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1089ブログ

雲の合間にみえるもの

東洋館8室で開催中の特集展示「創立80周年記念 常盤山文庫の名宝」(2023年10月22日まで)に関して、今回は漆器のご紹介。
常盤山文庫のコレクションからは、薄造りの凛とした器形に、良質の漆を丁寧に塗り重ねた、宋時代のすぐれた漆芸の姿を窺うことができます。


彫漆雲文水注(ちょうしつうんもんすいちゅう )
南宋時代・12~13世紀 公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示中、10月22日まで]

なかでも、今回とくに推したいのがこちらの水注です。一見して、どんな感想を持たれるでしょうか?
時計回りにぐるぐると回る渦巻文様がびっしりと彫り込まれる様子は、日本の造形伝統から見ればいかにも異様と映るかもしれません。
よく見ると単純な渦巻ではなく、漫画のフキダシのように弧状の短い線をつなげて作られた雲の形であることがわかります。つまりは「雲文」です。


彫漆雲文水注 雲文の拡大写真

雲文であることがわかるくらいまで近づくと、はじめてこれが赤と黒の漆層からできていることが見えてきます。
彫りが深いところで色漆層の数を数えてみると、赤、黒と交互に12層を重ねています。念のため申し上げておきますと、これは12回しか塗っていないということではなく、各色の1層を作るために何回も塗り重ねる必要があるので、実際に塗った回数はその数倍となります。

この漆層を綿密に、彫り目の色がよく見えるように幅広く彫っています。せっかく12層もの色漆層をつくったのだから、これは見せたいところですね。
複雑な形状の雲文を一つ一つ深く彫り込んでいくのは相当な手間ですが、工人の気持ちになって彫りの流れを目で追っていくと、なんとなく楽しく彫っていたのではないかという気がしてきます。すべての雲文はまったく同じ形はなく、厳格に決まった型通りの意匠というよりアドリブを交えた、のびのびとした仕事です。ざわざわと迫りくるような文様の生命感は、こうした力強く奔放なひと彫りひと彫りが集まって形成されたものと言えるでしょう。

ところで、この作品は宋時代の彫漆としては例のない姿をしています。本作のような金属胎(きんぞくたい)の彫漆自体は珍しいものではありませんが、腹部の膨らんだ長頸瓶(ちょうけいへい)に円座状の高台を持たせ、把手と注口をつけたような形状の彫漆器は他に見られません。この形はどこから来たのか。
この問題に関しては、X線撮影やCT撮影によってかなりのヒントがもたらされています。

たとえば注口の根本に近い部分を見ると、花の蕊(しべ)のような装飾があります。


彫漆雲文水注 注口部の拡大写真

本体の意匠から見るとやや唐突な観のある装飾ですが、今回CT撮影を通して詳しく調べたところ、注口の基部には本来、花形座があったことがわかりました。

彫漆雲文水注注口部のCT画像(撮影:宮田将寛)

下の画像は別作品ですが、イメージとしてはこんな感じでしょうか。


銅布薩形水瓶 鎌倉時代・13世紀 東京国立博物館蔵
(注)この作品は展示されておりません。


どこかの時点で注口部の修理が必要となり、この花形座は覆われることとなったようです。また把手より上の部分はすべて後補であること、高台部分は金属胎が折り畳まれたような、通常ではありえない状態であることなども明らかとなっており、これらを考慮すると、本作は伝世の過程で複数回の大規模な補修・改変が行われていることが推察されます。

それでは製作当初はどんな姿をしていたのでしょうか。
補修・改変の過程や理由を含め、全体像はまだまだ雲の中にあり、明確に判明したとは言えません。多くの謎と可能性を秘めている点もまた、本作の大きな魅力の一つなのです。

特集「創立80周年記念 常盤山文庫の名宝」会場に展示される彫漆雲文水注
展示会場の様子

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開工芸

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posted by 福島修(特別展室) at 2023年09月21日 (木)

 

常盤山文庫の逸品「茉莉花図」

現在、東洋館8室で開催中の特集「創立80周年記念 常盤山文庫の名宝」では、「茉莉花図」が9月24日(日)まで展示されています。
このブログではこの作品について、少し詳しく説明してみようと思います。


重要文化財 茉莉花図(まつりかず)
伝趙昌筆 南宋時代・12~13世紀 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示中、9月24日まで]



インド、アラビア原産の茉莉花(=ジャスミン)は、中国でも古くから知られていましたが、これを楽しむ風潮が普及したのは北宋・南宋時代(960~1279)といいます。清潔な白い姿と馥郁(ふくいく)たる香が文人士大夫たちに愛されて詩文に詠まれ、庭園での栽培や、髪飾りとしての利用が流行しました。薬効も知られるようになり、茉莉花茶を始め、飲食にも用いられました。
茉莉花が絵画に描かれるようになる背景には、このような宋時代における愛好文化の盛り上がりがあったのでしょう。

「茉莉花図」は、小さな画面に枝先のみを描く、折枝(せっし)と呼ばれるタイプの花卉図(かきず)です。現在の掛軸表装は日本でされたもので、もとは画冊の一頁、あるいは団扇であったと推測されています。
南宋の宮廷では、小画面の折枝図制作が盛んに行われますが、本作もその頃の作と考えられています。

細部をよく観察してみましょう。花や葉、枝はそれぞれ複雑に重なり、奥行が意識されています。花の角度や葉の翻り方にも細かな差異がつけられます。
また、左上の蕾は、中央下ではやや開き、右上で満開になっており、時間の経過に伴う花の姿の変化も考慮されています。


茉莉花図

葉は、墨の輪郭線を目立たせる鉤勒法(こうろくほう)、花は輪郭線を白く塗り込める没骨法(もっこつほう)で表現し、それぞれの質感の違いを見せています。葉脈から周縁にかけての緑のグラデーションや、花びらのふちにかけられたうすい青緑など、彩色も非常に丁寧です。


茉莉花図(部分)

日本の人々は、このような精緻で可憐な南宋の折枝図を大変好んできました。「茉莉花図」の伝来は古く、室町時代、足利将軍家所蔵品目録『御物御画目録』「小二幅」の項に記載される「花 趙昌」のうちの一幅であったと考えられています。


御物御画目録(部分) 伝能阿弥筆 室町時代・15世紀 東京国立博物館蔵
(注)本作品は展示されていません。


また、複数の文献から、山上宗二(やまのうえそうじ、1544~90)ら安土桃山時代の茶人たちの間で、菊屋樵斎(きくやしょうさい)という人物所蔵の逸品として評判であったことがわかっています。現在の表装はそのときのものとほぼ同じです。

さらに、本作には17世紀頃に記されたと想定される「趙昌花之絵由緒書」が付属しています。これには、菊屋樵斎所蔵時に豊臣秀吉(1537~98)の参加した茶会に供されて称賛され、その後菊屋家代々の名物として伝えられたのち、東本願寺の宣如(せんにょ、1604~58)から徳川将軍家に献上されたという由緒が記されています。


趙昌花之絵由緒書(茉莉花図付属)
[展示中、9月24日まで]


卓越した表現と華麗な来歴を誇る「茉莉花図」は、まさに常盤山文庫を代表する逸品です。この機会にぜひ会場でご堪能いただければと思います。

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 植松瑞希(絵画・彫刻室) at 2023年09月14日 (木)

 

蒐集家 菅原春雄氏と中国青磁

特集「創立80周年記念 常盤山文庫の名宝」(東洋館8室にて、2023年10月22日まで)では、これまでお目にかける機会の少なかった常盤山文庫コレクションの工芸作品も多くご覧いただけます。


特集「創立80周年記念 常盤山文庫の名宝」展示風景
 

私が初めて、常盤山文庫の菅原春雄(1930~2019)前理事長にお会いしたのは大学院生の時でした。

文学部の美術史学専攻では、授業は作品中心、つまりその作品はいつ誰がどこでどのような背景のもとにつくったのか、そしてそれは歴史の中にどのように位置づけることができるのかという基礎的な内容が中心でした。
そのため、世の中に美術品を蒐集(しゅうしゅう)していた、またはいま現在蒐集している人がいるということはわかっていても、大学院生になるまで蒐集家の方を直接知る機会はありませんでした。

最初は、青山のご自宅で「送海東上人帰国図」(9月26日から展示)を床にかけ、その前に青磁袴腰香炉(今回未出品)を置いていただきました。

重要文化財  送海東上人帰国図軸(そうかいとうしょうにんきこくずじく)(部分) 鍾唐傑、竇従周賛 南宋時代・紹煕5年(1194)頃
東京・公益財団法人常盤山文庫蔵(9月26日から展示)


青磁袴腰香炉 中国・龍泉窯 南宋時代・13世紀 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
(注)本作品は展示されておりません。

 

当時は陶磁器を研究しなければという焦りで頭がいっぱいの日々でしたが、船に乗って中国を離れる友人に別れを惜しみ無事を祈る人びとが描かれたなんとも素敵な絵と、同時代の美しい青磁がいまもこのように日本で大切にされていることに感動し、なぜかふっと心が軽くなった記憶があります。
以来、博物館に着任した後も陶磁器研究会の末席に加えさせていただき、ご縁があっていろいろなご所蔵品を楽しく拝見しました。
同時に、春雄氏から古美術を蒐蔵(しゅうぞう)することの重みを教えていただいたように思います。

常盤山文庫のコレクションが当館に寄託される以前のことですが、春雄氏がご所蔵の「青磁鳳凰耳花入」(9月26日から展示)を館に持って来られたことがありました。


青磁鳳凰耳花入(せいじほうおうみみはないれ) 中国・龍泉窯 箱書 金森宗和 南宋~元時代・13世紀 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
(9月26日から展示)


ちょうど2000年から2010年代にかけて、中国で越窯(えつよう)や官窯(かんよう)、汝窯(じょよう)などの窯跡発掘成果が報告され、宋時代の青磁研究への関心が高まった時期でした。日本では、江戸時代以来もっとも美しいと評価されてきた「砧(きぬた)」青磁にあらためて注目が集まりました。

そのような頃、春雄氏と一緒に、自然光の入る当館の会議室で鳳凰耳花入と東博所蔵の青磁などを比較したのですが、龍泉窯最盛期の優品である常盤山文庫の鳳凰耳花入の美しさが際立って見えました。
この時の感動は春雄氏もしばらく忘れがたいものであったようです。孫くらい年の離れたひよっこの私に何度かお電話いただきました。

「あれはほんとうに良かったよねえ」
「やっぱりさ、自然光で見ないとダメなんだよな」

いまも声が聞こえるようです。

こうした青磁研究会がきっかけとなり、
2014年当館で開催した特別展「台北國立故宮博物院 神品至宝」で台北故宮収蔵の汝窯・官窯青磁が展観されるのにあわせて、常盤山文庫と当館の共同による特集「日本人が愛した官窯青磁」(東洋館5室)の展示を行ないました。

このとき、特集にご出品いただいた香取芳子様所蔵の青磁盤がのちに当館に寄贈されることになりました。
戦後まもなく国内で発見され、川端康成が所持した貴重な北宋汝窯の作例です。
当館の中国陶磁コレクションに欠かすことのできない逸品であることは言うまでもありません。

付属の箱の蓋裏には、川端康成が「康成」と珍しく自ら名前を書き付けています。
亡くなられたお母様がこの盤の入手にあたって川端に箱書きをお願いされた、という貴重なエピソードを香取様のご子息からうかがいました。
ちなみに、この汝窯盤を手にされたのは昭和43年(1968)のことだったそうです。ひとりの若い女性の慧眼にも驚かされます。


青磁盤 中国・汝窯 北宋時代・12世紀 香取國臣氏・芳子氏寄贈 東京国立博物館蔵
(東洋館5室「中国の陶磁」にて9月19日から2024年4月21日まで展示)

付属の箱書 「康成」:川端康成筆

 

じつは香取芳子様は、現在常盤山文庫が所蔵する青磁盤(展示中。10月22日まで展示)の旧蔵者でもありました。


青磁盤 中国 南宋時代・12~13世紀 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
(展示中。10月22日まで展示)

付属の箱書 「康成」:川端康成筆


この作品もやはり川端康成が手にしたもので、未だ解明されていない南宋期龍泉窯、および官窯の青磁の実態を探るうえで重要な手がかりとなるであろう作品です。
香取様はこの鉢を手放された後、青磁蒐集で知られた常盤山文庫の菅原春雄氏が次に入手されたことを知り、とても喜んでおられたそうです。
これら二つの盤は、宋時代を象徴する第一級の美しさをそなえており、日本人が見いだして今日まで大切に伝えてきたという事実は私たちにとって大変心強いものです。

人と作品。このような出会いと縁を大切にしながら、未来へ文化財を伝えていく使命があると痛感する日々です。

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開工芸

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posted by 三笠景子 at 2023年09月11日 (月)

 

チベットを旅した河口慧海(かわぐちえかい)の宝箱

まずはこの箱をご覧ください。


河口慧海請来風俗資料 19~20世紀 宮田恵美氏・上原スミ氏・水谷マサ氏寄贈

アクセサリーや、お金、数珠など、3つの箱にいろいろなものが丁寧に収められていて、まるで宝箱のようです。
それぞれに名前を書いた小札も貼られていて、この箱を整理した人は、とても几帳面だったのかなと想像されます。

その人の名は、日本人として初めてチベットの都ラサに到達した河口慧海(かわぐちえかい、1866~1945)。

幕末に大阪・堺の職人の家に生まれながら、志して僧侶となった慧海は、東アジアというフィルターを通した従来の仏教に飽き足らず、仏陀が生きた時代に近い仏教を求めて、すでに仏教が衰退していたインドではなくチベットを目指します。
ところが、当時はイギリスとロシアがユーラシア大陸で覇権を争う激動の時代であり、外国勢力を警戒したチベットは鎖国状態にあったため、世界中から探検隊が派遣される秘境として知られていました。
そこに単身乗り込んだのが、河口慧海でした。


西蔵服の河口慧海師肖像 高村真夫筆 昭和6年(1931) 宮田恵美氏・上原スミ氏・水谷マサ氏寄贈
(本館18室「近代の美術」にて9月12日から12月10日まで展示)


ただいま本館14室では、特集「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」(2023年8月22日~10月9日)を開催しており、慧海の姪である宮田恵美氏らからご寄贈いただいた慧海コレクションを一堂に公開しております。


特集「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」展示室風景

河口慧海請来風俗資料の展示ケース

 
さきほどご紹介した箱もその一つです。

百科事典や人名事典で「河口慧海」を調べると、「僧侶」「仏教学者」に続いて「探検家」と説明されることが多いのですが、鎖国状態にあったチベットへ密入国したエピソードがひろく知られているからでしょう。
とくに有名になったのは、帰国直後に新聞記者からの取材を受け、口述筆記を出版した『西蔵(チベット)旅行記』がきっかけでした。
現在もさまざまな版が刊行されていますが、初版は国立国会図書館のデジタルコレクションで読むことができます。
国立国会図書館デジタルコレクション『西蔵旅行記』上へ移動する
国立国会図書館デジタルコレクション『西蔵旅行記』下へ移動する


刊行は明治37年(1904)ですから、決して読みやすい文章とはいえませんが、河で溺れたり強盗に遭ったり、次々に紹介されるエピソードにハラハラドキドキが止まらず、ついページをめくってしまいます。


『西蔵旅行記』中表紙

「第二七回 氷河に溺る」挿絵

【参考画像】河口慧海著 『西蔵旅行記』上,博文館,1904. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993942 (参照 2023-09-07)
(注)本作品は展示されておりません。



もう一つ、慧海の名前を世に知らしめたのは、探検から持ち帰った様々な文物でした。

このうち、初めてのチベット探検から帰国して直後に、東京美術学校(現 東京藝術大学)で開催された展覧会には、冒頭で紹介した箱も出品されました。
このときに刊行された図録も、国立国会図書館のデジタルコレクションでご覧いただけます。
国立国会図書館デジタルコレクション『河口慧海師将来西蔵品図録』へ移動する


図書102-943(図書) 河口慧海師将来西蔵品図録 東京美術学校校友会編 明治37年(1904)

展示室でも原品をご覧いただけますが、木版画をデザインした黄色い背表紙、チベット文字と篆書体のタイトルが目をひきます。
このうち、目次にある、
45 西蔵婦人の胸掛外十四点
46 金剛手菩薩外十三点
47 古銀貨等三十五点
が、展示中の3箱に該当します。
図録に掲載される名称は、それぞれの箱の向かって右上にあるものの名前を抜粋しただけで、便宜的なもののようです。

現在、当館では「河口慧海請来風俗資料」と呼んでいますが、寄贈当時は「密教法具、儀式風俗資料その他」として登録されました。単品であれば分野ごとに名づける法則はありますが、このように混在しているものの名づけは難しく、わかりにくいのですが仕方ありません。
この宝箱、本人は何と呼んでいたのでしょうか。

名前はともかく、この図録に掲載される写真と現品を見比べてみると、いかがですか?

45 西蔵婦人の胸掛外十四点(:原品 :『河口慧海師将来西蔵品図録』)

46 金剛手菩薩外十三点(:原品 :『河口慧海師将来西蔵品図録』)

47 古銀貨等三十五点(:原品 :『河口慧海師将来西蔵品図録』)
右写真はすべて以下より。
東京美術学校校友会 編『河口慧海師将来西蔵品図録』,画報社,明37.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12683820 (参照 2023-09-07)



寄贈時点ですでに失われていたティンシャと呼ばれるシンバルを除き、当時のままであることがおわかりいただけたと思います。
もちろん、このままの状態で伝えられた訳ではなく、汚損や痛みが酷かったため、2021年に解体したうえクリーニングを施し、内装の裂も補強するなどの修理を経て、ご覧いただけるようになりました。
修理の詳細は2022年の特集展示「東京国立博物館コレクションの保存と修理」のページ内に掲載しているパンフレットをご参照ください。

完全に分類できる訳ではありませんが、図録で45に挙げている箱には、チベットやネパールの主に女性が身に着けた装飾品、46の箱には仏像やお守り、数珠といった信仰に関するもの、47の箱にはチベットやネパールの硬貨や切手、印章、鍵、筆といった実用品から、各地で採集した化石や石を収めているようです。
このたび、小札をすべて読み直し、リーフレットや展示室のパネルで紹介しておりますので、ご参照いただければ幸いです。

客員研究員で、チベットの仏教美術がご専門の田中公明先生に監修していただき、仏像の名前や地名を訂正したり補ったりしていますが、チベット文字の名称については、現在と異なっているものも多く今後の課題といえます。

この他、2回目のチベット探検からの帰国後にも展示会を開催しており、報道関係者や研究者ばかりでなく、多くの人々に驚きを与えたようです。
これらの図録はデジタル化されていませんが、『河口慧海著作集』別巻2(うしお書店、2001年)に写真が掲載されているので、ぜひ資料館でご覧ください。


菩薩立像 14~15世紀 宮田恵美氏・上原スミ氏・水谷マサ氏寄贈

釈迦三尊像 パーラ朝・9世紀 宮田恵美氏・上原スミ氏・水谷マサ氏寄贈

二臂マハーカーラ立像 19世紀 宮田恵美氏・上原スミ氏・水谷マサ氏寄贈

これらの作品は、図録のうち『美術資料』印度之部やネパール之部に掲載されています。

慧海コレクションの大半は、その没後に各地へ寄贈されました。
たとえば、仏像や仏画、法具や民俗資料など、1,500点に及ぶコレクションが、慧海の甥にあたる河口正(あきら)氏によって東北大学へ寄贈されています。
常時展示はされていませんが、主要な作品はデジタル化され、写真と解説がホームページで公開されています。
東北大学総合学術博物館 河口慧海コレクションへ移動する

また、今年はちょうど慧海が1回目のチベット探検から帰国して120年にあたるため、これを記念して出身地にある堺市博物館では企画展「河口慧海 仏教探究の旅」(2023年9月2日~10月15日)が開催されます。
当館への寄贈後もご遺族の元に残された関連資料が一挙に公開される機会で、本特集とあわせてご覧いただくことで、慧海がぐっと身近に感じられることでしょう。

慧海がどんな思いでこれらを集め、また箱に整理したのか、じっくり見ていると、慧海が隣で「これはなあ、、、」と、人々を夢中にさせた独特の語り口で、思い出まじりに解説してくれるような気がします。
 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 西木政統(登録室) at 2023年09月07日 (木)

 

姫君婚礼につき

皇居のお濠から30分ほどぶらぶらと西へ歩くと、緑豊かな赤坂御用地が見えてきます。江戸時代、紀州徳川家の中屋敷はこの地にありました。
天明7年(1787)11月27日、この江戸城から紀州邸にいたる道のりを一人の姫君が辿りました。紀州徳川家第10代藩主・徳川治宝(はるとみ、1771~1853)に嫁いだ種姫(たねひめ、1765~94)です。
もちろんぶらぶら歩いたわけではなく、白地に蓬萊模様(ほうらいもよう)の御輿に揺られ、盛大な行列を引き連れての道行でした(注)。すなわち婚礼に伴う「御輿入れ」の行列です。
(注)1089ブログ「大名婚礼調度の役割」

江戸時代の言葉の用法では、「姫君」とは将軍家の娘に限って使用された敬称でした。種姫は田安徳川家の生まれですが、11歳の時に10代将軍家治(いえはる)の養子となっているため、これをもって「姫君」と呼ばれる身分になっています。つまり種姫の婚礼は、紀州家としては将軍家の姫君を迎え入れる、きわめて重大な行事だったわけです。

紀州家側では、姫君の住まいとして「御守殿(ごしゅでん)」と呼ばれる御殿を用意しました。たいへんな大工事だったらしく、このときは御守殿ほか造営のため七千畳の畳を手配したとのこと(『南紀徳川史』巻168)。
その門が御守殿門で、これは丹塗りとする決まりがありました。いわゆる「赤門」です。東博には「黒門」(鳥取藩池田家江戸上屋敷の表門)がありますが、残念ながら赤門はありません。現存する御守殿門としては、東大の赤門がよく知られています。東博の正面から歩いても30分くらいですね。


御守殿門(赤門)
徳川種姫婚礼行列図(上巻)巻頭部分 山本養和筆 江戸時代・18~19世紀
(この場面は展示されておりません)


種姫以後、婚礼の儀礼は次第に縮小の方向へと進んでいきます。大規模な婚礼行列を引き連れた盛大なパフォーマンスは、財政難に苦しむ大名たちの実情から離れたものとなっていました。

さて、治宝には種姫のほかに側室があり、於さゑ(おさえ、栄恭院(えいきょういん))との間には二人の仲良し姉妹が生まれます。鍇姫(かたひめ、信恭院(しんきょういん)、1795~1827)と豊姫(とよひめ、鶴樹院(かくじゅいん)、1800~1845)です。鍇姫は文化11年(1814年)に仙台藩主伊達斉宗(なりむね、1796~1819)に嫁ぎました。一方、豊姫は文化13年(1816)に清水徳川家から婿を迎え、紀州徳川家第11代斉順(なりゆき、1801~46)の正室となりました。

現在、特集「姫君婚礼につき―蒔絵師総出の晴れ舞台」で展示中の「竹菱葵紋散蒔絵調度」一式は、妹の豊姫の婚礼調度と伝わっています。展示室のケースにずらりと並ぶ分量が残っていますが、当初の品目が完全に伝わっているわけではありません。
たとえば、婚礼調度として重要な位置を占める貝桶や三棚(黒棚、厨子棚、書棚)がありません。それどころか、本来は100件を越す多彩な道具があったことが記録から窺えるので、現在われわれが目にすることができるのは全体のほんの一部だということになります。


豊姫婚礼調度
竹菱葵紋散蒔絵調度 江戸時代・文化13年(1816)


面白いことに、まったく同じ意匠・技法の竹菱葵紋蒔絵調度が林原美術館(岡山)に所蔵されています。豊姫の調度にはない三棚を含むため、これらは東博の竹菱葵紋蒔絵調度と一具ではないか? と考えたくなりますが、歯黒箱(はぐろばこ)や眉作箱(まゆづくりばこ)など重複する器種もあったりします。
そこで想起されるのが、お姉さんの鍇姫です。林原美術館の調度は、伊達家伝来であることから、伊達家に嫁いだ鍇姫の調度ではないかとする説が有力です。婚礼調度は使い回されることも普通でしたが、結婚の時期も近いので姉妹同じ規格で作られたのかもしれません。

豊姫は婿養子を迎えた形ですので、婚礼調度はそのまま紀州家に残ったようです。そして半世紀近く経過した文久2年12月21日、最後の藩主、第14代茂承(もちつぐ、1844~1906)と倫宮(みちのみや、徳川則子(のりこ)、1850~1874)の婚礼の際には再利用された可能性が指摘されています。本特集の最初に展示されている白無垢の打掛は、この倫宮所用のものです。この打掛を着て婚礼にのぞむ倫宮の晴れの舞台を、豊姫の調度は再度かざることとなったのでしょうか。


打掛 白地浮織幸菱模様 徳川則子所用 江戸時代・19世紀

 

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 福島 修(特別展室) at 2023年08月25日 (金)