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1089ブログ

一遍と歩く 一遍聖絵にみる聖地と信仰

こんにちは、保存修復室主任研究員の瀬谷愛です。

10月10日(土)リニューアルオープンの遊行寺宝物館で特別展「国宝 一遍聖絵」をご覧になられた皆様、たいへんお待たせいたしました。
東博でも特集「一遍と歩く 一遍聖絵にみる聖地と信仰」(11月3日(火・祝)~12月13日(日)、本館特別1・2室)が始まりました。

展示風景

遊行寺(清浄光寺)さんの特別展は、現在、全12巻の展示(展示されるのは一部分ずつ)ですが、11月19日(木)から神奈川県立金沢文庫、21日(木)から神奈川県立歴史博物館と3館に分かれて、4巻ずつ、より長く多くの場面が展示されるようになります。

東博を含めて4館をまわると、「一遍聖絵」全12+1巻、全場面がみられるという、まさに夢の一遍祭り!なのです。

展覧会ポスター

さて。
東博の特集は、東博本「一遍聖絵」(巻第七、国宝)と天保11年(1840)に狩野晴川院養信の弟子たちが写した「一遍聖絵」模本をとおして、一遍が訪れた聖地ゆかりの美術をご覧いただくという企画です。

模本だからとあなどってはいけません。ほら。

「一遍聖絵」模本
さすが、晴川院の弟子です。

そして、今回のイチオシは、こちら!

経筒
(左)陶製外筒  和歌山県田辺市本宮町備崎 熊野本宮経塚出土 平安時代・保安2年(1121)
(右)銅製経筒  平安時代・12世紀


写真だといまひとつ実感がわかないかもしれませんが、展示室でご覧になると驚きますよ!

一遍が重要な悟りを得た和歌山県・熊野本宮(備崎)出土の経筒で、現存する日本最大の経筒+外容器です。
銘文によれば、大般若経600巻を50巻ずつ12個の容器に収めたといいます。これがあと11個あったはずなのですが、今はどうなっているのか知ることができません。

これがどのようなところに埋められていたかというと・・・

大斎原
左が、明治22年(1899)の水害まで本宮があった大斎原。右の、熊野川を挟んだ対岸が備崎です。備崎は、吉野と熊野本宮をつなぐ「大峯奥駆道」のスタート/ゴール地点。修験にとってもとても重要なポイントというわけです。


聖絵でみると、このへんです。

現地を訪れると、その理由が身体感覚として伝わってくるような気がします。ぜひ、秋の旅行に、皆様にオススメしたい聖地です。


さて、話は変わりますが、

「遊行寺(清浄光寺)と東京国立博物館と、どちらに本物の第七巻が出るのですか?」

というご質問が最近よく寄せられています。

答えは、

「どちらも「本物」です。」

もとは1巻だったのですが、これがいつしか分断され(絵巻にはよくあることです)、模写で補われつつ、2巻に仕立てられました。

東博本は、第1~4段の絵と第4段の詞書が正安元年(1299)の原本で、第1段の詞書だけが写しです(第2・3段の詞書はありません)。
遊行寺(清浄光寺)本は、第1~3段の詞書が原本で、第4段の詞書と第1~4段の絵が江戸時代の写しです。この写しもたいへんよく描かれていて、一見原本のようにみえます。

分断の明確な時期はわかっていません。
東博本は原三溪(1868~1939)旧蔵品で昭和25年(1950)に東博に入ったものですが、三溪が書きのこした記録によれば、もともと嘉永5年(1852)に京都町奉行として着任した浅野梅堂(1816~80)が所有していたものといいます。その梅堂が京都三条橋修理の参考資料として京都・歓喜光寺から巻第七を借り出し、返却せぬまま亡くなって、所有が転々としたそうです。

そのとき何が起きたのか?

いろいろな可能性が考えられます。思いつくままに列記すれば、
1)もともと巻第七だけは正副2巻あり、浅野梅堂が片方を借りた/買った。
2)浅野梅堂が借りた後、歓喜光寺に内緒で、絵師に模写させてつぎはぎの2巻にし、片方を原本に見せかけて返却した。
3)浅野梅堂が借りた後、歓喜光寺に相談の上、絵師に模写させてつぎはぎの2巻にし、片方を買った。

三溪の存命中には、梅堂が巻第七を「借りてすりかえた」という噂があったようです。たしかに、梅堂は東洋書画を愛好し、収集・鑑定をしていた記録があります。13世紀に水墨技法を駆使した「一遍聖絵」はまさに手に入れたい、お好みの絵巻だったことでしょう。

しかし、ふたつの巻第七の絵はすみずみまで同じというわけではありません。

例えば、有名な市屋での踊り念仏の場面。

一遍聖絵 巻7 原本
これは正安元年(1299)の原本です。

一遍聖絵 巻7 遊行寺(清浄光寺)本
遊行寺(清浄光寺)本では、留書が写されていません。

一遍聖絵  模本
狩野派の天保11年(1840)ではしっかりと写されています。


こんな明らかに目に付くところが違うものを、知らん顔で返すでしょうか・・・。

巻第七が当館所蔵となったとき、鷹巣豊治氏は「歓喜光寺本十二巻中の第七は詞書第一第二第三だけが原本で、他は晴川院の模写で補ってある」と記しています(「博物館新収品 重要文化財 一遍上人絵伝」『MUSEUM』6号(昭和26年・1951))。

その根拠までは明らかにされていないのですが、晴川院筆とすれば、その没年は弘化3年(1846)ですから、分断の時期もおのずと限られてきます。ただし、そのときはまだ梅堂は京都町奉行に着任していません・・・。

巻第七の分断をめぐる真相は、引き続き浅野梅堂と晴川院というふたりの重要人物をたどるのが、目下の近道のようです。



関連事業
月例講演会「一遍とたどる日本の聖地と時宗の文化財」 2015年11月7日(土) 13:30~15:00  平成館大講堂
ギャラリートーク「一遍とみる聖地と信仰」 2015年12月1日(火) 14:00~14:30  本館 特別2室

 4館共同一遍聖絵スタンプラリー「一遍と歩こう」(神奈川県立歴史博物館のウェブサイトへリンクします)

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 瀬谷 愛(保存修復室主任研究員) at 2015年11月06日 (金)

 

考古展示室、見どころガイド(旧石器~弥生時代)

平成館考古展示室がリニューアルオープンしてはや10日が過ぎました。
みなさん、足を運んでいただけましたでしょうか。

今回は私、品川が担当する旧石器時代から弥生時代までの見どころをご紹介したいと思います。
考古展示室は、通史展示と個別のテーマを取り上げたテーマ展示から構成されています。
壁沿いを反時計回りに見ていく通史展示が本線。
これから外れたテーマ展示が支線、いや寄り道とでもいえるでしょうか。



まずは通史展示から。
壁沿いのケースを見ると、ひと目でどの時代か分かるように、旧石器時代では黒曜石の原石、縄文時代では大形の石棒(せきぼう)、弥生時代では銅鐸(どうたく)というように、それぞれの時代を象徴する作品を各時代の目印として展示しています。
実は黒曜石の原石や大形の石棒、平成館考古展示室では初めて展示するものです。
大きさや形だけではなく、素材そのものがもつ質感にも注目してください。

黒曜石原石
北海道遠軽町出土
旧石器時代(後期)・前18000年
個人蔵



石棒
(左)出土地不詳 徳川頼貞氏寄贈
(右)山梨県富士川町平林出土 保坂長治郎氏寄贈
2件とも縄文時代(中期)・前3000~前2000年



突線鈕4式銅鐸
静岡県浜松市北区三ヶ日町釣(分寸)出土
弥生時代(後期)・1~3世紀



縄文時代は弓矢や土器が発明され、人びとが定住し始めた時代です。
この時代の土器は、縄目を使った模様をもつものが多いことから縄文土器と名づけられています。
縄文時代の通史展示では、時代の名どころとなった縄文土器の変遷をご紹介しています。
縄文土器の代表例の一つといえば火焰型土器(新潟県・信濃川流域で盛行)が著名ですが、ほぼ同じ頃に関東地方で盛行するのが勝坂(かつさか)式土器です。
縄文時代の通史展示では勝坂式土器の基準資料である東京都国分寺市多喜窪(たきくぼ)遺跡第1号住居跡出土土器を新たに展示しました。
火焰型土器とはひと味もふた味も異なるこれらの土器のなかには、蛇体表現をもつ土器もあります。
また多喜窪遺跡第1号住居跡から出土した土器は縄文時代の考古資料としてはじめて一括指定された重要文化財でもあります。縄文時代の通史展示では、千姿万態ともいえる縄文土器の造形を存分にお楽しみください。

多喜窪遺跡第1号住居跡の出土土器


火焰型土器
伝新潟県長岡市馬高出土
縄文時代(中期)・前3000~前2000年
本館1室で展示中(12月23日(水・祝)まで)



縄文時代の通史展示を見ていると、きっと土偶(どぐう)や銅鐸がおのずと目に入ってくるはずです。
その先にあるのがテーマ展示。縄文時代と弥生時代では7つのテーマ展示をご用意していますので、積極的に寄り道していってください。
縄文時代や弥生時代の実用的な道具とともに、装身具や祈り・祭りに使われた道具を取り上げています。


ときおり展示室の様子をのぞきにいきますが、ケースのガラスに鼻が触れた痕跡がしばしばついているのを発見します。
その痕跡の先にあるのはわが館でも人気者の土偶。
今回のリニューアルでは、土偶の展示している場所を、通史展示からテーマ展示へと変更しました。
新たに土偶を展示しているケースでは、これまでよりもずっと間近で土偶とその仲間たちをご覧いただけます。


縄文時代の土偶はこれまで2万点ほど発見されていますが、各時期の土偶はもちろん、後期を代表するハート形土偶や筒形土偶、山形土偶やみみずく土偶を展示しています。
ハート形土偶やみみずく土偶はみなさんにもお馴染みのもの。
新居に引っ越した土偶たちに会いに来てください。

(左)筒形土偶
神奈川県横浜市 稲荷山貝塚出土
縄文時代(後期)・前2000~前1000年
個人蔵
(右) 重要文化財 ハート形土偶
群馬県東吾妻町郷原出土
縄文時代(後期)・前2000~前1000年
個人蔵



いつも見慣れているものでも、少し展示している場所が変わるだけで印象が変わることがよくあります。
今回のリニューアルではこの銅鐸、いつも見慣れている私たちでも大きくなった? と口にしてしまうほどです。

重要文化財 突線鈕5式銅鐸
滋賀県野洲市小篠原字大岩山出土
弥生時代(後期)・1~3世紀


通称「大岩山1号銅鐸」とも呼ばれる日本最大の銅鐸で、最も新しい段階の銅鐸です。
高さ約134cm、重さ約45kgと、小学5・6年生と同じくらいの大きさでしょうか。


テーマ展示「弥生時代の祭りの道具―銅矛、銅剣、銅戈と銅鐸―」

銅鐸は弥生文化を特徴づける青銅器です。
20cm前後の小さな「かね」として誕生した銅鐸は、徐々に大きくなるとともに、鳴り物としての性格を変え、祭器しての役割を高めていきます。
当館の弥生時代の青銅器コレクションは日本随一のもの。こちらもぜひお見逃しなく。

考古展示室の作品は本館の作品と比べて、とってもはにかみ屋です。
いつもよりも作品に一歩近づいて、ゆっくりとリニューアル後の考古展示室をお楽しみいただければと思っています。

カテゴリ:研究員のイチオシ考古展示環境・たてもの

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posted by 品川欣也(特別展室主任研究員) at 2015年10月23日 (金)

 

漢・唐時代の陶俑

東洋館3階の5室では、12月23日(水・祝)まで特集「漢・唐時代の陶俑」を開催しています。

展示風景
展示会場風景

陶俑とは、兵士・召使・芸人などのさまざまな人物や動物の姿を写したやきものの像のことです。古来中国の人々は死後も霊魂が存在すると信じ、親や先祖の霊魂が不自由なく暮らせるよう心を砕き、こうした像を作って墓に副葬してきました。本格的な始まりは、紀元前5世紀の春秋戦国時代まで遡ります。
その後、各時代の風俗や流行をも形に写した陶俑は、時代ごとの異なる特徴と魅力を具えるようになりました。なかでも、漢時代(前206~後220)の陶俑は素朴な造形のなかに文化の成熟を、唐時代(618~907)の陶俑は華やかさのなかにシルクロードを通じて伝わった西方諸国の影響を認めることができます(写真下)。
本特集は、トーハクの所蔵もしくはお預かりしている陶俑のなかでも、優品の多い漢・唐時代の作例を選りすぐり、一堂に集めて紹介するものです。

加彩女子と三彩女子
左:加彩女子 前漢時代・前2世紀 高さ57.0㎝ 広田松繁氏寄贈
右:三彩女子 唐時代・8世紀 高さ14.3㎝ 横河民輔氏寄贈


さらに、今回の特集では、トーハクをはじめとする日本の博物館や美術館が陶俑を蒐集してきた経緯についても光を当てます。
陶俑は20世紀初頭に中国河南(かなん)省の墳墓から偶然出土したのを契機に、骨董市場に流出し、おもに欧米の人々が競って求めました。日本の市場では、墓の出土品であり、また、伝統的な茶道具と馴染まないものだったため、陶俑はなかなか受けいれられませんでした。
そのようななか、陶俑をいちはやく評価したのが大正・昭和に活躍した実業家や芸術家でした。本特集では、横河民輔(よこがわたみすけ、1864~1945)、中野欽九郎(なかのきんくろう、1863~?)、大倉喜七郎(おおくらきしちろう、1882~1963)といった実業家ゆかりの陶俑のほか、山口蓬春(やまぐちほうしゅん、1893~1971)、安田靫彦(やすだゆきひこ、1884~1978)、小林古径(こばやしこけい、1883~1957)などの作品に描かれた陶俑に注目し、静物画の画題や歴史画の考証資料として陶俑を愛蔵した画家たちの慧眼に迫ります。会場では、上記した画家たちの作品(パネル)と、画中の陶俑および陶俑を参考にして描いた人物に似た類例を並べて展示します。


山口蓬春筆「三彩俑」と三彩女子
左:山口蓬春筆「三彩俑」写生 昭和31年(1956)60.8×35.8㎝ 紙本・鉛筆、色鉛筆 神奈川県立近代美術館蔵(画像提供:公益財団法人 JR東海生涯学習財団)
右:三彩女子 唐時代・8世紀 高さ43.7㎝ 鈴木榮一氏寄贈

 

小林古径筆「唐俑」と加彩舞女
左:小林古径筆「唐俑」昭和25年(1950) 85.0×55.0㎝ 紙本着色 山種美術館蔵(画像提供:山種美術館)
右:加彩舞女 唐時代・7~8世紀 高さ38.5㎝ 広田松繁氏寄贈


本特集の会期中、10月27日(火)には平成館2階の展示室で特別展「始皇帝と大兵馬俑」が開幕します(2016年2月21日(日)まで)。
始皇帝(前259~前210)の作らせた兵馬俑もまた、長い歴史をもつ中国の陶俑の一種ですが、等身大の大きさ、服のしわや髪の櫛目といった細部まで徹底的に写した造形は、他の時代の陶俑にはない特徴です(写真下左)。このほか、兵馬俑に先行して戦国時代の秦で作られた小型の陶俑も展示します(写真下右)。
今秋のトーハクでは、戦国・秦時代から唐時代まで陶俑の流れを一気に概観することができます。始皇帝の兵馬俑がもつ圧倒的な写実表現と、漢・唐時代の陶俑がそなえる洗練された美の両方を堪能できる、めったにない機会をお見逃しなく。

将軍俑と騎馬俑
左:将軍俑 秦時代・前3世紀 高さ195.0㎝ 中国陝西省臨潼区秦始皇帝陵1号兵馬俑坑出土 秦始皇帝陵博物院蔵

(C)陝西省文物局・陝西省文物交流中心・秦始皇帝陵博物院
右:騎馬俑 戦国時代・前4~前3世紀 高さ22.0cm 中国陝西省咸陽市塔児坡28057号墓出土 咸陽市文物考古研究所蔵
(C)陝西省文物局・陝西省文物交流中心

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開博物館でアジアの旅

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posted by 川村佳男(平常展調整室主任研究員) at 2015年10月08日 (木)

 

東洋の白磁の起源―中国・6世紀の鉛釉陶と白磁

東洋館5室にて開催中の特集「東洋の白磁―白をもとめ、白を生かす」(12月23日(水・祝)まで)。
東京国立博物館では「描くやきもの―奔放なる鉄絵の世界(東洋の鉄絵)」(2007年)、「東洋の青磁」(2012年)と、中国、朝鮮、日本、東南アジアのやきものを一堂に集めて、その魅力を紹介する特集を企画してきました。今回の特集は「東洋のやきもの」特集第3弾です。

白磁はやきものの国、中国で生まれました。

その白い胎土は硬く焼き締まり、水をほとんど通しません。清潔感があってどんな料理にも合い、使いやすさからいまや私たちの日常の食卓に欠かすことのできないうつわです。また、ガラスのように薄く軽く、光を受けて輝く姿は、華やかな饗応の場でも見劣りすることはありません。そして青花や五彩といった色彩豊かな磁器の礎であることは言うまでもありません。

うつわの王ともいうべき白磁を白磁たらしめるもの、それは透明釉(とうめいゆう)と真っ白な胎土(たいど)です。

釉は、土をかためてうつわをつくり、高火度で焼き締めた際、燃料の灰がうつわに降りかかって偶然に生じたと考えられています。それははるか昔、商(しょう)(殷(いん))王朝の時代のこと。当時の釉はムラがあり、鉄分や不純物を含んで全体に緑色や茶色を帯びていました。水を通さず、素地をより清潔で堅牢なものにし、さらにガラスのように表面をつややかに美しくみせるという役目にはまだまだ未熟なものでありました。

精製された白い胎土に、不純物をできるだけ取り除いた釉が掛かった白いやきものが登場したのは、それから2000年も経った6世紀頃のことです。このときつくられたのは、白い素地に低火度釉の鉛釉(なまりぐすり)の透明釉を掛けた鉛釉陶と、白い素地に高火度釉の透明釉を掛けた白磁、この2種類に大きく分けることができます。

2010年(平成22)に開催された夏季特別展「誕生!中国文明」を皆様覚えていらっしゃるでしょうか。夏(か)王朝誕生の地であり、商(殷)が拠点を置き、以降東周(とうしゅう)、後漢(ごかん)、魏(ぎ、三国時代)、西晋(せいしん)、北魏(ほくぎ)と歴代の王朝が都を構えた歴史上きわめて重要な地として知られる中国・河南(かなん)の出土遺物を集めた展覧会でした。

展覧会が開かれる前年、同僚の研究員らとともに私ははじめて河南省を訪ねました。中国陶磁を専門にする私の担当は、鄭州(ていしゅう)と洛陽(らくよう)で唐三彩を調査すること。とくに洛陽は唐時代、長安(西安)にならび栄えた都市。唐の貴人墓からは三彩が大量に出土し、程近い鞏義(きょうぎ)では窯址も見つかっています。まさに唐三彩の中心地に降り立ったのでした。

しかし、三彩や五彩のように華やかに彩られたやきものよりも、白や黒、青といった単色のやきものにどうしても惹かれてしまう私(専門は青磁です)。鄭州にある河南博物院の展示室のなかでもっと面白いものはないかとぶらぶら歩いていたところ、ある一画に目を奪われました。北斉(ほくせい、550~577)の高官、范粹(はんすい)の墓(安陽市)から出土した鉛釉の白いやきものと、隋(ずい、581~61)の官吏であった張盛(ちょうせい)の墓(安陽市)から出土した白磁です。

張盛墓出土女子俑
張盛墓出土女子俑(中国・河南博物院にて。本特集には展示されていません)
張盛墓からは、特別展「誕生!中国文明」に出品された白磁鎮墓獣(ちんぼじゅう)・武人俑のほかに100件近くの動物や人物の俑が出土しました。こちらの加彩の女子俑の手には香炉や盤、茶碗のようなさまざまなうつわが見え、当時の上流階級者のゆたかな生活の様子をうかがうことができます

張盛墓出土明器
張盛墓出土品(中国・河南博物院にて。本特集には展示されていません
張盛墓からは大量の俑に加え、壺や瓶、灯、碗のほか、井戸やかまど、倉などのミニチュアもたくさん見つかりました。この画像にみるうつわはみな白い素地にやや緑色を帯びた高火度の透明釉が掛かっており、中国では「青瓷(せいじ)」と報告されていますが、この釉が精製されてより透明に近づくとまさに白磁とよぶべきものです


范粹墓出土三彩三耳壺
范粹墓出土三彩三耳壺(中国・河南博物院にて。本特集には展示されていません
この作品は
特別展「誕生!中国文明」に出品されたもの。胎土は白いですが、胴部の途中まで白土で化粧をし、鉛釉の透明釉を掛け、さらに肩から緑釉を細く流し掛けています

これらは大量の副葬品で注目を集めただけでなく、中国白磁の展開を知るための「教科書」のような、研究者にとっては憧れの存在。なぜならば6世紀、北斉や隋の高貴な人々に強くもとめられた「白い」やきものは、その後中国陶磁が造形・装飾ともに大きく進化し、人々の生活にひろく浸透してゆく直接的な祖であり、基盤になったといえるものです。その象徴が范粹と張盛、二人の墓の出土品なのです。

今回の特集では、北斉、6世紀の白釉陶が3点出品されています(常盤山文庫(ときわやまぶんこ)所蔵 白釉突起文杯・三彩瓶・三彩四耳壺)。三彩の2点は化粧をしておりませんが、范粹墓出土の三彩三耳壺によく似ていることがわかります。緑や黄、藍などの色釉を掛けて彩る三彩は、白い素地にこそ映えるもの。これらは、唐三彩の前段階の三彩と位置づけることができます。

三彩瓶・三彩四耳壺・白磁四耳壺
(左) 白磁四耳壺  中国 唐時代・7世紀 個人蔵
(中) 三彩四耳壺 中国 北斉時代・6世紀   常盤山文庫蔵
(右) 三彩壺 中国 北斉時代・6世紀   常盤山文庫蔵

奥にならぶのは、個人蔵の白磁四耳壺。7世紀に位置づけられるもので、白く硬い胎にやや緑色を帯びた高火度焼成の釉が掛かっています。こちらは前述の張盛墓から出土した「青瓷」に雰囲気がよく似ています。鉛釉の白いやきものと白磁、展示室で見比べてみてください


これらのほかにも、展示では唐、宋、元時代の白いやきもの、ベトナム・日本・朝鮮の白いやきものなど、表情ゆたかな白いうつわをたくさん集めました。「博物館でアジアの旅」(9月29日(火)~10月12日(月・祝))の機会に、中国にはじまる白磁技術の伝播をたどりながら、それぞれ異なる見どころをぜひ見つけてお楽しみいただきたいと思います。



参考文献:拙稿「白い器を求めて―河南における白磁の展開―」『誕生!中国文明』展覧会図録、『常盤山文庫中国陶磁研究会 会報3 北斉の陶磁』2010

 

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posted by 三笠景子(東洋室研究員) at 2015年09月28日 (月)

 

何度でも楽しめる! 遮光器土偶の美に注目

土偶(どぐう)とは縄文時代を代表する祈りの道具。粘土で作られた人形(ひとがた)で、縄文時代を代表する造形物としても人気があります。
当館で土偶といえば、教科書でもおなじみの青森県つがる市木造亀ヶ岡出土の遮光器土偶(以後、亀ヶ岡土偶と呼ぶ)が有名ですが、当館にはこれに匹敵する遮光器土偶の名品が所蔵されています。
それが、本館1室で展示中の宮城県大崎市恵比須田出土の遮光器土偶(以後、恵比須田土偶と呼ぶ)です。


重要文化財 遮光器土偶(亀ヶ岡土偶)
青森県つがる市木造亀ヶ岡出土
縄文時代(晩期)・前1000~前400年
遮光器土偶だけではなく、日本の土偶代表ともいえる土偶です。
1887(明治20)年に学界に報告され、広く知られるようになりました
※現在は九州に出張中のため展示されていません(九州国立博物館で開催の特別展で展示予定)。



重要文化財 遮光器土偶(恵比須田土偶)
宮城県大崎市田尻蕪栗字恵比須田出土
縄文時代(晩期)・前1000~前400年
本館1室 ~11月23日(月・祝)
亀ヶ岡土偶(晩期中葉)に年代的に先行する恵比須田土偶(晩期前葉)。
遮光器土偶は年代が新しくなるとともに、首が長く、胴が短く、腰が幅広に体の表現は変化していきます


恵比須田土偶は足先を欠くものの、ほぼ完全な形が残る希少なもの。
しかも、遮光器土偶としては大形のものです。
実はこの土偶、1943(昭和18)年に畑の耕作中に石囲いの中から偶然発見されました。
近来、いわゆる優品と呼ばれる大形で造形的にも優れた土偶が、遺構(住居や墓など過去の人びとが残した痕跡)から出土し、土偶の謎を解明するうえで注目されています。
「中空土偶」や「合掌土偶」、そして「縄文のビーナス」や「仮面の女神」といった愛称をもつ国宝土偶もその一例です。
多くの土偶が破片として出土するなかで、特別な扱いをされたこれらの土偶は、縄文時代の人びとの祈りの形を強く表わしたものといえます。

そもそも、遮光器土偶とは、縄文時代晩期(前1000年~前400年)の東北地方を中心に盛行した土偶です。
大きな特徴的な目の表現が遮光器(スノーゴーグル)に似ていたことから遮光器土偶と呼ばれるようになりました。
遮光器土偶の見どころは、極端にデフォルメされた体の表現とともに、全身に施された文様です。
縄文を施した部分と無地の部分と描き分けることで装飾効果を高めた磨消縄文手法を用い、多彩な文様が全身を覆うように表現されています。

 
恵比須田土偶の胴部(左:オモテ/右:ウラ)

一見複雑なこの文様、無地の部分に注目すると線対称と点対称とをうまく組み合わせて、三叉文や弧線文などの文様を配置していることがわかります。
そのルールがあるために、多彩な文様は煩雑に見えず、調和した印象を与えるのです。
ユーモラスな顔にデフォルメされた体、そして緻密な文様と何度も楽しめる、この遮光器土偶。
縄文人の祈りや想いとともに、そのデザインの妙も合せてお楽しみいただければと思います。

10月14日には平成館考古展示室がリニューアルオープンします。
展示室ではハート形土偶やみみずく土偶などさまざまな土偶たちが皆様をお出迎えいたします。
考古展示室のリニューアルにも、ぜひご期待ください。

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 品川欣也(特別展室主任研究員) at 2015年09月21日 (月)