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藤原行成の書

藤原行成(ふじわらのこうぜい、972~1027)は、平安時代の「三跡」の一人とされる能書(のうしょ、書の巧みな人)で、日本風の書である和様の書を大成させた人として、また平安から鎌倉時代に流行する書流・世尊寺流の祖としても尊敬されてきました。日本の書の歴史にとって、とても重要な人物である藤原行成。その書を本館特別1室で特集しています。(特集「藤原行成の書 その流行と伝称」2016年8月23日(火)~10月2日(日))

国宝 白氏詩巻
国宝 白氏詩巻 藤原行成筆 平安時代・寛仁2年(1018)

これは、藤原行成の代表作とも言える「白氏詩巻」。これまでにもご紹介してきましたが、何度見てもいいです!筆を少し傾けた筆法のため丸みを帯びた文字になっており、それなのに堂々として迫力もあり、さらに楷書と行書の使い分けに趣向が凝らされていて、圧巻です。

藤原定信筆 跋語
跋語国宝「白氏詩巻」巻末 画像左半分)藤原定信筆 平安時代・保延6年(1140)

行成の「白氏詩巻」の巻末には、このような跋語(ばつご)が付いています。藤原行成の玄孫である藤原定信(ふじわらのさだのぶ、1088~1154~?)が、この行成の書を物売りの女から購入したことを記しています。手に入れた喜びから書いたのでしょうか?

重要文化財 書状
重要文化財  書状 藤原行成筆 平安時代・寛仁4年(1020) 個人蔵

次は行成の唯一の書状です。書状というのは、とても個人的なもののはずですが、この書状は、墨の濃淡や楷書、行書、草書の配置が絶妙で、芸術品とも言える仕上がりになっています!

重要文化財  添状
重要文化財  添状(藤原行成筆書状附属)尊円親王筆 鎌倉時代・建武元年(1334) 個人蔵

行成の書状にも、このような添状が付いています。行成の書を褒め称える内容です。しかも、この添状を書いたのは、江戸時代に大流行する御家流の祖ともいえる尊円親王(そんえんしんのう、1298~1356)です。尊円親王も行成を尊敬していたのですね。

安宅切
安宅切 伝藤原行成筆 平安時代・12世紀

これは、伝称筆者を藤原行成とする「安宅切」です。今回の特集では、伝藤原行成筆の「升色紙」や「大字和漢朗詠集切」などの古筆切もご紹介します。この「安宅切」の書は、行成の一系である世尊寺流の書風とよく似ているため、行成の書とされたのでしょうか。

安宅切 安宅切
左:安宅切(見返し)冷泉為恭の書き込み(中央)と下絵
右:冷泉為恭の書き込み部分拡大


「安宅切」には、この図版のように冷泉為恭(1823~64)の書き込みがあります。「安宅切」を冷泉為恭が所蔵して、装丁し、その台紙に下絵を描きました。復古大和絵派の絵師として有名な冷泉為恭も、行成の書を大切にしていたといえるでしょう。

さまざまな人が尊敬し、大切に伝えてきた藤原行成の書。行成の直筆の書とともに、行成の書風をよく真似ている作品や、伝藤原行成筆の古筆切をたくさんご紹介いたします。平安時代に一世風靡した行成の書をぜひご覧ください。

関連事業
ギャラリートーク「三跡・藤原行成の尊重」2016年8月30日(火) 14:00 ~ 本館特別1室
 
 

カテゴリ:研究員のイチオシ書跡特集・特別公開

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posted by 恵美千鶴子(150年史編纂室主任研究員) at 2016年08月26日 (金)

 

清国踏査游記の行程をたどる

平成館企画展示室で開催中の特集「清国踏査游記―関野貞・塚本靖が撮影した史跡写真」(9月4日(日)まで)では、清朝末期に中国を踏査した2人の人物、東京帝国大学(現・東京大学)の関野貞と塚本靖が撮影した写真46点を展示しております。

さて、展覧会名にあります「游」には旅行する、他国へ行くという意味があります。関野と塚本が清国を訪れた20世紀初頭には、お隣の国、中国へ渡航するのも、決して楽ではありませんでした。関野と塚本は河南省の省都、鄭州(ていしゅう)から本格的な踏査を開始しました。日本から鄭州まで、当時はどのくらいの日数がかかったでしょうか?塚本靖の「清国内地旅行談」『東洋学芸雑誌』第25巻第321号(明治41年)を参考に、日本から鄭州までの行程を追ってみましょう。

塚本一行は、日本郵船会社の相模丸に乗船して明治39年9月12日に神戸港を出港、14日に門司(もじ)、15日に長崎、16日に韓国の釜山(ぷさん)、18日に韓国の仁川(じんせん)、20日に清国山東省煙台の芝罘(しふう)、そして22日の午前3時に天津の塘沽(とうこ)沖に投錨し、6時に蒸気船に転乗して8時30分に塘沽に到着。税関の検査を終え、食事をしてから汽車に乗り、午後6時20分に北京の南門外の停車場に到着しました。その後、北京に一週間ほど滞在して、10月1日に北京と漢口を結ぶ京漢鉄道で鄭州に向かいました。乗車時間は22時間です。
現在では、成田─鄭州間の直行便が週3日就航し、4時間ほどのフライトで鄭州に行くことも可能です。しかし、清朝末期には日本から鄭州へ行くには船や汽車を乗り継いで10日以上もの日数を費やさなければなりませんでした。

一行は、鄭州から西安へ向けて出発しますが、移動には車を利用しました。写真をご覧ください。「轎車(きょうしゃ)」は騾馬(らば)を2頭繋いだ二輪馬車。「大車」は轎車よりも大きく、馬を3頭繋いだ二輪馬車で、荷物も大量に積めます。

轎車

大車


「一輪車」は主として荷物を運搬するために用いますが、人が乗ることもでき、道幅の狭い場所を通過するのに便利だったそうです。乗り心地は、実に想像よりも悪いもので、最初2、3日は身体が痛み、頭はポーとして疲労が著しかったそうですが、一週間以上も旅行すると、慣れて善い心持になり、車中で昼寝を貪るようにさえなったそうです。

一輪車


写真はキャビネ版の小さな世界ですが、1枚の写真に、撮影に至るまでに費やした時間や苦労が凝縮されていることをお感じいただければ幸いです。


図版出典:塚本靖「清国内地旅行談」『東洋学芸雑誌』第25巻第324号(明治41年)より


 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 関紀子(登録室研究員) at 2016年08月10日 (水)

 

根付と置物-象牙彫刻の伝統

「アイボリー」といえば象牙のようなごく淡いクリーム色を指すように、象牙の白い色は独特です。素材としての象牙の特徴にはまず、このわずかに黄味を帯びた優しい白色と、「粘り」ともよばれる弾力性をあげることができるでしょう。この二つの特質により、象牙には世界中で装飾・彫刻材料として珍重された歴史があります。

今回の特集展示「根付と置物-象牙彫刻の伝統」(2016年6月7日(火)~7月31日(日)、本館14室)でも、この象牙ならではの白色を生かした作例が多数を占めていますが、近現代の作品には、彩り豊かなものも間々見られます。特に近年テレビ番組などでも取り上げられ、人気が急上昇したのが、卓越した着色技術により野菜や果物などの形や色、質感の全てを見事に再現した安藤緑山(1885~1955?)の作品です。ここでは展示品の中でも、象牙を彫刻してから色彩を加えた作品に注目してみましょう。

といっても、象牙に色を定着させるのは至難の技なのです。江戸時代の牙彫根付ではしばしば、「矢車染め(やしゃぞめ)」という象牙を薄い茶色や肌色に染める技法が使われています。「矢車」とはタンニンを多く含む夜叉五倍子(やしゃぶし)の実のことで、いわゆる草木染めの一種です。

鼠捕牙彫根付 線刻銘「明實」
鼠捕牙彫根付 線刻銘「明實」 江戸時代・19世紀
全体を染めあげてから、角や丸みの部分を磨いてグラデーションをつけ、立体感を強調しています。

臼兎牙彫根付 線刻銘「蘭亭」
臼兎牙彫根付 線刻銘「蘭亭」 江戸時代・18世紀 郷誠之助氏寄贈
木製品である臼と杵の部分を淡い茶色に染めて、兎の白と対比させています。
 
常盤牙彫根付 線刻銘「光廣」
常盤牙彫根付 線刻銘「光廣」 江戸時代・19世紀 郷誠之助氏寄贈
着物や笠、下駄の部分を薄い茶色に染め、顔や腕などの肉身部は白いままで表現しています。

正倉院宝物などに見るように、奈良時代には日本にも象牙を赤・紺・緑などに染める技術が伝わりましたが、その後途絶えてしまいました。江戸時代にはこの技術の復興が試みられ、赤や緑に染めた象牙の櫛などが見られます。しかし飾り櫛と違って、根付は着物や手で擦れるためでしょうか、赤や緑に染められた牙彫根付は少ないです。

鬼面牙彫根付 線刻銘「壽玉(花押)」
鬼面牙彫根付 線刻銘「壽玉(花押)」 明治時代・19世紀 郷誠之助氏寄贈
全体を肌色に染め、頭部や頬の部分を赤く、濃淡をつけて染めています。

てんとう虫 
てんとう虫 村松親月 (1934~) 作 平成11年(1999) 高円宮コレクション
象牙が深紅と漆黒に染め上げられています。作者は、象牙を赤・紺・緑などに染めてから文様をはね彫りする「撥鏤」技法の復元を成し遂げました。


牙彫鷹置物
牙彫鷹置物 金田兼次郎作 明治25年(1892) シカゴ・コロンブス世界博覧会事務局
白鷹の羽毛は象牙の白無垢で、脚の皮膚は茶色く染めて表現されています。

明治時代中頃までの牙彫置物は、このように象牙の白さをそのまま生かした作品が多かったのですが、大正期に入ると、冒頭で触れた安藤緑山のような人が出てきて、総天然色ともいうべき牙彫置物が登場します。

桜桃
桜桃 安藤緑山 (1885~1955?) 作    大正時代・20世紀     高円宮家蔵
桜の枝葉や軸など極薄く細い部分まですべて象牙彫刻で表わし、卓越した着色技術とあいまって、まさに実物と見紛うばかりです。

柿
 吉村竜渓作    明治~大正・20世紀     高円宮家蔵
作者は金田兼次郎門下の牙彫家で、明治後期から大正時代にかけて活躍しました。当時は安藤緑山の他にも、こうした着色作品を制作する作家がいたことが分かります。


こうしたリアルな着色作品は、象牙彫刻の文脈を知らずにご覧になる方にはまず、象牙製とは思われないことでしょう。ただし、本物そっくりのみずみずしい色彩表現は、象牙の表面に思い通りの色を定着させる難しさはあっても、象牙と言う白い素材だからこそ、可能になったことです。象牙という稀少素材の特質について、思いを廻らせながら、展示をご覧いただけますなら幸いです。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 竹内奈美子(登録室長、貸与特別観覧室長) at 2016年07月07日 (木)

 

特集「平成27年度新収品展II」のみどころ

みなさまのご協力により、昨年度もトーハクにたくさんの新収品を迎えることができました。今回はそのうち購入した作品の中から特集「平成27年度新収品展II」(2016年5月31日(火)~7月10日(日)、平成館企画展示室)の展示を開催します。

住吉物語絵巻断簡
住吉物語絵巻断簡 紙本着色 鎌倉時代・13世紀

こういった作品を迎えるにあたって、トーハクでは必ず会議を行って検討します。私は書を研究しているので、絵画には詳しくないのですが、会議では担当の研究員がみどころを解説しますので、とても勉強になります。このブログでは、担当研究員の解説に、プラスして私なりにお勧めするポイントをお知らせしたいと思います。

住吉物語絵巻断簡 拡大
住吉物語絵巻断簡 拡大

展示ケースに入ってしまうと、なかなか細部を見られないので、まずは拡大をご覧ください。衣裳の文様まで細かく描かれていますよね…。これは、『住吉物語』を描いた絵巻のうち、現存する一番古いものだそうです。この作品に連続する場面がアメリカ・メトロポリタン美術館(バーク財団寄贈)に所蔵されるほか、トーハクにも巻子本(重要文化財、本館3室にて、6月19日(日)まで展示中)、掛幅本(重要美術品)もあります。とても貴重な絵巻の一枚、茶の湯の席などで掛けられて鑑賞されてきたのでしょうか。

玄圃瑤華
玄圃瑤華 伊藤若冲自画自刻 江戸時代・明和5年(1768)

最近、おとなり東京都美術館の展覧会で大人気だった、若冲の作品です。なんと、若冲が自ら版木を彫って作ったもので、これ以外に現存するのは3件のみだそうです。「玄圃瑤華」(げんぽようか)という名称には、「玄圃」は仙人の居どころ、「瑤華」は玉のように美しい花という意味があり、凝った名前ですよね。モノクロの画面で若冲独特の表現がされていて、担当研究員も「ミュージアムグッズにしたい」と言ってましたが、私も、この図のハンカチが欲しいです。

吉野宮蒔絵書棚
吉野宮蒔絵書棚 江戸時代・18世紀

吉野宮蒔絵書棚 拡大
吉野宮蒔絵書棚 拡大

こちらも拡大画像で。「秋津」の文字が見えますか?この装飾は書にも関係の深い「葦手」(あしで)です。「葦手」は、もとは仮名の書体のひとつで、水や岩などの絵の中に文字を隠して表したものです。この書棚では、『万葉集』巻一で、持統天皇が吉野へ行幸した際に柿本人麻呂が詠んだ和歌を表現しており、金銀、珊瑚象嵌を使った図柄に書が溶け込んでいて、絢爛たる風景となっています。この蒔絵の技法は、徳川綱吉の時代に流行したものだそうです。

展示ではほかの作品もご紹介しますが、どれも、貴重な作品ばかりです。縁あってトーハクに迎えることができましたので、展示でご覧いただきながら調査研究を進め、今後の100年も1000年も伝えられるように、大切にしていきます。みなさま、引き続きのご理解とご協力を、よろしくお願い申し上げます。
 

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posted by 恵美千鶴子(150年史編纂室主任研究員) at 2016年05月31日 (火)

 

新知見! 伊東マンショの肖像に隠されたドラマ

こんにちは、保存修復室の瀬谷愛です。

5月17日(火)の公開以来、多くの皆様がマンショ君に会いに来てくださっています。ありがとうございます!

 
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展示風景
本館7室は、いつもとちがう雰囲気です。

マンショ君。皆様のイメージどおりでしたでしょうか。
それとも、意外とイケメン? 平たい顔族じゃない? 画家のフィルターがかかっている?
色々なご意見があると思います。

歴史上の人物たちはどんな顔をしていたのか?
写真のない時代について、肖像画はその問いに答えてくれます。
ですが、肖像画を発注できる人は高位の人物だけ。
経済的な問題だけでなく、その肖像を残すだけの地位、価値、意味がないといけません。
伊東マンショも、もし使節としてヨーロッパに行かなければ、その姿が描かれることはなかったでしょう。

さらに、伊東マンショの肖像については、
5月18日(水)九段下のイタリア文化会館で開かれたシンポジウム「イタリアと日本、初めての出会い」で発表された、ヴェネツィア・カ・フォスカリ大学セルジオ・マリネッリ教授のお話によれば、

「1577年、ヴェネツィア元老院の大部分が大火災によって焼失し、会議室を飾る絵画を補う必要があった。とくに、ヴェネツィア共和国の威容を誇示するような、海外使節団の絵画を。」

ということなのです。

感動しました・・・マリネッリ先生のお話が始まって、たった3分で。

例えば、ドゥカーレ宮殿に伝わる、ヴェロネーゼによる「ニュルンベルグからの使節団の絵」や、同じくヴェロネーゼ工房による「ペルシャ使節団の絵」などと同様に、多くの国との交流を表す、象徴的な絵画が必要だったというわけです。

そこへ、地球の裏側から、日本人がやって来る、ヤア、ヤア、ヤア!
描かないわけには参りませんよね。

 
伊東マンショの肖像 
伊東マンショの肖像 
ドメニコ・ティントレット筆 1585年
ミラノ、トリヴルツィオ財団 Fondazione Trivulzio - Milano


では、この肖像は、肖像画制作のどの段階にあるものなのでしょうか?

その問いには、次のような結論でした。

「ドメニコ・ティントレットの肖像画の描き方というものがある。大きな肖像画を描く際、まず、個別に「下絵」を作り、集団肖像画に転写した。像主を前にしてほぼ下書き無しでサッと描かれて、フレッシュな印象になる。そして、大きな肖像画に転写するのは、工房の画家の仕事であるから、クオリティは低下する。伊東マンショの肖像は、大きな絵から切り取ったものではなく、ドメニコ自身による、この「下絵」の肖像画であろう。完成した絵であるとともに、より大きな絵の「下絵」ともいえるものだ」

感動しました・・・最初の感動から7分後。
まさに、これぞ、美術史講義の醍醐味です。


「ティントレットが描いた」と聞けば、美術好きの方はたいへん驚かれるでしょう。
そして、「息子のドメニコ」と聞くと、「なんだ、息子か」と。

しかし、いわゆるティントレットは、16世紀ヴェネツィアで非常に大きな工房を構えており、受注した絵画は工房で制作していました。先生によれば、「父の陰に隠れがちであるが、ドメニコは非常に優れた肖像画家だった」そうです。
伊東マンショが描かれた1585年、父ヤコポは69歳になっており、この頃には息子のドメニコ(25歳)が多くを製作していたと考えられています。

16歳のマンショと25歳のドメニコ。
東西の若者の結晶が、ここにあるのです。


最後に、立派な集団肖像画になるはずのものが、なぜ完成しなかったのか?

「1598年、ローマ教皇庁がフェラーラ公国を教皇領とし、ヴェネツィア共和国の自治も終わらせようとした。これにより教皇庁とヴェネツィア共和国の対立が深まり、1602年、イエズス会は以後40年間にわたってヴェネツィアから追放された。イエズス会の象徴でもあった天正遣欧少年使節の肖像画は、これにより注文が取り消されたのだろう」

ということでした。

こうして、ティントレット工房に残された伊東マンショの肖像は、17世紀初頭のファッションに描き変えられ、やがて売却された、というわけです。

このたいへん壮大なドラマを知った後でマンショ君を見ると、「苦労したね・・・」とまた嘆息がもれます。
一度ご覧になった方も、以上をふまえましてもう一度、ご覧いただけますと幸いです。


展示情報

特別公開「新発見!天正遣欧少年使節 伊東マンショの肖像」(2016年5月17日(火)~7月10日(日)、本館7室)

 

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posted by 瀬谷 愛(保存修復室主任研究員) at 2016年05月26日 (木)