このページの本文へ移動

1089ブログ

特別展「法然と極楽浄土」その3 福島浜通りと「法然と極楽浄土」

特別展「法然と極楽浄土」(6月9日(日)まで)の主担当を務めました研究員の瀬谷愛(絵画担当)です。
何年もかけて準備してきましたこの展覧会も、東京国立博物館での会期は残りわずかとなりました。

この後は、京都国立博物館、九州国立博物館へと巡回しますが、目黒・祐天寺のご本尊「祐天上人坐像」など、東京会場にしか出品されない作品もありますので、ぜひあきらめずに! お越しいただきたく思います。

思い返すに、特別展の準備は、それはもう、筆舌に尽くしがたいくらい、たいへんなものです。

全体のコンセプトづくり、リストの作成、ご出品のお願いから始まり、作品調査、応急修理の手配。
作品解説、論文の執筆、図録用の写真撮影や手配、図録の校正、校正につづく校正、校正、校正。
ポスター、チラシなど広報の文章執筆やデザインのチェック、会場構成と会場デザインの相談、数センチ単位の図面検討、音声ガイドの台本校正や収録、ジュニアガイドの作成…。
作品の集荷で全国のご所蔵者様をトラックで伺うのがつかの間の楽しみで、館に戻って、緊張の展示作業。
開幕後もテレビ、新聞、雑誌、ウェブ記事の取材対応、講演会、ブログ…。

気が遠くなるほど長く感じる準備期間でした。
それはまるで、極楽に往生していながら、なかなか開かない蓮のつぼみの中でひたすら阿弥陀仏の説法にふれる下品下生(げぼんげしょう)の赤子のような日々。
もう、十二大劫(じゅうにだいこう・とんでもなく長い時間)です。

重要文化財 當麻曼陀羅図(貞享本)(部分) 青木良慶・宗慶筆 江戸時代・貞享3年(1686) 奈良・當麻寺蔵
まさに當麻曼陀羅に描かれるこの赤子のような日々


やっと開いて、会場で多くの方がご観覧なさっているのをみると、あぁ本当にがんばってよかったなと思います。
ずーっと観想していた世界が目の前に広がっている。これこそが研究員(学芸員)の極楽です。

と、同時に、仕事や研究に一生懸命取り組んでいると、思いもよらない巡りあわせのようなことが起きて、驚くことがあります。
今回、広報の最前線に登場いただいていたのは、国宝「阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)」でした。

国宝 阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎) 鎌倉時代・14世紀 京都・知恩院蔵(東京会場での展示は終了しています)

早来迎が会期前半で撤収され、後半に展示したのはこちら。

重要文化財 阿弥陀三尊来迎図 鎌倉時代・14世紀 福島・いわき市蔵

福島・いわき市所蔵の重要文化財「阿弥陀三尊来迎図」です。
縦240センチ、横140センチを超える極めて大きな画面に、阿弥陀仏と観音・勢至菩薩が並んで来迎しているところが表されています。
その姿はとても量感的で、美しいです。

この仏画は、同市内に所在する如来寺というお寺に伝来しました。
こんなに大きな仏画を掛けられるというだけで、いかに立派なお寺かということが想像されます。
如来寺は14世紀初頭に名越(なごえ)派3世・妙観によって開かれた古刹(こさつ)で、鎌倉光明寺の開山・然阿良忠(ねんなりょうちゅう)の弟子であった尊観から始まる名越派の檀林(僧侶の養成機関)として多くの学僧を輩出しました。

本展ではそのはじまりのとき、尼僧真戒が如来寺の前身と伝えられる庵に安置したという本尊「阿弥陀如来および両脇侍像(善光寺式)」(5月12日まで)も展示しました。

そうしたなか今回は国宝「綴織當麻曼陀羅」が奈良県外で初めて出品されるということで、染織の仏教美術にも着目し、『繡仏(しゅうぶつ)』(日本の美術470、至文堂、2005)を執筆された九州国立博物館の伊藤信二さんから繡仏の名品を選んでいただきました。

そのなかに福島・阿弥陀寺所蔵の重要文化財「刺繡阿弥陀名号」がありました。
阿弥陀寺は福島・南相馬市に所在する浄土宗寺院で、妙観の孫弟子にあたる源尊が開いた古刹です。


重要文化財 刺繍阿弥陀名号 鎌倉~南北朝時代・14世紀 福島・阿弥陀寺蔵(東京会場での展示は終了しています

こちらは縦63センチ、横19センチという小さな作品ですが、下地の絹を刺繡で覆いつくす「総繡」と呼ばれる仕上げで、表装となる部分も刺繡されており、全体が制作当初の姿を美しく残すという点でも、稀有で優れた繡仏の代表作と評価されています。
「南無阿弥陀仏」の名号部分は、毛髪を刺しているんですよ。
中世の繡仏ではよくある技法だそうですが、制作者の思いの強さが伝わってきます。

今回の展覧会では近世の浄土宗の広がりにも着目しまして、17世紀初頭に琉球に浄土宗を広めた袋中(たいちゅう・1552~1639)にふれました。
一説に沖縄のエイサーは袋中が伝えた念仏踊りを起源に持つともいわれています。

袋中上人像 尚寧王筆・讃 江戸時代・慶長16年(1611) 京都・檀王法林寺蔵東京会場での展示は終了しています

袋中は増上寺の学寮で白幡派(良忠の弟子・良暁の一派)を極め、郷里の古刹・成徳寺13世となります。
成徳寺の開山は聖観といって妙観の弟子、源尊の師にあたります。
そして袋中の出身地は、奥州菊多郡岩岡(現・福島県いわき市)。

おや? いわき…


第4章「江戸時代の浄土宗」展示風景
(右手前)祐天上人坐像 竹崎石見作 江戸時代・享保4年(1719)  東京・祐天寺蔵

そして、同じく本展を担当した研究員・長倉の1089ブログ「特別展「法然と極楽浄土」その1 浄土宗にまつわる江戸時代の書」でもご紹介した、
東京会場のみでご覧いただける東京・祐天寺のご本尊「祐天上人坐像」と祐天寺の多くのご寺宝。

祐天(1637~1718)は、大巌寺(だいがんじ)、弘経寺、伝通院の住持を歴任し、増上寺36世となった高僧で徳川5代将軍・綱吉やその母・桂昌院、そして大奥の女性たちや江戸の多くの民衆から多大な帰依を受けた方でした。
その祐天の出身地は、陸奥国石城郡(現・福島県いわき市)。

んん?? いわき…!!

当初まったく意図していなかったので、ここにきて福島浜通りのつながりに気づいてたいへん驚きました。
考えてみればこれはただの偶然というよりは、奥州における名越派のつながりが優秀な僧侶と文化財を生むにいたった必然、とみることができるのではないでしょうか。

実は私がこの展覧会の担当になったのは、13年前、2011年秋に当館で開催した特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」を担当したご縁があったからなのですが、当時、開催の半年前に東日本大震災が起きました。

阿弥陀仏はすべての人を平等にあまねく救うことを誓い、悟りを得たといいます。
誰も置いていかない。誰をも忘れない。
仕事の巡り合わせとはいえ、いろいろなことを考え、感じました。

今回の展覧会の準備が佳境に入っていた今年1月には、能登半島で大きな地震が起きました。
まだ多くの方が不自由な生活をされていますし、余震も続いています。

どんなに準備をしても、展覧会は会期が終われば、記憶の中だけに残ります。
このような機会に10万人を超える方々がわざわざ上野までご来場くださり、過去の多くの人々の想いの結晶にふれていただけたことに、とても感謝しています。
本当にありがとうございました。

カテゴリ:絵画「法然と極楽浄土」

| 記事URL |

posted by 瀬谷愛(登録室長) at 2024年06月06日 (木)

 

仏像を特別な存在にするために

極楽にいる仏、あるいは極楽から迎えに来てくれる仏…。
阿弥陀如来は苦しい現実に生きる人々を救う存在として、日本でも各地で信仰されました。
ただし、仏そのものに会えるとしたら奇跡や臨終の時と考えられていたため、そのかわりとなる仏像や仏画が造られてきました。

一方で、「仏作って魂入れず」ということばがありますが、仏像が仏そのものではなく木や金属でできたモノであることはわかっているため、入れ物である仏像に仏の魂を込めることで、仏として信仰してきたのです。
しかし、魂が入っていることは、あいにく仏像の外観からはわかりません(魂が入っている証拠としてさまざまな奇跡が語られることはありますが)。

そこで、魂を入れることとは別に、昔から仏像が特別な存在になるように工夫が凝らされてきました。
本館特別1室で開催中の特集「阿弥陀如来のすがた」(2024年7月7日まで)で各時代の阿弥陀如来像を展示していることにちなみ、今回は阿弥陀如来像に凝らされた工夫をご紹介したいと思います。

展示の冒頭で紹介するのは、阿弥陀如来と判明する、日本でもっとも古い仏像です。


重要文化財 阿弥陀如来倚像および両脇侍立像(あみだにょらいいぞうおよびりょうきょうじりゅうぞう)
飛鳥時代・7世紀


じつは、中央の仏だけでは阿弥陀如来かどうかはよくわかりませんが、両脇に立つ菩薩の冠をよく見ると、小さな仏と瓶があらわされています。
小さな仏をつけたのは観音菩薩、瓶をつけたのは勢至菩薩という、阿弥陀如来に従う両菩薩であるため、中央の仏も阿弥陀如来であることが知られるのです。
いつもは法隆寺宝物館に展示されていますが、特集「阿弥陀如来のすがた」にお出ましいただきました。

他にも法隆寺宝物館の第2室では多くの金銅仏と呼ばれる金属製の小さな仏像がご覧いただけますが、大陸から仏教が伝えられた際に、日本に持ち込まれたのはこうした金銅仏だったと考えられています。当時の人々にとって仏像の理想だったのでしょう。
悟りを開いた仏の体からは光が発せられると経典にあるため、本来は純金で仏像を造ることが理想とされましたが、それではあまりに高価なため、そのかわりに銅に鍍金(金メッキ)した仏像が多く求められました。

以下の写真をご覧ください。


阿弥陀如来倚像の像底

仏像の裏側が赤く塗られています。他の金銅仏にも数多く見られ、何らかの意味があったのでしょう。諸説ありますが、魔除けとして塗られた可能性があります。
もちろん外からはわかりませんが、造った人、造らせた人にとっては大事なことだったに違いありません。

時代は下り、平安時代になると仏像を木で造ることが多くなります。
とはいえ、木工のように木らしさを強調するのではなく(そういう仏像もあります)、多くは彩色されたり、金箔が貼られたりしました。
金箔が貼ってあると、木でできているかどうかもわからなかったと思います。


重要文化財 阿弥陀如来坐像(阿弥陀如来坐像及び両脇侍立像のうち)(あみだにょらいざぞう あみだにょらいざぞうおよびりょうきょうじりゅうぞうのうち)
平安時代・安元2年(1176) 埼玉・西光院蔵


金箔を貼るのは、金銅仏と同じく、仏が本来は光を発することをあらわすためです。
表情は穏やかで、体や衣の彫りは浅く、暗い堂内で拝すると、光り輝く仏が浮かび上がるような印象があったのではないでしょうか。

平安時代の末から鎌倉時代に入ると、その後の仏像を大きくかえる技術が生まれます。
両眼にあたる部分を刳り抜いて、レンズのように薄く削った水晶の板を嵌める「玉眼(ぎょくがん)」です。

阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)
鎌倉時代・12~13世紀 静岡・願生寺蔵

玉眼になると、急に生々しさを感じますね。仏像を見ているはずが、逆に見られているような気がします。
見る角度によっては玉眼がキラリと光るので、ぜひ会場でご覧ください。
ちなみに、修理によって、表面の仕上げを取り除いてしまっていますが、もともとは金箔仕上げでした。

 

阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)(C-19)
鎌倉時代・13世紀
阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)(C-508)
永仙作 鎌倉時代・正嘉3年(1259)
安田善次郎氏寄贈
阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)(C-321)
鎌倉時代・13~14世紀

 

鎌倉時代以降、広く定着するのは三尺(1メートル程度)の大きさの阿弥陀の立像です。
もともと仏像の大きさにはさまざまな決まりがあり、理想とされたのは一丈六尺(4.8メートル程度)ですが、これはさすがに大きすぎてなかなか造ることができません。
この半分、何分の一、という大きさもあり、三尺の由来は諸説ありますが、一丈六尺の約五分の一のサイズです。

また、これまで阿弥陀如来像といえば、「極楽の主」という性格からか、坐像が多かったところ、この頃から「極楽から迎えに来る」という期待が大きくなり、立像が増えていきます。
阿弥陀の立像で注目したいのは、両足の裏に模様を描くものがある点です。

阿弥陀如来立像(C-19)の像底
阿弥陀如来立像(C-19)の像底 拡大図

 

阿弥陀如来立像(C-321)の像底
阿弥陀如来立像(C-321)の像底 拡大図

 

実際にはご覧いただけないため、会場ではパネルで展示しています。
一般的に、立像は足裏にあたる木を削らずに枘(ほぞ)という角材状で残し、これを台座に開けた穴に挿して固定します(枘の形はさまざまです)。
これらの像は、これとは逆に踵の後ろに穴を開けて、台座から枘をつけてこれに挿します(逆枘と言います)。
これは、ひとえに足裏に文様を描くためです。

経典によると、仏の手足にはおめでたい文様があらわれているといい、インド以来、仏像の手足に仏法を象徴する車輪(法輪)等の文様をあらわすことがありました。
法隆寺金堂壁画に描かれた阿弥陀如来にも、手足に文様があるのを確認できます。

法隆寺金堂壁画(模本)第六号壁(ほうりゅうじこんどうへきが(もほん)だいろくごうへき)
桜井香雲模 原本:奈良・法隆寺所蔵
明治17年(1884)、原本:飛鳥時代・7~8世紀
法隆寺金堂壁画(模本)第六号壁に描かれた阿弥陀如来の手

 

また、足裏に文様のある阿弥陀如来立像のうち、こちらの像は頭髪にも特徴があります。

阿弥陀如来立像(C-19)の頭部
阿弥陀如来立像(C-19)のX線CT画像(宮田将寛作成)

 

阿弥陀如来立像(C-19)のX線CT画像
螺髪のうち銅線部分(宮田将寛作成)

 

肉眼では見えにくいのですが、特集「阿弥陀如来のすがた」の事前調査で実施したX線CT撮影では、螺髪を呼ばれる髪の毛を銅線であらわし、一本ずつパンチパーマのように巻いて、木製の軸と一緒に植え付けていることがわかります。
足裏に文様を描くことと、髪の毛を銅線であらわすことはセットで行われることがあったようです。

また、このCT撮影では、後頭部に銅製の筒が2本埋め込まれていることも判明しました。
おそらく頭周辺の光背である頭光をつける際、支柱を使わずに固定する工夫だったのでしょう。

阿弥陀如来立像(C-19)のX線CT画像(宮田将寛作成)
阿弥陀如来立像(C-19)の後頭部

 

現在は木製の詰め物をして、表面からは気づかれないようになっていますが、他にも筒をそのまま残している仏像が複数確認されているため、かつては少なくなかったようです。
確かに、仏が発する光に「支柱」がついていたら、現実に引き戻されてしまうかもしれません。

また、中央の展示ケースに仮面を並べていますが、これは実際に人がつけて仏に仮装するための道具です。

特集「阿弥陀如来のすがた」の展示室風景
重要文化財 行道面 菩薩(ぎょうどうめん ぼさつ)その2
快慶作 鎌倉時代・建仁元年(1201) 兵庫・浄土寺蔵

 

阿弥陀如来が迎えに来る「来迎」をより実感したいという人々の願いから、菩薩の仮面をつけた人々が来迎の様子を再現する練供養(ねりくよう、迎講とも)が行われるようになりました。 毎年行われる奈良の當麻寺が有名ですが、都内では九品仏浄真寺でも四年ごとに行われています。

あるいは、仏像を山車に乗せてパレードを行う、行像(ぎょうぞう)というイベントは古くからアジア各地で行われていましたが、仏像が動く、あるいは人が仏像に仮装するというのは、仏をリアルに体感したいという願いのあらわれといえます。


特集「阿弥陀如来のすがた」(本館特別1室、2024年7月7日(日)まで)の展示室風景

いつか目の前に阿弥陀如来が現われる日を待ち望み、人々が向き合ってきた仏像。
ぜひ展示室で追体験していただければ幸いです。

 

カテゴリ:彫刻特集・特別公開

| 記事URL |

posted by 西木政統(登録室) at 2024年06月05日 (水)

 

特別展「法然と極楽浄土」 10万人突破!

まもなく閉幕を迎える特別展「法然と極楽浄土」(6月9日(日)まで)は、来場者10万人を突破しました。
これを記念し6月5日(水)午前に、静岡県浜松市からお越しの新美 幸二さん・久美子さんご夫妻に、当館館長の藤原誠より記念品を贈呈いたしました。


記念品贈呈の様子。新美さんご夫妻と藤原館長(右)

新美さんご夫妻はよく寺院にお参りになられ、仏像などをご覧になる機会も多いそうです。
本来安置される空間での対面もさることながら、こうした展示室で仏教美術を細部まで鑑賞できる機会を楽しみにして頂いているとのことでした。
今回はこれまでに見たことのない作品との出会いに期待して、本展へはるばるお越し下さったとのことです。

浄土宗の開祖・法然の時代から近世に至るまで、浄土宗の長い歴史を通覧する初めての試みである特別展「法然と極楽浄土」も東京会場の会期は残すところあと4日ばかり。
本展は今年秋に京都国立博物館(会期:2024年10月8日(火)~12月1日(日))、来年秋に九州国立博物館(会期:2025年10月7日(火)~11月30日(日))へと巡回しますが、関東所縁の寺院ご所蔵のご宝物などは東京国立博物館のみでの展示となります。
時を越えて多くの人々の想いが託された、善美なる祈りのかたちの数々をこの機会にどうかお見逃しなく。

カテゴリ:「法然と極楽浄土」

| 記事URL |

posted by 中束達矢(広報室) at 2024年06月05日 (水)

 

シアトル美術館の「兄弟埴輪」をたずねて

シアトルには雨がよく似合う。
約9時間のフライトの後、霧雨煙るタコマ国際空港に私が降り立ったのは、2024年2月21日2時半過ぎのことだった。晴れていれば雪を頂いたマウント・レーニア(タコマ富士)が拝めるはずだったが、陰鬱な冬空が広がっているばかり。しかも、入国審査は長蛇の列だ。

「渡航目的は?」
「旅行です。」

ところが、これで済まなかった。どこに泊まるのか、米国内に友人はいるのか、はてはお土産には何を持ってきたのか…
どうやら2017年に私がイランへ入国してから、アメリカ入国にビザが必要となったために、要注意人物と見られているのかもしれない。
入国に1時間を要した後、LLR(Link Light Rail)に約1時間揺られてダウンタウンに降り立った。波しぶきのかかるパイク・プレイスのベンチに座り、クラムチャウダーをテイクアウトして海鳥と一緒にようやく食事にありつくと、長旅の疲れもあってそのまま眠ってしまった。

はっと気が付くと、ボランティア・パークのシアトルアジア美術館前に立っていた。


シアトルアジア美術館の前で

アール・デコ様式で、大恐慌直後の1933年に建てられたシアトル美術館の原点だ。1991年にダウンタウンに新築されたシアトル美術館、2007年にオープンしたウォーターフロントのオリンピック彫刻公園とともに、市民の誇りでもある。

2020年にリニューアルされた展示は、アジアの多様な歴史、地理を一括りにせず、国境ではなく文化の繋がりを重視した比較文化的なテーマ設定が売りである。
たとえば、「テキストとイメージ」展示室では、宗教美術における「詩」「書」「画」の相互作用を東アジアとイスラームで比較する。俵屋宗達と本阿弥光悦の合作「鹿下絵新古今和歌巻断簡」とイスラーム・カリグラフィーの流麗なクルアーンが近くに展示され、アジアの書の幅広さを実感させる仕掛けである。「自然界を描く」展示室では、都路華香の屛風が中国や日本の文人画と対比されている。

このような、日本の美術館ではあまり見られない大胆な試みは、日本美術、アジア美術に日頃触れることの少ないシアトル市民へダイレクトにその魅力を訴えかけるための、シアトルアジア美術館独自の挑戦なのだ。むろん、この斬新な展示手法は全米だけでなく世界中から注目された。

ところが、間もなく閉館の憂き目にあう。
パンデミックである。
一年以上にわたる休館を経て、再開できたのは2021年5月だった。

重厚な入口を入るとフラー・ガーデン・コートが広がる。初代館長・フラー博士の名を冠した明るい空間だ。その左側に「アジア美術の果てしなき物語」展示室がある。
縄文時代の土偶、古墳時代の腕輪型石製品、古代朝鮮半島の加耶の形象土器の展示ケースに交じって、「彼」はすっくと立っていた。

群馬県太田市で出土し、約60年前にシアトルに渡った「埴輪 挂甲の武人」(シアトル美術館では「Haniwa Warrior Figure」)である。


埴輪 挂甲の武人
群馬県太田市出土 古墳時代・6世紀 アメリカ・シアトル美術館蔵
約60年間シアトルにいた「兄弟埴輪」
(注)特別展「はにわ」出品予定


持ち物や甲(よろい)の表現が当館の国宝「埴輪 挂甲の武人」と少し異なっているけれども、「兄弟埴輪」と呼んでも誰しも異論はないだろう。「兄弟である」と宣言したのは、この埴輪を日本から呼び寄せたフラー博士だ。当時、博士は他にも兄弟が3人いることなどきっと夢にも思わなかったに違いない。


国宝 埴輪 挂甲の武人
群馬県太田市飯塚町出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵
(注)特別展「はにわ」出品予定

19世紀後半から日本人町が形成され、もともと日本という国に親近感を持っていたシアトル市民は、この太平洋をはるばる渡ってきた埴輪を大歓迎した。その頃、日米修好通商条約締結100周年を記念したさまざまな祝賀行事が開催されたことも後押しした。1962年に開かれ、1000万人以上が訪れたシアトル万国博覧会に関連した「古代東洋の芸術」展の目玉のひとつにもなっている。
以来、ずっとシアトルの地を離れたことはなく、兄弟が対面することもないままに約60年が経過した。

「あなたはどうしてここに来たのですか?同じ作者から生まれた兄弟が日本にいることはご存知ですか?」

「実は、私は…」

彼が重い口を開いて語り始めた瞬間、ふと我に返った。
いつしか雨も上がり、目の前には観光客で賑わうスターバックスの1号店。そして、ピュージェット湾に沈む美しい夕日がシアトルのビル街を赤々と照らしている。

ぜひ、彼を日本の兄弟たちと再会させてあげたい。
熱い思いを胸に、暮れなずむダウンタウンへと私は歩き始めた。


シアトル・ダウンタウンの夕暮れ

カテゴリ:考古「はにわ」

| 記事URL |

posted by 河野一隆(学芸研究部長) at 2024年05月31日 (金)

 

はにわにも色がある!

挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」(2024年10月16日(水)~12月8日(日)、平成館 特別展示室)。
「埴輪の展覧会なんて、展示室がみんな茶色くなっちゃうんじゃないですか?」
――そんな声が聞こえてきそうです。

でも、目を凝らしてよく見てください。
何かが見えてきませんか?
この埴輪、なんだか赤みの強い部分があるような…。

埴輪 杯を捧げる女子
群馬県高崎市 上芝古墳出土 
古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵
(注)特別展「はにわ」出品予定

そう、実は色が塗られて
いた埴輪があるんです。
とはいえ、長らく古墳の上で雨風にさらされ、土の中に埋もれていた埴輪たちの表面に塗られていた顔料は落ちやすく、追究が難しいこともあって十分には検討されてきませんでした。

もともと、埴輪は赤い色が多く使われていることがわかっていました。

国宝 円筒埴輪
奈良県天理市檪本町東大寺山北高塚 東大寺山古墳出土 古墳時代・4世紀 東京国立博物館蔵
いちばん下の段は土に埋めてしまうため、赤く塗られていません
(注)特別展「はにわ」出品予定

しかし近年、栃木県下野市にある甲塚(かぶとづか)古墳から出土した埴輪が復元された際に色の検討が行われ、鮮やかに塗られていたことがわかりました。

当館でも、国宝「埴輪 挂甲の武人」の修理・調査を行いました。


国宝 
埴輪 挂甲の武人
群馬県太田市飯塚町出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵
(注)特別展「はにわ」出品予定

詳細な観察と、蛍光X線分析(どのような物質が存在するか調べる装置を用いた分析)を行い
、彩色の復元に取り組みました。
その成果がこちらです。

埴輪 挂甲の武人(彩色復元)
令和5(2023)年 原品:群馬県太田市飯塚町出土 古墳時代・6世紀
東京国立博物館蔵
制作:文化財活用センター
(注)特別展「はにわ」出品予定

埴輪 挂甲の武人には、白、赤、灰の3種類の顔料が使われていたと考えています。
白は白土で、白っぽい土を選別したもの。
赤はベンガラという、自然界にある鉄分に由来するもの。
灰は白土にマンガンという鉱物を混ぜたものと考えられます。

現在の埴輪に付着した黒色もマンガンで、これは埴輪が土の中に埋もれている中で表面に付着したものと考えられます。

埴輪 挂甲の武人の背面。黒く見えるのが土に埋まっている際に付着したマンガンです


埴輪 挂甲の武人が製作され、古墳に立てられた地域では土中にマンガンが多くあったらしいことがわかります。

現在では、白色と赤色はうっすらと残っているのが見て取れます。
しかし、灰色はごくわずかしか残っておらず、よほどしっかりと見ないとわかりません。
白土とマンガンはもともと相性が悪いため、はがれやすかったようです。

埴輪 挂甲の武人を解体した際の、脚(左)と沓(くつ、右)。灰色がわかるでしょうか。

当館には、他にも色を塗っていたとみられる埴輪が多くあります。
埴輪の色の研究はまだまだはじまったばかり。
これからも、埴輪の色についての調査研究を続けていきます。

埴輪 挂甲の武人の彩色復元については、三次元の模型を特別展「はにわ」で皆さまにご覧いただけます。
皆様に新しい埴輪のイメージをお届けできると幸いです。

 

カテゴリ:考古調査・研究「はにわ」

| 記事URL |

posted by 山本亮(考古室) at 2024年05月24日 (金)