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ポンペイ入門(1) 歴史編

こんにちは!考古室研究員の山本です。

現在、平成館特別展示室で開催中のポンペイ展
その展示を深く知るために、このブログではポンペイがどんな街だったか解説します。
今回はまずポンペイの街の歴史について見ていきましょう。

ポンペイはイタリア中南部の中核都市、ナポリからヴェスヴィオ山を挟んで向かい側に位置する遺跡です。
 

ポンペイはヴェスヴィオ山の南方10kmほどの場所にあります。

紀元後79年このヴェスヴィオ山が大噴火。
天高く噴煙が吹き上がる、いわゆるプリニー式噴火であったとされます。

この噴火の影響により、ポンペイはエルコラーノなど周辺の町とともに埋没してしまいました。ポンペイでは人口1万人のうち2千人ほどが亡くなったと言われています。
噴火当日午前から火山灰や軽石が降り注ぎ、翌朝に高温の火砕流と火砕サージが到達し、街は厚い火山噴出物の層に閉じ込められました。
しかしそのために、こうした火山由来の堆積物が乾燥剤のような役割を果たし、当時の文化的な遺物が多く残ったのです。
噴火の日付は長らく大プリニウスの息子である小プリニウスの記述から8月24日とされてきましたが、近年は10月24日とする説も有力です。
 

円形火鉢 1台 1世紀 ポンペイ、「竪琴奏者の家」、エクセドラ出土 ブロンズ ナポリ国立考古学博物館所蔵
近年の発掘調査で見つかった壁の落書きの日付に加え、こうした寒い時期に活躍する道具が出土することも噴火を10月末とする説の証拠とされます。

ポンペイが埋没した、ちょうどそのころはローマが帝国となって100年ほどが経った時代。
皆さんもポンペイと言えばローマ時代、という印象を持たれているのではないでしょうか。

実際に、これまでも日本でポンペイが話題に取り上げられるときにはこの噴火が起きた時代=ローマ時代がクローズアップされてきました。
たしかに都市としてのポンペイの歴史はこの噴火で幕を閉じました。
しかし、今回の特別展では特段「ローマ」という言葉を前面に出していません。
ポンペイにはローマの支配下に入る以前にも長い歴史があるからです。
次に街の成り立ちについて見ていくことにしましょう。


オスキ語の銘文のある小祭壇 1個 1世紀 ポンペイ、「ファウヌスの家」、アトリウム出土 トラバーチン ナポリ国立考古学博物館所蔵

ポンペイはもともと在来の人々であるオスク人に加え、イタリア北方のエトルリア人や地中海で広く植民活動を行っていたギリシャ人を中心に町ができ、紀元前6世紀には現在も見られる城壁の輪郭が出来上がったとされています。
ローマ社会では公用語してラテン語が用いられましたが、旧家ではオスク人が用いたオスキ語が記された遺物も見つかっています。

その後、紀元前5世紀に山岳部から進出してきたサムニウム人により町は占領されますが、この時代に大きく発展を遂げることになります。
やがて東地中海との交易も活発化し、紀元前2世紀にはヘレニズム文化の影響を大きく受けるようになります。
特にエジプトではそれまでの文化とギリシャ文化が融合し、ナイル川河口の都市アレクサンドリアを中心に地中海一円に強い影響力を持ちました。


イセエビとタコの戦い 1面 前2世紀末 ポンペイ、「ファウヌスの家」、トリクリニウム出土 モザイク ナポリ国立考古学博物館所蔵
アレクサンドリアの学問的な背景をもとに、地中海世界で広く流行した主題と言われます

このころまでに、ポンペイが位置するカンパニア地方にもローマの力が及ぶようになります。
ポンペイがローマの同盟市になったのは紀元前290年。
カルタゴのハンニバルがイタリアに攻め入ってきた第2次ポエニ戦争(紀元前219~201)で近傍の街であったヌケリアが破壊されると、ポンペイはカンパニア地方を代表する都市となります。
このヌケリア、大きい都市だったようでその後もポンペイのライバル的(?)存在として登場することがあります。(次回入門編②をご参照ください。)

大きな転機となったのは紀元前89年の同盟市戦争です。
主にイタリア南部でローマと同盟を結んでいた都市がローマ市民権などの権利を求めて蜂起しました。
ポンペイははじめローマに忠誠を示していましたが、後に他の同盟市とともに反旗を翻し、スッラ率いるローマ軍に敗れてしまいます。
しかしローマもポンペイをはじめとする同盟市を無視することはできず、ついに市民権を与えます。
一方でポンペイは紀元前80年にはローマの植民市となり、多くの退役軍人をはじめとする人々がローマからやってきたことで、ローマ化が一層進むことになりました。


ミネルウァ小像 2軀 1世紀 ポンペイ、「竪琴奏者の家」エクセドラ出土
ナポリ国立考古学博物館所蔵
ローマの植民市になると、ローマにならってフォルムの北にあったユピテル神殿にユノとミネルウァも併せて祀られるようになりました

紀元後62年、ポンペイを大きな地震が襲います。
この時の被害は甚大で、17年後の噴火の際にも多くの建物が復興の途上にあったことが知られています。
特に浴場はフォルム北側にあった1か所を除き、最大のスタビア浴場をはじめほとんどが閉鎖されたままだったことがわかっています。
哲学者のセネカは『自然研究』の中で、ポンペイを含むカンパニア地方ではこれまでにも地震があったものの被害があまりなかったので、その恐ろしさを忘れていたのだと記しています。
寺田寅彦の言葉を借りれば、まさしく「天災は忘れた頃にやってくる」だったのです。

そして運命の79年を迎えます。
ポンペイは1748年に本格的な発掘調査が行われるようになるまで長い眠りについたのです。

(ポンペイ入門(2) 街の様子編に続きます)

カテゴリ:「ポンペイ」

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posted by 山本亮(考古室研究員) at 2022年01月28日 (金)

 

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