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特集「西日本の埴輪 -畿内・大王陵古墳の周辺-」の見方1-誕生・伝播編-

特集「西日本の埴輪-畿内・大王陵古墳の周辺-」(2014年9月9日(火)~12月7日(日)、平成館考古展示室)がはじまりました。
今回の特集展示は平成26年度考古相互貸借事業の一環として、大阪府立近つ飛鳥博物館と相互交換でお借りした埴輪を中心に構成しています。

展示全景
展示全景

展示室見取図
展示室見取図

当館の埴輪展示は、考古展示室に常設2ヵ所の展示コーナー(ステージ)があります。
いつも多くのお客さまに楽しんで頂いていますが、今回は普段、なかなかお目にかけることができない西日本の埴輪が「主役」です。


そもそも「埴輪の起原」は岡山県を中心とした瀬戸内から近畿地方にあります。
古墳時代の始まり(3世紀後半)と共に出現した(土管のような・・・)円筒埴輪と壺形埴輪が最初です。
発掘などの調査・研究活動の結果、1960年頃から次第に、その「誕生の秘密」が明らかにされてきました。

それは、弥生時代終末頃(3世紀前半頃)の墳墓(墳丘墓)で、祖先を祭る祭祀に用いられたと考えられている特殊器台形土器とよばれる“筒形”の土器と、それに載せていた壺形の土器が変化して生まれたというものです。
埴輪といえば、誰もが想い出す(おなじみの・・・)さまざまなカタチの形象埴輪は、かなり遅れて登場することも明らかになってきました。

形象埴輪は、まず4世紀中頃から後半に家形や蓋(きぬがさ)形、甲冑・盾・靫(ゆき)形や船形などの器財埴輪や、鶏・水鳥形などといった鳥形埴輪が現れます。

家形埴輪ステージ
家形埴輪ステージ(中央:家形埴輪群(群馬県伊勢崎市赤堀茶臼山古墳出土、
前列左端
:短甲形埴輪(群馬県藤岡市白石稲荷山古墳出土)、前列右端:蓋形埴輪(奈良県磯城郡三宅町石見出土)

やがて5世紀後半には、新たに人物・動物埴輪が加わります。
葬送儀礼に関わるさまざまな場面を表現する形象埴輪が、次第に揃っていった様子がうかがわれます。
1970年代以降には、このような埴輪群が5世紀末頃までに、日本列島の東北南部から九州南部地方にまで拡がっていったことも明らかにされました。

人物・動物埴輪ステージ
左:人物・動物埴輪ステージ(手前:巫女形埴輪(群馬県伊勢崎市古海出土))、右:猪形埴輪・犬形埴輪(群馬県伊勢崎市天神山古墳出土)


一方、畿内地方の巨大な大王陵古墳と地方の大型前方後円墳の墳丘は、しばしば相似形であることが注目されてきました。
当然、巨大な墳丘を築くにためには高度な測量や土木技術が必要であることはいうまでもありません。
また、日本列島各地で築造された大型古墳には、このような器財埴輪を含む埴輪群を備えた例が多いことにも注意する必要があります。

大型前方後円墳測量図
大型前方後円墳測量図 左:九州・宮崎県女狭穂塚古墳(西都市:全長176m)、右:畿内・大阪府伝仲津媛陵古墳(羽曳野市仲ッ山古墳:全長283m)

このような墳丘や埴輪にみられる「文化伝播の背景」には、古墳の築造に必要な墳丘構築と(土器と比べて“超”大型の焼き物である・・・)埴輪製作における密接な技術交流があったとみられます。
まさに、畿内地方の埴輪は全国の「埴輪造りの基準」であったのです。


今回の主役の埴輪が生まれた奈良県や大阪府は、畿内と呼ばれた古代日本の中心地の一つです。
世界最大の墳墓遺跡である伝仁徳天皇陵古墳(大阪府堺市大山古墳:全長486m)をはじめとした巨大な大王陵古墳が多数築造されたことで知られます。
とくに大阪平野では、巨大な古墳が4世紀末頃から5世紀に次々と築造され、現在世界遺産への登録を目指している古市・百舌鳥古墳群といった巨大古墳群が形成されました。

もちろん古墳時代(3世紀後半~7世紀)の中枢地域ですので、もっとも多量に大型の埴輪が生産された地方でもあり、人物・動物埴輪などの形象埴輪の主な新たな器種が最初に造られた可能性がもっとも高い地方でもあるのです。


さて、当館の埴輪はご承知のように、関東地方の家形埴輪や人物・動物埴輪が中心です。
そのため、残念ながらこのような畿内地方の埴輪ほとんどありません。

今回は、畿内中枢地域の埴輪を展示出来る絶好の機会ですので、(当館の人気者?である)人物・動物埴輪が生み出されたプロセスも併せてご覧頂けるようにテーマの構成を組み立てています。
1. 西日本の埴輪
2. 畿内地方の円筒埴輪
3. 人物・動物埴輪の出現

1. では、古墳時代前半期の埴輪のうち、畿内と地方の代表的な形象埴輪を中心にご覧頂きます。
大型船を象ったと考えられる宮崎県西都原古墳群出土の船形埴輪と、東日本ではみられない立派な入母屋造屋根をもつ奈良県出土の家形埴輪はその典型です。
いずれも重要文化財にも指定されており、器財埴輪として戦前から有名なものです。

左:西日本(前半期)の埴輪(全景)、右:器財埴輪模式図(阪口編2014より)
:西日本(前半期)の埴輪(全景)、右:器財埴輪模式図(阪口編2014より)

一方、4~5世紀の畿内地方で著しく発達した埴輪は、古墳時代中期(4世紀末~5世紀末)には東北の岩手県から九州の鹿児島県まで伝播します。
当然・・・、畿内地方との技術交流の存在が想定でき、人々がダイナミックに交流する姿が浮かび上がります。
まず、畿内(中央)と地方の埴輪における技術的な親縁性や文化伝播の背景を感じ取って頂ければと思います。

次に、2. では大王陵古墳が集中する大阪平野の古市古墳群の円筒埴輪を展示しています。
なかでも最大の大型円筒埴輪は高さ160㎝を超える雄大な大型品で、(普段目にしている・・・)小型の埴輪からは想像できないほどの労力(情熱?・エネルギー?)が注がれたことは容易に想像できます。
用途は円筒棺とよばれる埴製の棺ですが、その雄大な規模や近年の発掘調査の事例から、大王陵古墳の円筒埴輪とほぼ同等な製品であると考えられています。

 左:畿内(古市古墳群)の埴輪(全景)、右:古市古墳群分布図
:畿内(古市古墳群)の埴輪(全景)、右:古市古墳群分布図

出土した大阪府藤井寺市土師の里遺跡は、古市古墳群の“ド”真ん中に存在します。
1970年代から発掘調査によって、古墳群の築造開始とともに成立した、多数の埴輪窯を伴った埴輪生産に携わった人々の集落遺跡であることが判明しました。
円筒埴輪の技術で製作される円筒棺は、大王陵古墳をはじめとした古墳造りで当時の王権を支えた集団のリーダーであった人物のための特別な棺であったとみられます。
畿内地方における大王陵古墳周辺の埴輪の規模と質感、(あるいは・・・)製作した人々の息吹も“実感”して頂けるのではないかと思います。

最後は、3. の古墳時代後半期の埴輪です。
形象埴輪群の構成・造形の移り変わりにおいて、もっとも大きな変化(画期)を紹介します。
器財埴輪はこれまでと大きくフォルムを変え、家形埴輪に代表される埴輪独自ともいえる独特な造形が確立する時期です。
しかし、もっとも大きな特色は、なんといっても新たに登場した人物・動物埴輪の出現でしょう。

左:後半期の埴輪(全景)、右:猪形埴輪(大阪府藤井寺市青山4号墳出土)
:後半期の埴輪(全景)、右:猪形埴輪(大阪府藤井寺市青山4号墳出土)

5世紀中頃に出現する女子(巫女)形・馬形埴輪に続いて、5世紀後半にはさまざまな人物埴輪・動物埴輪が登場します。
人物埴輪は少数の全身像と大多数の半身像のさまざまな男女像で構成されています。
その種類は男子埴輪を中心にして、盛装の男女形をはじめ、武人・楽人・力士形などなど、実に50以上もあります。

一方、動物埴輪には鹿・猪・犬・猿形などや水鳥形などの鳥形埴輪がありますが、なかには猪・犬形埴輪が狩人とみられる人物埴輪とセットで狩猟場面を表す例などもあります。
いずれも群で表現される物語性をもった造形であることが、これまでの埴輪にはない大きな特色のひとつです。


一口に埴輪と言っても、その誕生から終焉の間には、劇的な変化が起きていたことがお解り頂けたことと思います。
このような変化は1970年代以降の研究によって、埴輪が突如として造られなくなる6世紀末ごろまで全国共通の変化であることも明らかにされてきました。
その“震源地”は常に畿内地方で、全国の埴輪造りに大きく関わっていたことも近年の研究でいよいよ明らかになってきています。


埴輪に限らず、「原点(原資料)」を見つめることは、多くの事実やヒントに気づかせてくれます。
今回の特集展示では、“原点の埴輪”を比較・観察して頂くことによって、時代の変化とともに移り変わっていった埴輪群の構成や造形の変化のありさまをじっくりご覧頂けることと思います。

このような変化の“原動力”とその歴史的な意味を明らかにすることができれば、当時の人々の世界観の一端に触れることが可能となる日もそう遠くないに違いありません。

それには、やはり今一度、埴輪自身を見つめることが第一歩です。
次回は、埴輪のカタチや造形の特色を決定づける「製作技術の秘密」についてお話しします。


ギャラリートーク
西日本の埴輪の造形・変遷と伝播」2014年10月21日(火) 14:00~14:30  平成館考古展示室
円筒埴輪と形象埴輪の見方」 2014年11月7日(金) 18:30~19:00  東洋館ミュージアムシアター

カテゴリ:研究員のイチオシ考古特集・特別公開

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2014年10月03日 (金)

 

特集陳列「本州最西端の弥生文化-響灘と山口・綾羅木郷遺跡-」の見どころ(魅ドコロ・・・)3-交流トピック編

特集陳列「本州最西端の弥生文化-響灘と山口・綾羅木郷遺跡-」[2013年10月29日(火)~2014年3月9日(日)]ものこすところ、あと3週間たらずとなりました。

左)展示入口サイン、右)響灘沿岸部遺跡分布図
左)展示入口サイン、右)響灘沿岸部遺跡分布図

今回は、当館の収蔵品にはないため、普段お目にかけることができない展示品に注目して頂きたいと思います。
それぞれの見どころやまつわるエピソードをご紹介しつつ、弥生時代前期の響灘沿岸地方の人々がたずさわった朝鮮半島や山陰・瀬戸内地方との交流の歴史も考えてみたいと思います。


まず、綾羅木郷遺跡を有名にしたのは、なんといっても最初のガイダンス(響灘の弥生文化)コーナーに展示されている「土笛」です。
すぼまった上部に小さな口縁部をもつ中空の倒卵形で、高さ8センチにも満たない小さな土製品です。

響灘の弥生文化[甕・壺(綾羅木Ⅲ式)と土笛・武器形磨製石器・玉類] 土笛[正面・高7.1㎝]
左)響灘の弥生文化[甕・壺(綾羅木III式)と土笛・武器形磨製石器・玉類]、右)土笛[正面・高7.1㎝]

口縁部の周辺をやや欠いていますが・・・、両手で持つとちょうど手の平にスッポリと納まる大きさです。
正面には四つ、背面には二つの孔が開けられ、実に不思議な形をしています。

1967年、発掘担当者であった国分直一博士は、古代中国・殷代の礼楽器の陶塤(とうけん)に似ていることから口縁部を吹口、側面の孔を指孔とみて、農耕儀礼(?)に使った楽器の一種ではないかと考えました。
また、これを知った地元の画家・松岡敏行氏が粘土を焼いて製作した模造品で実験を行った結果、草笛に近い音色でメロディーを奏でることができることが判りました。
ちなみに松岡さんは芸大・日本画のご出身で、卒業制作では当館で見た弥生土器と埴輪をあしらった静物画を描いたそうです。

その後、復元品を松岡氏の個展で見て深く興味を覚えた、これまた地元の作曲家・町田洋氏が演奏活動やリサイタルを続け、1978年には(ついに!)LPレコード(東芝EMI)を出すなど、広く知られるようになりました。


さて、このような「土笛」は近年の発掘調査の進展で、弥生時代前期~中期にかけて響灘沿岸部や山陰・京都北部地方に広く分布することが判ってきました。
とくに山口県下関市周辺、島根県松江市から鳥取県米子市にかけての一帯、京都府峰山町などの丹後半島一帯の3地域で集中的に出土しています。なかでも、島根県西川津遺跡とタテチョウ遺跡では、それぞれ約20点も出土しています。

一方、西方の九州では福岡県福津市・宗像市域を西限として、いずれも響灘沿岸部に止まっています。
日本列島で最初に稲作文化が根付いた玄界灘沿岸より西側では、(なぜか・・・)出土していませんし、朝鮮半島でも未発見です。

 
上)弥生時代前期 綾羅木式土器・土笛等 分布図

綾羅木式土器の文様[Ⅱ式:山形重弧文・Ⅲ式:貝殻重弧文]
上)弥生時代前期 綾羅木式土器・土笛等 分布図、下)綾羅木式土器の文様[II式:山形重弧文・III式:貝殻重弧文]

そこで分布図をよく見てみると・・・、その分布範囲は独特な山形重弧文や各種の貝殻文で知られる「綾羅木式土器」の分布圏とピッタリ重なっていることが判ります。
どうも九州の響灘沿岸部から山陰の日本海側の弥生文化に共有されていた特有な文物で、独自の儀礼を伴う稲作文化であった可能性も指摘されています。
日本最古の農耕文化が成立した玄界灘や有明海沿岸などの北西部九州地方とは異なった地域文化の存在と、北東部九州と山陰地方の人々の交流が浮かび上がります。


次は、そのお隣の「磨製石剣・石鏃」を挟んで展示されている小さな玉類に注目してみましょう。
ホントに小さな出土品(3は直径2mm!)ですので、ウッカリ見落としてしまいそうですが・・・。
実は今回の展覧会の“白眉”ともいえる存在です。

左)装身具展示状況、右)勾玉・丸玉・小玉[上:アマゾナイト製、下:貝製]
左)装身具展示状況、右)勾玉・丸玉・小玉[上:アマゾナイト製、下:貝製]

まず、小さな白い貝製小玉は貝珠とも呼ばれ、二枚貝を加工して作られています。
縄文時代晩期から弥生時代前期にかけて、朝鮮半島南部と五島列島、および北部九州や中国地方の一部に分布しています。
一般的な日本列島出土品より朝鮮半島南部出土品は大型で、響灘沿岸部の出土品はとくに繊細で小型といった地域性もあります。

一方、鮮やかな緑色の玉はアマゾナイト(天河石)という珍しい石で、朝鮮半島の青銅器文化にしばしば登場する石材です。
獣形・半環状などの独特の垂飾類が発達しますが、綾羅木郷遺跡出土品は形態や石材が大変よく似ています。日本列島では弥生時代前期から中期にかけて、まだ10数例しか知られていません。
ほとんどが北部九州地方に偏って分布することも特徴で、大陸からもたらされた青銅器文化と共に運ばれてきた可能性が高い文物と考えられています。
これらの玉類は、朝鮮半島と日本列島の人々の文化交流を如実に物語るものでしょう。


もう一つ、ケース中央に展示している二つの小さな土器に注目して頂きます。
装飾的でひときわ大型の土器が多い綾羅木III式土器の中で、文様もなく(何の変哲もない?)かなり“地味~”な土器です。
口縁部の対称的な位置に2孔一組の孔が空いた土器が無頸壺(4)で、口縁部に三角形状の突帯をもつカップ形の土器が無文土器(2)です(ホントにかわいらしい土器ですね)。

左)綾羅木Ⅲ式土器、右)無頸壺(4)と無文土器(2)
左)綾羅木III式土器、右)無頸壺(4)と無文土器(2)

無頸壺は、北部九州から瀬戸内海地方で弥生時代前期後半に現れた土器です。
中期に盛行することから、地方色が顕在化する中期弥生文化を象徴する存在とも考えられています。
綾羅木式土器が分布する瀬戸内海地方との交流が背景にあったことがうかがわれます。

一方、無文土器はもともと朝鮮半島の青銅器~初期鉄器時代の農耕社会で使用された土器です。
胎土は弥生土器と似ていますが、とくに甕形土器は指ナデで造るために凸凹(デコボコ)が著しく、弥生土器には見られない口縁部粘土紐や円板底の底部などが特徴です。
弥生時代前期後半から中期にかけて、北部九州地方を中心に近畿地方まで分布し、渡来人の直接的な影響の範囲を示すものとして注目されています。


ところで、綾羅木III式期(前期末頃)の綾羅木郷遺跡は、2~3重環濠に囲まれた集落が最大になった時期で、近畿北部や四国北西部地方にまで綾羅木III式土器が拡がった時期です。
綾羅木郷遺跡の人々がもっとも活動的であった時代といえるでしょう。

左)綾羅木Ⅲ式土器、右)無頸壺(4)と無文土器(2)
左)無頸壺[高10.2㎝]、中)無文土器[高12.6㎝]、右)綾羅木壕遺跡の環濠集落(西部地区)

1974年、同じ前期末頃の福岡県師岡B遺跡の発掘調査では、弥生土器よりも多くの無文土器を使用する人々(渡来人?)の集落が営まれていたことが判明して関係者を驚かせました。
また、少し後の中期初頭には、対馬海峡を挟む韓国・釜山の莱城(ネソン)遺跡で出土土器の90%以上が弥生土器という特異な住居跡も見つかっています。
ひょっとして、中世の中国や東南アジアに建設された「日本人町」を彷彿とさせるもの(?)かもしれません・・・。

いずれの遺跡も日本と韓国で、在地の土器とは異なる(当時の)“外国”の人々が使う土器を多数保有する集落です。
交流によって海を渡った人々の生活の痕跡が残された遺跡とみられ、相互に地元では手に入らない資源を求め、交易等を行っていた人々の姿が目に浮かぶようです。
これらの土器は、日本列島に稲作文化が急速に拡大するとともに、新しく大陸からもたらされた青銅器の生産が開始される時代に、綾羅木郷遺跡の人々のアクティブな活動をうかがわせる重要な“証人”でもあるということができます。


ややもすると、装飾豊かな土器や煌(きら)びやかな金属器にばかり目を奪われがちですが・・・、
今回ご紹介したような小さな、ときに地味な造形の中には、しばしば当時の人々のダイナミックな活動がストレートに「記録」されていることがあります。

これらの「小さな造形」に秘められた当時の人々の活躍ぶりと、歴史の大きな“うねり”を感じ取って頂ければ幸いです。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2014年02月21日 (金)

 

特集陳列「本州最西端の弥生文化-響灘と山口・綾羅木郷遺跡-」の見どころ(魅ドコロ…) 2 -食べモノ事情編

現在、平成館考古展示室では昨年10月29日から本年3月9日まで平成25年度考古相互貸借事業として、特集陳列「本州最西端の弥生文化 -響灘と山口・綾羅木郷遺跡-」を開催しています。
会期は残すところひと月余りとなりましたが、もうご覧いただけましたでしょうか?

展示風景
展示風景

この特集陳列では、通常の発掘調査ではなかなか検出されることのない、食糧残滓をはじめとする動物や植物の遺存体を展示しています。これら有機質の資料は、弥生時代の食料(たべもの)を考える上でとても貴重ですが、残念ながら当館にはこれだけ豊富な有機質資料は所蔵されていません。
そこで今回は、綾羅木郷遺跡から出土した海の幸、山の幸、コメと木の実にスポットを当てて弥生時代の“食べモノ事情”についてご紹介いたします。


海の幸

綾羅木郷遺跡は山口県下関市に所在し、西には響灘に面し、南は関門海峡を経て周防灘へつながっています。
これまでの発掘調査によって、綾羅木郷遺跡では約600基もの貯蔵穴が検出されており、そうした貯蔵穴から魚骨や海獣骨など、当時の環境を反映した動物遺存体がたくさん出土しています。

出土動物骨
出土動物遺存体(1:ウニの棘  2:エイの尾棘  3:カニの脚爪 4:マダイ上顎骨 5:クジラの骨 6:硬骨魚下顎骨)

綾羅木郷遺跡では、マダイ、キチヌ、エイ、フエダイ科などの魚骨、ウニの棘やカニの脚爪、ヤマトシジミやハマグリ、サザエをはじめとする貝類、クジラやニホンアシカなどの海獣骨が出土しています。
マダイは深い岩場や砂底に生息し、キチヌは沿岸の浅い海の岩場や河口付近の汽水域を好むといわれています。フエダイはやはり沿岸部の岩場を好む魚です。響灘や綾羅木川河口付近でこうした魚を捕えていたと推測されます。
同じく遺跡から出土している骨製ヤスやクジラ骨製のアワビおこし、土錘や石錘などの漁撈具から考えると、当時は刺突漁、潜水漁、網猟などが活発であったことが窺えます。

骨角器
骨角器(2:アワビおこし、3:ヤス)

注目すべきは、クジラやニホンアシカなどの骨が検出されていることです。
特にクジラのような大きな動物を丸木舟で捕獲するのはとても危険で大変な作業であったにちがいありません。そのため、当時は浜辺に打ち上げられた漂着クジラを利用していたのではないかと推定されています。
いずれにせよ、綾羅木郷遺跡の弥生人は、内海だけではなく、時にはこうした大型の海獣を漁撈の対象として積極的に外海にも展開していた可能性があります。


山の幸
次に山の幸を見てみましょう。
綾羅木郷遺跡ではイノシシ、ニホンジカ、タヌキ、クマネズミ、モグラ類、ニホンザル、カモ類などが出土しています。特集陳列では、そのうちイノシシとニホンジカ、ニホンザルの骨を展示しています。いわば当時の弥生人の食べあとです。
これらの動物の多くは、現代でも里山周辺など、人間の生活環境で見かけることがあるように、当時も集落周辺に生息していたと考えられます。捕えた動物はその肉以外にも、毛皮、骨、角、牙など余すところなく生活道具の材料として利用されていたことが、出土した骨製のヤスやアワビおこし、縫い針などから窺えます。

出土動物骨
出土動物骨(1:ニホンジカの下顎骨  2:イノシシの上腕骨  3:ニホンザルの中手骨)

また、綾羅木郷遺跡からは小ぶりな打製石鏃が出土しています。明確な落とし穴は見つかっていませんが、イヌを使った追い込み猟や落とし穴猟が行われていたと考えられます。 
なお、こうした狩猟の場面を表すものに当館の銅鐸(伝香川県出土:国宝)があります。この銅鐸には袈裟襷文と呼ばれる文様区画の中に12場面の「絵画」が描かれていますが、その中にイヌを使ったイノシシ狩りや、人が弓に矢をつがえてシカを射ようとする場面があります。
綾羅木郷遺跡出土の動物骨は、この絵画に描かれた狩猟場面をよりリアルに伝えてくれる貴重な証拠ともいえるのではないでしょうか。

銅鐸の絵
国宝 銅鐸 伝香川県出土 弥生時代(中期)・前2~前1世紀 (2014年6月15日(日)まで平成館考古展示室にて展示)
左:イノシシ狩のようす 右:弓に矢をつがえてシカを狙う人物


炭化米と木の実

綾羅木郷遺跡では貯蔵穴からコメやムギなどの穀類、堅果類や果実の種などが出土しています。
炭化米は文字どおり炭化したコメです。地中に無酸素状態で埋没した結果、黒く変色したものや、焼け焦げたものを指します。綾羅木郷遺跡では貯蔵穴などから7,000粒を超える炭化米が検出されています。これらのコメは現在日本で一般的に食べられているお米と同じタイプのもの(ジャポニカ種)と推定されています。
また、間接的な証拠ですが、土器の底に籾痕がついた破片も見つかっています。土器作りの際に誤って籾が付着してしまったのでしょうか。

出土炭化米
左:炭化米 中:籾圧痕付土器(底部) 右:シイの実

ここで注意しなければならないことは、弥生時代の人々にとって、コメが日常的に食べられる食料であったかどうかです。ある研究の結果、弥生時代の一人が一日に口できるお米は前期で一勺(しゃく)程度、中期で六勺から一合程度、後期でも二合に至らないとする試算があります。
一勺は一合の10分の1、一升の100分の1という小さな単位です。もしこの数値が妥当であるならば、弥生時代の人々にとってコメはとても貴重な食料であり、毎食お腹いっぱい口にできるものではなかったと言わざるをえません。

植物食の出土遺跡数     弥生時代出土の穀物比率       
左:植物食の出土遺跡数 右:弥生時代出土の穀物比率
(森浩一編 1986 『日本の古代 4  縄文・弥生の生活』 中央公論社 ※寺沢薫論文より引用)


その一方で、縄文時代には身近であったどんぐりなどの木の実の利用はどうでしょうか。綾羅木郷遺跡でもスダジイ、マテバシイ、クリなどの木の実や、モモやウメなどの果実の種がたくさん出土しています。
今回はシイの実を展示しています。炭化していますが、形や大きさがよく分かります。
いわゆるどんぐりの中に、アク抜きなどの下ごしらえが必要なものもありますが、スダジイやマテバシイの実はアクが少なく利用しやすい木の実といえます。スダジイ、マテバシイは西日本の常緑照葉樹林にみられる木です。

どんぐり
左から、原生のスダジイ・マテバシイ・クリの実
(北川尚史監修・伊藤ふくお著 2007年 『どんぐりの図鑑』 トンボ出版より作成)



一般的に、弥生時代の食生活はコメを中心としたものと思われがちです。これはおそらく弥生文化が稲作に代表される農耕文化であるというイメージが強いからではないでしょうか。
ところが、ご覧いただいたように、弥生時代の人々はコメ以外のさまざまな食材も巧みに利用していたと考えられます。コメという魅力的でありながらも、天候や虫害などの影響で収穫量が不安定であった新来の作物の栽培を進めつつ、日々の生活では縄文時代以来の伝統的な食材をふんだんに利用していた食生活を窺うことができるのではないでしょうか。
炭化したコメやシイの実を見つめていると、当時の人々の巧みな知恵を感じることができるような気がします。


今回は綾羅木郷遺跡出土の有機物を中心に“食べモノ事情”についてご紹介しました。
綾羅木郷遺跡の弥生人は、コメ作りという一年を通じた農作業の中に、狩猟・漁撈・採集といった縄文時代からつづく伝統的な営みを巧みに取り込んでいたと考えられます。
展示されている綾羅木郷遺跡出土の動植物の遺存体を通じて、皆様に弥生時代の人々のくらしをお考えいただく機会になれば幸いです。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 井出浩正(考古室) at 2014年01月31日 (金)

 

特集陳列「本州最西端の弥生文化-響灘と山口・綾羅木郷遺跡-」の見どころ(魅ドコロ…) 1

現在開催中の特集陳列「本州最西端の弥生文化-響灘と山口・綾羅木郷遺跡-」(2013年10月29日(火)~2014年3月9日(日)、平成館考古展示室)の展示の構成と見どころをご紹介します。
  
展示風景と館内サイン

館内サイン
展示風景(冒頭から)・館内案内サイン

今回の展示は、本州最西端に位置する響灘沿岸の山口県下関市・綾羅木郷遺跡が舞台です。
弥生時代前期を中心として、2~3重の環濠に囲まれた大規模な集落遺跡で、南北を梶栗川と綾羅木川の沖積地に挟まれた台地上に拡がっています。

明治時代から知られた遺跡でしたが、九州北西部地方の前期弥生文化と同様な大型袋状土坑が約1000基近くも発見されたことでも注目されました。
1956年以降に度重なる発掘調査が行われ、1969年の遺跡破壊事件をきっかけに国の史跡に指定されました。
事態を重くみた文化庁がわずか4日間(休日を挟む…)で史跡指定の手続きを完了するという、ドラマチックな経緯で保存された遺跡としても有名です。
市民の保存運動や調査研究・行政担当者など、多くの関係者の努力によって守られた遺跡です。

1995年にオープンした下関市立考古博物館は、このような経緯で生まれた我が国を代表するサイトミュージアム(史跡博物館)の一つです。
本特集陳列は平成25年度文化庁考古資料相互活用事業によって、同博物館所蔵の出土品で特色ある綾羅木郷遺跡の弥生文化をご紹介するものです。

左)綾羅木郷遺跡 遺構分布図(西部:石仏・岡地区)、右)下関市立考古博物館 入口外観 下関市立考古博物館 入口外観
綾羅木郷遺跡 遺構分布図(西部:石仏・岡地区)、右下関市立考古博物館 入口外観

約1万2千年以前から約1万年ほど続いた縄文文化は、南北に長く連なる日本列島の四季とそれぞれの土地柄を活かした日本列島独自の新石器文化でした。
地方毎に、実に多様な生活が展開していたと考えられています。

一方、弥生時代は日本列島で本格的な農耕文化が根づいた時代です。
稲作を中心とする農耕技術が朝鮮半島を経てもたらされ、人々が一年の相当な期間、特定の土地(水田や畑)で農作業に従事することが必要となりました。
日々の生活がそれまでに経験したことがないリズム…に大きく転換し、人々の生活全体が激しく変化した時代といえます。

中学や高校の教科書にも必ず登場する一般的な弥生時代像は、静岡県登呂遺跡や畿内地方の大集落遺跡など、中期~後期の遺跡から復原された景観がほとんどです。
安定した時代は、規模も資料も多くイメージし易いものですが、このような時代の転換期に人々はどのように立ち向かい、また激しい生活の変化を受け入れていったのでしょうか?
そこには人々が農耕を始めるにあたって、多くの試行錯誤やさまざまな葛藤があったのに違いありません。


今回の展示は、激動の弥生時代前期の綾羅木郷遺跡の人々の生活ぶりを中心に、つぎのような大きく2つの部分[1・2+3]と、4つのコーナー[(1)~(4)]で構成しています。

1、響灘の弥生文化(ガイダンス)
2、綾羅木郷遺跡の交流と展開 
    1)綾羅木I式土器(前期後半)
    2)綾羅木II式土器(前期後半)と、(1)弥生農耕・(2)狩猟漁撈(生業具)
    3)綾羅木III式土器(前期末 )と、(3)海の幸(海産物)
    4)綾羅木IV式土器(中期初頭)と、(4)山の幸(陸産物)
3、信仰と生活

響灘の弥生文化
1響灘の弥生文化[後列:甕・壺(綾羅木III式土器)、前列左:土笛、同中:武器形磨製石器、同右:装身具(玉類)]
土笛

1は、ガイダンス部分で、綾羅木郷遺跡の象徴する部分(エッセンス…)を集めたコーナーです。
遺跡がもっとも拡大・発展した時期の綾羅木III式土器(壺・甕)と、響灘から日本海側沿岸の弥生文化に特有な土笛、西日本の前期弥生文化に特徴的な武器形磨製石器と、特異な石材の玉類(装身具)を展示しています。
土器がもっとも大型化した(雄大な…)姿が印象的です。

次の2では、綾羅木郷遺跡の集落の展開を、時期ごとに展示しています。
まず、1)は集落が形成しはじめる綾羅木I式土器です。
九州北西部地方のいわゆる遠賀川式土器(弥生時代前期)とよく似た土器も多く、文化の共通性が高いことがわかります(しかしすでに多くの壺には文様が…)。
2)は、壺の文様が美しい綾羅木II式土器で、この地方独特のスタイルが確立しつつあることが窺われます。貝殻を使って描いた綾杉文や山形重弧文を中心とした文様のバラエティがなかなかオシャレな感じですね。

綾羅木郷遺跡の交流と展開 
2綾羅木郷遺跡の交流と展開[左:綾羅木I式土器(壺・鉢・台付鉢)、右:綾羅木III式土器(壺・無頸壺・甕・鉢・蓋・無文土器)]

さらに、もっとも集落が発達した3)の綾羅木III式期では、土器が多様化し、主要な器種は大型化して、壺形土器の独特なソロバン玉形の形態が目を惹きます。
もちろん、文様はさらに発達して密に施されています。

ところが、4)の綾羅木IV式土器では文様がほとんど失われ、器種も減少して大きさも小ぶりになってしまいます。
そして、なぜか集落も衰えて消滅してゆきますが、この急速な変化の謎については、機会を改めて考えてみたいと思います。

    

綾羅木式土器 文様コレクション[上左・上中:I式、上右下左:I式、下中下右:I式]
それぞれどの土器か、是非探してみてください


次に、(これらの土器群の間に・・・)綾羅木郷人の生活ぶりを4つのコーナーに分けて展示しています。
(1)・(2)は、農耕やその他の食料獲得に用いた道具と収穫物を展示し、綾羅木郷遺跡の農耕とその他の生業活動の特徴をご覧いただきます。

(1)の石包丁は、東アジアの初期農耕文化に共通の収穫具で、炭化米・籾の圧痕なども稲作農耕社会の成立を感じさせるものです。ところが、炭化物にはシイの実(?!…)が含まれることが注目されます。
一方、(2)石鏃・ヤスは鳥類や小動物を捕らえていたことを示しています。また、土錘・アワビオコシは魚類だけでなく、浅海に生息する魚介類も盛んに獲っていたことが判ります。

しかし・・・そういえばこのような道具は、縄文文化にポピュラーな道具として知られているものを多く含んでいます。
ひょっとして、縄文文化とのつながりはどうなのでしょうか?。

  


上:(1)稲作農耕[左:石包丁、中・右:炭化物(米粒・シイの実)、奥:籾圧痕土器(壺底部)]、
下:(2)収穫具と漁撈具[打製石器(1石鎌
2石鏃)と漁撈具(1土錘2アワビオコシ3ヤス)]

また、次の(3)・(4)に見られる綾羅木郷の人々が食べた動物の骨など(いわゆる食べカスですが…)は、実に多様(で縄文的?)です。
イノシシにシカ・サル、ウニ・カニ・アワビやマダイにクジラなどなど、まさに「海の幸・山の幸(!)」をふんだんに利用している人々の姿が浮かび上がってきます(ずいぶんとグルメですね…)。

実は、同様な食料そのものや収穫具・狩猟漁撈具を出土する遺跡は、弥生時代前期の西日本には広く分布していることに注意する必要があります。
とくに、九州南部から瀬戸内・日本海側や東海地方には貝塚も多くみられます。

なかでも、(2)の石鎌は九州から東海地方に分布する弥生文化に特有な道具ですが、そのうちの約8割が九州北岸部、それも響灘沿岸部に集中しています。
石包丁は主に稲などの穀物の収穫具ですので…、そのほかの雑穀を収穫する道具とも考えられています。
もしかすると、稲作で学んだ新しい生活のサイクルを応用して、新しい植物栽培に挑戦していたのかもしれません。


このように綾羅木郷遺跡は海・山の資源を積極的に利用し、さらに稲作以外の農耕も行なっていた弥生文化の中心でもあったようです。
大陸からの渡来人の“仕業”とは思えない活動ぶりで、綾羅木郷弥生人のルーツをうかがわせるものと言えそうです。

そのもう一つの“証拠”は、次の「3.信仰と生活」で展示しているスタンダードな「弥生文化の道具(鉄器・磨製石器・紡織具など)」に混じるさまざまな“見慣れない”道具でしょう。
 
信仰と生活(石製工具・鉄製工具・紡織具・玉砥石・シンボル石など)
3信仰と生活(石製工具・鉄製工具・紡織具・玉砥石・シンボル石など)

その意味は、稲作が日本列島でもっとも早く定着したことで知られる九州西北部(玄界灘沿岸)地方にはない「土笛」の存在とも併せて、改めて考えてみたいと思います。


ところで(その前に…)、
綾羅木郷遺跡が多くの関係者の努力によって、遺跡の内容が明らかにされ保存されたことは、冒頭でご紹介しました。
このたび、発掘当初から発掘調査・研究と保存活動の中心的な役割を果たされたお二人の先生にお話を伺う特別講演会を予定しています。
金関先生は戦後の弥生時代研究を常にリードされてきた研究者としても著名ですね。

綾羅木郷遺跡の(歴史的意義も含めて)“全貌”をわかりやすくご紹介して頂く内容になると思います。
まずは、発掘調査担当者のお話(=マサに第1次資料!ですね)をじっくりお聴きする貴重な機会ですので、是非ご来場ください。


東京国立博物館・日本考古学会共催特別講演会
日時 2013年12月14日(土)13:30~15:00(一般公開・入場無料)
会場 東京国立博物館 平成館大講堂
講師 元下関市教育委員会 文化課主幹 伊東照雄氏
大阪府立弥生文化博物館 名誉館長 金関 恕氏 
演題 (講演・対談)「山口県綾羅木郷遺跡の保存と活用 -弥生時代前期における歴史的意義を巡って-」

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2013年12月11日 (水)

 

特集陳列「うつす・つくる・のこす」のみどころ(2)

10月20日(日)まで開かれている特集陳列「うつす・つくる・のこす -近代・現代の考古資料の記録-」のみどころをご紹介します。

先日(10月1日、8日)の列品解説では(“選手交代”しつつ)2回にわたって、本展示の軸をなす絵画・復原図などを中心に、作品・作家にまつわるエピソードやその時代背景などをお話しました。
2回目では、展示の全体構成が前半の収蔵資料の保存(「うつす・つくる→のこす」)に努力した段階から、後半の収蔵資料を研究する段階への変化を踏まえていることもご紹介しました。

展示風景
展示室風景:(左)北側ケース全景、(右)南側ケース全景

これは前回のブログで、明治・大正期(展示室北側)の「現状の把握」段階から、昭和初期(展示室南側)の「過去の復原」段階として紹介された内容とも対応するものです。
それは、1882(明治15)年に開館したJ.コンドルのレンガ造りの旧本館と、関東大震災(1923年)を契機に再建された復興本館(現在の本館)の展示構成に表れていたと考えられます。

本特集陳列の展示品は、私たちからは想像しにくい(=忘れかけている?)このような明治・大正期から昭和初期のドラスティックな変化を物語る、いわば貴重な“証言者”でもあるといえます。
今回はこれまでご紹介してきた以外にも、時代毎の我々日本人の過去や祖先に対する考え方(姿勢?)を実感させてくれる展示品をご紹介したいと思います。

まず、展示室真ん中にある(背中合わせになった)のぞき込むスタイルのケースに注目して頂きましょう。
中央展示ケース
中央展示ケース北側:(左)模造 土偶・土面、(中) 『人種文様』(右)平福陶棺(考古展示室) 岡山県平福出土

北側ケース左の模造土偶・土面は、明治から大正年間に古物収集家としても活躍した在野の研究者(作家の江見水蔭や図案家の杉山寿榮男ら)のコレクションを模造したものです。
また、ケース右の画集は明治・大正期に数多くの考古遺物の記録を残した大野雲外による陶棺の立体文様のスケッチです。

どこか素朴な“風合い”は、展示構成の前半の油絵や石版画・雑誌挿図などともあい通じる特徴で、この時代の過去や祖先に対するイメージからくるようです。
ちなみに、この陶棺文様は(以前もブログでご紹介した)大正期から戦後にかけて活躍し、1920年代から古代日本文化の独自性を説いた和辻哲郎が奈良時代以前の文化に眼を向けるきっかけとなったものです。ひょっとして、このスケッチ集を参照したことが壮大な古代日本文化論の契機となったのかもしれません。
なお、実物の陶棺は、現在平成館の考古展示室(飛鳥時代の古墳・古墳時代V)で展示中ですので、是非見比べて頂ければと思います。


続いて反対側に廻って、南側ケースをご覧ください。
なにやら“同じようなもの”がたくさん並んでいますが・・・。
展示ケース
中央展示ケース南側:(左)杏葉・模造 杏葉(2 木製・3 石膏製)  、(右)有柄鉄斧・模造 有柄鉄斧(2 木製)

いずれも保存処理された古墳時代の実物資料と、大正年間に製作された現状模造品を比較しています。
新素材であった石膏や、明治・大正年間に盛んに製作された正倉院宝物の木製模造品などの技術を用いて製作されたものです。
保存処理技術が確立されていなかった当時、日々銹化によって変形したり、なかには崩壊してしまう金属製品の姿をどうにか記録・保存しようとする必死の努力が窺われます。

さらに進んで、その左側には古墳時代の金槌を展示しています。
鉄鎚・模造 鉄槌(木製・鉄製)
中央展示ケース南側: 鉄鎚・模造 鉄槌(4 木製・5 鉄製)

最初は同じく保存処理された実物資料で、2番目が大正年間に製作された復原模造品ですが、木製であることが特徴です。
いわゆるトンカチの先端がめくれ上がった部分も忠実(リアル)に再現しています。しかし、金槌の重量感や表面の質感にはほど遠く、(かなり)“イマイチ”な印象です・・・。
おそらく当時の担当者(研究員)もそのように感じた(?)のか、昭和になって3番目の鉄製の復原模造品を新たに製作しています。

鉄素材で鍛冶工房に依頼しての製作にあたっては、実物の製作手順や微細な形態の仕上がりなどを何度も試行錯誤しながら繰り返し検証作業があったことは容易に想像できます。
いわば実験考古学の“はしり”(先駆け)といえるもので、資料の構造・形態や特徴・製作技術に関するさまざまな情報を得ることができたはずです。

このような経験を経て製作されたのが、隣の独立ケースに展示してある美しい眉庇付冑とその復原模造品です。
眉庇付冑・復原模造 眉庇付冑(鉄・金銅製)
独立展示ケース:(左)眉庇付冑・()復原模造 眉庇付冑(鉄・金銅製)

ウリ二つの形状だけではなく、黒光りした鉄の肌合いや金銅の輝きなど、実物資料以上に(?)にリアルな質感は、このような資料の詳細な観察に基づいた(すべての活用・公開の基盤ですが・・・)研究を踏まえた点にあった訳です。
このような視点で、後半の南側壁付ケースの復原図と復原模造品を比較した構成をご覧頂ければ・・・、その意味はすでにお判り頂けたことと思います。

短甲・冠・復原模造 短甲・冠・短甲着用男子・上代男子図
南側壁付展示ケース:(左)短甲・冠・復原模造 短甲・冠・短甲着用男子・上代男子図(右)全景

そう、リアルな質感(景観)が実現された“秘密”は、前回のブログでも紹介された研究者と絵画・工芸作家との間に行われた同様なプロセスが背景にあったことは、すでにお気づきの通りです。
これらの鉄製甲冑や金銅製冠の復原模造品や、武装男子図や女子図などの復原図は、実物資料の詳細な観察を経て得られた研究成果を踏まえて製作(制作)されたからこその造形・表現といえます。
金銅製冠の実物も、やはり平成館考古展示室(王者の装い)で展示中ですので、是非ご覧ください。


このようないわば科学的な精神(姿勢)は、どこからもたらされたものでしょうか?
そこには深い理由があったはずです。

先日の列品解説(10月8日)では、1910~20年代に紹介されたヨーロッパの研究方法(型式学)の影響で、急速に日本考古学の研究方法が整備され、研究が進展したことをご紹介しました。
遺跡・遺物の新古が整理され、 “先住民族”への関心(民族論)などが中心であった過去に対するイメージが急速に薄れてゆき、ストイックな1930年代の縄文土器・弥生土器や前方後円墳・甲冑などの編年研究の急速な確立には、このような背景があったとみられます。

南側壁つき展示ケース全景
展示室全景:(左)北側壁付ケース、(右)南側壁付ケース

その結果、遺物の形態や構造はもちろんその用途をはじめ、装身具・武具においては着装形態までも、リアルに追求されるようになりました。
まさに「うつす・つくる・のこす」といった明治・大正年間の現状の維持・保存の活動は、過去の人間(祖先)への深い愛着と理解に基づいた文化財の保護の過程そのものであったといえます。

これに対し、復原模造や復原図の制作・製作といった昭和初期に始まる過去の復原の活動は、考古資料の意義の追求・究明に向けた.本格的な研究と活用のはじまりということができるのではないでしょうか。
もちろん、現状の把握(維持・保存)があったからこそ、過去の復原(再現・究明)という段階に進むことが出来たことは言うまでもありません。

このような急速な変化は、とくに考古資料の絵画や模造品の表現や造形の「差」に表れており、それを具体的に辿ることができることが博物館資料の重要な点です。
今回の展示を通して、近現代における日本人の過去(祖先)に対するイメージの転換を肌で感じ取って頂ければ幸いです。

 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2013年10月12日 (土)