このページの本文へ移動

1089ブログ

歴史資料「化粧」

本館16室で歴史資料「化粧」(~2012年3月25日(日))の展示を行っています。



江戸時代に、歌舞伎や浮世絵、版本などを主な媒体として流行した化粧に関する資料をとおして、当時の人々が心がけていた化粧のあり方などをご紹介します。

文化10年(1813)に出版された『都風俗化粧伝』は、100年以上にわたって女性に愛読されたロングセラーです。顔や手足・髪の手入れ、顔だちによる化粧の仕方から、なで肩にみせる方法まで、身だしなみのすべてが「化粧」に込められていました。


都風俗化粧伝 佐山半七丸著、速水春暁斎画 江戸時代・文化10年(1813)
(~2012年3月25日(日)展示)



たとえば、洗顔において「糠袋(ぬかぶくろ)」を使用するとき、糠は絹でふるい、糸の細い木綿の袋を用いる。顔のきめを損なわないように静かにまわして使うと、糠汁がよく出て、顔につやを出す。使った後の袋は、残りかすのないように洗い落とすことで、次に使う際の肌荒れを防ぐ、などと記されています。 
また、目の上に紅をさすことで、顔を「うっきり」(ウキウキと華やかなさま)とみせる方法では、一方で、紅の付けすぎによる皮膚の黒ずみに注意をうながしています。

喜多川月麿の『姫君図』は、下地に墨を塗りその上から紅を塗る「笹紅」をした肉筆美人画の代表作です。紅を玉虫色に濃く塗るのが流行したとき、「天保の改革」で、高価な紅をたくさん塗ることが許されなくなったために考案されました。

 
姫君図 喜多川月麿筆 江戸時代・19世紀 (右)は左画像の拡大部分
(~2012年3月25日(日)展示)


日本では古くから、男女ともに眉をそり落とし、墨をさしたりする「作り眉」の習俗がありました。平安時代には、眉を抜き、額の上の方に描くことが宮廷で行われ、江戸時代になると、こうした礼儀作法が一般にまで及び、そり落とした眉を既婚女性のしるしとする習慣がはじまりました。

江戸時代、髪型などは身分や年令をあらわすもので、自分の好きな髪型を選ぶことはできませんでした。明治4年(1871)断髪廃刀令が出されると、女性の中に髪を切る人があらわれたため、同5年に東京府は、女性の断髪禁止令を出します。女性は日本髪を結わねばならないというのです。やがて西洋化が進むなかで、束髪が普及しましたが、日清戦争がはじまると、日本髪が復活します。いろいろなかたちで自由は奪われていたのです。第2次世界大戦中にマニキュアやパーマをして憲兵に連れていかれたという歌手淡谷のり子さんを思い出しました。ちょっと古かったですね。
 

| 記事URL |

posted by 高橋裕次(博物館情報課長) at 2012年03月07日 (水)

 

「古墳時代の神マツリ」のミカタ(見方・味方…) 4

特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))も、あと残すところ半月足らずとなりました。

これまで、祭祀遺跡の移り変わりから「当時の人々の神々に対する観念が次第に豊かになっていった過程」がうかがえることをお話しました。
なかでも、三輪山西麓の山ノ神祭祀遺跡(4~5世紀)出土の土製模造品を採り上げ、有名な奈良県三輪山神の性格が酒造りと深く関係しているとみられることをご紹介しました。
また前回は、自然に対する当時の人々の姿勢(意識)を映し出していると考えられる奈良時代の“証言”(伝承)から、その背景に意識の変化が垣間見えることもご紹介しました。

一方、祭祀遺物と古墳の副葬品の間に、著しい共通性が認められることは大きな“謎”でした。
この問題のヒントを探るには、やはり出土した当時の人々が使用した祭祀遺物そのものを見つめるほかはなさそうです。


最初に、ほかにも本特集陳列にかかわりが深い常設展示品をご紹介します(第2図C・D)。
 
考古展示室配置図(第2図) (右)左画像の赤枠で囲った部分の拡大部分

一つ目は、岡山県楯築遺跡(2~3世紀)にあった旧楯築神社の御神体・旋帯文石(模造品:D)です。単独で配置され、ひときわ存在感を放つオリジナルの低いケースに展示されています。
 
模造 旋帯文石(左:左側面、右:正面) 原品=岡山県倉敷市 楯築神社 伝世、弥生時代(後期)・2~3世紀 (通年展示) 

楯築遺跡は全長80mを越える弥生時代終末頃の最大の墳丘墓で、同じ頃、九州から関東地方の各地でも、大規模な墳丘をもったさまざまな形の墳丘墓が発達します。これらは古墳時代の前方後円墳の源流と考えられています。
楯築遺跡の発掘調査によって、大変よく似た文様を施した小形旋帯文石が出土したことから、この旋帯文石も楯築遺跡にあったと考えられています。

扁平な略直方体の一方にぼんやりと顔のような表現があり、その他は規則的で立体的な複雑な帯状の文様で埋め尽くされ、ずいぶんと窮屈な印象を与えています。
あたかも内側の存在を封じ込めるような造形で、内に秘めた大変なパワーを感じさせます。人間からみた超自然的な存在を表現したものとも考えられていて、“得体の知れない”存在を縛りつけているかのようです。
あの奈良時代の伝承に語られていたような、人々が逃げ惑い畏怖の対象としていた「荒ぶる神」の姿を想い起させますが、如何でしょうか?。


二つ目は、「宝器と玉生産の展開」(テーマ展示C)の群馬県上細井稲荷山古墳(5世紀)から出土した滑石製機織具です。

滑石製機織具 前橋市上細井町字南新田1146-1 群馬県上細井稲荷山古墳出土 古墳時代・5世紀 (通年展示)

機織技術は弥生時代に大陸から伝来し、この滑石製機織具は織り手と一体となった地機を写した造形とみられます。
実は、本特集陳列の解説パネルでご紹介している福岡県沖ノ島祭祀遺跡群(4~7世紀)でも、多くの模造の機織具が出土していて注目されています。                       


沖ノ島は記紀にも登場し、宗像大社の沖津宮(オキツミヤ)として、大島の中津宮(ナカツミヤ)と辺津宮(ヘツミヤ)の宗像大社と併せて、市杵嶋姫(イチキシマヒメ)神・田心姫(タゴリヒメ)神・湍津姫(タギツヒメ)神の三女神を祀っています。
出土した祭祀遺物は、これらの女神の性格を表していると考えられています。
    『日本書紀』神代上第6段一書二
    「すでにして天照大神、[中略]吹き出つる気噴(イブ)きの中に化生(ナ)る神を、市杵嶋姫神と号(ナ)づく。
      是(コ)は遠宮(沖津宮)に居します神なり。
      [中略]田心姫神と号(ナ)づく。是(コ)は中宮(中津宮)に居します神なり。
      [中略]湍津姫神と号(ナ)づく。是(コ)は海濱(辺津宮)に居します神なり。」

また、誰もがご存知の三重県伊勢神宮も女神の天照(アマテラス)大神を祀っており、記紀神話で語られる(暴れん坊の)弟神のスサノオとのトラブルが高天原の斎服(イミハタ=忌機)殿で起こった事件であることは有名です。
平安時代の記録では、伊勢神宮の御神宝には鏡・武具・楽器などと並んで、多くの機織具が用いられています。

沖ノ島祭祀遺跡や伊勢神宮の機織具の祭祀具が姫神である女神の性格を反映しているという見解は、多くの研究者が指摘するところです。
三輪山の山ノ神祭祀遺跡では酒造具、沖ノ島祭祀遺跡では機織具と、祀られる神さまの性格によって、5世紀頃からはやはり(神さまの性格に合わせて・・・)神マツリの道具の“使い分け”が始まっていたようです。


最後に注目して頂きたいのは、今回の特集陳列の中央部分と、「宝器と玉生産の展開」(テーマ展示C)で展示している古墳時代中期(5世紀)の履物形の滑石製模造品です。


滑石製下駄 京都市西京区大原野 鏡山古墳出土 古墳時代・5世紀 (通年展示)
鼻緒の孔も開けられ、ちゃんと左右共に専用に造られた精巧なつくりです。東京都野毛大塚古墳と京都府鏡山古墳出土品は、共に下駄形模造品を含む滑石製模造品の代表的なものです。

いずれも下面に下駄の歯の突起が付けられていて、近年、古墳時代に遡る木製下駄の発掘が相次いでいます。
出土遺跡は水を濾過する沈殿槽のような装置と祭祀遺物を伴い、何らかの儀礼の場で使用されたとみられる例が多いことが特徴です。まだ解釈には諸説(せっかく得られた清水を汚さない為?など)がありますが、水を使った儀礼の場で使用された履物である可能性が高いようです。

(あくまでも憶測の一つですが・・・)木製下駄は水を用いた儀礼の場において中心的な人物が使用した道具と考えられますので、機織具や酒造具も儀礼を行った人間の道具であった可能性が高いと言えそうです。
こう考えれば、これらの石製模造品は使用者側の道具を写したものということになり、古墳の副葬品が生前の被葬者の性格を表しているという通説とも整合的ですね。

そういえば、伊勢神宮の天照大神も、元の名前(本名・・・)は大日靈貴(オオヒルメノムチ)と呼ばれていて、太陽神を祀った巫女(日女:ヒルメ)が神格化されていった過程が反映しているという説が有力です。
    『日本書紀』神代上第4段一書十
    「[前略]是(ココ)に、日の神を生みまつります。大日靈貴と号(マウ)す。一書に云はく、天照大神といふ。」

ギリシャ神話のディオニッソス(ローマ神話ではバッカス)もそうですが、やはり神さまは酒造りを司る(のと召し上がる?)のが“専門”ですので、自分で造って自分で賞味し(飲んだくれ?)ているのは、人間だけかもしれません・・・。


これまで見てきましたように、古墳時代の祭祀遺物には、我々祖先の神に対する畏怖の気持ちや自然に立ち向かっていった汗と努力の痕が遺されているように思えます。
その道筋には、4~5世紀頃に大陸伝来の“ハイテク”技術を身に付けて「先史文化」を急速に “近代化”させていった古代国家成立前夜に、次第に神マツリを変貌させていった我々の祖先の姿が浮かび上がります。

展示全景(左から:古墳時代前期・中期・後期の祭祀遺物)

しかし、前回ご紹介した奈良時代の伝承の中で、(あろうことか…)ついには神さまを追い払うという“暴挙”に出た壬生連(ムラジ)麿の「言挙(コトアゲ)」は、少々行き過ぎであったようです。
それは、1300年以上後の現代に暮らす我々自身が、決して自然を克服できていないことからも明らかです。
第2次世界大戦後の日本の高度経済成長期にも、どこか通ずるものを感じますが如何でしょうか。

今回の展示を通して、遠い過去に生きた我々の祖先が大自然の中に神の姿を見つめた視線に想いを馳せて頂くと、(現在のエコを考える上でも・・・)一味違った「見方」でもう一度自然を見つめ直すことができるのではないでしょうか。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

| 記事URL |

posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年03月02日 (金)

 

黒田清輝-作品に見る「憩い」の情景1

本ブログは、特集陳列「黒田清輝-作品に見る「憩い」の情景」(~ 2012年4月1日(日))で展示される作品をご紹介する全3回のブログのうちの、第1回です。

≪湖畔≫(1897年)などの作品で知られる洋画家黒田清輝 (1866-1924)には、追い求めていた絵画世界がありました。それは複数の人物を自然の中に配し、愛や勇気といった抽象的な概念を表現するもので、その主題として大切にされていたのが「労働」と「休息」でした。この主題は黒田の独創というわけではありません。留学先のフランスで先行する作例を見た経験が背景にあるようです。たとえば、黒田はバルビゾン派の画家であるジャン・フランソワ・ミレーの作品を高く評価していました。ミレーといえば ≪落穂拾い≫≪晩鐘≫などが思い浮かびます。 ≪落穂拾い ≫は麦刈りの後に落穂を拾う労働の場面を、 ≪晩鐘≫は農作業を終え、感謝の祈りを捧げてこれから休息に向かう場面をとらえた作品です。
平成22年度には「農村 (田園)へのまなざし」と題する特集陳列で、黒田が田園の労働を描いた作品をご紹介しました。この展示では、黒田が描こうとした「休息」を主題とする作品につらなる作例を当館の所蔵品によってご紹介します。


黒田清輝は薩摩藩士の子息として、江戸時代も終わりに近い 1866年に鹿児島で生まれました。実父清兼とその兄清綱の間には、黒田家で最初に生まれた男子を家の跡継ぎとするという約束があったとされ、清輝は 5歳で伯父清綱の養嗣子となります。黒田清綱は幕末に西郷隆盛らとともに奔走し、維新に勲功があったと評価されて 1887(明治20年)に子爵となりました。黒田清輝は武家の子息の素養として漢学のほか狩野派の絵画を学びますが、少年の頃の夢は法律家になることでした。当時の法曹界はフランスからのお雇い外国人ボアソナードらが活躍しており、フランス法に学んで日本の法律が制定される動きがありました。黒田が留学先にフランスを選んだのはそのためと考えられます。留学準備として英語やフランス語を学び、法律家になるために黒田は1884年にパリに留学します。


黒田の少年時代の写真(1879年、東京にて)


パリに着いた黒田はリセに入学して法律学校入学の準備を進めますが、一方で、パリ留学中の日本人たちと交遊するうち、絵画に興味を持ち始めます。当時、ヨーロッパでは日本趣味 (ジャポネズリー )が流行しており、日本美術が高い評価を得ていたことも一因していたようです。また、黒田が趣味で描く絵に日本から来ていた画学生や美術商・林忠正らが画才を見出し、画家になるよう勧めたことも強い動機づけとなりました。

  
(左)黒田の留学初期の写真(1884年、パリにて)
(中)≪裸婦習作≫紙・木炭 明治20年(1887)
(右)≪裸体・女(後半身)≫カンヴァス・油彩 明治22年(1889)
(展示予定は未定)



1886年に黒田はサロンの画家ラファエル・コランの画塾に入り、本格的な修学を始めます。コランの絵画教育は、木炭による石膏像デッサン、裸体デッサンに始まり、油彩による裸体習作、構図研究、自由制作に至るアカデミックなものでした。

黒田の画才は「すらすらと伸びた」とコランのもとで一緒に絵画修学をした久米桂一郎が述べています。 1890年には油彩の自由制作をするようになっており、この頃からサロン出品を意識するようになっていったようです。


コラン肖像写真 紙・鉛筆 大正5年(1916)
(展示予定は未定)



サロン出品をめざして最初に試みたのが ≪マンドリンを持てる女 ≫(1890-91年)です。楽器を手にしてクッションに寄りかかる女性は、演奏のあとなのか、やや上気した表情です。繊細な弦楽の余韻、柔らかい布の触覚が伝わってきます。


マンドリンを持てる女 黒田清輝筆 明治24年(1891)(~ 2012年4月1日(日)展示)


黒田にとって最初のサロン入選作となった ≪読書≫(1891年)は、パリ近郊の農村、グレー・シュル・ロアンで、この村に住むマリア・ビョーという少女をモデルとして描かれました。マリアの家は豚肉とその加工品を商っていたようです。彼女自身がこのように読書をするような有閑的生活を送っていたかは疑問です。読書する女性は 19世紀のフランス絵画によく描かれていますが、それは、ひとつには、余暇をもち、その時間を知的に過ごすことが憧れの対象であったからです。


読書 黒田清輝筆 明治24年(1891)(~ 2012年4月1日(日)展示)


≪読書≫(1891年)でサロン入選を果たした翌年、黒田は師ラファエル・コランが 1877年のサロンに出品した ≪夏≫を参考とした≪夏図≫の制作に取り組みます。水辺で女性たちが釣りをしたり、話をしたりする情景を描いた大作のために、多くの画稿が描かれました。それらは後年の ≪花野≫の制作にもつながっていきます。

 
(左)夏図画稿(横たわる女) (右)夏図画稿(女の顔)
(左右ともに)黒田清輝筆 明治25年(1892)(~ 2012年4月1日(日)展示)

カテゴリ:研究員のイチオシ

| 記事URL |

posted by 山梨絵美子(東京文化財研究所 企画情報部近・現代視覚芸術研究室長) at 2012年02月28日 (火)

 

書を楽しむ 第9回「白氏詩巻に挑戦!?」

書を見るのは楽しいです。

より多くのみなさんに書を見る楽しさを知ってもらいたい、という願いを込めて、この「書を楽しむ」シリーズ、第9回です。


今回は、国宝「白氏詩巻」です!

トーハクの総合文化展、本館2室「国宝室」に、
「白氏詩巻」が展示されています!!(~2012年3月18日(日)展示)


国宝 白氏詩巻(部分) 藤原行成筆 平安時代・寛仁2年(1018)


じつは、私がいちばん好きな作品です。
その理由は単純で、「こんな字が書きたい!」です。

というわけで、写してみます。
展示室で写すときは、作品の保護のために、エンピツを使ってくださいね。


私が字を写すときの道具一式です。

エンピツ版「白氏詩巻」、いかがですか?

 
エンピツで写した白氏詩巻 (右)左画像の部分拡大

形はがんばって似せてみました。
でも、一番左の行は字が大きくなってしまい、さいごの文字まで書けませんでした。

普段はエンピツで写すだけですが、今回は、毛筆でも写してみました。
(注)展示室では毛筆は使えませんので、自分の机で写真を見て写しました。


 
(左)毛筆で写した白氏詩巻
(右)該当部分の白氏詩巻(冒頭に掲載の画像、国宝「白紙詩巻」の部分拡大)

この箇所は、とくに好きな部分です。
さらっとくずした字もあって、バランスがとてもいいです。
でも、
難しいのは筆の弾力。
形と筆の動き、この調和がなにより大切。
この調和こそが、書く楽しみでもあり、鑑賞する楽しみです。


「白氏詩巻」は、藤原行成(ふじわらのこうぜい、972~1027)が寛仁2年(1018)に書きました。
当時の宮廷貴族のあいだで、中国・唐時代の白楽天(白居易)の詩集『白氏文集』が
流行して、筆写されました。
この作品も、『白氏文集』を書いているため「白氏詩巻」と呼ばれています。

藤原行成は、能書として歴史的に評価の高い「三跡」のひとり。
同じく「三跡」の小野道風や、中国の王羲之を学んだと言われています。
重要なのは、藤原行成が、「和様(わよう)の書」を確立したことです!
「和様の書」とは、日本風の書、と言ったらいいでしょうか。
それまで書かれていた中国風の書にくらべて、
やわらかく、なだらかな線が特徴です。

その行成の力量がいかんなく発揮されているのが、この「白氏詩巻」です!

さらに、この「白氏詩巻」には……
言いたいことが山ほどありますが、今回はこのへんで。

書にとって写すことはとても大切なことです。
好きな作品を見つけたら、写してみてください。

私の大好きな「白氏詩巻」、全部展示していますので、
ぜったいに見てくださいね!
 

カテゴリ:研究員のイチオシ書跡

| 記事URL |

posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2012年02月24日 (金)

 

東京国立博物館コレクションの保存と修理

今年で140周年を迎えた東京国立博物館(トーハク)は、11万3千件を超える文化財を所蔵しています。
その歴史は日本の博物館のなかでもっとも古く、収蔵品の量も最大規模。
それだけにコレクションの保存状態は、必ずしも良好なものだけとは限りません。
貴重なコレクションを次の世代に伝えることができるように、トーハクでは文化財の収集や展示などと並行して、保存と修理のための活動にも日々取り組んでいます。
特集陳列「東京国立博物館コレクションの保存と修理」(~2012年4月1日(日))は、実際に修理した収蔵品の展示を中心に、普段なかなかご覧いただくことのできない保存と修理の活動をわかりやすくご紹介する企画です。
平成12年(2000年)から数えて今年は12回目の実施となります。


平成21年(2009年)に実施した特集陳列「東京国立博物館コレクションの保存と修理」の会場


修理の内容は作品個々の分野や材質・状態、さらには目指す展示や保管のあり方によっても変わってきます。
今回のブログでは 重要美術品 柳橋水車図屏風(りゅうきょうすいしゃずびょうぶ)を例にして、修理がどのように進められたのかを具体的に紹介したいと思います。


修理前の作品。裂や縁木などは新調しました。
重要美術品 柳橋水車図屏風 筆者不詳 安土桃山~江戸時代・16世紀末~17世紀初
6曲1双 紙本金地着色
右隻 本紙 縦154.4㎝ 横323.1㎝
左隻 本紙 縦154.8㎝ 横324.3㎝



(1)この作品の保存上の問題点はなんといっても盛り上げた胡粉(ごふん)と緑青(ろくしょう)部分の剥離・剥落でした。

 
(左)剥落した蛇籠の盛り上げ胡粉
(右)剥落した柳の葉の絵具・緑青



(2)修理前には観察を通して内部の保存状態を詳細に把握。肉眼観察だけでなく、光学機器などを使うこともあります。

 


(3)いよいよ処置を開始します。まずは屏風を1扇ずつに解体。金具や縁木も外していきます。

 


(4)次に剥離が起こっている絵具を膠(にかわ)(動物の骨や皮から作る接着剤)などで安定させます。これを剥落止めといいます。盛り上げ胡粉の部分も保護してから下地から本紙を剥がします。

 


(5)下地から剥がしたら、再び絵具などに剥落止めを行ない、古い裏打紙を除去します。少しずつ裏打紙を剥がしていった後に、今度は新たに裏打ちを行ないます。

 


(6)同時に下地の準備も行ないます。木製の骨下地が歪まないように、全部で六種類もの下張りを繰り返します。下張りには今回の修理をいつだれが行なったのかという記録も添えます。このような記録は、いつか次の修理をする時にきっと役に立つはずです。

 


(7)平行して、新しい裂(きれ)や金具を選びます。関係者が幾度も話し合いを行ないます。PCのバーチャル空間で裂の取り合わせ作業も試みました。

 


(8)作品を前にして、候補の裂と作品の相性を確認しました。



新調する金具は、制作された時代によく見られる唐草文を取り入れたデザインにしました。

 


(9)本紙の欠失部分には補紙をあて、その部分にのみ補彩を行ないます。色の見本を作って色を合わせていきます。

 


(10)絵具層も安定し、下地も完成したらいよいよ張り込みです。



唐紙、本紙を張り込んでいきます。

 


(11)裂を張り込んだら、縁木と金具を取り付けて仕上げです。

 


(12)関係者が集まって仕上がりを点検。大勢の人たちが関わり、話し合いをしながら、一つの修理作業がようやく終わりました。




以上、柳橋水車図屏風の修理をどのように進めてきたのかについてご説明いたしました。
修理の結果、この屏風はいったいどのように生まれ変わったのでしょうか。
その答えは会場でぜひ直接お確かめください!

会場には柳橋水車図屏風のほかにも、絵画・書跡・工芸・彫刻・考古など幅広い分野の作品が合計15件展示されています。
修理を通して再生された作品の魅力とともに、ひとつひとつ異なる修理作業の奥深さにも触れていただければ幸いです。
 

(関連事業)
列品解説 東京国立博物館の保存修復事業について 2011年2月21日(火) 当日受付
列品解説 柳橋水車図屏風の修理について 2011年2月28日(火) 当日受付
列品解説 絵画・書跡作品の保存と修理 2011年3月13日(火) 当日受付
列品解説 屏風修理の事前調査 2011年3月27日(火) 当日受付

カテゴリ:研究員のイチオシ

| 記事URL |

posted by 川村佳男(保存修復室) at 2012年02月21日 (火)