れの次に展示されているのが、犬、猪、鹿の四足動物の埴輪のグループです。
これらの埴輪がどのような意味を持っていたかを知るには、どの動物とどの動物の関係が深いかを探ることが大切です。

狩猟関係の埴輪群
狩猟関係の埴輪群(後列:左から犬・猪・鹿、前列:左から猪・猪・鹿)

それには、埴輪が古墳のどこから、どのように出土したのかを確かめる方法があります。
犬と猪が組み合わせとなった良好な事例が、群馬県高崎市保渡田VII遺跡で発見されています。

保渡田Ⅶ遺跡の埴輪群像
群馬県高崎市保渡田VII遺跡の猪狩りの場面(左から男子(狩人)・犬・猪)
(写真:かみつけの里博物館提供)


そこでは、犬と猪の埴輪、そして、烏帽子のような形の帽子をかぶった男子埴輪が一つの場面を構成していました。この男子は、手の部分を失っていますが、おそらく、弓を引く狩人(カリウド)の姿をあらわしていたと考えられます。猪の背中には矢が刺さり、一筋の血が流れています。

狩人の放った矢がまさに猪を仕留めた緊迫した場面をあらわしています。また、狩人と猪の間には犬がいて、猪狩りの手伝いをしていたようです。
このような猪狩りの場面をあらわした埴輪を古墳に並べた事例は多く、古墳に葬られるような有力者にとって重要な行事であったと考えられます。

また、狩猟は、古墳時代の有力者にとって重要だっただけでなく、洋の東西、時代を問わず、よく似たモチーフが確認できます。
中国の前漢~後漢(前1世紀~後1世紀)の灰陶狩猟文壺には、馬上から振り返りざまに矢を放つ「パルティアンショット」で虎を狙う人物が描かれています。
同様のモチーフは、西方のササン朝ペルシャ(4世紀)の銀器や唐(7~8世紀)でも錦や絹などの文様として登場し、後者は日本にも法隆寺や正倉院などに伝えられています。


(左) 灰陶狩猟文壺 前漢~後漢時代・前1~後1世紀 中国 横河民輔氏寄贈(展示未定)
(右) 重要文化財 狩猟文錦褥 奈良時代・8世紀
(展示未定)

こうした狩猟について、娯楽や軍事訓練とする見方もありますが、娯楽や軍事訓練とは考えがたい情景もあらわされています。
前7世紀頃のアッシリアの王、アッシュール=バニパル王がライオン狩りをしている様子を表現したレリーフでは、襲いかかるライオンに王がひるむことなく対峙し、ライオンを仕留める姿が描き出されています。また、ササン朝ペルシャの銀器には国王がみずから槍や剣を手にし、熊や豹と戦うモチーフも取り上げられています。
こうした事例からは、狩猟は娯楽というよりも、王が命がけで執行する重要な儀礼であったのではないかと考えられます。

猪はライオン、熊、豹ほど恐ろしい動物ではありませんが、『古事記』にはヤマトタケルが東征の最後に討とうとした伊吹山の神が白い猪に化身してヤマトタケルを苦しめるという物語が登場します。 
神の化身である猪を狩ることは、その土地を治める有力者にとって必要な命がけの行為と認識されていたのではないかと考えられます。

埴輪 矢追いの猪 伝千葉県我孫子市出土 古墳時代・6世紀
埴輪 矢追いの猪 伝千葉県我孫子市出土 古墳時代・6世紀(腰部に刺さった矢の表現)

では、鹿はどうでしょうか?
鹿についても、『日本書紀』に神に化身する存在として登場します。ただし、古代人にとって猪と鹿は異なる役割が期待されていたようです。

8世紀の万葉集巻九、一六六四番に雄略天皇の詠んだとされる
「夕されば 小倉の山に 臥す鹿の 今夜は鳴かず い寝にけらしも」
(夕方になると小倉の山で腹ばいになる鹿は、今夜は鳴かないで寝てしまったようだ)
という歌があります。 
また、『日本書紀』仁徳天皇三十八年秋七月条も、毎夜、大王が鳴声を聴いていた鹿を殺した佐伯部を安芸国へ追放したという記事が載っていることなどから、天皇が土地の精霊である鹿の鳴き声を聞くという儀礼行為があったと指摘する研究者もいます。

埴輪 鹿 茨城県つくば市下横場字塚原出土 古墳時代・6世紀
埴輪 鹿 茨城県つくば市下横場字塚原出土 古墳時代・6世紀(胴部に刺さった矢の表現)

動物埴輪では猪と同じく矢が刺さった表現がなされた鹿も造形されていますが、その数は少なく、多くは振り向いた姿であらわされています。また、ほかの動物埴輪と組み合うことなく単独で配置されたものが多いようです。 
埴輪の鹿は鳴きませんが、その鳴き声を聞くために用意されていたのでしょう。

よく見ると、犬や鵜の埴輪の頸には紐や鈴のついた首輪が表現されています。同じ狩猟の場面に登場する埴輪でありながら、犬や鵜の埴輪は、猪や鹿とは違って(人間社会における位置づけが正反対で)、人間に飼育された動物ということになります。
犬は、今も昔も人間に忠実な動物で、猪狩りにあたっては命がけで人間の手伝いをしています。 
8世紀の『播磨国風土記』には、応神天皇の狩犬である麻奈志漏(マナシロ)が猪と戦って亡くなり、応神天皇は麻奈志漏のお墓を作ったことが記されています。

ところで、鵜といえば岐阜・長良川の鵜飼を想い出しますが、鵜飼は日本の各地でなされていました。鵜は鳥の中でも賢い動物で人間が飼育しやすい動物といわれています。 


鵜形埴輪実測図(群馬県保渡田八幡塚古墳出土)
[若狭徹論文 2002『動物考古学』19、動物考古学研究会より]


また、山口県下関市の土井ケ浜遺跡は弥生時代の集団墓地として著名ですが、そこでは鵜を胸に抱きかかえたまま葬られた女性が見つかっています。 
この鵜は女性が大事に飼っていた鳥だったのでしょうか。

鵜をなぜ埴輪としてあらわしたのか。 
現在、確認されている鵜の埴輪の数はそれほど多くはなく、明快な解答をえられる段階にはありません。 
しかし、少なくとも鵜が古墳時代の人々にとって、親しみのある動物であったことだけは間違いないようです。


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カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 山田俊輔(考古室研究員) at 2012年09月12日 (水)

 

特集陳列「動物埴輪の世界」の見方3─鳥形埴輪・水鳥編

今回の特集陳列「動物埴輪の世界」(平成館考古展示室、2012年7月3日(火)~10月28日(日))では、鶏形埴輪に続き、水鳥形埴輪が“群れ”るように展示されています。
水鳥は鶏などと違って特定の種を指す言葉ではなく、ガン・カモ類やサギ・ツル類など多くの種類を含んでいます。
主に海で生活する海鳥に対して、河川や湖沼といった内陸の水辺で活動する鳥の総称で、多くはいわゆる渡り鳥です。

埴輪の鳥は、数種類の水鳥が造り分けられていますが、その意味はどのようなものでしょうか?
それにはまず、水鳥形埴輪に写された鳥の種類を知る必要がありますが、どこで見分けることが出来るのでしょうか?

水鳥形埴輪全景
水鳥形埴輪全景

鳥の姿や体型は、ひとえに鳥たちの生活ぶり(生態)に深く関わっています。
さまざまな姿は、(すべての動物がそうですが)主に動物たちの“死活問題”である餌の獲得(捕食)に強く結びついています。

とくに、嘴(クチバシ)とその活動を支える脚は、捕食の対象(食性)によってそれぞれに有利な形態に進化を遂げ、種類毎に特有な特徴をもっています。
これらは遠目に見ても、鳥を見分けるもっとも特徴的な要素で、種類を見極める最大のポイントです。
このような水鳥の生態に適応した体型や嘴・脚などの特徴と水鳥形埴輪の特徴を比較することで、いくつかの種(モデル)が想定されています。


鳥類の嘴と脚 [現代新百科事典4「足とくちばし」:学習研究社1966年より]

まず、嘴と脚から見てゆきましょう。
いずれも平たい嘴をもち、なかには鼻腔が表現されているものも少なくありません。
眼は、竹管や棒状の工具でシンプルに表現されています。
また、脚先を確認できる例では、水掻きの表現をもつことが判ります。

体型はおしなべてふっくらとした胴体をもち、それに長い頸と上を向いた短い尾羽が表現されています。
平たい嘴と水掻きをもつ脚や短い尻尾など、身近な動物ではマガモを家禽に品種改良したアヒル(家鴨)にそっくりです。
とくに、前列中心に置かれた大型の鳥形埴輪は、(胴体付け根部分から頭部までしかありませんが)大ぶりのしっかりとした膨らみをもつ頭や眼の表現、しなやかにゆったりと延びる頸部や細やかな羽部の線刻文様など出色の造形で、鳥形埴輪としても最大級の逸品です。


鳥形埴輪の嘴(1~4・7)と脚(5・6)
1~3・5:埴輪 水鳥 大阪府羽曳野市 伝応神陵古墳出土 古墳時代・5世紀
4・6:埴輪 水鳥  埼玉県行田市埼玉出土  古墳時代・6世紀 (個人蔵)
7:埴輪 鶏 栃木県真岡市京泉塚原 鶏塚古墳出土 古墳時代・6世紀 (橋本庄三郎氏他3名寄贈)

やはり、これらの水鳥形埴輪は水面を泳ぎながらの活動に適したガン・カモ類の水鳥の特徴をよく捉えた造形といえそうです。
そういえば、アヒルをモデルにしたキャラクターの人気者、ディズニーのドナルド・ダックを想い起こさせますね。

一方、この中に“一羽”、一風変わったポーズの水鳥形埴輪に眼が止まります。
頸部から上を欠いています(判りにくくて恐縮です)が・・・よく見ると、頸部はかなり太めで、しかもまっすぐに斜め上を向いています。脚にはやはり水掻きが表現され、止まり木に掴まっていることが眼を惹きます。
決定的なのは、頸部にはどうやら蝶結び(!)の紐が表現されているようで、野生の鳥ではないことは云うまでもありません。

鵜形埴輪
鵜形埴輪 古墳時代・5世紀 大阪府茨木市太田茶臼山古墳出土 宮内庁蔵
(左:側面、中:背面、右:止まり木と水掻きのある脚)


実は、1990年代になってこのような水鳥形埴輪は、鵜飼いの鵜の姿を象った埴輪であることが明らかとなりました。
群馬県高崎市保渡田八幡塚古墳では、高く挙げた嘴に(ナント)魚を咥(くわ)えている例が見つかり、まさに「ウ飲み」する一瞬の姿を写した鵜形埴輪であったことが判りました。
しかも、頸部には鈴をあしらった紐が巻かれ、鵜飼の場面を表現した儀礼的な造形であるらしいことも注目されました。
鵜飼いはまさに人間社会の中に組み込まれた動物ですから、他の野生の水鳥を象った埴輪とはまったく異なった役割を果たしていたことでしょう。(詳しくは次回のテーマ:狩猟の埴輪で解説する予定です)


鵜形埴輪実測図(群馬県保渡田八幡塚古墳出土)
[若狭徹論文 2002『動物考古学』19、動物考古学研究会より]


すると、水面を浮かびながら泳ぎ回る自然の姿を彷彿とさせるガン・カモ類を象った水鳥形埴輪は、どのような意味をもっていたのでしょうか?

8世紀に成立した『記紀』『風土記』には、次のような不思議な物語が残されています。

    『日本書紀』垂仁天皇二十三年九~十月条
「[前略] 誉津別王(ホムチワケノミコ)は、是(コレ)生年(ウマレノトシ)既に三十、[中略] 猶(ナホ)泣つること兒(ワカゴ=幼児)の如し。常に言(マコトト)はざること、何由(ユヘ)ぞ。 [後略]
誉津別皇子侍り。時に鳴鵠(クグヒ)有りて、大虚(オホゾラ)に度(トビワタ)る。皇子仰ぎて鵠(クグヒ)を観(ミ)て曰(ノタマ)はく、「是何物ぞ」とのたまふ。天皇(スメラミコト)、皇子の鵠を見て言(アギトフ)ふこと得たりと知(シロ)しめして喜びたまふ。[後略]」

鵠(クグヒ)は白鳥の古名です。
特別な存在の貴種として期待されて育てられたホムチワケノミコの伝承は、言葉を話せなかったホムチワケが、空高く飛ぶ白鳥の姿を見て魂を揺さぶられ、言葉を取り戻すという物語です。
ほかに、あのヤマトタケルが伊吹山の神との戦いに破れ、命を落とした時、白鳥となって飛び去ったという『記紀』にみえるよく知られた物語を思い出された方も多いと思います。
古代においては、鳥は人間の魂と深く関係していたと考えられていたようです。

一方、このような存在を「見る」ということについては、もう一つ興味深い記録があります。

    『万葉集』巻1、第36番歌
「(持統天皇が)吉野の宮に幸しし時、柿本朝臣人麿の作る歌
やすみしし わが大王(おほきみ)の 聞(キコシ)めす 天(アメ)の下に [中略]
水激(ミナタギ)つ 滝の都は 見れど飽(ア)かぬかも」

7世紀の古代国家成立前夜、壬申の乱(672年)を勝ち抜いた夫・天武天皇の後を継いで即位した持統天皇は、短い在位(687~696年)中に31回も吉野を訪れています。
これは当時、神仙世界とも考えられ、後に修験道の聖地ともなる深山の激流を「見る」ことによって魂が揺さぶられ、底知れない自然の力を身に着けるためであったという説が有力です(一見涼しそうですが・・・、イヤ暑い“夏場”ばかりではないのですから真剣です)。

亡き夫・天武の意志を継いだ女帝持統の並々ならぬ覚悟が伝わってくるようです。
古代の人々は白鳥や激流といった生命力の根源のような存在から、普段身近に存在しないパワーを取り入れる手段として、「見る」という呪術的行為にあくなき情熱を燃やしていたようです。

今回の展示では残念ながら欠いているのですが、弥生時代の銅鐸にも登場する細長い嘴と長い頸や脚をもつ、ツル・サギ類を象ったと考えられる水鳥形埴輪は、古墳時代後期の6世紀にならないと出現しません。
これらの埴輪が現れた頃には、同じ墳丘に多数の人物・動物形埴輪が賑やかにたて並べられた時期で、おそらくこれまでご紹介したガン・カモやウ形のような鳥形埴輪とは、まったく違った物語(性格)を背景にもった造形にちがいありません。

ツル・サギ類の絵画(銅鐸)、鵜と魚の絵画(銀象嵌大刀)
左:ツル・サギ類の絵画(国宝 袈裟襷文銅鐸 伝香川県出土 弥生時代(中期) 前2~前1世紀)
右:鵜と魚の絵画(国宝  銀象嵌銘大刀 熊本県玉名郡和水町 江田船山古墳出土 古墳時代・5~6世紀)



いずれにしても、水鳥形埴輪は当時の人々の“想い”を反映した造形であったようです。
季節毎に現れる渡り鳥が大空を高く飛ぶその姿は、いつの時代でも人々の憧れや想像力を掻き立てたことでしょう。
野生であれ、家禽であれ、これらの鳥たちは人間の(勝手な想像に違いありませんが・・・)世界観や社会の一部を“体現”してきた動物で、いわば当時の人々の心象風景であったのかもしれません。

埴輪の鳥たちと向かい合う(「見る」)ことによって、(ほんの一瞬でも・・・心を開放して)当時の人々の想いに少しでも近づいて「パワー」を受け留めて頂ければ幸いです。

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年09月01日 (土)

 

特集陳列「動物埴輪の世界」の見方2─鳥形埴輪・鶏編

夏休みを挟んで開催される今回の特集陳列「動物埴輪の世界」(平成館考古展示室、2012年7月3日(火)~10月28日(日))は、大人から子供まで多くの皆さんに是非、ご覧頂きたいと思っています。
前回のブログで説明しましたように、展示は主に鳥形埴輪 →猪・犬形埴輪 → 馬形埴輪の順に構成されていますが、今回はこのうち、最初に“群れ”をなすように展示されている鳥形埴輪についてご紹介します。

猪・犬や馬はいわゆる4つ足の哺乳動物ですが、爬虫類から進化したと考えられる鳥類は四肢のうち、前肢を大きく変化させて、地上から空に活動の場を拡げた動物の代表です。
その活動は空中はもちろん水中や地上にと、(マサに・・・)“飛躍的”に拡がったため、多様な環境に適応した実にさまざまな姿を獲得した動物でもあります。

埴輪の鳥は、このうちいくつかの種類が表現され、明確に造り分けられています。
その訳(理由)はおいおい触れるとして、まずは鳥形埴輪の種類を見ておきましょう。

「動物埴輪の世界」展示風景
鳥形埴輪展示部分(左から:鶏形・水鳥形埴輪)

埴輪の鳥には、主に地上で暮らす鶏と、水上を主な生活の舞台にする水鳥を象ったものがあります。
このうち、鶏形埴輪は古墳時代前期(3世紀後半~4世紀後半)には出現し、実はすべての形象埴輪のうち、家形埴輪と並んでもっとも早く出現します。水鳥形埴輪は古墳時代中期(4世紀末~5世紀末頃)からしか認められません。他に、6世紀以降には猛禽類の鷹形の埴輪も造られました。

一方、鶏形埴輪は埋葬施設が設けられた古墳の墳頂部から出土するのに対し、水鳥形埴輪はしばしば古墳の周濠に築かれた中島などから出土します。
一口に鳥形埴輪といっても、埴輪としての意味と役割は複雑で、その性格は大きく異なっていたことが窺えます。また、いずれも人物埴輪や他の動物埴輪よりいち早く出現することも注目されます。

それでは、最初は鶏形埴輪から見てゆきましょう。
展示ケースの一番はじめに、スッと伸びる円筒部上に美しい姿を見せているのは、栃木県鶏塚古墳の鶏形埴輪です。この埴輪が出土したことで、古墳の名前が付けられたほどの優品です。

頭部には目立つ鶏冠(とさか)と嘴(くちばし)下の肉髥(にくぜん)が付けられ、大ぶりの尾部などからも、一見して立派な雄鶏(おんどり)を象っていることが判ります。
この古墳には別の鶏形埴輪もたてられていたようで、頭部の特徴からさらに雄鶏と雌鶏が認められ、併せて4羽の鶏形埴輪が出土しています。

鶏形埴輪
埴輪 鶏(写真左・雄鶏)、(写真・左:雄鶏、右:雌鶏) 栃木県真岡市京泉塚原 鶏塚古墳出土 古墳時代・6世紀(橋本庄三郎氏他3名寄贈)

一方、鶏形埴輪のもう一つの大きな特徴は、多くが止まり木を掴んだ脚の表現を伴うことです。前3本、後ろに1本の脚指で止まり木をしっかりと掴み、なかに蹴爪(けづめ)まで表現されたリアルな例もあります。
昼間は地上で活動し、夜間は危険を避けるために高い木に止まる鶏の習性を見事に捕らえた造形と考えられます。
このように見れば、鶏形埴輪は餌を探しついばむ「昼間」の姿ではなく、「夜間」の生態を写した造形といえそうです。

鶏形埴輪実測図(奈良県纏向坂田遺跡出土・4世紀)
鶏形埴輪実測図(奈良県纏向坂田遺跡出土・4世紀)
[清水真一論文1996『奈良県立橿原考古学研究所論集』11より]


これらの特徴から、鶏形埴輪は奈良時代の『記紀』に登場する「常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)」の性格と大変よく似ているという説が有力です。

『日本書紀』神代上第七段本文
「[前略] (天照(アマテラス)大神が)発愠(イカリ)まして、乃(スナハ)ち天石洞(アマイハヤ)に入り
まして、磐戸(イハト)を閉(サ)して幽(コモ)り居(マ)しぬ。故、六合(クニ)の内常闇(トコヤミ)に
して、昼夜の相代(アヒカハルワキ)も知らず。[中略] 時に、八十万神(ヤオロズノカミタチ)、天
安河邊に会ひて、[中略] 遂に常世の長鳴鳥を聚(アツ)めて、互いに長鳴きせしむ。[後略] 」

天照大神が弟神の須佐之男(スサノヲ)命の暴虐ぶりに機嫌を損ね、天岩屋戸に隠れてしまってこの世が闇夜となった有名な一節で、困り切った八百万神が集まり知恵を絞って常世長鳴鳥を集めたり、さまざまな祭祀を行った結果、高天原(タカマガハラ=天)と葦原中国(アシハラナカツクニ=地上)に光と秩序が戻った、という日本神話のハイライトシーンの一つです。

ここに太陽を出現させる存在として、常世長鳴鳥(鶏)が登場しています。もちろん神話的な表現ですが、当時の人々にとって太陽の復活と信じられた朝日は、鶏が鳴いて初めて登ると考えられていたことが窺えます。

おそらく、人々は夜明け前に鳴く雄鶏の不思議な能力に畏敬の念を抱き、鶏は太陽神(日神)信仰を支えた時告(ときつげ)鳥として重要視されたことでしょう。
一方、「時の管理」はいつの世でも人々を支配する者の特権です。飛鳥時代の朝廷でも、660(斉明6)年に都城の建設に先駆けて漏刻(ろうこく=時計)が製作され、平安時代に至るまで朝廷が人々に時を知らせたと記録されています。
鶏形埴輪は首長の祭祀権と支配権の象徴として、いち早く形象埴輪群の中心として製作されたようです。

鶏形埴輪
埴輪 鶏(左・雄鶏) 群馬県伊勢崎市赤堀今井町毒島995 赤堀茶臼山古墳出土 古墳時代・5世紀
鶏形埴輪展示全景(右

キジ科の鶏は、紀元前5000頃にはすでに中近東やエジプトで飼われ、紀元前2000年以降にはインド、中国でも前漢代(BC.3~AD.1)には家禽として相当普及していたことが知られています。
日本列島では、鳥形土製品・木製品や骨格資料などによって弥生時代から確認できますが、食肉・採卵用の実用種は江戸時代以降の輸入種で、名古屋コーチンなどのいわゆる地鶏は、明治~大正年間に輸入された中国原産種と日本古来の在来種の品種改良によってつくられた品種です。

動物学の分類では、在来種はすべて鑑賞用などの非実用種に限られるといいますので、日本列島では永らく人間社会に深く関わる動物として位置づけられてきたようです。
今年も猛暑が続き夏も真っ盛りですが・・・、ビールのお供に焼き鳥(♪~)という「定番」はごく最近に成立した風景で、現代人の“常識”だけでは古代の鶏の姿はなかなか見えてこないようです。
是非“先入観”を振り払って、これらの鶏たちを虚心に見つめて頂ければ、我々の祖先の視線に一歩でも近づいて頂くことができるのではないかと思います。

次回は、水鳥形埴輪についてご紹介します。


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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年08月20日 (月)

 

特集陳列「動物埴輪の世界」の見方1

平成館1階の考古展示室で2012年7月3日(火)から「特集陳列 動物埴輪の世界」がオープンしました。

   特集陳列 動物埴輪の世界 展示の様子  特集陳列 動物埴輪の世界 展示の様子

埴輪は当館の代表的な展示品の一つですが、とくに人物・動物埴輪は大変人気があり、多くの来館者の方にご覧頂いています。今回は、なかなか一度に展示する機会がない動物埴輪を一同に展示して、ご紹介致します。

本展示は、おおきく3つのテーマで構成されています。最初は鳥形埴輪、次に犬・猪形埴輪と馬形埴輪、最後に参考として動物装飾が付いた須恵器を展示しています。
古墳時代の人々の動物に対する考え方はどのようなものだったか。埴輪や装飾付須恵器などの造形から、古墳時代の人々の心に近づいてみたいと思います。


ところで、1997年に公開された映画「もののけ姫」をご覧になった方も多いと思います。森を侵す人間たちと森を守る神々との対立を軸に物語は展開して、人間と自然との共生について考えるというのが映画のテーマになっています。

この映画を神秘的なものにしているのは、森を守る神々が巨大な猪や山犬(狼)などの「もののけ」で表現されていることです。彼らは齢(ヨワイ)数百歳で、神と化した動物たちです。

「もののけ姫」は日本では興行収入が193億円を突破する大ヒットとなりましたが、外国では日本ほどの評判とはならなかったようです。
動物が神であることや神が絶対的な存在ではないという世界観が、なかなか受け入れられなかったのではないかと考えられます。逆に言えば、日本人の心の中には、森や野に生きる様々な動物たちを神として認めることができる感性があるといえるのではないでしょうか。

「もののけ姫」の世界にすんなりと入っていける現代日本人の感性と、動物埴輪に託された古墳時代の人々の思考。今回の展示を通じて、1500年という時間を隔てて共通する何かを感じて頂けたら幸いです。


少し堅苦しい話になってしまいましたが、動物埴輪の面白さや興味深い点は本ブログや列品解説でも、順次ご紹介してゆきたいと思います。
素直な眼で見れば動物の埴輪はじつに可愛いので、まずは楽しんでご覧くだされば十分です。


関連事業のお知らせ
列品解説 「動物埴輪の世界」
講師:山田俊輔(考古室研究員)
2012年7月31日(火)  14:00 ~ 14:30  平成館考古展示室
 

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posted by 山田俊輔(考古室研究員) at 2012年07月17日 (火)

 

公式フィギュアプロジェクト トーハク×海洋堂 『考古学ミニチュア カプセルフィギュア』第1集の販売

がちゃ!

春の扉が開く音が聞こえてきそうですね。トーハクでは、3月20日(火・祝)から4月15日(日)「博物館でお花見を」を今年も開催します!トーハクの春の風物詩として定着したこのお花見企画、今年も多彩な展示とイベントでお客様をお待ちしております。

でも、その日、「がちゃ」っと聞こえてくるのは春の扉だけではないんです。この日、3月20日(火・祝)から、トーハクは140周年を記念して東京国立博物館公式『考古学ミニチュア カプセルフィギュア』第1集を館内で限定発売することになりました。

ガチャガチャ販売機         ガチャガチャカプセル
販売用マシンとカプセル(イメージ)

よりトーハクに親しみをもっていただき、文化財をより身近なものとして感じていただきたいという願いをこめてプロジェクトが開始され、今回はその第1弾となります。
このミニチュアフィギュアは、ガレージキットや食玩などで世界的に有名な株式会社海洋堂製です。教科書でもお馴染みの、古代日本を知るためのトーハク所蔵の考古遺物-土偶、埴輪、銅鐸、土器をもとに6種類制作しました。いずれのフィギュアも当館考古の研究員の細部に渡る学術上の見解、そして「こだわり」をもとに精密に再現されています。
例えば、銅鐸フィギュアに描かれている絵画。ここから弥生人の生活が読み取れる貴重な史料となっております。その中に描かれている人物の頭の形は、男性はまるく、女性は三角で表現されています。今回のフィギュアはそこまでをも忠実に再現され、まさに研究員の細部に渡る見解、「こだわり」が表現されています。ぜひ、「ホンモノ」と見比べてみてください。

販売は館内設置のがちゃがちゃマシンから「カプセルトイ」が出てくる形式で、中身は硬貨を入れてレバーを回してからのお楽しみとなります。

フィギュア
「考古学ミニチュア カプセルフィギュア」第1集
左から、
人面付壺形土器
遮光器土偶
埴輪 踊る人々(小)
埴輪 踊る人々(大)
袈裟襷文銅鐸
埴輪 犬
高さ:約4cm~7cm

ご来館の際には、是非、お目当てのミニチュアフィギュアを狙って、ドキドキワクワクでレバーを回してみてください。

設置場所:本館 地下1階ミュージアムショップ
              平成館2階 特別展「ボストン美術館 日本美術の至宝」会場ショップ
              平成館1階 考古展示室入口

※2012年秋には、『考古学ミニチュアフィギュア』第2集と絵画立体化フィギュアプロジェクトの開始を予定しています。こうご期待!

カテゴリ:トーハク140周年考古

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posted by 内誠(総務課) at 2012年03月16日 (金)