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1089ブログ

能の裏側体験!

トーハクは、多くの能面、能装束を収蔵しており、現在、本館14室では特集「能面 女面の表情」(10月4日(日)まで)を、本館9室では「能「紅葉狩」にみる面・装束」(11月3日(火・祝)まで)という展示を行っています。
600年以上、大切にその歴史を紡ぎ、伝えられてきた日本の文化であり、総合芸術と評される能。
でも能って、知っているようで知らない。よくわからない。
残念ながらそんな存在かもしれません。
能面や能装束に至っては、どれも同じにみえる、という声をよく耳にします。
もちろん、本当はいろいろな種類があって、それぞれの造形には個性が感じられます。

その魅力をお伝えし、トーハクの能面や能装束をもっと楽しんでもらいたいと思い、企画されたのが、その名もずばり、ワークショップ「能の裏側体験!」です。
能舞台のないトーハクでは本格的な能をご覧いただくことはできません。
でも能で使われる能面や能装束を間近で見られる博物館であることを活かし、客席からではわからない能の裏側の体験をし、楽しみ親しむ時間となりました。

ワークショップを開催した9月12日。東京は久しぶりの晴天でした。
講師は観世流シテ方能楽師 浅見慈一氏。
「能って何?」という質問に、わかりやすく答えてくださいました。
「600年前から続く、日本のミュージカル」
「能面をつけるのもおおきな特徴です」
「山や海などの背景はお客さんが想像しないといけない。みんなの想像力が必要な演劇ですね」

浅見氏インタビュー



展示室で室町時代や江戸時代につくられた能面を見ます。

展示見学

「よく見てごらん。何歳くらい?どんな性格?話せるとしたら何と言いそう?下から見たり、上から見たりしてごらん。」
こんなふうに声をかけるといろんな声が上がります。

「意地悪そう」「悲しそう」「お母さんと同じくらいの年!」「下から見ると顔変わった!」
見方によって表情が変わったように見えたり、性格を細やかに表現していたりします。
立体の彫刻である能面をじっくり見る楽しみを感じてもらえたかな。


さあ、それでは能面をかける体験、能の基本動作「ハコビ」の体験です。

お稽古

能楽師の浅見慈一さんと小早川泰輝さんが楽しく教えてくれ、真剣にお稽古スタートです。
好きな能面をかけて、立ち上がり、歩いてみます。
能面をかけると視野は通常の10パーセントになるといいます。だからこそ足を摺って足裏の感覚をたよりに歩くんだという浅見さんの言葉にみんな納得。

「ハコビ」のお稽古

小早川さんのわかりやすく楽しいお話を聞きながら扇を持って「ハコビ」のお稽古。
小早川さんの動きは軽やかに見えますが、私たちがやってみるとうまくはいきません。
その動きが実は大変な運動だと気づきました。能の舞台に立つって大変・・・
舞台ではさらに能面をかけるんですよね。あ、舞台では当然、重い衣裳も着けるんですよね。

どんなふうに着るのか、浅見さんがモデルとなって見せてくれました。
着付も大変そう・・・ 
みんなでお手伝いしました。
衣裳や鬘に触れるなんて、貴重な経験です。

着付



そして最後に、能「巴」の一場面を見せてくれることに。
博物館には能舞台がありませんのでワークショップ特別バージョン。
浅見さんがひとりで巴を演じ、小早川さんがひとりで謡をしながら後見までしてくれました。
印象的なストーリーと舞を見て、参加者はみんな引き込まれていきます。

能「巴」

能面は能に使う道具です。
これをかけると、自分ではない「役」に変身することが出来ます。
いろいろな便利な道具が出来ても変わらずに、いまもひとつひとつ木でつくられています。
無表情の代名詞に使われることがありますが、じつは能楽師の演技によって表情豊かに見せることができます。
それをねらっての造形ともいえるでしょう。
しかも能楽師にとって命よりも大切なものとして代々伝えられるそうです。
ひとつひとつの造形美を楽しむことも大切ですが、やはり能楽師にどう使われ、どう伝えられてきたかを知ることで、よりその造形を理解できるような気がします。
参加者のみなさんは、どう思われましたか?
浅見慈一さん、小早川泰輝さん、ありがとうございました。

 

カテゴリ:研究員のイチオシ教育普及

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posted by 川岸瀬里(教育普及室) at 2015年09月17日 (木)

 

「クレオパトラとエジプトの王妃展」研究員のおすすめ作品(4)

「クレオパトラとエジプトの王妃展」第2章「華やかな王宮の日々」では、白い壁紙の展示室で王とその家族を支えた人々の姿と華やかな装飾品を鑑賞した後、赤い壁紙で統一された部屋へと入っていきます。



ここは「グラーブのハーレム」コーナー。
グラーブとは、マディーナト・グラーブと呼ばれている遺跡のことで、新王国時代には王宮を伴う町がありました。
発掘された王宮に属する建物の大部分は、王家の女性たちが暮らした「ハーレム(後宮)」であったとされています。

このグラーブが最初に発掘されたのは、今から100年以上も前、1889年のことでした。
発掘したのは有名な考古学者、フリンダース・ペトリーです。

当時の考古学は「お宝探し」の側面が強かったのですが、ペトリーは、土器のかけらなど、美術品としての価値がほとんどない出土物であっても、記録を残し、資料として出版しました。
それらを分類して分析するなど、学問としての考古学の基礎を作った人物です。
日本で最初の考古学講座は1916年に京都大学に設置されますが、その初代教官は、ロンドンでペトリーに師事した浜田耕作でした。
ペトリーは日本における考古学の誕生と、その後の発展にも大きな影響を与えたのです。

「グラーブのハーレム」コーナーに戻りましょう。
ここではペトリーが発掘したたくさんの出土物が展示されています!
エジプト考古学の黎明期を示す展示作品をいくつか、ペトリーの出版した報告書とともにご紹介しましょう。

 
左:双耳長頸壺/右:青色彩文土器
グラーブ出土
新王国・第18~19王朝時代(前1550~前1186年頃)
マンチェスター博物館蔵
(C)Manchester Museum, The University of Manchester


ペトリーは、グラーブの墓から出土したこれらの土器の実測図を作成して出版しています。
印をつけたものが上の2件の作品の実測図ですが、おわかりでしょうか?

W. M. F. Petrie, Kahun, Gurob, and Hawara, London, 1890, Pl. XXI.

次は「ハーレム」で暮らした高貴な女性たちも使ったであろう品々です。


ファンアンス容器
グラーブ出土
新王国・第20王朝時代(前1186~前1069年頃)
マンチェスター博物館蔵
(C)Manchester Museum, The University of Manchester


ロータスに水鳥というエジプトらしい絵柄が描かれたこの美しい壺は、香油の容器だったと考えられます。
「鐙壺(あぶみつぼ)」と呼ばれるミケーネ土器を模倣した容器です。
当時、高級オイルや香油はエーゲ海地域で生産され、「鐙壺」に入れられて、エジプトにも輸出されていました。

ちなみに、本場の「鐙壺」はこちら。

ミケーネ考古学博物館蔵

アーチ状の把手が、馬具の鐙のように見えるので、「鐙壺」と呼ばれます。
この把手とは別に、注ぎ口が取りつけられている点が特徴です。
人差し指と中指で把手を持ち、親指でその真ん中を抑え、中身の液体を注ぎ出しました。

特別展で展示されている作品は、エジプトで製作されたもの。
当時、「鐙壺」はおしゃれな容器として定着していました。
そこで、エジプトのファイアンス職人は、「鐙壺っぽい」ファイアンス容器を作ったのです。
「鐙壺っぽい」と書きましたが、実はこのファイアンス容器、独立した注ぎ口がなく、把手の中央部が注ぎ口になっている「似て非なるもの」。
鐙壺の機能よりも雰囲気が大事だったのでしょうか。

ペトリーの報告書ではこのように描かれています(左上の図)。

W. M. F. Petrie, Illahun, Kahun, and Gurob, London, 1891, Pl. XX.

手描きならではの味がありますね。
ちなみに左下も展示作品で、「女性スフィンクスが描かれたファイアンス容器」(No.88)です。


 
左:ガラス容器/右:ペトリーの報告書の図(Petrie 1991, pl.XVIII:19 )
グラーブ出土
新王国・第18~19王朝時代(前1550~前1886年頃)
マンチェスター博物館蔵
(C)Manchester Museum, The University of Manchester


このガラス容器も香油などを入れるためのおしゃれな容器でした。
粘土などでつくった芯に、ガラス棒を巻きつけて作られた容器です。
表面の文様も、溶けた色ガラスの棒を巻き付け、固まる前に引っ掻いて作り出されたもの。
素材となったガラス棒はこのようなものです。


色ガラス断片
エジプト出土
新王国~初期イスラム時代・前16世紀~後8世紀頃
百瀬治氏・富美子氏寄贈
東京国立博物館蔵(現在は展示されていません)


古代エジプトでは、色ガラスは宝石と同様でした。
例えばツタンカーメン王の黄金のマスクも、青色ガラスで彩られています。
このガラス容器のかたちもまた、エーゲ海やシリア・パレスチナ地域で生産され、輸出されていた壺の形を模したものです。本来は把手が2つついていたと思われます。

「グラーブのハーレム」コーナーの注目作品をもう1つご紹介します。No.78「王妃ティイの供物台」です。


王妃ティイの供物台
グラーブ出土
新王国・第18王朝時代 アメンヘテプ3世治世(前1388~前1350年頃)
マンチェスター博物館蔵
(C)Manchester Museum, The University of Manchester


本展覧会が注目する王妃の一人であるティイが、夫アメンヘテプ3世のために用意した供物台で、刻まれた碑文からは、強い絆で結ばれていた夫への愛情を感じ取れます。
ペトリーもこの供物台の資料的価値を評価し、供物の絵柄とヒエログリフがはっきりわかるスケッチを出版しています。

Petrie 1891, Pl. XXIV

クラーブは湖と豊かな自然を満喫できるファイユーム・オアシスへの入口に位置します。
ここに王宮を建設したのはトトメス3世(治世:前1479~前1425年頃)。
グラーブの王宮は、王にとってはリラックスして過ごせる離宮でした。
王がグラーブに滞在したのは1年のうちのわずかな期間だったと推測されます。

そうすると、王が不在の間、ハーレム(後宮)の女性たちは何をしていたのでしょうか。
実は彼女たちは、機織りなどの仕事を持っていたことが知られています。
つまり、ハーレム(後宮)には王室の工房としての側面がありました。
生産されていた、薄くて白い亜麻布は、当時は貴重で高価なものでした。
出土した碑文から、「機織りの長」という称号を持つ女性がいたことがうかがえます。
クラーブでも紡錘車や糸玉など、亜麻布生産に関連する出土物が多数出土しています。


左:紡錘車/右:糸玉
グラーブ出土
新王国・第18王朝時代(前1550~前1186年頃)
マンチェスター博物館蔵


「クレオパトラとエジプトの王妃展」で展示中のグラーブ出土品の大部分は、マンチェスター博物館からお借りしています。
実はこれらの品々、マンチェスター大学が資料として保管しているもので、同大学博物館で展示されている作品ではないのです。
ということは・・・本展覧会は、「グラーブのハーレム」で発掘された出土物をまとまって鑑賞できる大変貴重な機会!
会期終了まであと1週間とちょっと。まだご覧になられていない方は、ぜひ展覧会へお急ぎください。

カテゴリ:研究員のイチオシ2015年度の特別展

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posted by 小野塚拓造(特別展室) at 2015年09月14日 (月)

 

春日の神々に出会う

いま、本館の特別1室では、「春日権現験記絵模本Ⅱ―神々の姿―」と題する特集を行なっています(10月12日(月・祝)まで)。
この特集は、奈良市に鎮座する春日大社に祀られる神々の利益と霊験を描く春日権現験記絵模本の魅力とともに、春日信仰の諸相を様々な角度からご紹介する2回目の試みです。昨年は「美しき春日野の風景」をテーマに、描かれた聖地・春日野の風景や、美しい朱塗りの社殿などから、春日の神々への多様な信仰をご紹介しました。今回は「神々の姿」をテーマとしていますが、展示場面を見ていく前に、この絵巻模本についてご紹介しておきましょう。

今回展示している春日権現験記絵模本の原本=春日権現験記絵は、三の丸尚蔵館が所蔵する全20巻の絵巻です。鎌倉時代の後期、時の左大臣西園寺公衡の発願により、高階隆兼という宮廷絵所絵師によって描かれました。通常紙に描かれることの多い絵巻としては異例の絹に描かれおり、数ある絵巻作品の中でも最高峰の一つに数えられています。
江戸時代の半ば頃になると、こうした貴重な絵巻の模本を作ろうという動きが活発化してきます。今回展示しているのは、紀州(和歌山)藩主徳川治宝の発案により、林康足、原在明、浮田一蕙、冷泉為恭、岩瀬広隆といった復古やまと絵師たちによって写されました。模写にあたっては大変な苦労があったことが、附属の目録に記されています。

 春日権現験記絵(模本)目録 長澤伴雄筆
春日権現験記絵(模本) 目録 長澤伴雄筆 江戸時代・弘化2年(1845)
模写プロジェクトを任された長澤伴雄が、模写の経緯を記しています。様々な苦労を経て完成した際の興奮がほとばしります。


さて、話を今回のテーマ「神々の姿」に戻しましょう。
この絵巻では、春日の神々は様々な姿で人の前に姿を現わしています。とりわけ多いのが人の姿。春日社の主な祭神は、本殿に祀られる武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)とともに、若宮(わかみや)をあわせた五柱の神です。武甕槌命、経津主命、天児屋根命は男神であるため束帯姿で、比売神は女神であるため女性の姿で、また若宮は御子神とされるため童子の姿で人びとの前に顕現しています。

春日権現験記絵(模本)巻第10
春日権現験記絵(模本)巻第十
樹上で舞を舞う束帯姿の春日明神。

春日権現験記絵(模本)巻第十
春日権現験記絵(模本)巻第十
雲に乗る女性姿の春日明神。

春日権現験記絵(模本)巻第十四  冷泉為恭他模  江戸時代・弘化2年(1845)
春日権現験記絵(模本)巻第十四

老僧の膝の上に乗る童形の春日明神。


こうした人の姿とともに、仏の姿でも顕現する場面もあります。日本の神とは、仏が仮の姿で現われたとする「本地垂迹説」という考え方がその背景にあります。

春日権現験記絵(模本)巻第十一
春日権現験記絵(模本)巻第十一
春日三宮が地蔵菩薩の姿で現われたところ。



さて、こうした様々な姿で人びとの前に現われる春日の神々ですが、場面を追っていくといくつか特徴的な点が見えてきます。その一つが、いくつかの例外を除き神の顔を描いていない点です。後ろ向きに描かれる場合はもとより、時に霞や樹木、建物を不自然なまでに配し、神の顔を描かないことに配慮しています。ここには、神の姿を顕わに描くことに対するはばかりがあったと考えられています。

春日権現験記絵(模本)巻第七
春日権現験記絵(模本)巻第七
画面には春日の二柱の神が描かれていますが、見つけられますか?樹木によってそのお顔が隠されています。



もう一つの特徴が、人が神に出会うタイミングが夢の中だということです。昼日中に堂々と、神が人の前にその姿を現わすことはほとんどありません。漆黒の夜の闇の中にこそ、人が神と出会う舞台が用意されていると言うことができます。

春日権現験記絵(模本)巻第十五
春日権現験記絵(模本)巻第十五
伊勢の斎宮の前に現われた春日明神。みなぐっすりと眠っています。


こうした夢以外の、神と出会う重要な場面は人が死に直面した時です。この絵巻では臨終の場面で神に出会う話や、いったん地獄に堕ちた人間が春日明神のおはからいによって救済された話なども描かれています。

春日権現験記絵(模本)巻第六
春日権現験記絵(模本)巻第六
春日明神のおかげで地獄行きを逃れた男。春日明神の案内でこれから地獄ツアーに向かいます。


そして、神々に出会うために何よりも重要なのは、春日の神々への深い崇敬の念です。この絵巻を見た人びとも、神との縁を結ぶため、敬神の思いを新たにしたことでしょう。
今回の展示では、春日の神々の描かれた場面を特に選んで展示するとともに、神と仏が一体化した信仰形態を示す画像も展示しています。

春日本地仏曼荼羅
春日本地仏曼荼羅 鎌倉時代・13世紀(2015年9月23日(水・祝)まで展示)
春日野の景観とともに、春日の神々の本来の姿であるとされる仏(本地仏)の姿を描きます。


神々の姿は本来目に見えないものとされます。ですが、どうしても「見たい」という人びとの強い思いによって「神々の姿」は画像として表わされました。
幕末やまと絵師たちの画技とあわせ、多様な「神々の姿」をご覧になりに、是非とも展示室にお運び下さい。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 土屋貴裕(平常展調整室主任研究員) at 2015年09月11日 (金)

 

「クレオパトラとエジプトの王妃展」研究員のおすすめ作品(3)

「クレオパトラとエジプトの王妃展」で開催したキッズデーでは、何人かの子どもたちから古代エジプトのレリーフについての質問がありました。
レリーフとは、浮彫りとも呼ばれる平面を彫り込んで図像や装飾を表わしたものです。

今回の特別展では、数多くのレリーフが出品されていますが、「アメンヘテプ3世の王妃ティイのレリーフ」(No.140)はその代表。
これらのレリーフは本来、王宮や神殿などの壁を飾り、彩り与えていました。
古代エジプトのレリーフは、いずれも目が魅力的。
王妃ティイの瞳もまるでこちらを見つめているようです。


アメンヘテプ3世の王妃ティイのレリーフ
テーベ西岸、ウセルハト墓(TT47)出土
新王国・第18王朝時代 アメンヘテプ3世治世(前1388~前1350年頃)
ブリュッセル、王立美術歴史博物館蔵
(C)RMAH



さて、子どもたちからの質問はというと「どうしてレリーフのなかの人物はみんな横向きなの?」というものでした。
子どもたちの素直な発見にうれしくなり、一緒にレリーフのなかの登場人物のまねてみますが、うまくできません。
そこで初めて、子どもたちに古代エジプトのレリーフの表現方法のルールを説明しました。
古代エジプトのレリーフに表わされた人物は、顔や腕や足は横向き、目や肩は正面から表現されています。つまり、視点が一定ではなく、表現された人物の特徴が最もよく表された部分を組み合わせて描かれているのです。
さらに頭、胴、足の大きさの比にも規則があることで、レリーフのなかにたくさんの人物が登場しても整然とした印象を与えるのです。
さまざまな場面や物語をレリーフに表わすために、このような方法が古代エジプト美術では発展しました。

たくさんの人物が登場するレリーフの例として「王の養育係の長メリラーと王子のレリーフ」(No.68)を見てみましょう。


 
王の養育係の長メリラーと王子のレリーフ
(写真下左:レリーフ上段/写真下右:レリーフ下段)
サッカラ出土
新王国・第18王朝時代 アメンヘテプ3世治世(前1388~前1350年頃)
ウィーン美術史美術館蔵
Kunsthistorisches Museum Vienna


上下に2段に、ふたつの場面を表すレリーフ。
上段ではメリラーが妻と神に捧げものをする場面、下段には王子を育む場面が表現されています。


本展で皆さんを最初にお迎えするレリーフが「ラメセス2世のレリーフ」(No.9)です。

ラメセス2世のレリーフ
新王国・第19王朝時代 ラメセス2世治世(前1279~前1213年頃)
滋賀・MIHO MUSEUM蔵


地にはレリーフの表面を整えた際のノミ痕がうっすらと残る一方で、弓をひくラメセス(ラムセス)2世の姿が丁寧に彫られています。
ラメセス2世は王権を守護するウアジェト女神を象徴するコブラのついた青冠を被り、頭上には聖蛇ウラエウスがついた日輪が表現されています。
この日輪と青冠には当時の赤と青の彩色が残されています。

ラメセス2世は、ラメセス大王とも呼ばれる古代エジプトを代表するファラオです。
世界史の教科書では、ヒクソスとのカデシュの戦いの後、世界最古の国際条約である講和条約を結んだ王として登場することから、みなさんもご存知かと思います。
60年を超える長い治世の間に多くの神殿や記念物そして彫像を作った王としても著名です。
なかでも、よく知られるのがアブ・シンベル大神殿です。
そして愛する王妃ネフェルトイリのためにアブ・シンベル小神殿もつくりました。

本展では、古代エジプトのレリーフが数多く出品されています。
子どもたちの発見を参考に、ご覧になってみてください。

カテゴリ:研究員のイチオシ2015年度の特別展

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posted by 品川欣也(特別展室主任研究員) at 2015年09月04日 (金)

 

「クレオパトラとエジプトの王妃展」研究員のおすすめ作品(2)

「クレオパトラとエジプトの王妃展」はおもしろい。

これまでのエジプト展といえば、どこに行ってもファラオ、ファラオ、ファラオ。
もうそろそろファラオ展はいいだろう。
むしろ近年研究が進んできた王妃や女王に焦点を当て、新たな視点で古代エジプトを俯瞰してはどうか。
これが今回の企画の出発点だった。

王妃・女王といえばクレオパトラ(クレオパトラ7世)。
よし、クレオパトラ展だ!
しかし、大きな問題あり。
クレオパトラに関するモノが圧倒的に少ない。これはクレオパトラのお墓が発見されていないことや彼女が住んでいた王宮が海に沈んでしまったからともいわれる。
では、クレオパトラ以外の王妃・女王たちにもご登場いただこう。

しかし、強敵がいた。
昨年、東京都美術館で開催された「メトロポリタン美術館 古代エジプト展 女王と女神」。
先を越されたか?!
でも、待てよ。この展覧会はメトロポリタン美術館の所蔵品のみで構成されたもの。
これに対し、当方は世界14ヵ国から集められた作品群で構成。文字通り世界中から王妃・女王に関する作品を集めたものだ。コンセプトは似て非なるもの。
気を取り直し、みんなでがんばった成果がこの特別展。
そして、実際展示されている作品も王妃や女王のものだけではない。ここに彼女たちを取り巻く男たちの物語も仕込まれている。それが最後の展示室で展開されているのだ。

ここには、クレオパトラを取り巻く3人の男たちの肖像が並ぶ。
まずはカエサル(No.169)。

カエサル
ローマ時代(前27~前20年頃) イタリア出土
ヴァチカン美術館蔵


言わずと知れたローマの英雄。しかし、巷では「ハゲの女たらし」「借金王」そして「遅咲きの英雄」などと揶揄されたともいう。
前髪を垂らしたその髪型は、後に「シーザーカット(カエサルカット)」と呼ばれ、ヨーロッパでは古くから男性の典型的な髪型の一つとして定着。
この像は老練な軍人・政治家としてのカエサルを表現したものとされるが、その表情からは「ハゲの女たらし」までを読み取ることはできない。
権力闘争に敗れ、一時王位を失ったクレオパトラはローマの時の権力者カエサルに保護を求める。
カエサルは彼女の魅力、知性に呑み込まれたのか、彼女を援護し、見事、エジプトの女王に復活させる。
クレオパトラに魅せられ、メロメロになったなどといわれるカエサルであるが、彼女を正式な「妻」とすることはなかった。
彼は彼女を政治的に利用したに過ぎないとする説すらある。
カエサルはクレオパトラをあくまで「愛人」としてクールに愛したのではないか。
これぞ大人の恋の駆け引きか。

次に、アントニウス(No.170)

アントニウス
ローマ時代(後1世紀頃) イタリア出土
ヴァチカン美術館蔵


カエサルの部下として数々の戦いで活躍。共和政ローマの軍人であり政治家。
帝政ローマのギリシア人著述家プルタルコスは、「アントニウスは威厳に満ちたオーラを放ち、張りでた額や高い鼻はヘラクレスを思わせる男性的な力強さをもっていた」と記している。
この表現にぴったりなのが、このアントニウスの像だ。

紀元前44年にカエサルが暗殺されるとクレオパトラはこのアントニウスに近づく。
そしてカエサル同様、アントニウスもクレオパトラの虜になり、彼女と運命を共にする。
No.173の銀貨の表裏それぞれに刻まれた二人の肖像が端的に当時の二人の関係を物語っている。
 
クレオパトラとアントニウスの銀貨
(左)クレオパトラ (右)アントニウス
プトレマイオス朝時代 クレオパトラ7世治世(前51~前30年)
シリア出土
古代オリエント博物館蔵


アクティウムの海戦で大敗したアントニウスとクレオパトラ。クレオパトラは先にアレキサンドリアに撤退。
これを追ってアントニウスもアレキサンドリアへ。そこでアントニウスはクレオパトラの死を告げられる。
しかし、これは誤報。そうとも知らず彼は失意のうちにクレオパトラの後を追うかたちで自殺。
男の美学がここにある。
これを知ったクレオパトラはそのおよそ10日後、オクタウィアヌスのはからいを受け入れず、自害。
39年の生涯を終える。

最後に、オクタウィアヌス(No.171)。

オクタウィアヌス
ローマ時代(前30年頃) ローマ出土
大英博物館蔵


カエサルはクレオパトラとの間に儲けたカエサリオンではなく、養子であるこのオクタウィアヌスを後継者とした。
先にも記したように、アクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラを敗り、二人を死に追いやり、古代エジプト最後の王朝、プトレマイオス朝を終わらせた男。この像は理想化された若きオクタウィアヌス。
その表情はきわめて冷静。
彼は若い頃は病弱で、いつも腹巻・襟巻・毛の帽子を離さず、薬も持ち歩いていたという。
しかし、意志力と決断力は優れていたといわれる。
この力こそ、後にローマ帝国初代皇帝として君臨するアウグストゥスを生んだのである。

このオクタウィアヌスは他の二人の男たちのようにクレオパトラに惚れなかったのか。
もうクレオパトラなど何の役にも立たず、と切り捨てたのか。
逆に、クレオパトラも女を武器に彼に近づかなかったのか。
いや、愛するアントニウスを死に追いやった憎き敵将になど心許せるはずはなかったか。
多くの疑問が頭をよぎる。

いずれにせよ、自ら死を選んだクレオパトラ。
クレオパトラはこうした男たちがいたからこそ歴史に名を遺す女王として古代エジプトに君臨したのである。

世の女性たちよ。この展覧会は、いかに女性が偉大なる存在であるのかを確認するものであるが、こうした三者三様の男たちの物語もどうぞお忘れなく。

最後にカエサルの名言、「来た、見た、勝った!」をもじり、この展覧会を次の言葉で締めくくるとしよう。
「来た、見た、よかった!」

カテゴリ:研究員のイチオシ2015年度の特別展

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posted by 井上洋一(学芸企画部長) at 2015年08月28日 (金)