呉昌碩の書・画・印 その2 「呉昌碩が刻した不折の印 ~その1~ 」
台東区立書道博物館の連携企画「呉昌碩の書・画・印」(~2011年11月6日(日))をより深くお楽しみいただくための連載企画をお届けします。
今日は第2回目です。
明治~昭和初期にかけて活躍した画家であり、書家であった中村不折(なかむらふせつ、1866~1943)は、日本および中国の書の歴史を考える上で重要な資料を独力で収集し、書道博物館(現・台東区立書道博物館)を創設した収蔵家でもありました。その資金を捻出するため、不折は実に多くの書画作品を制作しましたが、書画作品には、姓名や字号、成語などを刻した印が必要になります。不折は作品の大小、あるいは書風に応じて数ある自用印の中から最適な印を使い分けていました。そしてその中には呉昌碩(ごしょうせき、1844~1927)が刻した「豪猪先生(ごうちょせんせい)」白文方印(はくぶんほういん)(以下、「豪猪先生」)と「邨鈼(むらさく)」朱文(しゅぶん)方印(以下、「邨鈼」)が含まれています。
豪猪先生とは不折の別号です。
豪猪先生
(全期間台東区立書道博物館にて展示)
邨鈼とは、不折の本名である中村鈼太郎(さくたろう)(昭和3年に不折に改名)、の村(村は篆書では邨につくる)と鈼を取って印文としたものです。
邨鈼
(全期間台東区立書道博物館にて展示)
どちらも、縦横3.3センチ。高さ5.5センチ、茶褐色の石材で、
「豪猪先生」には「老缶(ろうふ)」、
老缶
(全期間台東区立書道博物館にて展示)
「邨鈼」には「缶(ふ)」と、
缶
(全期間台東区立書道博物館にて展示)
呉昌碩の号がそれぞれ印材上面に側款(そっかん)として刻されています。
呉昌碩は日下部鳴鶴(くさかべめいかく、1838~1922)をはじめとして、日本人の印を精力的に刻しています。特に70歳前後には犬養毅(いぬかいつよし、1855~1932)、富岡鉄斎(とみおかてっさい、1836~1924)、内藤湖南(ないとうこなん、1866~1934)、長尾雨山(ながおうざん、1864~1942)などの依頼を受けています。呉昌碩が日本人の書家たちと交流する機会が増え、印の依頼が増えたのは、呉昌碩の芸術が1890年代から日本に紹介されはじめたこと、そして西泠印社が創設されたことが大きな要因であったと思われます。
西泠印社が創設された頃、不折はすでに画家として活躍していました。『龍眠帖(りゅうみんじょう)』を明治41年(1908)年に発表して以降、前田黙鳳(まえだもくほう、1853~1918)らと健筆会(けんぴつかい)を結成するなど書家としても活動し、また多くの書家と交流しています。その中には呉昌碩と面識のある日下部鳴鶴や河井荃廬(かわいせんろ、1871~1945)らがいました。不折が呉昌碩の印を手に入れることができたのは、周囲から書家として認められる40代後半以降、つまり呉昌碩70歳以降の時期と考えられます。
不折と呉昌碩との直接の接点を見出すことはできませんが、不折コレクションには印の他に呉昌碩の書画も含まれています。不折は、渡華を終えて帰国した書家や友人たちから呉昌碩の存在を聞きおよび、これから渡華する者に印を依頼したのでしょう。中国の漢字資料や書作品を熱心に収集し、学んだ不折にとって、呉昌碩の書、画、印は大いに注目するところであったと思われます。
(この記事は台東区立書道博物館にて配布の週刊瓦版に掲載されたものです。)
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posted by 中村信宏(台東区立書道博物館) at 2011年10月02日 (日)
東京国立博物館では、この3月に『東京国立博物館図版目録 古写経篇』を刊行しました。
タイトルの示すとおり、当館が所蔵する奈良時代以来の写経を可能な限り調査し、学術的な研究や博物館での展示などに必要な情報を収載しました。
「写経」と言っても、巻物(巻子)や冊子の形になっているものだけではなく、数行だけの断簡(経切)になってしまった経典についても、それが何という名前か、確認に努めました。
25年くらい前に滋賀県の各地に分布する「大般若経」の文化財調査に参加したことがあります。
大般若経は全部で600巻もある大部なお経です。
本来何枚もの紙が継ぎ合わされて長い巻物になっていたものが、糊がはがれて1枚づつバラバラになっていました。
しかも同じような文章が繰り返し出てくるため、巻次が書いてあればともかく、部分的な経文だけで、第何巻かを特定するのは至難の業でした。
調査員のお一人が、大変苦労して行のかわる段落を特定した索引を作られており、それを手がかりに巻次を探ったものです。
ところが、コンピュータが普及して事態は大きく変わりました。
現代における仏教経典の代表的な集成である『大正新脩大蔵経(たいしょうしんしゅうだいぞうきょう)』の電子テキスト化が、「大蔵経テキストデータベース委員会」(SAT)によるプロジェクトによって進められ、その全文をウェブ上で検索することが可能になったのです。
大正新脩大藏經テキストデータベースは以下のリンクよりご覧いただけます。
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/
かつては経切があってもよほど著名な経典でない限り、わずかな文言をたよりに厖大な経典の中から経名を特定するのは、事実上不可能なことでした。
しかし大蔵経テキストデータベースの完成により、わずかな時間で経名や巻次をほぼピンポイントで確認することが可能になったのです。
経切手鑑(部分) 奈良~室町時代・8~16世紀 (~2011年10月16日(日)展示)
赤い枠で囲った部分は、わずか1行分の経文ですが、データベースを検索すると「阿毘達磨大毘婆沙論」の一部であることがわかります。
(注)画像で表示の部分は今回の展示ではご覧いただけません。
今回の図版目録編集の基礎になったのは、国立博物館と文化庁所属の研究職員が参加し、数年にわたって実施した古写経調査ですが、その調査現場にはネットにつながったパソコンを置き、ほとんどの断簡について、その場で経名の特定を行うことができました。
情報社会の発達が学術的な調査にも多大な恩恵を与えているのです。
厖大な経典を入力、校正されたプロジェクトの方々には、本当に感謝しなければなりません。
今、本館 特別2室にて展示中の特集陳列「古写経の世界」(2011年9月6日(火)~2011年10月16日(日))では、奈良時代から平安時代にかけての写経の優品を中心にとりあげていますが、観覧される際に、幸運にも全体の姿が残された経だけではなく、わずか数行、時には数文字の断簡も等しく仏教経典としての価値と歴史を含んでいることを、頭の片隅に置いていただければ幸いです。
カテゴリ:研究員のイチオシ
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posted by 田良島哲(調査研究課長、書籍・歴史室長) at 2011年10月01日 (土)
みなさまは「留学生の日」をご存じでしょうか。
東京国立博物館が留学生の皆さんをご招待する特別な一日です。
今年は10月8日、土曜日に開催されます。
浮世絵の美人が、留学生の皆さんをお誘いしていますよ!
留学生のみなさんは日常生活のなかで、日本の「今」に接することはできても、「伝統」に触れるチャンスは少ないのではないでしょうか。
特に、絵画や工芸など日本の優れた美術作品の「ほんもの」を見ることはあまりないかもしれません。
季節を愛でるモチーフや精緻な技巧など、日本の伝統に触れ、日本の心を味わってほしい。
そしてなにより、緑あふれる構内で、ゆったりと心休まる一日を過ごしてほしい。
そんな願いをこめて開催するのがこの留学生の日です。
当日は、英語による展示解説や、茶道体験など、留学生のための企画も盛りだくさん!
なにやってるのかな? 興味しんしん。
脚のしびれは大丈夫でしょうか?
本館2階「日本美術の流れ」で。
ボランティアスタッフによる英語の解説
日本の学校に所属する留学生、ALT(外国語指導助手)と、その同行者(一名まで)は無料で入館できます。
あなたが留学生であればぜひお友達を誘って。
あなたの周りに留学生がいらしたら是非この情報を教えてあげてください。
東日本大震災以来、多くの留学生が日本を離れてしまったと聞きます。
こんなときだからこそ、1人でも多くの留学生にご来館いただければと願っています。
詳細は留学生の日のページをご覧ください。
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posted by 小林牧(広報室長) at 2011年09月30日 (金)
歌川国芳は最近注目の浮世絵師。
10年以上前のこと、朝日新聞社から出版された「浮世絵を読む」という6冊シリーズの本を制作するために、浮世絵研究の泰斗浅野秀剛大和文華館館長と近世都市史研究の第一人者吉田伸之東大教授のもとで勉強会を開いたことがありました。
浮世絵師6人を取り上げるのですから、「六大浮世絵師」と呼ばれる、鈴木春信・鳥居清長・喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎・歌川広重を選ぶのが普通ですが、上品で健康的な美人画で知られる清長ではなく、こともあろーに、アウトロー国芳を選ぶことになったのです。
その首謀者は、身分的周縁論を展開している吉田先生、そして子供の頃から国芳びいきの私です。
その席にいた浅野先生は千葉市美術館で「鳥居清長展」(2007年4月28日(土)~2007年6月10日(日))を開催しているのですが、やはりこれに賛同。
新六大浮世絵師での出版が杯を手にしながら決まったのです。
そして今年は、没後150周年にあたり各地で展覧会が開かれ大入りの人気のようです。
私が子供の頃から国芳を知っていたのは、浮世絵少年だったからではありません。
弘前生まれの私は、夏の祭りねぷたをこよなく愛していました。
そこに登場するのが三国志・水滸伝の英雄たち。
小学生が『三国志』の関羽や張飛、『水滸伝』の花和尚や九紋竜史進、そして張順を見つけて喜ぶような土地なのです。
今でこそゲームの重要キャラクターとして子供にも人気がありますが、弘前は江戸の名残がまだあったのです(というより、ねぷたという祭りが江戸感覚の名残なのです)。
その手本になったのが、北斎やその弟子の「三国志もの」、そして国芳の描いた「通俗水滸伝豪傑百八人一個」のシリーズ。
今回展示の張順の水門破り図もかつて祭りで見たことがあります。
通俗水滸伝豪傑百八人・浪裡白跳張順 歌川国芳筆 江戸時代・19世紀
(~2011年10月16日(日)展示)
この図柄は、火消しに好まれたようで、火消し半纏の内側にも描かれました。
現在も刺し子半纏やスカジャンで好まれているとのこと、男気の象徴でしょうか。
もっともこの図は、刺青の下図としてもよく利用されています。
こちらはなかなか見比べにくいのでしょうが、国芳の版画は、本館10室(浮世絵と衣装―江戸(浮世絵))でじっくりとご覧ください。
なお、今回の展示(~2011年10月16日(日)展示)と次回の展示(2011年10月18日(火)~11月13日(日))は、国芳の作品を中心に構成しております。
今回は、武者絵のほかに美人画を加え、
山海愛度図会・つづきが見たい 歌川国芳筆 江戸時代・19世紀
(~2011年10月16日(日)展示)
次回は風景画を中心にしての展示です。
東都御厩川岸之図 歌川国芳筆 江戸時代・19世紀
(2011年10月18日(火)~11月13日(日)展示)
どちらもお見逃しなく!
カテゴリ:研究員のイチオシ
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posted by 田沢裕賀(絵画・彫刻室長) at 2011年09月27日 (火)
台東区立書道博物館の連携企画「呉昌碩の書・画・印」(~2011年11月6日(日))をより深くお楽しみいただくための連載企画をお届けします。
今日はその第1回目、若き日の呉昌碩について。
呉昌碩は、書、画、篆刻に優れた業績を残し、清時代末を飾る大家として知られています。そのうち自身の芸術の第一として最も誇るところであったのが篆刻でした。10代のはじめ頃から篆刻を学び始めますが、家が貧しく、一つの石を刻しては磨き、平らにしてまた刻し、薄くなって手に握れなくなるまでそれを繰り返したといいます。
17歳の時、故郷が太平天国の乱の戦火に巻き込まれ、呉昌碩は5年にわたって苦難を極めた避難生活を強いられますが、乱の収束後は一層芸術に励むこととなります。篆刻では、27歳時に『樸巣印存(ぼくそういんそん)』、そして30代前半の印を集めて『蒼石斎篆印(そうせきさいてんいん)』を編集しており、その研鑽の過程を窺うことができます。浙派(せっぱ)の作風をよく捉えた印のほか、古印の模刻、呉譲之(1799~1870)や徐三庚(1826~1890)、そして趙之謙(1829~1884)らの作風を学んでその技術を高めていきました。
斉雲館印譜(表紙) 呉昌碩作 清時代・光緒2年(1876) 小林斗盦氏寄贈
(注)東京国立博物館にて展示。画像で表示の部分は今回の展示ではご覧いただけません。
『斉雲館印譜』(東京国立博物館にて展示)は33歳頃のものです。呉譲之や趙之謙に倣った完成度の高い印が見られるほか、塼(せん)などの趣を印に採り入れています。そして、浙派の作風をもとにした、重厚かつ古色を持たせた刀法もこの頃にすでに確立されていました。しかし線の表情をわずかに変化させる繊細な表現も見逃せません。
斉雲館 (『斉雲館印譜』 呉昌碩作 清時代・光緒2年(1876) 小林斗盦氏寄贈 より)
(注)東京国立博物館にて展示。画像で表示の部分は今回の展示ではご覧いただけません。
30代後半の呉昌碩は、兪樾(ゆえつ、1821~1906)や、楊峴(ようけん、1819~1896)のもとで学びます。そして37歳時には呉雲(ごうん、1811~1883)、40歳時には潘祖蔭(はんそいん、1830~1890)など、有力な収蔵家のもとで豊富な書跡、拓本、古印、金石資料を鑑賞、研究する機会を得ました。呉昌碩は30代後半から『削觚廬印存(さくころいんそん)』を編集しますが、そこに収録された印は、『斉雲館印譜』のそれに比べて、字や縁をバランスよく組み合わせ、さらに古色をつける技術が飛躍的に上達しています。本展では比較的早い時期、つまり『斉雲館印譜』の後に次ぐ、30代後半から40代前半の印を収めた『削觚廬印存』も東京国立博物館にて展示されており、両者を見比べることでその上達の過程を窺うことができます。
安吉呉俊長寿日利印 (『斉雲館印譜』 呉昌碩作 清時代・光緒2年(1876) 小林斗盦氏寄贈 より)
(注)東京国立博物館にて展示。画像で表示の部分は今回の展示ではご覧いただけません。
呉昌碩の30代は、自身の努力に加えて知遇にも恵まれた時期と言えるでしょう。この時期の研鑽の成果は、早くも40代の篆刻において表れることとなります。
また、呉昌碩はのちに「石鼓文」に学んだ篆書の書法を確立することとなりますが、作品をバランスよくまとめ上げる技術は、若年の頃から親しんだ篆刻によって培われたものと思われます。
(この記事は台東区立書道博物館にて配布の週刊瓦版に掲載されたものです)
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posted by 中村信宏(台東区立書道博物館) at 2011年09月22日 (木)