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ポンペイ入門(2) 街の様子編

考古室研究員の山本です。
前回に引き続いて、今回はポンペイの街の様子や特産品などの特色について解説します。

ポンペイの城壁で囲まれた街の広さはおおよそ66ヘクタールほど。
東京国立博物館がある上野公園は53ヘクタールですから、上野公園より少し広いくらいです。
城壁の外にも裕福な市民たちが建てた別荘が点在していました。
ポンペイではこれまでに全体の3分の2ほどの面積が発掘されています。


ポンペイ市街図 Ⅰ~Ⅷ区の区域分けは古代のものではなく、発掘に際して新たに付されたものです。

街は南北に1本(スタビアーナ通り)、東西に2本の大通り(北からノーラ通り・アッボンダンツァ通り)で区切られています。
街の主要な建物は南西のほうに固まっていました。
中心に位置するのがフォルムと呼ばれる広場。その周りに役所や裁判所などの公的機関、市場や神殿が集まっていました。
フォルムは上下二重に柱が並んだ廊に囲まれ、市場のほかにも多くの露店が並びにぎやかな情景でした。


フォルムの日常風景 1面 62~79年 ポンペイ、「ユリア・フェリクスの家」、アトリウム出土 フレスコ ナポリ国立考古学博物館所蔵

さらにフォルムの南東にあるのが大劇場と小劇場(音楽堂)。
劇場はギリシャ都市によくみられる建物の一つですが、ポンペイが位置するカンパニア地方では仮面を付けて演じる笑劇(アテラナ劇)が発祥したと言われ演劇が盛んだったようです。

 
:俳優(悲劇の若者役)、:俳優(女性役、おそらく遊女) 1世紀後半 ともにポンペイ、「カロリーナ王妃の家」、庭園出土 土製 ナポリ国立考古学博物館所蔵

ここであらためてポンペイの地図を見てみてください。
ここまでで見てきた街でも南東にある多くの公共建物が集まる地区は道や地区の形が雑然として配置された印象を受けます。
いっぽうでそれ以外の地区は大通りに沿って整然と区画されているように見えます。
おそらく、古くからの街の中心が南西のほうにあり、それ以外は宅地として順に整備されたのでしょう。
ただし、こうした場所から離れて位置する建物があります。
それが円形闘技場と大運動場です。

特に円形闘技場は、城壁の南東の角を取り込むように利用して建てられています。
劇場がギリシャ文化を下地にする要素とすると、円形闘技場はまさしくローマ的な建築物。
一説には円形闘技場で行われた剣闘士試合もカンパニア地方が起源と言われます。


円形闘技場での乱闘 1面 59~79年 ポンペイ、円形闘技場での乱闘の家、ペリステュリウム出土 フレスコ ナポリ国立考古学博物館所蔵
紀元後59年に円形闘技場で起きた、ポンペイとヌケリア両市民の乱闘の模様を描いたフレスコ画。背後の城壁とともに闘技場の姿を写実的に描いています

ちなみにこの円形闘技場、かつてのローマ世界に含まれる地域の中で現在まで残っている事例としては最も古いもの。
上の作品で見た円形闘技場乱闘事件の際、ちょうどローマ皇帝だったのがネロでした。
同じころローマではネロの巨大な像〈コロッスス〉が建てられており、彼の死後にこの像の跡地に巨大闘技場が建設されることになります。これがローマのコロッセオです。
ポンペイの円形闘技場はコロッセオよりも古くに作られたものなのです。

次に名産品について見てみましょう。
ポンペイには3つの特産品がありました。
ワイン、オリーブオイル、ガルム(魚醤)です。


バックス(ディオニュソス)とヴェスヴィオ山 1面 62~79年 ポンペイ、「百年祭の家」アトリウム出土、東壁 フレスコ ナポリ国立考古学博物館所蔵

この絵を見ると、ヴェスヴィオ山の麓に葡萄棚が広がっているのがわかります。
画面左の葡萄を身にまとったバックスは酒の神であり、下の蛇は葡萄を守護する神アガトダイモンの象徴です。この絵じたいがワイン製造業者の家に飾られたものとも言われています。
大プリニウスは、ポンペイのワインは深酒すると翌日に残りやすいと書き残しています。
当時のワインはアルコール度数が16~18度と高く、ふつう水で割って香辛料や海水や石灰などの添加物で味や色を調整していたそうです。今とずいぶん違いますね。


単把手付きガルム(魚醤)用小アンフォラ 1口 1世紀 ポンペイ、「ファウヌスの家」出土 土器 ナポリ国立考古学博物館所蔵

ガルムは魚を発酵させて作る調味料で魚醤の一種です。
イタリアでは現在でもアンチョビの副産物として製造されているものがあります。
魚醤はかつて日本でも一般的な調味料でしたが、仏教の影響もあって次第に大豆を原料とする醤油が広く使われるようになったと言われています。
現代の日本では目にする機会が少ないですが、秋田の「しょっつる」のように親しまれている地域があります。
ローマ世界ではこのガルムをいろいろな料理に用いていました。
ガルムには発酵によりグルタミン酸が多く含まれており、いわゆる「うま味」が強く作用したことが当時の人々に好まれた理由のようです。

当時の食生活に触れておくと、裕福な人々の家では台所で奴隷たちがさまざまな料理を作っていました。


目玉焼き器、あるいは丸パン焼き器 1個 1世紀 ヴェスヴィオ山周辺出土 ブロンズ ナポリ国立考古学博物館所蔵

そうではない多くの人々は、食堂(テルモポリウム)で食事を食べたり料理を買って持ち帰ったりして食べていたようです。
ちなみに特別展会場のうち第2会場入り口に設けてあるグッズ売場は、2020年末にポンペイ遺跡で実際に発掘された食堂をイメージしてデザインしています。

水は誰でもふんだんに使うことができました。
紀元前1世紀、イタリア半島を縦断するように位置するアペニン山脈を源とする上水道がポンペイにも引かれてきます。
上水は街のいちばん高いところにあるヴェスヴィオ門わきの浄水場でろ過されたのち、鉛製の水道管で街じゅうの水汲み場に運ばれました。
ただし下水道は存在せず、生活排水は道路の側溝などに流されていました。


水道のバルブ 1個 1世紀 ポンペイ出土 ブロンズ ナポリ国立考古学博物館所蔵
鍛冶組合の管理のもと、工業製品には高い技術が用いられていました。

いかがでしょうか?ポンペイの街と歴史を理解するのに少しでもお役に立てたなら幸いです。
さて、次回からは「そこにいた」人々の生き様を語る出品作品にクローズアップしましょう。

カテゴリ:「ポンペイ」

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posted by 山本亮(考古室研究員) at 2022年01月31日 (月)

 

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