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清国踏査游記の行程をたどる

平成館企画展示室で開催中の特集「清国踏査游記―関野貞・塚本靖が撮影した史跡写真」(9月4日(日)まで)では、清朝末期に中国を踏査した2人の人物、東京帝国大学(現・東京大学)の関野貞と塚本靖が撮影した写真46点を展示しております。

さて、展覧会名にあります「游」には旅行する、他国へ行くという意味があります。関野と塚本が清国を訪れた20世紀初頭には、お隣の国、中国へ渡航するのも、決して楽ではありませんでした。関野と塚本は河南省の省都、鄭州(ていしゅう)から本格的な踏査を開始しました。日本から鄭州まで、当時はどのくらいの日数がかかったでしょうか?塚本靖の「清国内地旅行談」『東洋学芸雑誌』第25巻第321号(明治41年)を参考に、日本から鄭州までの行程を追ってみましょう。

塚本一行は、日本郵船会社の相模丸に乗船して明治39年9月12日に神戸港を出港、14日に門司(もじ)、15日に長崎、16日に韓国の釜山(ぷさん)、18日に韓国の仁川(じんせん)、20日に清国山東省煙台の芝罘(しふう)、そして22日の午前3時に天津の塘沽(とうこ)沖に投錨し、6時に蒸気船に転乗して8時30分に塘沽に到着。税関の検査を終え、食事をしてから汽車に乗り、午後6時20分に北京の南門外の停車場に到着しました。その後、北京に一週間ほど滞在して、10月1日に北京と漢口を結ぶ京漢鉄道で鄭州に向かいました。乗車時間は22時間です。
現在では、成田─鄭州間の直行便が週3日就航し、4時間ほどのフライトで鄭州に行くことも可能です。しかし、清朝末期には日本から鄭州へ行くには船や汽車を乗り継いで10日以上もの日数を費やさなければなりませんでした。

一行は、鄭州から西安へ向けて出発しますが、移動には車を利用しました。写真をご覧ください。「轎車(きょうしゃ)」は騾馬(らば)を2頭繋いだ二輪馬車。「大車」は轎車よりも大きく、馬を3頭繋いだ二輪馬車で、荷物も大量に積めます。

轎車

大車


「一輪車」は主として荷物を運搬するために用いますが、人が乗ることもでき、道幅の狭い場所を通過するのに便利だったそうです。乗り心地は、実に想像よりも悪いもので、最初2、3日は身体が痛み、頭はポーとして疲労が著しかったそうですが、一週間以上も旅行すると、慣れて善い心持になり、車中で昼寝を貪るようにさえなったそうです。

一輪車


写真はキャビネ版の小さな世界ですが、1枚の写真に、撮影に至るまでに費やした時間や苦労が凝縮されていることをお感じいただければ幸いです。


図版出典:塚本靖「清国内地旅行談」『東洋学芸雑誌』第25巻第324号(明治41年)より


 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 関紀子(登録室研究員) at 2016年08月10日 (水)